茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第三十六回 娘の縁組

一八一三(文化一〇)年一二月。江戸には、雪が舞っていた。茂姫は縁側で、家斉と話をしていた。
「寒うなって参りましたね。」
茂姫が言うと家斉が、
やすの様子はどうじゃ。」
と聞くので茂姫は、
「溶ですか?」
そう聞き返した。すると茂姫は、
「お美代の手により、すくすくと育っております。」
と、答えた。それを聞いて家斉も、
「そうか。」
そう言っているのを、茂姫も見ていた。
その頃、美代は部屋で侍女と一緒にいて、子を抱いていた。これが、溶姫やすひめである。
茂姫が部屋に帰ってくると、
「若様の子は元気にしておるか?」
と、聞いた。するとそれを聞いた宇多は、
「はい。」
そう答えるので、茂姫は座りながらこう言った。
「何とも、子が授かるということは、有り難いことじゃな。」
それを聞いて宇多やひさは、顔を見合わせると、笑顔で茂姫を見ていた。茂姫も、愛おしさを噛みしめたような表情で前を見続けていたのであった。


第三十六回 娘の縁組

浄岸院(年が明け、また春が訪れようとしておりました。)
茂姫の所に、家慶と喬子が来ていた。喬子が子を抱いているのを見て茂姫は、
「子が生まれるというのは・・・、誰しもこれ以上ない喜びがございます。喬子様も、そのことは大いにおわかりでしょう。」
と言うので喬子は、
「勿論でございます。わたくしはずっと、この時を待っておりました。それに・・・、若様が守って下さるとも言って下さいました。」
そう言った。茂姫は赤子を見つめ、
「この子は、間違いなくお世継ぎとなるでしょう。それ故、上様をはじめ、この城の誰もが安堵しております。されど、それがこの子にとって重荷にならぬとも限りませぬ。今は、伸び伸びと育ってくれるのを祈るばかりです。」
と言うのを聞き、喬子は嬉しそうに俯いた。茂姫は今度は家慶の方を見て、
「若様。どうか、お二人を守って差し上げるのですよ。」
そう言うのを聞いて家慶は恥ずかしそうに、
「はい。」
と、答えた。茂姫も、それを嬉しそうに見ていた。
その後、喬子は部屋に戻り、家慶と二人きりで話した。茂姫が、
「若様。わたくしは、少しばかり気になることがあるのです。」
と言うので家慶は、
「気になること?」
と聞くと、茂姫は言った。
「上様が、そなたの子を世継ぎとなさらぬのではないかと。」
「どういうことですか?」
家慶は聞くと、茂姫は続けて言った。
「上様の側室となった者が、次のお世継ぎは自分の子にして欲しいと、上様にお願いしていたようなのです。上様は、そのことを初めから知っておられたとか。」
それを聞いた家慶は、
「そうですか・・・。」
と呟くと、茂姫は言った。
「だから上様に、そなたの口から、世継ぎは竹千代と、そうお定め下さるようお願いするのです。」
それを聞き、家慶はこう言った。
「しかし母上。わたくしが言っても、返って父上は聞いて下さらぬでしょう。」
「何故、そう思われるのです?」
茂姫が聞くと家慶が、
「父上は、跡継ぎであるわたくしとも、滅多にあって下さらぬのです。何故か、避けられている気がするのです。」
そう言うので茂姫は、
「お忙しいだけなのでは?」
と聞くと、家慶は言った。
「いえ。それに、わたくしは自信が持てぬのです。」
「自信?」
「無事に、竹千代を育てられるのかどうか・・・、わたくしは父親としてやっていけるのかと。」
すると、茂姫の表情が和らぎ、こう言った。
「そなたは立派な父君ですよ。もっと、強くあって下さいませ。そうでなければ、喬子様も竹千代も、困ってしまいます。」
それを聞いて家慶は顔を赤らめ、
「はい!」
と答えると、茂姫も笑っていたのであった。
その後、茂姫はお蝶とも話した。茂姫が、
「そなたと話すのは、久々じゃの。」
と言うとお蝶は、
「はい。」
そう答えると、茂姫は思い出したように言った。
「そういえば、そちは以前、わたくしに子を育てて欲しいと言うておったな。」
それを聞いて、お蝶がこう言った。
