終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~

桜葉

第五章68 砂塵の試練ⅩⅩⅩⅩⅩⅥ:鮮血舞う闇夜の森

「へっへーん、これは効いたで……しょッ!?」

 王国騎士を目指すリエルは、茶髪をサイドテールの形に結び、快活な印象を受ける少女・カリナと共に一次試験の合格を目指していた。

 リエルが一次試験を突破するためにはパートナーであるカリナと共に、定められた時間までを無事に生き残る必要があった。一次試験の中で脱落の危機に見舞われたリエルであったが、カリナと合流を果たしてからは順調で平穏な時間を過ごしていた。

 このままならば試験の突破は安泰だと思われたその時だった。

 深夜の森林に姿を現すのは、リエルが見上げるほどの巨体を誇る『熊』のような外見をした魔獣なのであった。

「――――」

 リエルにとっては見たこともない魔獣との対峙。しかし、隣に立つカリナの力があればなんとでもなると瑠璃色の髪を持つ少女は本気で思っていた。だからこそ、リエルは眼前に広がる光景に言葉を失ってしまうのであった。

 夥しい量の鮮血が雨となってリエルの頬を汚す。

 リエルの瞳が追うのは力なく虚空を漂うカリナの姿だった。肩から先と、腹部を露出するような白いシャツが瞬く間に深紅へと染まる。出会って間もないのだが、戦うことの重要性を説いてくれたカリナは、リエルにとって頼りになる先輩のような存在だった。事実、リエルの前でカリナは圧倒的な力を見せてくれた。だからこそ、リエルはカリナが敗北するような未来を想像してはいなかったのだ。

 意気揚々と飛び出していったカリナの背中をリエルはそんな気持ちで見守っていたのだが、茶髪を風に靡かせるカリナは魔獣の反撃を受けると、その小柄な身体から鮮血を噴出させながら地面を転げ回る。

「そ、そんな……」

 リエルの声は震えていた。

 大切な人が傷つき、そして倒れ伏す様子を目の当たりにして、リエルの小さな身体に凄まじい衝撃が駆け抜けていく。カリナを助けなくてはならない。彼女の身体は未だ魔獣とすぐ近くに存在しており、次の攻撃を仕掛けられたら回避することは不可能だ。

「か、身体が動かない……」

 魔獣と対峙した瞬間に覚悟した決意が揺らぐ。

 リエルが命を賭けて戦う覚悟を決めたからこそ、カリナは自分の背中を託してくれたのだ。しかし、考えうる限り最悪の展開を前に、まだ幼き少女であるリエルの覚悟は瓦解してしまうのだった。

「い、痛い……頭が……すごく、痛いッ……」

 すぐに行動しなくてはならない。

 今、自由に身動きが取れるのはリエルだけなのだから、カリナを助けるのも、魔獣を倒すのも自由の身であるリエルがすべきことなのである。よろよろと一步を踏み出そうとするリエルだが、彼女は突如として自分を襲う頭痛に苦しんでいた。

「私は……これを……知ってる……?」

 何かが脳裏に蘇ろうとしていた。

 それはリエルにとって大事なものであることに違いはなく、しかし違和感の正体をリエルは突き止めることができないでいた。思い出そうとしても何か見えない力で封じられている感覚。思い出そうとすればするほど、リエルの頭痛は鋭い痛みを感じてしまう。

「――――」

 カリナを前にしても動くことのなかった魔獣が、その重い一步を踏み出す。
 大地が僅かに揺れる感覚がリエルの足裏へと届き、そこで頭の痛みに苦しむ少女の視線が上がる。

「あ、あっ……」

 満月を背にゆっくりと歩を進める魔獣の瞳が捉えるのは、一人で苦しむ少女・リエルだった。足元に転がっているカリナには見向きもせず、ただ目の前にあるものを『殺す』という本能に従って、魔獣は次なるターゲットであるリエルへと接近している。

「やだ……怖い……一人でなんて、そんなの……」

 一步後ずさる。

 戦う覚悟を打ち壊された今のリエルに、カリナを一撃で退けた魔獣の相手は不可能であった。それは誰が見ても明白な事実なのであるが、リエルの身体はそれでも動くことはできないでいた。

