終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~

桜葉

第二章27 眼前で潰える命。響く咆哮。

 氷都市・ミノルアへ帰還した航大たちを待っていたのは、新たなる絶望だった。

 一見すると、静寂に包まれているように見える街も、その中に一歩でも踏み入れば、そこにはこの世のものとは思えない地獄が広がっていたのだった。

「何がどうなってるんだよ……」

「これは……」

 全身の皮膚を青白く変化させ、目を異常に充血させた市民が街中に溢れかえっている。その全てが正気を保っているとは言い難く、言葉にならない呻き声を漏らしながら、手当たり次第に周囲にいる人間に襲いかかっている。

 航大が暮らしていた元世界にある、ゾンビモノの映画にある光景にも似ていて、アンデッドと化した人間同士がお互いの肉を咀嚼し合っていた。

「アッ、アアアァァッ!」

 つい先日まで普通に暮らしていたはずの人間とは思えない変化である。全身を鮮血に染め、外気に露出する肌には夥しい数の生傷が刻まれている。その中には、皮膚の奥にある骨が見えている箇所もあり、それは同じ人間によって咀嚼された後であることを、航大は停止しつつある思考の中で理解した。

「なんと酷いことを……」

 人間が人間を喰らう光景を前にして、さすがのリエルもその表情を顰める。
 美しいレンガ造りの家が広がる、平穏な街は魔獣の襲撃とそこに住まう人間の手によってこの世の生き地獄へと姿を変えてしまった。

 凄惨な光景を目の当たりにして、航大は胸に抱いていた僅かな希望すらも音を立て、跡形もなく瓦解していくのを感じた。

「……どうして」

 最早この街を、何ら罪もない市民すらも助けることは叶わないのだと、心の何処かが理解してしまう。その現実を変えるために、悲惨な運命から人々を救うために、航大たちは命を賭けて行動を続けてきた。

 魔獣を倒し、呪いを解くために氷山へ向かい、その全てに命を賭けた結果が――この有様である。

「誰が……どうして……」

 異世界は航大に厳しすぎる。
 どんなに絶望へ抗っても、絶望を打ち砕いたとしても、新たな『絶望』が彼を襲い、その未熟な心を何度も何度も砕こうとしてくる。

 頭が真っ白になり、思考が停止し、生きる気力すらも奪われかねない喪失感に苛まれる中、少年の未熟な心は完全に折れてしまう寸前だった。

 涙すら溢れない。

 ただただ目の前の光景が嘘であって欲しいと航大は願う。願っていなければ、彼もまた正気を失ってしまいそうだった。それほどまでに、氷都市・ミノルアの凄惨たる光景は航大の心に大きすぎる傷を生んでしまっていた。

「た、たす……助け……て……」

「――ッ!?」

 阿鼻叫喚の悲鳴が木霊する中、そんな苦しげな声が航大の鼓膜を震わせた。
 それは幻聴ではない。この街の中に、自分の近くに生きている人間がいる。

「どこにッ……!?」

 弾かれたように頭を上げ、周囲に視線を巡らせる。どこかにまだ生きている人間がいるのは間違いない。それならば、一人でも多くを救わなければならない。

「あそこだッ……」

「ま、待つんじゃ航大ッ!」

 リエルの制止する声すらも無視して、航大は走り出す。
 その視線の中心には、地面に倒れ伏す人間が映っていて、近づくに連れて詳細な状況を把握することができた。

 航大に助けを求めてきたのは、彼と同い年くらいの見た目と背丈をした少女だった。簡素なエプロンドレスに身を包み、苦しげな様子で浅い呼吸を繰り返している。

「おい、大丈夫か――ッ!?」

 普段だったら美しく輝いていたであろう金髪を泥と血で汚し、その可愛らしい顔にも幾つかの切り傷が刻まれていた。

 顔だけを見れば、航大はここまで息を呑んで戦慄することはなかったであろう。
 彼の表情が驚愕に満ちたのは、少女の全身をその視界に収めた瞬間であった。

「こ、これはッ……」

 少女の両足は膝から先が存在していなかった。
 夥しい量の血液が溢れ出て止まらないその箇所は、あまりにも雑に、そしてあまりにも無残に引き千切られていた。

 航大の脳がその光景を理解することを拒む。

 ――それ以上は見てはいけない。
 ――それ以上は何も感じてはいけない。
 ――それ以上は何も考えてはいけない。

 目を見開き、少女の悲惨な身体を目の当たりにして、航大は瞬時に思考を止めた。眼前の現実を理解してはいけない。受け止めてはいけない。
 そうしなければ、彼の弱い心は壊れてしまうだろうと、脳が瞬く間の内に理解した。