「はい。されど、どの子もみんな天へと旅立ってしまって・・・。わたくしに残されたものは、今年で五つになる要之丞と、去年生まれたばかりの姫、和のみにございます。」
それを聞いた茂姫は、こう言った。
「そなたも、辛かったであろう。子を亡くすというのは、思った以上に辛いものじゃ。わたくしも、一度経験しておる故、その悲しさは痛いほどようわかる。」
するとお蝶は、
「されどわたくしは、これが己に定められし運命だと心得ております。そう思わなければ、身が持ちませぬ故。」
そう言うのを聞いて茂姫は笑い、
「わたくしも同じ考えじゃ。」
と言うと、お蝶も笑っていた。その後、二人は笑い合っていたのだった。
茂姫はその後、縁側に座り、話していた。
「家慶様と喬子様、心は違えど、お互いを思い遣っておられる。わたくしは此度、改めてそう思った。」
すると宇多も笑顔で、
「御台様もまた、お二人のことを気にかけておいでなのですね。」
と言うと茂姫は振り返り、笑顔でこう言った。
「当然じゃ。」
それを見て、宇多も笑っていた。茂姫は再び庭の方に身を向けると、
「お二人の仲がこれからも続くよう、わたくしは願っておる。今は、それだけなのじゃ。」
そう言うので宇多は、
「はい。」
と、返していた。茂姫は、
「あとは・・・、竹千代が無事に成長するのを祈るばかりじゃ。」
そう言うのを、宇多も見つめていたのだった。すると女中が来て、こう言った。
「失礼致します。御台様に、お客人がお見えにございます。」
それを聞いた茂姫は怪訝そうに、
「わたくしに?」
と、聞いていた。
茂姫は部屋に行くと、一人の男が平伏していた。上座に着くと茂姫は、
「わたくしが御台所じゃ。面を上げよ。」
と言うと、男は顔を上げた。その青年は、まさしく白河藩主・松平まつだいら定永さだながであった。定永は茂姫を見ると、
「白河藩主、松平定永でございます。この度は、御台様にお目通り叶い、これなき誉れと存じ奉ります。」
そう言った。それを聞いた茂姫は、
「白河と言えば、そなたもしや、定信殿の子ではないか?」
と聞くと定永はニコリとし、
「はい。このお城に上がったのも、父が推挙してくれたからでございます。」
そう言うのだった。それを聞いた茂姫は、
「そうであったか・・・、定信の。話は耳にしておったが、聞いていた通り、しっかりしたお人じゃ。」
と言うので、定永笑った。
「如何したのじゃ。」
茂姫は聞くと定永は、
「あ、申し訳ございません。ただ、父から伺っていた通りのお方だと思いまして。」
そう言うので、茂姫は聞いた。
「何と、聞いておったのじゃ。」
すると定永は、こう答えた。
「腹の底を見せぬお方であると。」
「腹の底を、見せぬ・・・?」
茂姫が怪訝そうに聞くと、定永はこう言った。
「あ、たいへんご無礼仕りました。つい・・・。」
すると茂姫は笑顔になり、
「よい。して、今日はどういった用件で来られたのじゃ。」
と聞くと、定永が言った。
「若君様に、男子が誕生遊ばされたとお聞きしました。それ故、祝いの品々をと思いまして。」
それを聞いた茂姫は嬉しそうに、
「そうか。今日はまことに、御苦労でした。」
と言うのを聞き、また定永は笑い出した。それを見て茂姫は不思議そうな顔になり、
「どうしたのですか?」
そう聞くと、定永はこう言った。
「あ、いや。失礼致しました。ただ、父上のお気持ちがわかったような気が致しまして。」
「それは・・・。」
茂姫が言うと定永が、
「やはり御台様は、父上が仰せのように、底が見えぬお方にございます。」
と言った。それを聞いて茂姫も笑いながら、
「その方も、何を考えておるのかわからぬでな。」
そう言うので、二人は笑い合っていたのだった。
その頃、重豪は広郷と話をしていた。広郷が、
「斉興様を、薩摩へですか?」
と聞くと重豪が、
「あぁ。一度国元へ帰そうかと思うてな。」
そう言うので、広郷がこう言った。
「例の一件が過ぎ去ったとはいえ、国元ではいつ動乱が起こるかわかりませぬ。それ故わたくしも、一度国元の様子を見ておいた方がよいかと。」
それを聞いて重豪も、
