終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~

桜葉

第二章14 吹雪舞う氷山の中で

第二章14 吹雪舞う氷山の中で

 夢を見ていたような気がする。
 いつもそれは突然やってくる。

 彼女には戦う力が無かった。彼と一緒で、異世界では全く無力な存在であった。彼女には記憶というものが一切なかった。

 自分が何者なのか。
 自分の名前は何なのか。
 どうしてここにいるのか。

 何も分からない。だけど、そんな『大切な何か』が欠落した彼女には、一つだけその身に使命が科されていることを知っていた。それはとても大切な使命。

「――――」

 溢れかえる想いを内に留めておくことができない。
 溢れて、溢れて、溢れて……。

 コップには水がいっぱい入っているのに、その中に水を注ぎ込んでいくかのような『想い』に彼女は無意識の内に声を漏らしてしまう。

 その名前を呼ぶと、心が温まる。
 どんなに身体が蝕まれようと、どんなに身体が傷つこうと、どんなに心が傷つこうと、その名前を呼ぶだけで彼女は救われた。彼が何かをした訳ではない。しかし、彼はただそこに存在するだけで、ただ彼女の隣に居るだけで、何物にも代えがたい癒しをくれるのだ。

 自分のことを無力だと自負する彼女は、その身に『英霊』を宿すことで、大好きな彼を守る力を得ることができる。
 何もない、空っぽだった自分に彼は戦う力をくれるのだ。
 そして彼女自身に彼を救わせてくれるのだ。

「――ッ」

 想いが溢れる。
 一度溢れ出した想いは、止まることを知らない。
 どこまでも溢れて、溢れて、溢れて……最後には溺れてしまうような、どこまでも純粋な想い。

 今、彼女は幸せだった。

 確実に終末を迎えるこの異世界に『神様』と呼ばれる存在が居るのだとしたら……自分に彼を救うように使命を課した存在が居るのだとしたら、彼女は迷うことなく満面の笑みを浮かべて感謝の言葉を述べるだろう。
 たとえその先に破滅の未来が待っていようとも。

◆◆◆◆◆

『――その先に、破滅が待っている』

 『何か』が語りかけてきた。
 その声は彼女にとって『恐怖』そのものだった。
 声を聞いてはいけない。
 それはとても恐いものだから。
 ドロッとした『何か』が自分の身体の奥深くを侵食していく感覚が襲ってくる。

「嫌ッ……」

 彼女は自分の身体を侵食してくる『何か』から逃げようとする。しかし、どんなに前へ進もうとしても、自分の内に眠る『何か』は消えてくれない。

『――必ず、破滅は訪れる。世界の終焉と共に、全ては無に帰すのだ』

 少しずつ声が遠ざかっていく。
 それは意識が覚醒を迎えようとしている前兆だった。
 こんな夢なら覚めてしまえばいい。

 ほぼ、毎日のように繰り返される光景は、意識を覚醒させた彼女の中には残らない。
 また目を覚ませば、幸せな日々を送ることができる。彼がそこに居てくれるだけで、彼女は幸せなのだから。

◆◆◆◆◆

「んッ……」

 あんなに重かった瞼がゆっくりと開かれていく。
 最初に視界に入ったのは彼の顔じゃなかったのが少女の心に影を落とす。

「……航大?」

 身体が異様に重い。かなりの力を入れなければ起き上がることすら困難である。
 自分が小さな小屋の中で横になっていることは理解することが出来た。まだ、自分の中に『別の存在』が眠っていることも感じていた。
 しかし、今はそんなことはどうでもいい。彼女は視線を彷徨わせ、彼の姿を探す。

「起きたか。身体は大丈夫か?」

「……ここは?」

「覚えていないのか? ここは氷都市・ミノルア。君は魔獣との戦いにおいて功績を残し、疲労と魔獣の毒によって眠っていたのだよ」

 ゆっくりと扉が開かれて入ってきたのは大きな身体をした男だった。彼がやってきたのかと思って喜んだ心は、一瞬にして冷めていく。

「……航大は?」

「あぁ、彼なら……」

 彼女の問いかけに、男は表情を歪ませた。
 そんな表情の変化を彼女は敏感に感じ取る。

「彼は……君を、そして街の人々を救うために今、あの氷山に住まうとされる賢者に会いに行っている」

 そういって男が指を差した先に見えるのは、想像を絶する標高を見せつける氷山。

「そんな……」

 その目は呆然と見開かれていて、そう呟いた言葉は誰の鼓膜を震わせることなく消えていくのであった。

◆◆◆◆◆

「うわッ……これ、想像以上にキツイぞッ……」

「航大ッ、離れるんじゃねぇぞッ!」

 氷山へ足を踏み入れて、どれくらいの時間が経っただろうか。
 航大とライガはその身体を動物の毛皮で作られたフードマントで包み込みながら、目を開けていることすら困難な吹雪が舞う氷山を歩いていた。
 道などは存在しない。ただ、頂上を目指してその足を踏み出していく。

