茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第四十八回 父から息子へ

一八三五(天保六)年一月。
浄岸院(茂姫の父、重豪殿の死から、二年が経っておりました。)
その日は、城に雷鳴が轟いていた。ある部屋には、ある者が病床に寝ていた。お万が半開きの目のまま、手を握っている家斉に言った。
「公方様・・・。」
それを聞いた家斉は、
「何じゃ?」
と聞くと、お万はこう言った。
「わたくしは、公方様の側室の中で、一番長うございます。初めてお見かけした時から、わたくしに優しく接して下さいました。それ故か、御台様には、不快な思いをさせてしまいました。」
それを聞き、家斉は茂姫の方を振り向いた。すると茂姫はお万を見ながら首を振り、
「そのようなことはない。」
と言った。お万は、
「わたくしは・・・、幸せにございました・・・。これからも・・・、この徳川家を、お守り下さいませ・・・。」
そう言うと、目を閉じた。そして徐々に力が抜け、やがて家斉の手から離れてしまった。家斉は、
「お万・・・。」
と、鳴きそうになりながら言った。それを、茂姫も同じような表情で見つめていた。
浄岸院(こうして、家斉様の側室・お万の方もこの世を去ったのでした。)


第四十八回 父から息子へ

茂姫は、自分の部屋に飾ってあった木彫りの人形を手に取った。
『これは、父上が昔、わたくしに作って下さったものにございます。これを、父上の形見として、姉上に持っていて頂きとうございます。さすれば、父上は姉上の中で生き続けられるでしょう。』
斉宣が文で言ったことを、茂姫はその人形を見つめながら思い出していた。それを見ていたひさは、
「また、ご覧になっているのですか?」
と、話しかけた。すると茂姫は、
「あぁ。父上はわたくしに生きる希望を与えて下された。己の居場所を、教えて下さったのじゃ。」
そう言い、幼き頃を思い出した。
重豪『そなたの戦場は、城にある。』
  『夫を支え、子を作ることじゃ。それこそが、女子の戦と言うもの。』
  『於篤、しっかりやるのじゃぞ。』
茂姫はそれから暫く、それをずっと見つめていたのだった。
浄岸院(その頃、また新たな動きが・・・。)
江戸の中野邸に、ある人物が来ていた。若年寄・はやし忠英ただふさは、
「新たに寺を建設?」
と聞くと、清茂は言った。
「安藤対馬守殿の下屋敷があった跡地に、感応寺の建設を考えておる。」
それを聞いた忠英は、こう言った。
「確か、以前に改宗した感応寺の宗教を元に戻そうとして、しかしそれも叶わなかったのでは?」
すると清茂は、
「だから次こそ、寺を建て、そこの住職を日啓殿にと思うてな。」
と言うのを聞いた忠英は、
「左様ですか・・・。されど、日啓殿は法華経寺の住職。元々の感応寺と宗教が違えば、ちと厄介なのではありませぬかなぁ。」
そう言っていると清茂が、
「なに、新しく建てるのじゃ。何とでもなろう。」
と言い、笑みを浮かべていた。
その後、日啓と話をした。
「わたくしが、新たに建てる感応寺の住職に、でございますか?」
日啓が聞くと、清茂はこう言った。
「まずは、公方様に頷いて頂きませぬと、話が進みませぬ。」
それを聞いた日啓は顔を残念そうに、
「また、お美代を利用するのですか。」
と言うと、清茂もこう言うのだった。
「わしとて、もうあやつに肩身の狭い思いをさせとうはありません。しかし、皆のためだと思って、これで最後に致しまする。」
それを聞いた日啓も、清茂を見つめていた。
そして美代は城で、父からの文を受け取っていたのであった。美代は、ただ黙ってそれを読んでいた。
その夜。家斉が部屋に入ると、声がした。