「あぁ。わしの子に、忠厚という者がおる。今は島津の分家、今泉家を継いでそこの当主をしておる。その者を、斉興の後見としようと思う。あやつには、江戸におる時は奥平家の昌高が後見人となり、薩摩では忠厚が後見人になること、直に伝えてある。」
と言うと広郷は恐る恐る、
「あの、斉宣様は?」
そう聞くと、重豪は言った。
「斉宣は、もう藩政には加われぬのであろう。」
重豪は立ち上がり、部屋を出て行った。広郷は、それを不安そうに見ていたのだった。
それと同じ頃、斉宣も縁側に座っていた。
『どうか薩摩を、忘れないでいて下さいませ。』
あの時の茂姫の言葉が、頭の中に響いていた。
江戸城では、仏間で茂姫は一人で手を合わせていた。そこへ、家斉が入って来た。茂姫は気配を感じ、振り返って呟いた。
「上様・・・。」
家斉は、茂姫の斜め前に座って手を合わせた。茂姫は、
「上様も、気になっておいでなのですね。」
そう言うと家斉は、
「あぁ。」
とだけ答えて、あとは黙っていた。茂姫も、それを見続けていた。すると、足音が響いてきた。そして仏間に、一四、五ばかりの娘が駆け込んできた。
「父上!」
その娘は家斉の前に座ると、自分で描いた水墨画を見せた。
「どうですか?」
娘は聞くと家斉が、
「おぉ、よう描けたな。」
と言った。すると娘は、紙を下に下ろして笑っていた。それは、家斉の子・峰姫みねひめであった。すると峰姫の後を追ってきたかのように、登勢が走ってきた。
「公方様、申し訳ございません。」
登勢がそう言って座ると茂姫が、
「お登勢・・・。そなたの娘であったか。」
そう言うと登勢は、
「はい。」
と、答えた。峰姫が茂姫の方を向くと、
「御台様。お初にお目にかかります。」
と言い、頭を下げた。茂姫は、
「あぁ。大した姫君じゃ。」
そう言うと、峰姫は顔を上げて嬉しそうに笑うのだった。すると家斉が、
「峰、向こうに梅の花が咲いておったぞ。」
と言うので峰姫は嬉しそうに、
「梅でございますか?」
そう聞くと、家斉が登勢にこう言った。
「連れて行ってやれ。」
それを聞いて登勢は、
「はい。」
と言って頭を下げると、峰姫と一緒に出て行った。それを見送ると茂姫は、
「元気な姫ですね。」
そう言うと、家斉は言った。
「まことに・・・、昔のそなたそっくりじゃな。」
それを聞き、茂姫は少し笑っていた。すると家斉は、こう言い出した。
「あの者には今、縁談が参っておる。」
「縁談、にございますか?」
茂姫が聞くと家斉が、
「あぁ。」
と答えると茂姫は、
「お相手は」
そう聞くと、家斉はこう言った。
「水戸徳川家の斉脩なりのぶじゃ。」
「斉脩殿・・・。」
すると茂姫は家斉に、
「峰には、話したのですか?」
と聞くと家斉が、
「まだ話しておらぬ。ただ婚儀は、今年中にとの話が出ておる。」
そう言うので茂姫は、
「ならば、お話しするべきと存じます。峰にとっても、その方がよいのではありませんか?」
と言うと家斉は両腕を組み、少し考えているようであった。
家斉はその後、部屋に峰姫を呼んだ。家斉が、
「今日はそなたに話がある。」
と言うと峰姫は、
「何ですか?」
そうあどけない表情で聞いた。それを、後ろで登勢も不安そうな表情で見ていた。そして、家斉がこう言った。
「そなたに、縁談がある。」
それを聞くと、峰姫は暫く黙ってからこう言った。
「それは・・・、断ることはできぬのですか?」
すると家斉は、
「できぬであろう。女子というのは、父に従い、その意に沿って嫁いでいくのじゃ。水戸藩は幸い、今は安泰となっておる。これから大事になってくるのは、世継ぎであろう。そなたは斉脩の妻となり、世継ぎを儲けることに努めよ。」
そう言うのを聞いた峰姫が、こう言った。
「父上。一つ、お聞きしても宜しゅうございましょうか。」
「何じゃ。」
家斉が聞くと、峰がこう聞いた。
「わたくしは、父上に利用されるのですか?」
すると家斉は、
「そうじゃ。」
と、平然と答えた。家斉の横では、茂姫が不安げに見守っていた。すると峰姫が、
「ならば、わたくしは父上には従いませぬ。わたくしは、嫁になど行きとうございませぬ!」
