茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第二十九回 父の決断

茂姫は縁側に座り、城入りの時に母からもらった御守を見つめていた。
『薩摩は、このわたくしが守り抜いて見せます!』
盛常の声が、茂姫の脳裏に蘇った。ひさはそれを見て、
「薩摩のことを、お考えなのですか?」
と聞くと茂姫は、
「あぁ。市田様とは、二度しかじかにお話ししておらぬ。それなのに、悔しゅうてならぬ。あのような方が、御役御免になるなど・・・。」
そう涙を浮かべながら、言っていた。茂姫は御守を胸に当て、涙を堪えていたのであった。


第二十九回 父の決断

浄岸院(薩摩で、市田家が追放されてから三月程が経っておりました。)
一八〇八(文化五)年五月。皆は、仏間で毎朝の参拝を行っていた。家斉の後ろで、茂姫、お富が手を合わせて拝んでいた。その更に後ろでは、側室や御年寄が参拝していた。家斉は参拝を終えると、立ち上がって帰っていた。茂姫は頭を下げ、家斉を見送ると、自室に帰ろうとした。その時、誰かが咳き込む声がした。そのすぐ後、
「お美尾さん!?」
と言う声がするので茂姫は見ると、登勢が美尾の背中をさすっていた。それを見た茂姫は立ち上がり、
「お美尾、如何した。」
そう言い、駆け寄った。他の側室達も、心配そうにそれを見ていた。茂姫は、
「誰ぞ、この者を部屋へ連れて参れ。」
と言うと女中は、
「はい!」
そう答えた。すると、こんな声がした。
「薩摩のことを気にしていると思えば、お次は側室を心配して、大変にございますなぁ。」
茂姫は言葉の途中に振り返ると、それはお富だった。お富は立ち上がりながら、
「そのような体の弱き女子、放っておけばよいものを。」
と言って、そのまま部屋を出て行った。茂姫は、それを見つめていたのだった。
浄岸院(ところ変わって、薩摩では・・・。)
斉宣は怪訝そうに、
「江戸へじゃと?」
と聞くと、樺山はこう言った。
「はい。参勤交代のおり、我々も同行させて頂きとう存じまする。」
それを聞いた斉宣が、
「何のためじゃ。」
と聞くと樺山は、
「あなた様を、お守り致すためにございます。」
そう言うので、斉宣がこう言った。
「そちを父上に引き合わすことはできぬ。余計に話がややこしくなるばかりじゃ。」
それを聞いて樺山が、
「あちらは、もはや殿が薩摩を裏切られるやもしれぬとお考えでしょう。それ故、我々が殿の弁護を・・・。」
と言いかけると憤った斉宣が急に立ち上がり、
「わしは薩摩を裏切ったりはせぬ!」
そう言った。樺山が黙ると斉宣は続けて、
「もとはと言えば、そち達が父上に建白書など送るからではないか!」
と言うので、樺山はこう返した。
「であれば、これだけは先に申しておきましょう。」
「何じゃ。」
「我々は、死ぬ覚悟はできております!それ故、今日の今日まで殿にお仕えして参ったのです!それでもお信じになれぬのでしたら、腹を斬るほか道はございませぬ。」
それを聞いた斉宣は座ると、こう言った。
「すまぬが、江戸にそなたは連れては行けぬ。」
すると樺山は、
「何ゆえでございますか!」
と聞くと斉宣が、
「江戸のは、秩父を連れて行くことにした。そなたは、薩摩に残り、動揺している藩士達を鎮め、まとめて欲しい。これは、わしからの命である。」
そう言うのを聞いて樺山は手をつき、
「ははぁっ。」
と言いながら、頭を下げていたのだった。
その頃、茂姫は家斉に呼ばれ、広間に来ていた。そこには、殆どの側室が来ていた。茂姫は上座の横の下座に着くと、
「おなーりー!」
と言う女中の声と共に、家斉が入って来た。それを見て、皆は頭を下げた。すると、家斉に続いて一五ばかりの男子も入って来た。二人が座につくと、皆は顔を上げた。茂姫はその男子を見ると微笑み、