「失礼致します。」
家斉がそれを見ると、美代が立っていた。美代は部屋に入り、家斉の前に座ると手をついて、こう言った。
「公方様に、お願いがあって参りました。」
「またか・・・。」
家斉は呆れたように小声で呟くと、美代ははっきりと言った。
「これで最後にございます。父も、そう言っておりました。」
家斉はそれを聞き、美代を見つめていた。
その後、家斉は美代から話を聞いた。
「寺を?」
家斉が聞くと美代は、
「はい。建設にかける費用を、家臣達からも集め、その賄いで報酬を与えるそうにございます。」
と言った。それを聞いて家斉は、
「住職は、そなたの実の父か?」
と聞くと、美代は答えた。
「はい。父上様は、わたくしのまことの父に、楽な暮らしをして欲しいと考えておられます。わたくしはこのお城に上がった頃、わたくしや、他の者達は父上様の道具でしかない、そう思っておりました。しかし、今となっては繋がりのある皆のためにしていることだと思えました。少し、度が過ぎますが・・・。」
それを聞くと家斉は、
「しかたあるまい。親というのは、皆同じようなもの故の。」
と言うので美代はまた手をついて、
「公方様、いつも身勝手なことばかりで、お許し下さい。」
そう言い、頭を下げた。家斉は、
「まぁよい。好きにせよと、伝えるがよい。」
と言うので美代は顔を上げ、嬉しそうに答えた。
「はい。」
それを、家斉も微笑しながら見つめていたのだった。
その頃、二人の老中が部屋で話をしていた。乗寛が、
「お世継ぎを?」
と聞くと、水野みずの忠邦ただくにはこう言った。
「はい。家慶様のお次は、他家から養子を迎える方がよろしいかと。」
それを聞いた乗寛は、
「何故じゃ。次のお世継ぎは、政之助様、いや、家祥様と決まっておるも同然。何故血の繋がらぬ家から、わざわざ養子など。」
と言うと、忠邦は言った。
「公方様の側近であった、中野清茂様はご存知でしょうか。」
「あ、あぁ。まぁ・・・。」
乗寛はそう言うと、忠邦はこう続けた。
「新たに寺を建てようとしておられると聞きます。その前にも何度か、家慶様のお世継ぎを己の娘の子にしようと企んでおられたとか。此度も、きっとそれらを狙ったものに違いありませぬ。」
それを聞いた乗寛は、
「それは、まぁ・・・。」
と呟くと、忠邦はこう言った。
「これは一大事にございますぞ。もしもあの方が今以上に公方様につけ込み、お世継ぎが溶姫やすひめ様の嫁いだ前田家の者にでもなったら。」
乗寛はそれを聞くと上でを組み、
「それはそうと、他家から養子を迎えようとしているのはそれと同じことではないか。もっと、ましなよい方法はないものか。」
と返した。すると忠邦は、
「それと、理由はもう一つあるのです。」
そう言うので乗寛が、
「もう一つ?」
と、聞いていたのだった。
浄岸院(家慶様の四男、政之助様は数年前から家祥様と名を改めておいででした。)
徳川とくがわ家祥いえさちは、呑気に七輪で餅を焼いていた。それを箸で持ち上げながら、うっとりしていた。すると隣にいた歌橋うたはしが、
「家祥様。今年でもう一二なのですから、少しは他のこともなさっては如何でございますか?」
と言っても、無視して餅を焼いていた。母・美津みつも心配そうに見つめていた。すると、部屋に家斉と茂姫が入ってきた。それを見て、美津と歌橋は頭を下げた。家祥は、
「これは、じじ上。」
と言い、皿の上に乗った餅を差し出した。家斉は家祥の前に座ると、それを手に取った。
「おぉ、上手く焼けておるのぉ。」
家斉はそう言って褒め、家祥の頭を撫でた。それを見ていた茂姫は美津に、
「様子はどうじゃ?」
と聞くと、美津はこう言った。
「それが・・・、ご覧の通りでございまして・・・。」