そう言い、立ち上がって部屋を出て行った。登勢がそれを見て、
「峰!」
と言い、追いかけていった。茂姫が家斉に、
「宜しいのですか?」
そう聞くと、家斉は言った。
「構わぬ。今は、無理もない話じゃ。」
それを聞き、茂姫は心配そうに二人が出て行った方を目にしていたのだった。
松平家では、定永が戻ってきていた。定永は父の定信に、
「御台様は、父上の仰せの通りのお方でございました。」
と言うと定信は、
「そうか。あのお方には、女子としておくのが勿体ないような素質がある。まことに、芯の強いお方なのじゃ。」
そう言うと定永が、
「父上は、幕閣時代によくお会いになっていたのですか?」
と聞いた。それを聞いて定信は、
「あぁ。それに、わしは公方様の後見職として、できる限りのことをしたつもりじゃ。免職命が下った時も、わしは後悔しておらなかった。」
と言うので、定永はこう言った。
「わたくしもいつか、父上のような立派な政治をしてみとうございます。そのためには、多くのことを学び、己の目標を立てとうございます。」
すると定信も嬉しそうに、
「そなたであれば、きっとできるであろう。」
そう言うのを聞いて定信は照れ笑いながら、
「そのような・・・。」
と言い、下を向いていた。定信も、希望に満ちたような顔でそれを見つめていたのだった。
浄岸院(それから、一月近くが経ち・・・。)
一八一四(文化一一)年四月。茂姫と側室達は、いつものように仏間で朝の参拝をしていた。家斉が去った後、茂姫は側室達の方を向いてこう言った。
「皆、身体は悪くしておらぬか。暖かくなってきたとはいえ、まだ寒い日が続く。風邪などには気をつけるように。」
すると側室達は、
「はい!」
と言い、頭を下げて帰って行った。
部屋を出ると以登や八重は、
「わたくしのことも気遣っておいでなのですね。」
「まことですね。」
と、歩きながら言っていた。
仏間には、茂姫と登勢が残っていた。登勢は前に出ると、こう言った。
「御台様、宜しゅうございましょうか。」
それを、茂姫は黙って見ていた。
その後、広い縁側で二人は話した。茂姫が登勢の話を聞き、
「そうか・・・。あれ以来、様子が違うか。」
と言うと、登勢はこう言った。
「はい。夕べも、殆ど何も口にできなかったようで。わたくしは、あの子が心配でならぬのです。」
それを聞いた茂姫も、
「そうであろう。上様も、あれ以来何も仰せにならぬ。一体、これからどうするおつもりなのであろうかと。峰が、不憫でならぬ。」
と言っていると、登勢がこう言うのだった。
「そのことなのですが。」
「何じゃ?」
茂姫が聞くと登勢は、
「あの子を苦しめているのは、本当はわたくしなのではないかと。」
と言うので茂姫は、
「どういう意味じゃ?」
そう聞くと、登勢は言った。
「わたくしは、あまりあの子の側を離れたことがありません。それ故、側にいて欲しいと願うばかり、手放すことが怖いのです。あの子も、それは同じなのかと。」
茂姫はその話を聞き、
「そうかもしれぬな・・・。わたくしも母上と別れる時が、何より悲しかった。」
そう言って登勢を見ると、こう言った。
「そうじゃ。そなたから、峰に話してみてはくれぬか?それで峰の気持ちが変わるかもしれぬ。」
登勢が、
「しかし・・・。」
と言っていると、茂姫は言った。
「武家に生まれたからには、女子は生まれた家では死ねぬ。それが、運命さだめというもの。」
「運命・・・。」
登勢はそう呟くと顔を上げ、
「わかりました。わたくしにできることであれば。」
そう言うので、茂姫は嬉しそうに頷いて登勢を見つめていたのであった。
その後、登勢は部屋に戻った。底の縁側では、峰姫が腰かけていた。登勢は側に座ると、
「峰。」
と、声をかけた。峰は振り返り、
「母上。」
そう答えると、登勢は言った。
「わたくしから、話があります。」
峰は、それを見つめていた。
そして、部屋に入ると峰姫は登勢から話を聞かされた。それを聞いて峰姫が、
「何故ですか?」
と聞くので登勢は、
「何故?」
と繰り返した。峰姫は続けて、