「お願い……たす、けて……私、死にたく、ない……」

「――ッ!?」

「街の人が……みんな……おかしくなって……私もッ……うぐぅッ……襲われて……いや、いやぁ……死にたく、ないよぉ……」

 それは懇願だった。
 膝から先が存在しない両足は鮮血の海に沈んでおり、身体から失われた血液の量を見ても、少女が助からないことは一目見て理解することができた。

 それでも少女は、この世に留まろうと生きて明日を迎えようと、足掻き航大に掴みかかってくる。その瞳から大粒の涙を零して、航大に何度も助けを求める。

「あ、あッ……」

「お願いぃッ……助けて、助けてぇッ……」

「ああああぁぁぁッ……」

 両腕をガッチリと捕まれ、そして生を懇願する声を聞き、航大は全身の力を抜いてその場に座り込んでしまう。
 少女はもう助からない。しかし、そんな非情な現実を少女に伝えることなど、今の航大には出来ない。

「うぐッ……アッ、アアアァッ……!?」

「――ッ!?」

「イヤ、イヤッ……アガッ、ウグッ……!?」

 少女の様子が激変する。
 突然苦しみだし、その両目を瞬く間に充血させていく。航大の腕を掴む力が異様に強くなり、皮膚に食い込んでくる少女の指に航大は苦悶の表情を浮かべる。

「ま、さか……?」

「アアアアガアアァッ……イヤァッ、イヤアアァッ……!」

 時間が経過する度に、少女の様子は異常さを増していく。
 身体が激しく痙攣し、充血した両目からは血涙が流れ出る。そして、僅かに露出されていた皮膚が青白く変化していく。それは、周囲で猛威を振るう正気を失っている市民たちに見られる変化と酷似しており、少女の身体は『何かの力』によって急速に作り変えられているのだ。

「タズケテェッ……イヤァ……シニタク、ナイィ……ッ!」

「嘘、だろッ……?」

 目の前で生きている人間がアンデッドと化していく。
 その有様を眼前で見せつけられ、航大はこれ以上無いほどに目を見開いていた。

 そう、このアンデッド化現象は感染していくものであったのだ。

 アンデッドが人間を襲い、襲われた人間は苦しみながらもその身体と意識をアンデッドのものへと変えていく。そして自我を失い、自分もまた同じ人間を襲う化物へと姿を変えていってしまう。

 それが今、この街を包み込んでいる凄惨な悲劇を生み出す原因だった。

「そんな……」

 もう救うことができない。
 眼前の少女は航大の目の前で人間ではなくなってしまったのだ。

 もうじき、少女としての人格は完全に消失し、そして周りの元人間と同じように、呻き声を上げて血肉を貪るアンデッドと化す。

 それを理解したからこそ、航大は何も出来ずに慄くだけの自分に絶望していた。
 凄惨な現実を前にして、彼は何もすることができなかった。
 これまでに数え切れないほど感じてきた挫折、屈辱、絶望……その全てを上回っていく光景を前にして、航大は心に深い闇を落としていく。

「アグッ、アアアアァッ……!」

 少女の指が航大の皮膚に食い込む。
 その表情が苦しげに歪み、次の瞬間には航大の命を噛み砕こうとしている。

 自分の命が危険に晒されている。それを理解していながら、航大はこの場から動くことができなかった。航大の心はもう限界にまで傷を負いすぎていた。

 ――誰も救うことが出来ないのならば、自分に生きている意味があるのだろうか?

 航大の心に浮かぶ言葉。その言葉に対する答えを、未熟な少年は持ち得ない。

「アッ、アッ、アアアアアアアアアアアァァァッ!」

 少女が目の前で完全なアンデッドへと変貌を遂げた。
 血涙を流し続ける瞳は、航大だけを見つめている。
 呻き声を上げる口の中には、鋭い牙が垣間見えている。その牙を使い、航大の首元を噛み千切ろうと身体を暴れさせている。

「…………」

 自分の命を刈ろうとする存在が、息が届く距離で暴れている。それであっても航大は、心を支配する喪失感から、やはり身動きが取れないでいた。
 猛獣の牙と錯覚するほど、鋭利にそして長く成長した少女の牙が航大の喉元に到達しようとする、その瞬間――。