それを聞くと茂姫も、家祥の方を見た。家祥は、自分が焼いた餅を食べている家斉をずっと見つめていた。それをまた、茂姫も心配そうな表情で見つめていたのだった。
家慶が、
「家祥を、ですか?」
と聞くと茂姫は、
「はい。表に返そうと思います。家祥様も、今年で一二。歳で言えば、もう色々なことをお一人で考えられる歳です。少しずつ、自立させることもこちらの役目ではありませんか?」
そう言うので家慶も頷き、
「そうですね。わかりました。わたくしも、実はそれは前々から思っておりましたので。」
と言うのを聞き、茂姫は嬉しそうに笑った。すると茂姫は、あることを口にした。
「時に、これは聞いてよいかわからぬのですが。」
「何でしょう?」
家慶が聞くと、茂姫は言った。
「また、家祥様の話なるのですが・・・。」
「はい。」
「家祥様は、何か、他のお子達と少し違うと思いませぬか?」
「違う・・・。」
茂姫は少し焦ったように、
「あ、いえ。これは、あくまでもわたくしの考えにございます。されど、少し成長が遅れているといいましょうか、何かが気になるのです。」
そう言うので家慶も、
「はぁ・・・。」
と頷き、不思議そうに茂姫を見つめていた。茂姫も、首を傾げていた。
その後、清茂が日啓を連れて登城した。そして、ある部屋で美代と共に対談をした。
「公方様直々のお許しが出た。」
清茂は、そう言った。日啓も、
「おかげで、今より楽な暮らしができます。」
と言った。美代が、
「公方様は、全て見抜いておられるようです。これでもし、父上様がお役御免となられるようなことがあっては。」
そう言うと清茂は、
「案ずるには及ばぬ。わしは、己の意思で動いた。そなたがわしのために働くのは、これ限りじゃ。」
と言うと、日啓は言った。
「しかし、それならば何故、公方様はお許しになったのでしょう?」
「さぁ・・・。」
清茂はそう言っていると、美代は家斉の言葉を思い出していた。
『親というのは、皆同じようなもの故の。』
美代が黙っているのを見て清茂が、
「どうした?」
と尋ねると美代は、
「いえ・・・。」
そう返事をしていた。それを、不思議そうに日啓も見つめていたのであった。
その頃、茂姫にも知らせが届いていた。
「新しいお寺じゃと?」
茂姫は聞くと、大久保がこう言った。
「はい。公方様の側室・お美代の方の実の父である男が住職に就いたそうにございます。」
それを聞くと茂姫は、
「お美代の父か・・・。」
と呟くと、大久保はこう言った。
「はい。表ではそれが自分のためなのか、はたまたお世継ぎに関係あることなのか議論が交わされております。そのため、お世継ぎを早く決めておかなければならないという話も出ているくらいにございます故。それに、次のお世継ぎは養子ではないかという、お話も。」
それを聞くと茂姫は驚いたように、
「待て。それはどういうことじゃ?」
と聞いた。大久保は、
「いや、はっきりとは申せませぬが・・・。」
そう言うので茂姫は、こう言った。
「次のお世継ぎは、今までの系図を見る限り、家祥様であろう。」
「いや、しかしそれは・・・。」
大久保が焦っているのを見て、茂姫は見抜いたような顔をしていた。
「家督を譲れ?」
家斉は聞くと、茂姫は言った。
「早くお譲りになって、家慶様に次のお世継ぎを決めて頂きます。」
それを聞き、家斉は下を向いた。茂姫は続け、
「それにしても、何故お寺の建立を許したのですか?あの者の今までの行いを見る限り、きっとまたお世継ぎを狙っているのでしょう。」
そう言うと、家斉は顔を上げてこう言った。
「それなら、もう手は打ってある。」
「えっ・・・?」
茂姫は聞くと、家斉が言った。