「母上まで、わたくしに嫁に行けと。わたくしのことを、嫌いになってしまわれたのですか?」
そう言うので登勢が、
「決してそのようなことは。」
と言うのも聞かず、峰姫は立ち上がって廊下を走っていった。そして登勢は、やるせない表情になっていたのだった。
浄岸院(その頃、薩摩では斉興が鶴丸城へと入っていたのでございます。)
多くの家来達を前に、斉興が上座に着くと、その後ろには今和泉島津家当主・島津しまづ忠厚ただあつが座った。忠厚は家来達を見渡し、こう言った。
「わたくしが、先代藩主・島津重豪様より斉興様の後見役を任された、今和泉島津家、島津忠厚である。これから、斉興様が薩摩におられる間、わたくしが一切の擁護を仕る。」
そして家来達は、
「ははぁっ!」
と言い、一斉に頭を下げた。そして忠厚が小声で、
「殿。」
そう言い、斉興に促した。すると斉興が躊躇ったような素振りを見せ、
「六年前、この薩摩で、騒乱があった。藩士達が、近思録などというものを掲げ、父を担ぎ、藩を無理矢理変えようとした。わたくしは・・・、そのような者を決して許さぬ。」
そう言うと、家来達は盛り上がった。斉興は、
「わたくしは、一番に民のことを考え、財政が窮屈な者には、それなりの考慮を致す。」
と言うと、
「おぉー!」
と言う声がいくつも上がった。しかし斉興は、心苦しそうな様子であった。
その頃、斉宣も縁側に座っていた。後ろで広郷が、
「重豪様は、本当は斉宣様のことを気にかけておられます。どうかそのことを、忘れてはなりません。」
そう言うと斉宣は、
「わかっておる。されど父上は、もうわしを藩政には加えぬであろう。わしがしてきたことは、それ程までに重かったということじゃ。」
と言って立ち上がると、ゆっくりと部屋に入っていった。広郷も、何かを悟ったようであった。
一方、江戸城では家斉に茂姫がこう言っていた。
「上様。峰は、まだ一五にございます。やはりもう少し、待っては頂けませぬか。」
それを聞いた家斉は、
「何故じゃ。もう嫁に行ってもよい年であろう。」
と言うので茂姫は、
「そうかもしれませぬが、お登勢によると、峰はなかなか嫁には行きたがらぬとのこと。なので、どうか今暫し嫁にやるのはお待ち頂きたいのです。」
そう言って頼んだ。すると家斉は、
「されど、もう輿入れの準備は進めてある。」
と言うので茂姫は驚いた様子で、
「そんな・・・。峰に何も言わず、何故そのようなことを。」
そう言うと、家斉がこう言った。
「そなた、昔言うたことがあったな。己は男の道具にならぬと。」
「申しました。」
茂姫が答えると、家斉はこう言った。
「わしは、此度また思うたのじゃ。」
「何をですか?」
「女子はやはり道具なのかもしれぬな。」
家斉がそう言うので茂姫は、
「それは違います!」
と、きっぱり言い切った。茂姫は続けて、
「確かに、女子は男の方には逆らえません。されど女子にも、女子の気持ちという者があるのです。」
そう言うので家斉は、
「女子の気持ちのぉ・・・。」
と、呟いた。すると茂姫は、
「わたくしから、峰に話します。どうかそれまで、お待ち頂けませぬのでしょうか。」
そう言った。家斉が、
「何を話すつもりじゃ。」
と聞くと、茂姫は答えた。
「峰を、説得致します。わたくしにできることから、やってみたいと思った次第にございますれば。」
そして茂姫は少し下がって手をつき、
「上様。どうか、お時間をお与え下さいませ。何卒、お願い致します。」
と言い、頭を下げた。家斉は何も言わず、仕方ないといった表情をしていたのであった。
茂姫は、峰姫の部屋に行った。部屋に入ると登勢が驚いたように、
「御台様・・・。」
と言った。茂姫が登勢に、
「様子はどうじゃ。」
そう聞くと登勢は、
「それが、この間からずっとあの様子なのです。」
と言うと、茂姫は縁側に座っている峰姫を見た。峰姫は、無言で庭の木をじっと眺めている。茂姫は、峰姫に近付いていった。気配に気付いたのか、峰姫は振り返って驚いた。茂姫はその場に座り、
「輿入れの一件、急なことでさぞ驚いたであろう。」
そう優しく言うと峰姫は俯いたまま、
「はい。」
と答えた。茂姫は、