「家慶様も、ご一緒だったのですね。」
と言った。それを聞いて、家慶は一礼をした。家斉は、
「今日は、皆に伝えておくべきことがある。」
そう言うので茂姫は、
「それは、何でございましょう。」
と聞いた。すると家斉は、
「家慶の、婚礼の日が決まった。」
そう言うので、お楽は家斉を見た。茂姫が、
「まことにございますか?」
と聞くと、家斉はこう言った。
「来年の一二月一日じゃ。」
お楽は、
「来年・・・。」
と、小さく繰り返した。茂姫は嬉しそうに、
「こちらも、急ぎ支度を進めて参ります。」
そう言うと、家斉も茂姫を見て頷いた。側室達が互いに話していると、家斉は言った。
「それともう一つ。」
すると側室達は黙り、耳を傾けた。家斉はそれを見計らい、
「大名などの間では、これを機にわしが将軍職を譲るという噂があるようじゃ。」
そう言うので茂姫は、驚いた表情で家斉を見た。家斉は続け、
「されど家慶はまだ幼い。よってわしは、まだ譲る気はない。」
と言うと、家斉は立ち上がって部屋を出て行った。家慶も、茂姫にまた一礼すると、続いて出ていったのだった。茂姫は、それを心配そうに見ていた。
その後、茂姫は表に行っていた。茂姫が家斉に、
「何故ですか?何故、ご本人の御前であのようなことを。」
そう言って尋ねた。すると家斉が、
「あの者がまだ幼いのは事実じゃ。そなたも知っておろう。」
と言うので茂姫は、小声でこう言った。
「それは、そうですが・・・。」
家斉は続けて、
「今、わしがあの者に家督を譲れば、幕府の役人達は戸惑うであろう。未だ幼い家慶を、どう補佐すればよいのかと・・・。」
と言っているのを、茂姫はただ黙って見ていた。すると、
「失礼致します。」
そう言う声が聞こえ、部屋に家慶が入って来た。家慶は二人の前に座ると、こう言った。
「御台様には、まだお礼を申し上げておりませなんだ。」
「お礼・・・?」
茂姫が聞くと家慶が、
「先だっての有り難きお取り計らい、誠に感謝しております。」
そう言って頭を下げた。それを見て茂姫は、
「そのような。あなた様も徳川家のお方なれば、政にも目を向けるべきだと思うた次第です。」
と言った。茂姫は家慶に、
「時に、家慶様はお父上とはようじかに話されるのですか。」
そう聞くと家慶は顔を上げ、こう言った。
「いえ。父上は、なかなか会っては下さいません。それに・・・。」
「それに?」
茂姫が聞くと家慶は続けて、
「わたくしは、父上のようにはなりません。いえ、なりたくはございません。それだけにございます。」
と言うと頭を下げ、部屋を出て行った。茂姫は、
「家慶様!」
そう声をかけても、振り向かなかった。茂姫は家斉の方を向き、
「上様。もしや、家慶様と仲がお悪いのでは?」
と聞くと家斉も、
「さぁのぅ・・・。」
そう言って、目を合わせなかった。そして茂姫は、家慶が出ていった方向に目を向けていたのだった。
そしてここでは、重豪は薩摩から届いた密書を読んでいた。重豪が顔を上げると、
「近思録党の一味が、此度の参勤交代に同行するそうじゃ。」
そう言うので藩士の広郷は、
「如何致しましょう?」
と聞くと、重豪は少し考えたようにこう言った。
「こうなれば、奥の手をうつしかないようじゃな。」
「奥の手・・・、にございますか?」
広郷が聞くと重豪は、
「もう、そうするしか道はあるまい。」
と言うのを、広郷は見つめていた。
浄岸院(一方、薩摩では、一大事が起こっておりました。)
斉宣は、
「秩父が行けぬじゃと?」
と聞くと、樺山がこう言った。
「はい。秩父殿の長男殿が、急に亡くなられたそうにございます。その葬儀のために、同行は難しいかと。」