「家慶の後見人に、水野忠邦と申す男がいる。あれは、よく頭の切れる男じゃ。わしが家督を継がせた後、家慶の後見として、あの者に政を任せるつもりじゃ。どちらが勝つか、もう決まっておるがの。」
すると茂姫は庭を見つめながら、
「上様は、ちゃんと先のことを考えておられたのですね。」
と言うと家斉も、
「当たり前じゃ。」
そう答えた。すると茂姫は、
「少し気になるのは、家祥様のことです。若様にもお話致しましたが、あの方は将軍家をお継ぎになる自覚をお持ちなのでしょうか。」
と、家祥の姿を思い出しながら言った。すると家斉が、
「まぁ、今の所は心配せんでも大丈夫じゃ。この分だと、あやつもそう簡単に譲ろうとはせんであろう。」
と、言った。茂姫も笑い、
「そうでございますね。」
そう言い、二人は見つめ合っていたのであった。
浄岸院(それから間もなくして、感応寺の建設が始まり、翌天保七年、寺の殆どが完成しました。)
老中達は、部屋で話をしていた。
「とうとう、止めさせることはできませんでしたなぁ。」
大久保がそう呟くと、乗寛は言った。
「我々も、どうにかあの中野一派の動きを監視せねばならぬ。」
すると忠邦が、
「一つ、宜しゅうございましょうか。」
と言うので乗寛は、
「何じゃ!」
そう言うと、忠邦がこう言った。
「この一件、わたくしに全て任せて頂けませぬか。」
「何を言っておるのじゃ、この期に及んで!」
乗寛がそう言うと忠邦は、
「この一切の責任は、わたくしが負いまする。それ故どうか、お任せ下さいませ。」
と言うので、乗寛と大久保は顔を見合わせていた。忠邦は、密やかに笑みを浮かべていたのだった。
薩摩藩邸。定永が重豪に線香を上げに来ていた。定永が拝んでいるのを、後ろで斉宣も見ていた。そして定永が振り向くと斉宣は、
「わざわざ、ありがとうございました。そちらも、藩の再建のため、大変だというのに。」
そう言うと、定永はこう言った。
「いえ。わたくしの父の時の、お返しにと思いまして。あと、江戸に用があったものですから。」
「そうですか・・・。」
「大変、だったのですね。」
「えっ?」
定永の言葉に、斉宣が聞き返した。すると定永は、
「藩主だった自分が、隠居したはずだった父親に無理やり隠居させられた。それ故、お父上様を恨んだこともあったのではありませぬか?」
そう聞いてくるので斉宣は、
「あ、いや・・・。でも父上も、反省しておられました。わたくしも、その後反省を繰り返し、何度も父上と解り合いたいと願い続けました。それ故、恨むべきは自分の方ではなかったのかと思います。」
と答えた。それを聞いた定永は、
「いずれにしても、互いに許し合えたということは、喜ばしい限りだと思います。」
そう言うので斉宣も、笑顔でこう言った。
「父も、後悔なく逝くことができたと思います。」
それを聞き、定永も笑っていた。
一八三七(天保八)年一月。
茂姫は家斉に呼ばれ、部屋に出向いた。茂姫は家斉の前に座ると、
「上様・・・。」
と、言った。すると家斉は茂姫を見つめ、
「わしが将軍家を継いでから、今年でも五〇年となる。」
そう言うので茂姫は、
「もう、そのようになるのでございますか・・・。」
と言った。すると、家斉はこう言うのだった。
「わしは、家慶に、家督を譲ろうと思う。」
それを聞いた茂姫は耳を疑ったように、
「今・・・、何と仰いましたか?」
と聞くと、家斉はこう言った。
「もうあやつも、よい年じゃ。継がせても、問題ないであろう。」
それを聞いた茂姫は笑顔になり、
「よくぞご決断なさいました。」
と言った。家斉は、
「明日、皆を表に集めようと思う。そこで、正式に公示とする。」
そう言うので、茂姫は言った。
「若様も、それをお聞きになれば、あなた様を信用なさるでしょう。」