「こんなところにッ……本当に賢者なんて居るのかッ……?」

「分かんねぇけどッ……王国でも居るって噂にはなってるし……多分、居るだろうってッ!」

「多分かよッ……くそッ……目も開けられねぇッ……」

 足を踏み出す度に、吹雪は強くなっていく。それは、航大たちがこの山に立ち入ることを許さないと言わんばかりの強さである。先ほどからずっと向かい風で、歩くことも難しければ、完璧な防寒対策すら意味を成さないほどの凍えるような寒さが、航大たちに容赦なく襲いかかってくる。

「はぁ、はあぁ……やべぇぞこれ、想像以上に体力が……」

 足が重い。踏み出した足は柔らかい雪の中に埋もれていて、雪山に慣れていない航大は、ぎこちない動きで、それでも歩を進めていく。

 諦める訳にはいかなかった。
 吹雪舞う氷山の中、航大の心は何度も折れかけていた。今すぐ身を翻して帰りたい。自分が生活していた元の世界に帰りたい。どうして自分ばっかり、こんな目に遭わなくてはならないのか。
 この数時間の間、何度となく脳裏に浮かんだその想いを、それでも航大は胸の内に押し留める。

「待ってろよ、ユイッ……」

 その言葉は航大に勇気と力をくれた。
 どこまでも自分に献身的にしてくれる彼女を救いたい。
 こんなところで立ち止まっている間にも、ユイはヒュドラの毒によって命を落としてしまうかもしれない。彼女だけじゃなく、平和な生活を送っていた街の人間だって、彼女と同じように毒で苦しんでいる。

 一人でも多くを助けたい。
 そんな想いが航大の心を奮起させ、どんな過酷な状況であっても、その歩を進ませるのだ。

「……航大、待てッ」

「ライガ? どうしたんだよ」

「なんか来るぞ……」

「……え?」

 吹雪の中、先を歩いていたライガの歩が止まる。
 航大はライガのすぐ隣までやってくると、彼の表情が険しいものに変わっているのを見て、息を呑む。

「こりゃ、厄介なことになったぞ……」

 ライガは小さく舌打ちを漏らすと、その背中に存在していた大剣に腕を伸ばす。
 その行動だけで、航大の嫌な予感が全身を駆け巡る。

「……魔獣だ。小さいけど、数は多いぞ」

「マジかよ。懸念が的中したって感じか……」

 ライガと言葉に呼応するように、前方にいくつかの影が見えた。
 それは狼のような姿をしていて、少しずつ航大たちに近づいてくると、それ以上の侵入を許さないと言わんばかりに唸りだす。

「そんな強くないけど、数が多いからな……ちょっと、俺だけだとしんどいかもしれない」

「……その時は、これを使って自分の身を守るよ」

 航大は腰にぶら下げていた両刃の剣をゆっくりと鞘から抜く。
 元々、この山には魔獣が住み着いているという噂が存在していた。そのため、この山に立ち入るに当たって、騎士隊から剣を一本借りていたのだ。

「信じてるぜ、航大。死にそうになったら言えよ?」

「死にそうになってから言ったら、遅いと思うんだけどな……」

「まぁ、なんとかなるってッ……!」

 ライガは軽く笑みを浮かべると、吹雪が舞う中でも素早い身のこなしで魔獣たちに突進していく。

「うらあああああああああぁッ!」

「――ッ!」

 ライガの咆哮が氷山に響き渡り、それに負けじと魔獣たちも咆哮を上げて突進してくる。
 魔獣たちの方が雪山での行動に慣れているため、ライガよりも素早く動くことができた。しかし、両者の身体が交錯した次の瞬間に、その命を現世に繋ぎ止めるのに必要な鮮血を無残にも噴出させていたのは、魔獣たちのほうだった。