 恐怖に支配される身体。謎の頭痛に痛めつけられる脳内。
 一步。また一步とゆっくりとした動きでリエルの身体が後ずさっていく。

 魔獣の一步の方が大きいのは見るまでもない事実であり、少しずつ魔獣が接近してくる。

「どうすれば……私、どうすれば……」

 頭痛は酷くなる一方で、迫ってくる魔獣の巨体にリエルは為す術もない。

「いや、いや……お姉ちゃん……私ッ……」

『もう……お姉ちゃんの言うことは守らないと……ダメ……じゃない』

「――――ッ!?」

 それはリエルの脳内に封じられた記憶の断片。
 リエルの脳裏に蘇るのは、鮮血を流して倒れ伏す姉・シュナの姿だった。

「どうして……どうして、私は……こんな大事なことを……忘れて……」

 一度溢れ出した記憶の奔流は時間と共に激しさを増していく。

『泣かないで、リエル。貴方だけでも……逃げて……助かって……』

 魔竜が放った魔獣による襲撃で、リエルの故郷である氷都市・ミノルアは壊滅的な被害を受けた。その時、まだ子供だったリエルは姉・シュナの背中に隠れることしかできなかった。

 力を持たないリエルを助けるために、戦闘経験なんて皆無だったシュナは魔獣へと立ち向かっていったのだ。勝利を目前にしたその瞬間、姉の言いつけを守らなかったリエルのために、シュナはその身に重傷を負った。

「…………」

 結果的にシュナは命を落とすこととなったが、女神として再び現世に戻ってくることができた。この一連の事件を経験したからこそ、リエルはいつまでも姉に守ってもらう存在ではない、女神・シュナと肩を並べて戦うことができる存在になるために日々を過ごしてきたのであった。

「そうだ……私……お姉ちゃんを守りたくて……」

『大丈夫。もう私は負けないから』

 その言葉が脳裏に蘇った時、不思議とリエルの身体から震えが消えた。
 あれだけ全身を支配していた恐怖心が嘘のように霧散し、それどころか心内からは燃え滾るような『熱』が込み上げてきている。

「……私はお姉ちゃんを助けたい……一緒に戦いたいんだ」

 少女が漏らす言葉は自らを鼓舞する魔法。
 紡がれる言葉は少女の気持ちを落ち着かせ、そして今までにない力を与えてくれる。

「こんなところで、逃げてちゃダメだ……もう二度と、あの時のような過ちは犯さない……ッ!」

 身体の震えは完全に消え、リエルは迫る魔獣へ向けて一步を踏み出す。

「美しき氷の華、凍てつく世界に咲き誇れ――氷雪結界ッ!」

 決意を込めた瞳で魔法を詠唱するリエル。
 大地に流れる魔力を引き出し、己が持つ魔力を融合させる。
 そして頭の中にあるイメージを具現化する。

「――――ッ!?」

 魔導書店の地下で行われたユピルとの鍛錬で編み出した範囲魔法。

 術者を中心とした円形の範囲にドーム状の氷結界を展開する。瞬時に展開される結界の中ではあらゆるものが氷結する。

 リエルが展開した氷結界の中に取り込まれた魔獣は、その目を僅かに見開かせ、そしてその巨体を氷結させる。

「――――」

「やった……ッ!?」

「――――ッ!」

 結界の中では術者の思いのままに対象を凍てつかせることができる。

 巨体を揺らす魔獣の身体も氷結するのだが、紅蓮の瞳を持つ魔獣は自らを覆う氷を瓦解させると、その歩を止めることなく踏み出していく。

「…………」

 また氷結する魔獣。
 しかし魔獣はすぐに氷を瓦解させると、歩みを止めることなく進み続ける。


「天地を凍てつかす究極の氷槍よ、あまねく悪を穿て――」


 氷が支配する世界の中で、瑠璃色の髪を静かに揺らす少女は立て続けに詠唱を続ける。

 唱えるは氷魔法でも最上位の破壊力を持つ魔法。虚空に巨大な氷の槍を生成し、自らの思いのままに操るものである。

「氷槍龍牙ッ!」

 凍っては砕くといった動きを続ける魔獣に対して、リエルは自分が持ちうるありったけの力をぶつけていく。月明かりを受けて輝く氷槍を生成すると、リエルはそれを思い切り投擲していく。

