終末の異世界と大罪のグリモワール ~英霊は異世界で斯く戦えり~
第二章9 氷都市ミノルア防衛戦2
第二章9 氷都市ミノルア防衛戦2
「お、おい……冗談はやめろよ……ナイチンゲール……?」
異世界に召喚された魔獣・九つの首を持つ海蛇『ヒュドラ』に一度は取り込まれた、クリミア戦争の英雄・フローレンス・ナイチンゲール。魔獣の体内に取り込まれた彼女はそれでも諦めず、ヒュドラの首を内部から両断することで、この異世界の地へと再び舞い戻ってきた。
あれだけ攻略が難しかったヒュドラの首を一つ落とし、さぁこれから反撃だというタイミングで訪れた衝撃。
「はぁ、くっ……あっ、くああぁっ……」
冷たい地面に倒れ伏したナイチンゲールは、その身体をヒュドラの体液で汚しながら苦しげな吐息を漏らす。時折、身体が痙攣しその度にナイチンゲールと憑依したユイの表情は苦悶に歪んでいく。
「なにがどうなってんだよッ……」
「はぁ、はあぁ、はぁ……油断、した……あいつの体液、あれは毒だったんだ……」
「体液が……毒……?」
「マスター、今の私には触れるな。お前まで毒にやられてしまう」
うっすらと目を開き、苦しげな表情と声でその身体を抱き起こそうとする航大を制する。
粘液はナイチンゲールの身体を余すところ無く覆っていて、それが本当に毒だというのなら、彼女の傍らには『死』という運命が迫っていることに間違いない。
航大はここまでの間、英霊と呼ばれる存在に絶対の信頼を置いていた。異世界に転移し、何の力も保たない航大が唯一持ち得た権能。それが英霊召喚だった。
森での戦いも、シャーリーの誘拐事件の際も、異世界に召喚された英霊たちは尋常ならざる力を持って、航大が立ち向かうべき大きな壁を壊して進んでくれた。そんな日々が続く中、航大は心の何処かで安心していたのだ。英霊は航大が成し得ることができない功績を作ってくれる。彼らを召喚すれば、どんな難題もクリアできる……自分の無力さが故に、航大は唯一持つ権能に対して慢心を抱いてしまっていた。
その慢心の結果がコレである。
「ナイチンゲール……ユイ……頼む、死ぬなよッ……」
目の前で命の灯火が消えようとしている。
「そ、そうだッ……この剣を使えば……お前の力を使えば、毒くらい何とかなるだろ……?」
「はぁっ、くっ、うぁっ……はぁっ、はあぁっ……」
「どうして何も答えないんだよッ……ナイチンゲールッ!!」
彼女の身体に触れられないのがもどかしい。
異世界に来て、傍にいるのが当たり前の存在だった。
英霊を無理矢理その身体に宿し、自分の代わりに戦ってきた少女。
何よりも感謝し、何よりも手放してはいけない存在が今、自分の手からこぼれ落ちようとしている。彼女を失えば、自分には何も残らない。この世界で生きていく意味さえ、失ってしまうのではないかと危惧してしまう。
だからこそ、彼女は失ってはいけない。
どんな危険な目に遭っても、無条件に自分のそばに居てくれる彼女を失ってはいけないのだ。
「はぁ、はぁ……すぐに、死ぬことはないが……これは少々……厄介だ……」
「厄介って……でも、なんとかなるんだろッ!?」
「……わからぬ。とにかく今は、身体が動かない」
ナイチンゲールの唇から漏れる吐息は、時間が経つに連れて激しさを増していく。
それは全身を包む毒が皮膚から体内に取り込まれ、彼女を確実な死へと誘っているからなのだろうか。
とにかく、このままでは彼女は英霊の力を持ってしても命を失ってしまう。
「――ッ!」
どうすればこの危機を脱することができるのか。
あまりにも難しい難題を前に、航大は思考を巡らせる。
しかしそれも、首を落とされた痛みから回復しつつある魔獣、ヒュドラの咆哮に遮られてしまう。
「くそッ……もう少し大人しくしてろよッ……」
ナイチンゲールをどうするか、それだけでも手に余るというのに、ここでヒュドラが復活を果たせば、それこそ真のバッドエンドである。ただの一般人である今の航大に、ヒュドラを相手に戦うことなど出来るはずがない。
「――ッ!」
ヒュドラは首を切り落とされた怒りに咆哮を上げる。
残った八つの首と顔は、地面に倒れ伏すナイチンゲールを睨みつける。
何度も咆哮を上げ、その怒りを全身で表現してくる。