それを聞き、家斉も頷いていた。
翌日、家斉の側室達や家慶と喬子、家慶の側室達などが表に呼ばれた。皆は動揺したように、話し合っていた。すると、
「公方様、おなーりー!」
と言う声が聞こえた。すると、皆は一斉に頭を下げた。そして戸が開き、家斉と茂姫が入ってきた。家斉は上座につき、茂姫もその横の下座についた。そして、皆は前列から顔を上げていった。家斉は、
「間もなく、わしが将軍になってから五〇年となる。思えば、この城に入ってから六〇年近くが経とうとしておる。時というのは、早いものじゃ。年を重ねるごとに、風のように過ぎてゆく。」
そう言っているのを、最前列にいた家慶も聞いていた。家斉は続け、
「それで、わしはようやくある決心をした。」
そう言うのを聞いて、皆はざわついた。茂姫も、家斉を見つめていた。そして家斉は、さらに続けた。
「家慶に、将軍職を継がせようと思う。」
それを聞き、家慶は驚いたように家斉を見た。家斉は家慶を見て、
「式は今年九月に行う。それまでに、できるだけの知識は身につけておくように。」
と言うと立ち上がり、部屋を出て行った。皆はざわざわし、家慶はただそれを見送っていた。茂姫も急いで立ち上がると、家斉を追っていった。
部屋に戻ると、茂姫は後ろから家斉にこう言った。
「あれは、あまりにも唐突すぎではありませぬか?あれ程、継がせたくないと仰せでしたのに。」
すると家斉は、
「そなたも、認めておったではないか。」
と言い、座った。すると茂姫も座り、
「それはそうでございますが、あれでは、若様が動揺してしまわれます。上様が亡くなるまで継げぬものだと思っておられました故、きっと混乱しておられます。」
そう言うと、家斉がこう言った。
「あやつが望んでおったことじゃ。大丈夫であろう。」
それを聞いた茂姫が、
「されど・・・!」
と言っても家斉は目を合わせようとしないので、茂姫は不安そうに見つめていたのだった。
茂姫が部屋にいると、誰かの気配を感じた。茂姫が振り向くと、それは家慶であった。茂姫がそれを見つめていると、家慶も礼をしていた。
その後、茂姫は家慶に話をした。
「此度の件、急なことで、さぞや驚かれたことでしょう。」
「いえ・・・、いや、まぁ・・・。」
家慶はそう返事をすると、茂姫はこう言った。
「されどお父上は、あなたをお認めになったのですよ。お口では言われませんが、そうなのです。」
すると家慶が、
「わたくしには、とてもそうは思えません。」
と言うので、茂姫は家慶を見つめた。家慶は続け、
「父上は、やはり身勝手すぎます。されほど継がせぬと仰せであったのに、きっとこの先、面倒になったのでしょう。」
そう言うので茂姫は、
「それは違います。確かに、言う通りかもしれません。しかし、あなたの気持ちを理解しようとしているのは確かだと思います。決して、身勝手なのではないのです。」
そう言い、説明しようとすると家慶は言った。
「もうようございます。わたくしは、家督は継ぎませぬ。そう、父上にお伝え下さいませ。」
「若様・・・。」
「母上のお気持ちは、ようわかりました。されど、父上のお気持ちは、まだわたくしにはわからぬのです。わたくしは・・・、もうこのような歳にございます故、どうか次の将軍は、家祥にでも。」
家慶はそう言うと立ち上がり、部屋を出て行った。それを茂姫は、
「若様!」
と呼ぶと、家慶は一瞬立ち止まった。しかし振り向くことなく、また歩き出した。それを後ろから、心配そうに茂姫も見つめていたのだった。
その後、家慶は縁側で夕日を眺めていた。すると喬子が後ろに座ると、
「家慶さん・・・?」
と、声をかけた。すると家慶は振り返り、