「――――ッ!」

 大地を抉りながら飛翔する氷槍。
 それは魔獣の身体を貫き、そして絶命させるものであったはずだった。

「うッ……!?」

 氷槍の先端が魔獣の身体に届きそうだった次の瞬間、魔獣はその口を大きく開くと割れんばかりの咆哮を上げる。魔獣が漏らす咆哮は凄まじい衝撃波となって周囲に広がり、リエルが放った氷槍を瞬時に瓦解させていく。

「まずいッ!?」

「――――ッ!」

 ここまで鈍足な動きに終始していた魔獣は、強大な魔法を使うリエルに対して危機感を持ったのか、大地にクレーターができるほどに強く両足に力を込めると、リエルに向かって突進してくる。

 予期しない魔獣の動きに攻勢を強めていたリエルは驚き、そして致命的な遅れを生んでしまう。
 低空を飛びながら、魔獣はカリナを切り裂いたその爪を振るっていく。

「ダメッ……避けられない――ッ!」

 瑠璃色の髪を揺らす少女の身体を、魔獣の鋭利な爪が切り裂こうとしたその瞬間だった。
 氷が支配する世界に一陣の風が吹き抜ける。

「これは想像以上の展開だよ、リエルちゃん」

「え、この声……?」

 吹き荒れる一陣の風は、リエルの命を散らそうとした魔獣の身体を軽々と吹き飛ばしていく。地面を滑り、数多の木々を薙ぎ倒しながら吹き飛んでいく魔獣を尻目に、茶髪をサイドテールに結んだ少女・カリナは、その顔に満面の笑みを浮かべてリエルの前に再び顕現する。

「ちょっと荒療治だったけど、僕の想像以上に力を発揮することができたみたいだね?」

「え、いやッ……カ、カリナさん……だって、さっき……魔獣に……」

「まぁーね。でも、あれくらいじゃ死なないよ」

「え、えぇ……」

「それよりも今、僕はリエルちゃんの勇気に感動しているんだよ!」

「か、感動……?」

「――よく、逃げずに立ち向かったね」

 魔獣のことなど気にした様子も見せないカリナは、その顔に慈愛が満ちた笑みを浮かべるとリエルの身体を優しく包み込む。ふわりとした柑橘系の優しい香りが鼻孔をくすぐり、リエルは自分が抱きしめられていることを理解する。

「一つ、記憶の鍵を開けたみたいだしね」

「え、なんですか……?」

 カリナが漏らした言葉はとても小さく、驚きのあまり呆然としていたリエルはその言葉を聴き逃してしまう。

「ううん、なんでもない。それじゃ、魔獣退治の続きをしようか?」

「あっ……そうだ、魔獣は……ッ!?」

 カリナの復活に驚いていたリエルは、先程まで対峙していた魔獣の姿を探す。

「――――ッ!」

 魔獣の姿を探すリエルだったが、その手間は鼓膜を痛いくらいに震わせる魔獣の咆哮によって省かれた。

 咆哮が聞こえてきた方向に目を向ければ、そこには明確な怒りと殺意を露わにした魔獣の姿があった。

「あははッ、魔獣ちゃんってば怒ってるみたいだね?」

「カリナさん、身体は大丈夫なんですか?」

「んー? 僕の身体は大丈夫だよ。まぁ、少しはできるみたいだけど、あんな魔獣にやられるほど弱くはないつもりだよ」

「……一緒に、戦ってくれますか?」

「……当たり前じゃないか」

「私には果たさなくちゃいけない使命があります。大切な人を守るために……こんなところで負けてはいられない……ッ!」

「そうだね。この短時間でリエルちゃんはまた……強くなったよ……」

 強く大地を踏みしめ、リエルは真正面から魔獣と対峙する。
 その隣に立つのは茶髪を揺らす少女・カリナ。

「後ろにいる必要はなくなったね。リエルちゃん、僕と一緒に戦ってね」

「……はいッ!」

 その言葉を合図に深夜の森林を駆け抜ける二つの人影。
 一次試験で最大の試練へ、瑠璃色の少女は挑むのであった。

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