「今度こそ、万事休すって奴か……」
ヒュドラは咆哮を上げた状態で、全身をバネのように跳ねさせて航大の元へ突進してくる。大地全体が揺れているのではないかという錯覚すら覚える中、航大は接近してくるヒュドラに目を閉じる。
「――やれやれ、本当に君たちは何かと厄介事に巻き込まれるようだ」
鼓膜を震わせたのはそんな男の声だった。
ヒュドラに食われ、一瞬の内に絶命する運命に航大は目を閉じたのだが、その瞬間は一向に訪れることはない。恐る恐る目を開くと、航大とヒュドラの間に立ち塞がる大きな背中があった。
「遅れてすまない。この場所とは正反対の場所に居て、駆けつけるのが遅くなってしまった……」
「グ、グレオ……隊長……」
「その少女は……そうか、コイツの毒にやられたんだな」
ヒュドラの突進を、自分の背丈を越える大剣で受け止めているグレオ。
自分の体の何倍も大きな魔獣の突進をその身で受け止める彼の背中は、今の航大にはあまりにも大きく映った。
「この街の住人の多くが、何者かの毒……呪いにやられていた」
「呪い……?」
「あぁ。それは毒にも似ていて、少しずつ、そして確実に人間を死に追いやるものだ」
ヒュドラの毒は異世界では呪いという味方もできるらしい。
治ることはなく、しかし確実に死へ向かっていく様子から人々はそれを魔獣の呪いと呼ぶことがある。
「とにかく、ここは私が何とか食い止める。その間に逃げるんだ」
「逃げるって言っても……倒せるんですか、そいつを……?」
「……ふむ、君たちでも敵わないと言うのなら、それは少々難しいのかもしれない。しかし、まだ命ある時から諦めていては何事も成し遂げることはできまい」
後ろで呆然と立ち尽くす航大を見ていたグレオは、簡単に言葉を紡ぐと再び眼前のヒュドラと対面する。全身の筋肉を躍動させ、ヒュドラの首を思い切り振り払う。
「――ッ!」
ヒュドラの巨体がグレオの薙ぎ払いによって軽く後ろへ吹き飛ぶ。
バランスを崩した瞬間を見逃さず、グレオはすかさず追撃に移る。
「うらあああああああああああああぁぁぁッ!」
ヒュドラの咆哮にも負けない怒号を上げて、グレオが地面を蹴る。
その大剣を肩に背負い、怒号と共にその首の一つを簡単に両断していく。
「――ッ!」
ナイチンゲールが落とした首とは逆の右端に存在していたヒュドラの首がまた一つ切断された。切断面から大量の粘液を噴き出しながら、ヒュドラは為す術なく首の一つを失った。
「す、すげぇ……」
異世界で名を馳せた英雄の戦いぶりに、航大は思わずそんな声を漏らしていた。
現実世界でも神話に登場する怪物ですらも、その剣を前にして防戦一方である。
「はぁッ!」
まるで紙切れを振っているかのように、鉄製の大剣を振り回すグレオ。
ヒュドラの首はまだ七つ残っている。手数の多さを駆使して、炎を吐き、その牙で噛み砕こうとしたりと、あらゆる手で攻撃を試みる。しかし、そんなヒュドラの絶え間ない攻撃を受けてもなお、グレオは怯むことなくその剣を振り続ける。
しかし、ヒュドラに対して有効な攻撃を仕掛けられたのも、最初の一撃だけだった。
ヒュドラは瞬時にグレオが持つ剣の危険性を把握し、闇雲に攻撃を仕掛けているように見せて、グレオを追い回すようにして彼が見せる一瞬の隙を狙おうとしている。魔獣の癖にどこまでも姑息で賢い。
「はぁ、はぁ……マスター……」
「ナイチンゲールッ!?」
「頼む。一つだけお願いがある」
「な、なんだ……?」
グレオが苦戦している様子を見守っていた航大に、ナイチンゲールが苦しげに声をかけてくる。
「その剣で、私の胸を貫いて欲しい」
「……はっ?」
「それは治癒剣、フィレンツェ……その剣で切られれば、少しは回復するかもしれない……」
苦しげにその胸を上下させるナイチンゲールは、どこまでも真剣な様子で航大に懇願する。彼女の傍らには鋏の形をした片刃剣の一つが転がっている。
幸いにも、その剣には毒が付着しておらず、今の航大でも触れて問題ない状態であった。
「俺が……お前を……?」
「はやくッ……そうしなければ、この戦いに勝つことはできないッ……」
異世界に登場するような剣を航大は持ったことがない。現実世界で刃物を持つなど、それこそ料理をする時くらいなものだった。剣道を習っていたといっても、それは人を殺傷する力を持たない竹刀だった。