「無理もない。わたくしも、同じであった。」
そう言うのを聞き、峰姫は顔を上げて茂姫を見た。茂姫は続け、
「上様に嫁ぐことが決まり、何故わたくしなのか、他にお相手はおらぬのかと、江戸へ来てからもずっと考えておった。そのような中、唯一の支えとなってくれたのが、わたくしを産んでくれた母上であった。毎晩、わたくしの側に付いていてくれた。わたくしにとって、何よりの存在であった。そのような母が、わたくしの背中を押してくれたのじゃ。」
そう言うと、懐から御守を取り出した。
「これは、その母が出立の日にくれたものじゃ。これのお陰で、わたくしは寂しくなどなかった。それは姿は見えなくても、何処かでわたくしを見守ってくれていると思えたからじゃ。そなたも、辛うなったら母上のことを思い出すがよい。」
茂姫がそう話しているのを、後ろで登勢は涙ぐみながら見ていた。峰も涙を流しながら、
「わたくしは・・・、そのように強うございません。」
と言うので茂姫は、
「峰。母は、必ずやそなたとまた会える日を待っておる。その日を信じて、そなたにしか出来ぬことをやるのじゃ。」
そう言った。それを聞いた峰姫は、
「わたくしにしか・・・、出来ぬこと・・・?」
と、呟いた。茂姫も頷き、
「そうじゃ。」
そう言うと、峰姫は覚悟を決めたようにこう言った。
「わたくしは、嫁に行きます。」
すると茂姫は、
「それは、本心なのじゃな。」
と聞くと峰姫は、頷いた。その顔には、もう涙は見られなかった。
その後、峰姫は家斉の前に座っていた。家斉が、
「漸く、決心がついたか。」
そう聞くと峰姫は、
「はい。」
と答えた。峰姫は斜め後ろにいた登勢の方を向くと、
「では、母上。行って参ります。」
そう言うと登勢も泣きながら微笑んで、
「しっかりやりなされ。」
と後押しすると峰姫も嬉しそうに、
「はい。」
そう言って頷いていた。それを見て茂姫と家斉は顔を見合わせ、安心したように微笑んでいた。
数日後、輿入れの準備が進められていた。茂姫も、その様子を笑って見守っていた。
そして、部屋に唐橋を呼び寄せた。唐橋が驚いたように、
「わたくしが、峰姫様と共に?」
と聞くと、茂姫がこう言った。
「そなたであれば、峰を守れると思うてな。やはり母と引きはしてしまうのは、心苦しゅうてならぬ。そなたに、代わりとしてあの子の世話役を引き受けてもらいたいのじゃ。どうか共について行ってやってはくれぬか?」
それを聞いた唐橋は、
「わたくしに、出来ることとあらば、謹んで、お受け致します。」
と言い、頭を下げた。それを聞いて茂姫は、
「そうか。では、宜しく頼む。」
そう言うと唐橋は頭を上げ、茂姫を見つめると、
「はい。」
と言い、再び頭を下げていたのであった。
一方、美代はそこから少し離れた別室で溶姫に着物を着せていた。すると、
「美代はおらぬか。」
と言う声と共に、日啓が入って来た。それを見た美代は驚いたように、
「父上。如何されたのですか?」
そう言った。日啓は座ると、
「わしから、話があっての。」
と言うので美代は溶姫を侍女に預け、日啓の前に座ってこう言った。
「何でしょう。」
すると日啓は、こう言った。
「そなたの娘を、わしに預けてみてはどうかと思うてな。」
それを聞いた美代は、
「それは、何ゆえでしょうか。」
と聞くと、日啓は言った。
「そなたの生みたかったのは、男子であったはず。娘ならば、用はなかろう。」
それを聞き、美代はこう言った。
「お言葉ですが、父上。」
すると、溶姫が走ってきた。すると美代は溶姫を抱きかかえ、
「この子は、わたくしが育てたいのです。」
と言うと日啓が、
「姫であるぞ?」
そう聞くと、美代はこう答えた。
「そうですが、此度、わたくしは改めて思いました。自分の子は、何としてでも自分の手で育てたいと。それが、わたくしの望みなのです。」
それを聞いた日啓が、
「わかった。そなたの、思うようにすればよかろう。」
と言うので美代は、
「ありがとうございます!」
そう言って、頭を下げたのだった。
その頃、別の小部屋では清茂が家斉に茶を出していた。清茂が、