 ライガは己の背丈を越える大剣を思い切り横に薙ぎ払う。
 猪突猛進といった形でバカ正直に正面から飛びかかった魔獣の何匹かは、そんなライガの力任せな打撃攻撃によって、全身の骨を砕かれ、その口から鮮血を溢れ出して絶命した。

「おらッ、どんどん来いやああああぁッ!」

 ライガの咆哮に怯んだ魔獣たちは、考えなしに突進することを止めて、敵意を剥き出しに唸りながら様子を見てくる。
 魔獣同士で視線を交わし合い、再び素早く跳躍を開始した。

「しまったッ!?」

「うわッ、こっちに来たッ!?」

 ライガのことを強敵であると認めた魔獣たちは、その後ろで頼りなさそうに剣を構えている航大に狙いを定めた。
 元世界でも剣を握った経験などない航大の姿は、魔獣たちから見ても弱く映ったのだろう。少しでも数を減らして、数的有利な状況を作ってからゆっくりとライガを仕留めようというのが魔獣たちの考えだった。

「航大ッ!」

「くそッ……俺だってやれば……」

 航大は早る心臓の鼓動を深呼吸によって沈めようと試みる。
 吹雪が吹き荒れる氷山の冷たい風が肺に取り込まれ、緊張で火照っている身体を内側から冷却していく。冷えていく身体は全身を支配していた焦り、緊張を解していく。

「ふぅ……」

 気持ちを落ち着かせるために、棒立ちになっている航大の元へ魔獣たちが突進してくる。
 眼前に迫ってくる魔獣たちを正面から見据えた航大は、その剣を両手に持ってしっかりと構えを作る。それは、元世界で習っていた剣道の形だった。父親の影響で、幼いころから剣道だけは習っていた航大。この切羽詰まった状況でも、しっかりと形を作れるのは、幼いころからの鍛錬のお陰であることは間違いなかった。

「――ッ!」

 勝負は一瞬だった。
 魔獣の動きを最後まで捉え離さなかった航大は、迫ってくる魔獣の爪をギリギリのところで身体を傾けることで回避すると、次の瞬間には反撃に転じる。

 今、自分が持っているのは竹刀ではない。人間ですら殺すことができる、純粋な剣である。
 自分の真横を通り過ぎようとする魔獣の身体に、そっと横向きに持った剣を添えて、少し力を入れてその刃を身体に押し付けていく。

 すると、自分でもビックリするくらいに魔獣の身体は航大の剣によって上下二つに両断されていった。純白の雪に鮮血が飛び散り、魔獣は一瞬の内にその命を落とす。

「やるじゃねぇかッ、航大ッ!」

「はぁ、はあぁ……お、俺……切って……」

 剣を持つ手は震えている。
 生き物を切る感覚というのは、航大の手に嫌という鮮明に残っていて、自分が意図的に何かを殺した事実に航大は恐怖すら感じてしまう。

「この様子なら何とかなるな、いくぞ航大――ッ!」

 ライガの威勢の良い声が響いた瞬間だった。

「なんだ、この音……?」

 勝負はこれから……といった矢先、氷山全体に轟音が響き渡った。
 巨大な地震が襲ってきたのかと錯覚するくらいに、氷山が大きく揺れていて、轟音は時間が経つに連れて大きくなり、『何か』がこちらに接近してきていることを如実に物語っていた。

「ライガ、これって……」

「嘘だろ、おい……」

 航大の言葉に、ライガは顔を氷山の遥か高みへと向けて声を震わせる。
 ライガの視線の先、そこにこの音の正体があると察した航大は、自分の視線を上へ向けて、直後に後悔した。

「雪崩……?」

「しかも、めちゃくちゃでけぇぞ……」

 この轟音の正体。それは、氷山の山頂付近で発生した雪崩によるものだった。
 視界を覆い尽くす大量の雪は、迷うことなく一直線に航大たち目掛けて突進してきていた。
 気付いた時には全てが遅かった。あまりにも広範囲に渡る雪崩は、航大たちに逃げるという選択肢と暇を与えなかった。人は信じられない光景を前にしては、思考が完全に停止してしまうものだ。
 呆然と立ち尽くす航大とライガを、大量の雪はいとも簡単に飲み込んでいってしまう。

「――ッ!」

 声を上げる余裕すらなかった。

 全身が圧倒的な物量を持って押し寄せてくる雪に包まれた瞬間、航大の意識は暗い闇の中へと落ちていってしまうのであった。

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