やはりどこにでもいるただの男子学生である航大にとって、剣を持つということ、しかもそれを大切な少女の胸に突き立てることなど、いくら大丈夫と言われても即答して出来るようなことではない。
「私を信じてくれ、マスター」
「信じる……?」
死の淵に追いやられてもなお、英霊ナイチンゲールは戦うことを諦めない。
勝利を信じ、敗北を許さない英霊は強い意志が宿った瞳で航大を真っ直ぐに見つめる。
今、巨大な魔獣と傷つきながらも叩い続ける異世界の英雄は言った。
――まだ命ある時から諦めていては、何事も成し遂げることはできない。
「……わかった。これでお前を刺せばいいんだな?」
「……あぁ、思い切りやってくれ」
近くに転がっていた片刃剣の一つ、フィレンツェと名が付いた剣を手に取る。見た目に反してフィレンツェはずっしりとした重量があり、これを両手に持って振るっていた彼女の動きを思い出し、思わず引き攣った笑みが漏れそうになった。
剣を握る手はずっと震えている。
いくら持ち主から大丈夫だと言われたとしても、人の身体に剣を突き立てた経験のない航大は恐怖に震えてしまう。
「さぁ、はやくッ……」
力強く彼女は言った。
その瞳は多くを語らなかったが、航大に何度も『大丈夫だ』と伝えてくれていた。
「――上手くいってくれよ」
航大は震える手に力を込めて、ゆっくりと目を閉じる。
視界が暗闇に包まれ、航大は静寂が包み込む世界へと誘われる。
いつしか手の震えは消えていた。後は、この剣をただ真下に突き下ろすだけ。
何度もナイチンゲールの声が脳裏に反芻する。彼女は言った、大丈夫だと。
逡巡するのも一瞬だった。覚悟を決めた航大は両手に握った剣を振り下ろすのであった。
◆◆◆◆◆
「くッ、中々できるッ……!」
ヒュドラとの戦いは熾烈を極めていた。
七つあった首は気付けば、残り三つまで数を減らしており、街の至る所に毒の粘液を撒き散らしながら、ヒュドラは確実に追い込まれていた。しかし、過去に英雄と呼ばれたグレオも押し寄せる老いには勝てない。ヒュドラと決死の戦いを繰り広げる度に、グレオの体力は想像以上に失われていき、動きが精彩を欠いていく。
「はぁっ、はぁっ……うらあああぁッ!」
剣を振るう。しかしそれは、ヒュドラの残った三つの首にいともたやすく回避されてしまう。大きな動きの攻撃を放てば、ヒュドラの素早い反撃が待っている。
「くうううぅッ!」
頭、尻尾とあらゆる手を使ってがむしゃらに攻撃を仕掛けてくるヒュドラを相手に、グレオは次第に防戦一方な状況へと追い込まれていく。
このままではジリ貧である。それは最前線で戦うグレオが一番身に沁みて理解していた。
「どうすればッ……」
グレオは必死に考える。
かの英雄もここまで巨大な魔獣を相手に戦った経験は浅い。間違いなく、目の前で咆哮を上げる魔獣ヒュドラは、グレオが見てきた魔獣の中でもトップクラスに強い。全盛期のグレオならば、苦戦はしても負けることはなかった相手だろう。しかし、年も取った今のグレオにとって、この戦いはまさに命がけの物と化していた。
「――ぐッ!?」
考え事をしていて、動きが乱れた瞬間をヒュドラは見抜いていた。
灼熱の炎を吐き、グレオを指定の位置まで誘導すると見えない死角から強烈な尻尾による攻撃を放つ。瞬速で迫ってくる巨大な尻尾を前に、グレオは剣を盾にしてもろに攻撃を受けてしまう。
巨大な魔獣の力を持ってすれば、人間など紙切れのように軽い存在であり、グレオの身体はたやすく吹き飛び、近くにあった民家の壁をぶち破って停止する。
完全に油断していた。
それを察したグレオは、全身を襲う強烈な痛みに表情を歪ませる。
このままでは負けてしまう。
ハイライト王国の英雄として、騎士隊を率いて長い年月が経った。
前線に出なくなっても鍛錬は欠かさず、どんな戦いにも万全な状態で立ち向かうことができるはずだった。しかし、実戦の経験を積まないことは想像以上にグレオの身体を退化させていた。
それをこのピンチの場面で理解し、グレオは思わず己の愚かさを笑うしかなかった。
「ここでアレを使うしかないのか……?」
グレオにはまだ手はあった。
しかしそれは、自らの騎士生命を脅かすものであり、最悪の場合は命すらも危うい。