「お美代は、元気にしておりますかな。」
と聞くと家斉は、
「あぁ。」
そう答えた。清茂は安心したように、
「そうですか。ならば安心です。」
と言った。家斉が、
「世継ぎの件は、もうよいのか?まだ決まっておらぬぞ?」
そう言うと、清茂はこう言った。
「いやいや。家慶様に、男児が誕生遊ばされたことで、わたくしの負けにございますれば。どうか今までの不逞極まりない沙汰、まことにご無礼仕りました。」
清茂は頭を下げると家斉が、
「そなたも、思い切ったことをしようとしたものじゃ。」
と呟き、茶を飲んでいた。清茂も、それを不思議そうに見つめていた。
浄岸院(そして、更に数日後・・・。)
家斉の前に、峰姫と登勢、その後ろに唐橋がいた。家斉の横で、茂姫も見ていた。家斉が、
「そなたは水戸徳川家当主・徳川斉脩に嫁ぐのじゃ。」
と言うと峰姫は、
「はい。」
そう答えた。家斉は後ろにいた唐橋に、
「峰のことを、宜しく頼む。」
と言うと唐橋は、
「はい。お任せ下さいませ。」
そう言い、頭を下げた。家斉が登勢を見ると、
「そなたも、寂しいであろう。」
と聞くと登勢は、
「いいえ。」
と、首を振った。峰姫は登勢の方を見ると、登勢は言った。
「こうして、このように逞しくなったのですから、これに勝る喜びはございません。」
それを聞いて峰姫は嬉しそうに、
「母上。」
と言った。家斉は、
「峰。」
そう呼びかけると、峰は家斉の方に向き直った。そして家斉は、
「この城で過ごしたこと、忘れるでないぞ。」
と言うのを聞き、峰はこう言った。
「勿論でございます。父上、ありがとうございました。」
それを見て、家斉も微笑していた。茂姫も、嬉しそうにそれをただ黙って見守っていた。すると男が来て、こう言った。
「公方様。水戸徳川家から、迎えが来ております。」
それを聞いて家斉は、
「大義であった。」
と言うと家来の男は、
「はっ!」
そう言って下がっていった。すると峰姫は。
「では父上、行って参ります。」
と言うと立ち上がり、唐橋に連れられて出て行った。登勢も、それを見送っていた。峰姫は、名残惜しそうな様子で、登勢の方を振り返って見ていた。登勢はそれを見て、涙を浮かべていた。家斉の横で、茂姫も同情したように目に涙を浮かべていたのだった。
その夜。家慶は、寝間で喬子と話をしていた。
「竹千代は元気にしておるか?」
家慶が聞くと喬子は、
「はい。」
と答えた。家慶は、
「そうか。わしがあやつに、政について教える頃には、わしは将軍になっておるのであろうか。」
そう言うと、喬子はこう言った。
「そないなこと、決まっております。あなた様は、立派な将軍になっておられます。」
それを聞いた家慶は照れ笑い、
「そなたにそのようなことを言われるとは。」
と言うと、喬子も吹き出して笑っていた。家慶は続け、
「そのためには、わしがもっと多くのことを学ばねばな。」
そう言うと喬子は、笑顔で家慶の手を握った。それを見て、家慶は喬子を胸に抱き寄せた。喬子も目を閉じ、腕を後ろに回していたのだった。
浄岸院(この先、この江戸城に過酷な運命が訪れることは、この時はまだ誰も存じ上げませんでした。)
ある日の夕方、茂姫は縁側に立って穏やかな表情で、遙か向こうを目にしていたのであった。


次回予告
茂姫「竹千代が・・・、亡くなったじゃと?」
喬子「わたくしが、あの子を死なせてしまったのではないかと。」
家慶「そなたのせいなどではない。」
茂姫「わたくしに出来ることがあれば。」
家斉「出来ることのぉ・・・。」
喬子「わたくしの気持ちなど、おわかりでないくせに。」
清茂「お美代にございます。」
お富「お美代のぉ・・・。」
茂姫「生まれても、すぐに消えてしまう命ほど、哀れなものはない。」
  「またご懐妊?」
喬子「次こそは。」
家慶「そなたの気持ちは、わかっておる。」
茂姫「わたくしは知りたい。人は何故、無力なのか。」



次回 第三十七回「災禍の日々」 どうぞ、ご期待下さい!

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