「すまぬ・・・。そなたは、将軍の妻にはなれぬかもしれぬ。」
そう言うのを聞き、喬子はこう言った。
「そないなこと・・・、宜しゅうございます。わたくしは、あなた様のお側にいたい、ただそれだけにございます。」
「すまぬ・・・。」
家慶がそう言っていると、喬子はこう言った。
「たしか・・・、前に一日だけ将軍をやらせてもらったことがあったんと違いますか?」
それを聞くと家慶は、
「あれは、父上の悪ふざけに付き合わされただけじゃ。」
と言うので、喬子も心配そうな顔になった。すると喬子は、
「されど、父上様があのように仰せになったいうことは、もう認めておられるということでは?」
と聞いた。すると家慶は、
「母上にも同じことを言われた。でもわしは、父上を未だに信じられぬのじゃ。今までの父上の対応を思い出せば、それがようわかる。父上は孫には優しいが、わしには厳しかった。それが親子だと思っておったが、わかってしもうたのじゃ。父上はわしに対し、厳しくすることはあっても、優しくすることはない。父上もきっと、そうやって育てられてきた故じゃ。」
そう言った。
「家慶さん・・・。」
喬子はそう呟いていると、家慶は喬子に手を握った。喬子もそれを見つめると、家慶はもう一度言った。
「すまぬ・・・。」
それを聞いた喬子は涙を流しながら、
「いいえ・・・。」
と言って、ただ俯いて泣いていたのだった。
その翌日。茂姫が、
「若様が?」
と聞くと、たきは言った。
「はい。今朝も、殆ど召し上がっておられぬようでして・・・。」
それを聞いた茂姫は、
「やはり、気にしておいでなのであろう。」
と言い、庭を見つめていた。
その夜、茂姫はまた家斉の部屋に行った。部屋に入ると、家斉は背を向けて、庭を眺めていた。茂姫は、後ろに座った。茂姫は、
「上様・・・、あの。」
と言いかけると、家斉がこう言った。
「家慶と話せと申すのであろう。」
それを聞いた茂姫は、
「はい。」
と、答えた。すると家斉は、こう言った。
「わしとて、もう少し早うに譲ってやりたかったのじゃ。」
「それならば何故、あのようなことを。」
茂姫は聞くと家斉は振り返らずに、
「どうしようもなかったのじゃ。」
と言うので、茂姫は家斉の後ろ姿を見つめた。家斉は続けて、
「わしより、あやつの方が余程優れておる。あやつが将軍になれば、老中などに頼らずとも、立派に政をしてくれるであろう。それ故、わしのあやつに家督を譲りとうなかったのじゃ。」
そう言うのだった。茂姫は、何となく家斉の心中を察していた。そして家斉は、こう言った。
「このような父であるが故に、子供に後を譲った途端に、この国の世の中が今以上に安泰となる。下の者たちは言うであろう。女と遊び、贅沢ばかりの日々を送ってきた父とは大違いだと。」
それを聞いた茂姫も、
「上様のお気持ちは、わかります。されど、見栄を張って、たとえ上様が亡くなった後に継がれたとしても、きっとそのように言われましょう。」
と言うので家斉は振り返り、
「そなたもそう思うか。」
そう言った。すると茂姫が続け、
「今、譲るも譲らぬも、上様次第にございます。」
と言うと家斉は立ち上がり、
「ま、心開いてくれぬのじゃ。今何を言おうとも、あやつには無駄であろう。」
そう言いながら、中に入った。茂姫は体の向きを変え、こう言った。
「しかし上様から、心を開かねば、あちらも開いてはくれませぬ。どうか、若様をお助け下さいませ。それができるのは、あなた様を置いて他にはおられませぬ。」
すると家斉が、
「一つ聞きたい。そなたは、何故血の繋がらない者をそこまで気にかける。」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「血が繋がらなくとも、あの方はこの徳川家の一員。故に、わたくし達の家族にございます。上様にとっても、それは同じかと存じます。」