「迷っている時間はない」
決意を固め、グレオは再び跳躍する。
一瞬でもいい、ヒュドラの動きを止めることができれば、逆転することができる。
真正面で大きな口を開けているヒュドラに向かって飛ぶグレオは、いかにしてこの魔獣の動きを封じるかを思考する。技を放つにしても、動きを止めねば難しい。
「動きを封じる手は……」
「グレオ殿ッ、力を貸すッ!」
「君はッ……!?」
ヒュドラの顔に斬撃を見舞い、地面に着地したグレオの隣を一つの影が走り抜けていく。
それは両手に片刃の剣を持っていて、グレオとは比較にならない速度でヒュドラに迫っていく。
「さっきはよくもやってくれたな……喰らえええええぇッ!」
ヒュドラの顔に強烈な一撃を叩き込むのは、英霊ナイチンゲール。
未だ身体に後遺症を残しながらも、彼女は死の淵から見事生還を果たしていた。
「グレオ隊長、共に戦おうッ!」
「はははッ……これは頼もしいッ!」
自分の背中を追い越し、魔獣へ立ち向かう少女が居た。
それは今まで数え切れない戦場を戦い抜いてきたグレオにとって、初めての光景である。
常に自分が先頭に立ち戦ってきた。
しかしそれも昔の話。
今は、自分よりも一回り、二回りも年若い少女が最前線で戦っている。
「私が魔獣を誘導する、隙を見せたら切れッ!」
「承知したッ!」
ナイチンゲールが再びヒュドラの前に躍り出て、その軽やかな身のこなしでヒュドラを惑わせる。
再び現れたナイチンゲールに驚いているのか、ヒュドラは困惑した様子で目の前を飛び回るナイチンゲールを必死に追いかける。しかしそれは、この場に存在するもう一人の英雄を自由にさせてしまうことにも繋がる。
「一本、貰ったああああああぁッ!」
ヒュドラの注意がナイチンゲールに向いていることを確認して、グレオはその大剣でヒュドラの首を一つ切り落とす。その身体に疲労が溜まっていても関係ない。グレオの強烈な一撃によってヒュドラの首は呆気なく両断され、ヒュドラは断末魔の声を上げて悶え苦しむ。
「治癒剣――キングス・カレッジ」
七つ目の首を落とされ、ヒュドラの動きは明らかに鈍っていた。
首を落とされる度に弱体化していくヒュドラは、毒を撒き散らせながら咆哮を上げ続ける。
自らの首を落としたグレオに視線を映したのが致命的だった。
絶対の必殺剣を準備していたナイチンゲールへの注意を疎かにした結果、ヒュドラは八つ目の首を無残にもその胴体から切断する憂き目に遭うことになる。
「――ッ!」
英霊ナイチンゲールと英雄グレオの二人の手によって、ヒュドラはいよいよ追い詰められた。
九つあった首は残り一つといったところまで数を減らし、いよいよ決戦の結末が近づこうとしていた。
「はぁ、はぁ……残り一つ……」
「これならば、なんとかなりそうだ」
毒の影響もあるのか、ナイチンゲールの息は荒い。
グレオも額に玉のような汗を浮かべながらも、近づく勝利に笑みを浮かべる。
「よし、いける……いけるぞッ……!」
未だ震える手を感じながら、航大も魔獣への勝利を確信していた。
この状況を見守る誰もが思っただろう。
巨大な魔獣相手に、小さな人間が勝利することを。
それは間違いではなかった。
確かにこのまま事が進めば人間は勝利する。
誰の目にもそれは明らかだった。
しかし、そんな人間の淡い期待を巨体を誇る魔獣は、いともたやすく壊していくのであった。
「――ッ!」
咆哮が轟き、その瞬間に魔獣の身体に異変が起こった。
「……はっ?」
目の前で繰り広げられる光景に、航大は思わず間の抜けた声を漏らした。
ぶくぶくと魔獣の身体が泡立ったかと思った瞬間だった。一つになった首が三つに増えて、六つに増えて……最終的には九つに戻ったのだ。
「そんな馬鹿な……」
誰が漏らしただろう、その声はこの場にいる全員の気持ちを代弁していた。
九つあった首を一つにするだけでも、これだけの労力を払ったというのに、目の前に立ち塞がる魔獣はそれをたった数秒で振り出しに戻してしまったのだ。
絶望。
その二文字が重く両肩にのしかかってくる。
「…………さて、どうしたものか」
ナイチンゲールの言葉が鼓膜を震わせる。
その言葉に対する返答を、この場の誰もが持ち合わせていなかったのであった。