「馬鹿者ッ!」

「……ッ!?」

 鼓膜を震わせる声があった。血の通った人間の声と言葉。
 それは呆然とする航大の鼓膜を確かに震わせて、どこか上の空だった彼の意識を現実へと呼び戻した。

「――ヒャノアッ!」

 航大の身に危険が迫っていることを瞬時に理解し、弾けるようにリエルが疾走する。
 そして呆然としている航大に喝を入れると、魔法の詠唱を開始する。

 大聖堂で何度も見た魔法だった。膨大な魔力が一点に集中して両剣水晶を形成していく。そして、少女の命令どおりに両剣水晶が対象目掛けて飛翔していく。

「アガアアアァ――ッ!?」

 音速で飛翔する両剣水晶は、航大に襲いかかろうとする少女の身体へと突き刺さる。薄い皮膚を破り、背中から体内に侵入を果たすと、背骨を砕いて心臓へと達していく。

 心臓を破壊した両剣水晶は、そのまま少女の胸から再び外へ姿を表すと、そのまま地面に突き刺さった。

「愚か者ッ! その者はもう人間ではないッ。それなのにボーッとしてる奴がおるかッ!」

 リエルの表情は今までにないほど、怒りに満ちていた。
 それは悲惨な現実を前にして心を閉ざし、その命を投げ捨てようとする航大の行動に対して、賢者・リエルは怒りを見せていた。

「おぬしには、果たさねばならぬことがあるんじゃないのかッ!」

「…………」

「救いたい人間がおるんじゃないのかッ!?」

「救いたい、人……?」

「まだ全員がこうなったとは限らぬッ、生きている人間が居るかもしれないッ、それならばこんなところで立ち止まっている暇など、ないじゃろうがッ!」

 完全に停止した死体を前にして、航大はリエルの怒号に耳を傾ける。
 それは闇に心を閉ざそうとした航大を救う言葉だった。
 彼にはまだやるべきことがある。
 それを航大に気づかせる救いの言葉であった。

「立てッ! 急がねば囲まれてしまうぞッ!」

「あ、あぁッ……」

「今は何も考えるでない。ただ、自分が成すべきことだけを考えるんじゃ。後悔はその後じゃ」

 リエルは厳しく、それでいてどこか慈愛の込められた言葉を投げかけながら、へたり込んでいる航大の腕を掴み強引に立ち上がらせる。少年が負った心の傷を理解し、しかしそれでも前へ進ませようとする。
 そんなリエルの様々な感情が込められた言葉に、航大は確かに生きる気力を与えられていた。

「そう、だな……今は、ユイのところへ……」

「うむ。この世界で生きていくのなら、心を強く持つんじゃ。そうすれば、おぬしはもっと強くなることができる」

「心を、強く……?」

「人が死ねば悲しむ。大切な人を傷つけられれば怒る。そんなこと、人間であるならば当たり前のことじゃ。しかし、どんなに絶望しようとも、諦めようとも……その命を簡単に扱うことだけはするんじゃない」

 混乱を極める氷都市・ミノルアに、リエルの静かで力強い言葉が響く。その言葉は魔法のようで、荒んだ航大の心に潤いを与えてくれる。

「ふむ。その顔ができるのならば、まだまだ大丈夫そうじゃな」

「……今はとにかく、ユイの元に帰ろう」

「進む先に待ち受ける障害の全ては、儂に任せておけ。主人が行く先の安全は、この賢者・リエルが保障しようぞ」

 航大の胸元までしか背丈のない少女が、今の航大には大きく映った。それは外見ではない。小さな身体の奥底で確かに息づいている、大きく、そして強い心だ。

「……ありがとう、リエル」

「ふん、こんなことで礼を言われても、嬉しくなぞない」

「それでも、ありがとう。リエルが居なかったら、俺……さっき死んでた……」

「…………」

「俺には守りたい女の子が居る。助けたい女の子が居る。いつまでも守ってもらってばかりじゃない……俺は強くならないといけないんだ……」

「主がそれほどまでに熱を上げる者に、何となく心がモヤモヤするが……それが、主の生きる意味なのだろう?」

「あぁ、このクソッタレな異世界で生きていくために……必要な存在だッ……!」

 脳裏に白髪の少女が鮮明に浮き上がってくる。
 こんな弱い自分に無償の忠誠を誓ってくれる少女。今はとにかく、彼女に会いたい。そして彼女が笑う姿が見たい。

 先ほどまでの喪失感が嘘のように霧散していく。
 全身に力が漲ってきて、航大の瞳は瞬く間に生気を宿していく。

「いくぞッ、リエルッ!」

「承知ッ!」

 その言葉をトリガーに、二つの人影が絶望の氷都市を疾走する。
 群がる市民を魔法で蹴散らし、速度を緩めることなく航大たちは走り続ける。
 その瞳に、強い決意を灯して――。


 氷都市・ミノルアを舞台にする物語は様々な絶望を突き付け終幕へと向かっていく。

 悲劇はまだ、終わらない。

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