「家族、のぉ・・・。」
家斉は呟くと茂姫は、
「はい。」
と答えた。家斉は、考え直していたようであった。
家慶は、自分の部屋で書を読んでいた。すると、部屋の前に誰かが来た。それに気づいた家慶は、顔を上げた。すると、目の前にいた家斉と目があった。家慶がそれをじっと見つめていると家斉が、
「そなたと話がしたい。」
と、言うのだった。
その後、父と子は向かい合った。家斉が、
「そなたは・・・、将軍家に生まれたことをどう思っておる。」
と聞くと、家慶は何も言わずに家斉だけを見ていた。家斉は続けて、
「わしはもともと、一橋の子じゃ。この家に入った頃は、何もわかっておらなんだ。他の家との違いは、藩だけでなく、この国の安泰も任されておること、それだけだと思うておった。いざ就いてみると、予想以上に荷が重かった・・・。わしは、上に立つには向いておらぬとさえ思った。されど父上が期待して送り出してくれた以上、そのようなことも言えず、時だけが流れていったのじゃ。そなたを世継ぎと定めた頃、わしはそなたには、重い荷を背負わせとうないと思うた。少しでも世の中をよくして、安泰を保ったままそなたに任せようと思うておったのじゃ。しかしそれもうまくいかずに、異国船などのこともあって、未だこの国は不安定なままじゃ。しかし今なら、そなたに家督を譲れると思うた。そなたは、わしよりもこの国を守ることができる。わしのことは嫌いなままでよい。徳川家のため、この国のために、尽くしてくれぬか。」
そう言うので、家慶は言った。
「わたくしは、父上のことを、一度も嫌いになどなったことはありませぬが。」
それを聞き、家斉は家慶を見つめた。家慶は続け、
「勿論、父上がいつまでもこの国の実権を握っていることには、苛立ちを感じておりました。しかし、その父上だからこそ、今までどのようなことにも屈することなく、進んでこられたのだと思います。父上は、わたくしの誇りにございます。」
と言うのだった。
「家慶・・・。」
家斉は呟くと、家慶がこう言った。
「その言葉を聞いて、やっと信じることができます。わたくしは、父上の教えを倣い、この国を守りとうございます。」
それを聞き、家斉は家慶の肩に手を置いた。そして家慶に、
「そなたが・・・、わしの家族でよかった。」
と言うので家慶も恥ずかしそうにしながら、
「わたくしもにございます。」
そう答えた。その様子を、遠くで茂姫も笑顔で見守っていたのだった。
茂姫が部屋にいると、
「失礼致します。」
と言いながら、家慶が入ってきた。家慶が茂姫の前に座り、
「父上と話して、ようやく、この家を継ぐ決心がつきました。」
そう言うので茂姫も微笑み、
「そうですか。」
と言った。家慶は続け、
「今のわたくしには、父上には及ばぬかもしれませぬが、どうか補佐して下さい。」
そう言うので茂姫が、
「わたくしが?」
と聞いた。すると家慶は、
「はい。今までのように、様々なことをこれからも母上から教わりとうございます。」
そう言うので、茂姫はこう言った。
「わたくしには・・・、もうそのような役目は残っておりませぬ。言うなれば、これからは、あなたがこのお家を守り、国家安泰を築いて下さいませ。それだけにございます。」
それを聞いた家慶が、
「はい。」
と、答えた。すると茂姫が、
「若様・・・。」
そう言うので家慶もまた、
「はい。」
と答えると、茂姫はこう言った。
「わたくしは、この時を、お待ちしておりました。嬉しゅうございます。」
それを聞くと家慶も嬉しそうに、
「はい!」