「お、おい……冗談はやめろよ……ナイチンゲール……?」
異世界に召喚された魔獣・九つの首を持つ海蛇『ヒュドラ』に一度は取り込まれた、クリミア戦争の英雄・フローレンス・ナイチンゲール。魔獣の体内に取り込まれた彼女はそれでも諦めず、ヒュドラの首を内部から両断することで、この異世界の地へと再び舞い戻ってきた。
あれだけ攻略が難しかったヒュドラの首を一つ落とし、さぁこれから反撃だというタイミングで訪れた衝撃。
「はぁ、くっ……あっ、くああぁっ……」
冷たい地面に倒れ伏したナイチンゲールは、その身体をヒュドラの体液で汚しながら苦しげな吐息を漏らす。時折、身体が痙攣しその度にナイチンゲールと憑依したユイの表情は苦悶に歪んでいく。
「なにがどうなってんだよッ……」
「はぁ、はあぁ、はぁ……油断、した……あいつの体液、あれは毒だったんだ……」
「体液が……毒……?」
「マスター、今の私には触れるな。お前まで毒にやられてしまう」
うっすらと目を開き、苦しげな表情と声でその身体を抱き起こそうとする航大を制する。
粘液はナイチンゲールの身体を余すところ無く覆っていて、それが本当に毒だというのなら、彼女の傍らには『死』という運命が迫っていることに間違いない。
航大はここまでの間、英霊と呼ばれる存在に絶対の信頼を置いていた。異世界に転移し、何の力も保たない航大が唯一持ち得た権能。それが英霊召喚だった。
森での戦いも、シャーリーの誘拐事件の際も、異世界に召喚された英霊たちは尋常ならざる力を持って、航大が立ち向かうべき大きな壁を壊して進んでくれた。そんな日々が続く中、航大は心の何処かで安心していたのだ。英霊は航大が成し得ることができない功績を作ってくれる。彼らを召喚すれば、どんな難題もクリアできる……自分の無力さが故に、航大は唯一持つ権能に対して慢心を抱いてしまっていた。
その慢心の結果がコレである。
「ナイチンゲール……ユイ……頼む、死ぬなよッ……」
目の前で命の灯火が消えようとしている。
「そ、そうだッ……この剣を使えば……お前の力を使えば、毒くらい何とかなるだろ……?」
「はぁっ、くっ、うぁっ……はぁっ、はあぁっ……」
「どうして何も答えないんだよッ……ナイチンゲールッ!!」
彼女の身体に触れられないのがもどかしい。
異世界に来て、傍にいるのが当たり前の存在だった。
英霊を無理矢理その身体に宿し、自分の代わりに戦ってきた少女。
何よりも感謝し、何よりも手放してはいけない存在が今、自分の手からこぼれ落ちようとしている。彼女を失えば、自分には何も残らない。この世界で生きていく意味さえ、失ってしまうのではないかと危惧してしまう。
だからこそ、彼女は失ってはいけない。
どんな危険な目に遭っても、無条件に自分のそばに居てくれる彼女を失ってはいけないのだ。
「はぁ、はぁ……すぐに、死ぬことはないが……これは少々……厄介だ……」
「厄介って……でも、なんとかなるんだろッ!?」
「……わからぬ。とにかく今は、身体が動かない」
ナイチンゲールの唇から漏れる吐息は、時間が経つに連れて激しさを増していく。
それは全身を包む毒が皮膚から体内に取り込まれ、彼女を確実な死へと誘っているからなのだろうか。
とにかく、このままでは彼女は英霊の力を持ってしても命を失ってしまう。
「――ッ!」
どうすればこの危機を脱することができるのか。
あまりにも難しい難題を前に、航大は思考を巡らせる。
しかしそれも、首を落とされた痛みから回復しつつある魔獣、ヒュドラの咆哮に遮られてしまう。
「くそッ……もう少し大人しくしてろよッ……」
ナイチンゲールをどうするか、それだけでも手に余るというのに、ここでヒュドラが復活を果たせば、それこそ真のバッドエンドである。ただの一般人である今の航大に、ヒュドラを相手に戦うことなど出来るはずがない。
「――ッ!」
ヒュドラは首を切り落とされた怒りに咆哮を上げる。
残った八つの首と顔は、地面に倒れ伏すナイチンゲールを睨みつける。
何度も咆哮を上げ、その怒りを全身で表現してくる。
「今度こそ、万事休すって奴か……」
ヒュドラは咆哮を上げた状態で、全身をバネのように跳ねさせて航大の元へ突進してくる。大地全体が揺れているのではないかという錯覚すら覚える中、航大は接近してくるヒュドラに目を閉じる。
「――やれやれ、本当に君たちは何かと厄介事に巻き込まれるようだ」
鼓膜を震わせたのはそんな男の声だった。
ヒュドラに食われ、一瞬の内に絶命する運命に航大は目を閉じたのだが、その瞬間は一向に訪れることはない。恐る恐る目を開くと、航大とヒュドラの間に立ち塞がる大きな背中があった。
「遅れてすまない。この場所とは正反対の場所に居て、駆けつけるのが遅くなってしまった……」
「グ、グレオ……隊長……」
「その少女は……そうか、コイツの毒にやられたんだな」
ヒュドラの突進を、自分の背丈を越える大剣で受け止めているグレオ。
自分の体の何倍も大きな魔獣の突進をその身で受け止める彼の背中は、今の航大にはあまりにも大きく映った。
「この街の住人の多くが、何者かの毒……呪いにやられていた」
「呪い……?」
「あぁ。それは毒にも似ていて、少しずつ、そして確実に人間を死に追いやるものだ」
ヒュドラの毒は異世界では呪いという味方もできるらしい。
治ることはなく、しかし確実に死へ向かっていく様子から人々はそれを魔獣の呪いと呼ぶことがある。
「とにかく、ここは私が何とか食い止める。その間に逃げるんだ」
「逃げるって言っても……倒せるんですか、そいつを……?」
「……ふむ、君たちでも敵わないと言うのなら、それは少々難しいのかもしれない。しかし、まだ命ある時から諦めていては何事も成し遂げることはできまい」
後ろで呆然と立ち尽くす航大を見ていたグレオは、簡単に言葉を紡ぐと再び眼前のヒュドラと対面する。全身の筋肉を躍動させ、ヒュドラの首を思い切り振り払う。
「――ッ!」
ヒュドラの巨体がグレオの薙ぎ払いによって軽く後ろへ吹き飛ぶ。
バランスを崩した瞬間を見逃さず、グレオはすかさず追撃に移る。
「うらあああああああああああああぁぁぁッ!」
ヒュドラの咆哮にも負けない怒号を上げて、グレオが地面を蹴る。
その大剣を肩に背負い、怒号と共にその首の一つを簡単に両断していく。
「――ッ!」
ナイチンゲールが落とした首とは逆の右端に存在していたヒュドラの首がまた一つ切断された。切断面から大量の粘液を噴き出しながら、ヒュドラは為す術なく首の一つを失った。
「す、すげぇ……」
異世界で名を馳せた英雄の戦いぶりに、航大は思わずそんな声を漏らしていた。
現実世界でも神話に登場する怪物ですらも、その剣を前にして防戦一方である。
「はぁッ!」
まるで紙切れを振っているかのように、鉄製の大剣を振り回すグレオ。
ヒュドラの首はまだ七つ残っている。手数の多さを駆使して、炎を吐き、その牙で噛み砕こうとしたりと、あらゆる手で攻撃を試みる。しかし、そんなヒュドラの絶え間ない攻撃を受けてもなお、グレオは怯むことなくその剣を振り続ける。
しかし、ヒュドラに対して有効な攻撃を仕掛けられたのも、最初の一撃だけだった。
ヒュドラは瞬時にグレオが持つ剣の危険性を把握し、闇雲に攻撃を仕掛けているように見せて、グレオを追い回すようにして彼が見せる一瞬の隙を狙おうとしている。魔獣の癖にどこまでも姑息で賢い。
「はぁ、はぁ……マスター……」
「ナイチンゲールッ!?」
「頼む。一つだけお願いがある」
「な、なんだ……?」
グレオが苦戦している様子を見守っていた航大に、ナイチンゲールが苦しげに声をかけてくる。
「その剣で、私の胸を貫いて欲しい」
「……はっ?」
「それは治癒剣、フィレンツェ……その剣で切られれば、少しは回復するかもしれない……」
苦しげにその胸を上下させるナイチンゲールは、どこまでも真剣な様子で航大に懇願する。彼女の傍らには鋏の形をした片刃剣の一つが転がっている。
幸いにも、その剣には毒が付着しておらず、今の航大でも触れて問題ない状態であった。
「俺が……お前を……?」
「はやくッ……そうしなければ、この戦いに勝つことはできないッ……」
異世界に登場するような剣を航大は持ったことがない。現実世界で刃物を持つなど、それこそ料理をする時くらいなものだった。剣道を習っていたといっても、それは人を殺傷する力を持たない竹刀だった。