と言っているのを、茂姫も微笑んで見つめていたのであった。
浄岸院(その年の二月一九日。大塩おおしお平八郎へいはちろうの乱が起こり、水野忠邦の弟であり大坂町奉行の跡部あとべ良弼よしすけらは兵を率いて相手の軍を鎮圧。更に六月、その余波とされる生田万いくたよろずの乱が起き、藩の飛び地があった越後の陣屋も巻き込まれ、松平定永も兵を出し、それを鎮圧。)
定永は馬に跨り、剣を振るいながら、
「怯むなー!」
と、声をあげていた。
浄岸院(死者を出しながらも、辛うじて反乱を押さえたのでございます。)
幕府では、老中が話し合っていた。乗寛が、
「此度の反乱、大阪の学者や商売人が起こしたらしいが。」
と言うと水野忠邦が、
「はい。東町奉行の良弼に、西町奉行の堀殿が挨拶に来る日を狙ったものと思われます。」
と言った。すると乗寛も、こう言った。
「若君様の将軍就任の儀式も、急がねばならぬな。」
すると忠邦が、
「それに関しましては、わたくしにお任せ下さいませ。急ぎ、進めて参ります。」
そう言うと乗寛は、
「宜しく頼みましたぞ。」
と言うのを聞いて忠邦は、頷いていた。
一方、大奥では茂姫と喬子が話をしていた。茂姫は、
「家慶様が、ようやく決心して下さいましたね。」
と言うと喬子も嬉しそうに、
「これで、やっとわたくしも安心できました。」
そう言うと、茂姫は言った。
「それにしても・・・、今の若様が将軍になられるということは、喬子様は御台所ということになりますね。」
すると喬子も笑い、
「それでしたら、母上様は大御台さんにございますね。」
と言うので、二人は笑い合っていた。
その頃、家斉は縁側に立って夕焼けの綺麗な空を眺めていた。そして家斉は振り向くと、家慶が座っていた。家斉が頷くと、家慶も笑顔で頷いていたのだった。
浄岸院(その一月余りのち・・・。)
茂姫の部屋に、花園が駆け込んできた。花園が、
「大変にございます。」
と言うと茂姫が不思議そうに、
「どうした?」
そう聞くと、花園はこう言った。
「浦賀沖で、異国船が襲撃されたとのことにございます。」
「どういうことじゃ?」
浄岸院(天保八年六月二八日。浦賀に接近しようとしたオランダ船に向けて、大砲の弾が放たれたのでございます。)
「しかもその船には、日本人が乗っていたとのことにございます。」
それを聞いた茂姫は目を丸くし、
「それはどういうことじゃ。」
と尋ねると、花園はこう答えた。
「日本人数名が漂流していたところ、その船に救助され、送り返す途中、襲撃されたと。薩摩からの報告によれば、発砲したのは打払令に基づいてのことだと。今は薩摩で、交渉を行っているそうにございます。」
「薩摩で・・・?」
「大砲を放ったのは・・・、薩摩藩の軍勢だとお聞きしました。」
それを聞いた茂姫は、
「何ということじゃ・・・。」
と、呟いていた。茂姫のずっと抱いていた微かな不安は、現実のものとなってしまったのである。


次回予告
茂姫「ほんに・・・、大きくなられましたね。」
家慶「わたくしは、今日から将軍にございます。」
家斉「そなたの思うようにやってみよ。」
茂姫「何ゆえ、薩摩なのでしょう?」
斉宣「薩摩のことが心配じゃ。」
家慶「父上は、隠居しても実権を握り続けておられます。」
茂姫「あなたにしか、わからぬものなのです。」
  「御台様!」
忠邦「先のことより、今にございます!」
茂姫「家祥様を、お世継ぎとせぬ?」
家慶「父上もわたくしも、同じにございます。」
家斉「そなたと会えて、よかったと思う。」



次回 第四十九回「将軍、家慶」 どうぞ、ご期待下さい!

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