やはりどこにでもいるただの男子学生である航大にとって、剣を持つということ、しかもそれを大切な少女の胸に突き立てることなど、いくら大丈夫と言われても即答して出来るようなことではない。
「私を信じてくれ、マスター」
「信じる……?」
死の淵に追いやられてもなお、英霊ナイチンゲールは戦うことを諦めない。
勝利を信じ、敗北を許さない英霊は強い意志が宿った瞳で航大を真っ直ぐに見つめる。
今、巨大な魔獣と傷つきながらも叩い続ける異世界の英雄は言った。
――まだ命ある時から諦めていては、何事も成し遂げることはできない。
「……わかった。これでお前を刺せばいいんだな?」
「……あぁ、思い切りやってくれ」
近くに転がっていた片刃剣の一つ、フィレンツェと名が付いた剣を手に取る。見た目に反してフィレンツェはずっしりとした重量があり、これを両手に持って振るっていた彼女の動きを思い出し、思わず引き攣った笑みが漏れそうになった。
剣を握る手はずっと震えている。
いくら持ち主から大丈夫だと言われたとしても、人の身体に剣を突き立てた経験のない航大は恐怖に震えてしまう。
「さぁ、はやくッ……」
力強く彼女は言った。
その瞳は多くを語らなかったが、航大に何度も『大丈夫だ』と伝えてくれていた。
「――上手くいってくれよ」
航大は震える手に力を込めて、ゆっくりと目を閉じる。
視界が暗闇に包まれ、航大は静寂が包み込む世界へと誘われる。
いつしか手の震えは消えていた。後は、この剣をただ真下に突き下ろすだけ。
何度もナイチンゲールの声が脳裏に反芻する。彼女は言った、大丈夫だと。
逡巡するのも一瞬だった。覚悟を決めた航大は両手に握った剣を振り下ろすのであった。
◆◆◆◆◆
「くッ、中々できるッ……!」
ヒュドラとの戦いは熾烈を極めていた。
七つあった首は気付けば、残り三つまで数を減らしており、街の至る所に毒の粘液を撒き散らしながら、ヒュドラは確実に追い込まれていた。しかし、過去に英雄と呼ばれたグレオも押し寄せる老いには勝てない。ヒュドラと決死の戦いを繰り広げる度に、グレオの体力は想像以上に失われていき、動きが精彩を欠いていく。
「はぁっ、はぁっ……うらあああぁッ!」
剣を振るう。しかしそれは、ヒュドラの残った三つの首にいともたやすく回避されてしまう。大きな動きの攻撃を放てば、ヒュドラの素早い反撃が待っている。
「くうううぅッ!」
頭、尻尾とあらゆる手を使ってがむしゃらに攻撃を仕掛けてくるヒュドラを相手に、グレオは次第に防戦一方な状況へと追い込まれていく。
このままではジリ貧である。それは最前線で戦うグレオが一番身に沁みて理解していた。
「どうすればッ……」
グレオは必死に考える。
かの英雄もここまで巨大な魔獣を相手に戦った経験は浅い。間違いなく、目の前で咆哮を上げる魔獣ヒュドラは、グレオが見てきた魔獣の中でもトップクラスに強い。全盛期のグレオならば、苦戦はしても負けることはなかった相手だろう。しかし、年も取った今のグレオにとって、この戦いはまさに命がけの物と化していた。
「――ぐッ!?」
考え事をしていて、動きが乱れた瞬間をヒュドラは見抜いていた。
灼熱の炎を吐き、グレオを指定の位置まで誘導すると見えない死角から強烈な尻尾による攻撃を放つ。瞬速で迫ってくる巨大な尻尾を前に、グレオは剣を盾にしてもろに攻撃を受けてしまう。
巨大な魔獣の力を持ってすれば、人間など紙切れのように軽い存在であり、グレオの身体はたやすく吹き飛び、近くにあった民家の壁をぶち破って停止する。
完全に油断していた。
それを察したグレオは、全身を襲う強烈な痛みに表情を歪ませる。
このままでは負けてしまう。
ハイライト王国の英雄として、騎士隊を率いて長い年月が経った。
前線に出なくなっても鍛錬は欠かさず、どんな戦いにも万全な状態で立ち向かうことができるはずだった。しかし、実戦の経験を積まないことは想像以上にグレオの身体を退化させていた。
それをこのピンチの場面で理解し、グレオは思わず己の愚かさを笑うしかなかった。
「ここでアレを使うしかないのか……?」
グレオにはまだ手はあった。
しかしそれは、自らの騎士生命を脅かすものであり、最悪の場合は命すらも危うい。
「迷っている時間はない」
決意を固め、グレオは再び跳躍する。
一瞬でもいい、ヒュドラの動きを止めることができれば、逆転することができる。
真正面で大きな口を開けているヒュドラに向かって飛ぶグレオは、いかにしてこの魔獣の動きを封じるかを思考する。技を放つにしても、動きを止めねば難しい。
「動きを封じる手は……」
「グレオ殿ッ、力を貸すッ!」
「君はッ……!?」
ヒュドラの顔に斬撃を見舞い、地面に着地したグレオの隣を一つの影が走り抜けていく。
それは両手に片刃の剣を持っていて、グレオとは比較にならない速度でヒュドラに迫っていく。
「さっきはよくもやってくれたな……喰らえええええぇッ!」
ヒュドラの顔に強烈な一撃を叩き込むのは、英霊ナイチンゲール。
未だ身体に後遺症を残しながらも、彼女は死の淵から見事生還を果たしていた。
「グレオ隊長、共に戦おうッ!」
「はははッ……これは頼もしいッ!」
自分の背中を追い越し、魔獣へ立ち向かう少女が居た。
それは今まで数え切れない戦場を戦い抜いてきたグレオにとって、初めての光景である。
常に自分が先頭に立ち戦ってきた。
しかしそれも昔の話。
今は、自分よりも一回り、二回りも年若い少女が最前線で戦っている。
「私が魔獣を誘導する、隙を見せたら切れッ!」
「承知したッ!」
ナイチンゲールが再びヒュドラの前に躍り出て、その軽やかな身のこなしでヒュドラを惑わせる。
再び現れたナイチンゲールに驚いているのか、ヒュドラは困惑した様子で目の前を飛び回るナイチンゲールを必死に追いかける。しかしそれは、この場に存在するもう一人の英雄を自由にさせてしまうことにも繋がる。
「一本、貰ったああああああぁッ!」
ヒュドラの注意がナイチンゲールに向いていることを確認して、グレオはその大剣でヒュドラの首を一つ切り落とす。その身体に疲労が溜まっていても関係ない。グレオの強烈な一撃によってヒュドラの首は呆気なく両断され、ヒュドラは断末魔の声を上げて悶え苦しむ。
「治癒剣――キングス・カレッジ」
七つ目の首を落とされ、ヒュドラの動きは明らかに鈍っていた。
首を落とされる度に弱体化していくヒュドラは、毒を撒き散らせながら咆哮を上げ続ける。
自らの首を落としたグレオに視線を映したのが致命的だった。
絶対の必殺剣を準備していたナイチンゲールへの注意を疎かにした結果、ヒュドラは八つ目の首を無残にもその胴体から切断する憂き目に遭うことになる。
「――ッ!」
英霊ナイチンゲールと英雄グレオの二人の手によって、ヒュドラはいよいよ追い詰められた。
九つあった首は残り一つといったところまで数を減らし、いよいよ決戦の結末が近づこうとしていた。
「はぁ、はぁ……残り一つ……」
「これならば、なんとかなりそうだ」
毒の影響もあるのか、ナイチンゲールの息は荒い。
グレオも額に玉のような汗を浮かべながらも、近づく勝利に笑みを浮かべる。
「よし、いける……いけるぞッ……!」
未だ震える手を感じながら、航大も魔獣への勝利を確信していた。
この状況を見守る誰もが思っただろう。
巨大な魔獣相手に、小さな人間が勝利することを。
それは間違いではなかった。
確かにこのまま事が進めば人間は勝利する。
誰の目にもそれは明らかだった。
しかし、そんな人間の淡い期待を巨体を誇る魔獣は、いともたやすく壊していくのであった。
「――ッ!」
咆哮が轟き、その瞬間に魔獣の身体に異変が起こった。
「……はっ?」
目の前で繰り広げられる光景に、航大は思わず間の抜けた声を漏らした。
ぶくぶくと魔獣の身体が泡立ったかと思った瞬間だった。一つになった首が三つに増えて、六つに増えて……最終的には九つに戻ったのだ。
「そんな馬鹿な……」
誰が漏らしただろう、その声はこの場にいる全員の気持ちを代弁していた。
九つあった首を一つにするだけでも、これだけの労力を払ったというのに、目の前に立ち塞がる魔獣はそれをたった数秒で振り出しに戻してしまったのだ。
絶望。
その二文字が重く両肩にのしかかってくる。
「…………さて、どうしたものか」
ナイチンゲールの言葉が鼓膜を震わせる。
その言葉に対する返答を、この場の誰もが持ち合わせていなかったのであった。
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