部屋では、秩父季安が長男の亡骸の手を握っていた。
その話を聞いて斉宣が、
「どうすればよいのじゃ・・・。」
と言っていると、樺山がこう言うのだった。
「わたくしに、良き案がございます。」
それを聞いた斉宣は、
「それは何じゃ!」
と、必死に聞いていた。
そして江戸城大奥にも、その話は届いていた。茂姫が、
「病気?」
と聞くと、唐橋はこう言った。
「六月に、参勤交代とのことにございましたが、薩摩のお殿様ご病気のために、暫し遅らせるそうでございます。」
それを聞いた茂姫は、
「そうか。病気・・・、か。」
と、呟いていたのだった。
浄岸院(しかしその数日前に、重豪殿は近思録党のを率いていた薩摩藩家老二人に、隠居を命じたのでございます。これにより、近思録党は舵を取る者がいなくなったのです。)
斉宣は、部屋で妻の享と共にいた。享が心配そうに、
「旦那様。薩摩は・・・、薩摩は一体、これからどうなっていくのでしょう。」
と聞くと斉宣は、
「父上には病と伝えてあるが、きっと見破っておられるであろう。わしが、江戸へ行くのを嫌がっておるのではないかと。」
そう言うのを聞いて享は、斉宣を見つめていた。斉宣は続けて、
「もしかするとわしは、あの者達に踊らされておっただけなのかもしれぬな。」
と言うのを聞いた享は、
「お父上様に、御意志を伝えてみてはどうですか?」
そう提案すると、斉宣は言った。
「無駄であろう。父上は、もう許してはくれぬ。」
享が庇うように、
「そのようなことは・・・!」
と言いかけると斉宣は続け、
「それに、もしかすると江戸へ行けば、もうここには二度と帰ってこれぬ気がしてな。」
そう言うのを聞き、享は斉宣を見つめた。斉宣は、
「約束したというのに、そなたを悲しませてしまうことになるやもしれぬ。許せ。」
と言った。享は、
「そのような・・・。」
そう言っていると、斉宣は享を抱き寄せた。それから享は、涙を流していた。斉宣も、表情を変えずにそれを受け止めていたのであった。
一方、江戸の薩摩藩邸ではお千万が部屋から外を眺めていた。すると、何やら物音が聞こえてきた。お千万は気になって、縁側に出て庭の様子を窺った。すると、一人の男が現れた。みすぼれた服に、顔は煤塗れだった。それを見て、お千万は驚いた。それは、薩摩を追われた市田盛常であったのだ。出発前とは別人のような盛常を見て、お千万は急いで縁まで駆け寄った。盛常は縁側の前に来るとお千万は、
「市田様ではありませんか?」
と聞くと盛常は頷き、
「このような格好で戻って参りましょうとは、誠に申し訳ございませぬ。」
そう言った。お千万は、
「あなたが追放されたと聞き、わたくしは言葉もありませんでした。何ゆえ、そこまでしなければならなかったのか・・・。」
と言うと、盛常はこう言った。
「きっと、市田家が重豪様の代より永くに渡り、優遇を受けてきたからでございましょう。その恨みを買ったのも、もとはと言えばわたくしのせいなのです。」
それを見てお千万が、
「そのような・・・。」
と言っていると、盛常はその場に座り込んで地面に拳を叩きつけた。そして、
「ウワァーーーーーーーー!」
と、空に向かって叫んだ。そして再び下を向くと、息を切らしていた。お千万は、それを居たたまれなさそうな表情で見つめていた。すると、盛常はこう言った。
「わたくしは、ある御方と約束致しました。薩摩を、必ずや守り抜くと。されど、それは叶わなかった。わたくしは・・・、わたくしは、薩摩を・・・、薩摩を、守りたかった・・・。」
その様子を、お千万も頷きながら聞いていた。そして再び地面に向かって、
「アァーーーーーーーーー!」
と叫びながら、両手の拳を地面に叩きつけていた。お千万もどうすることもできず、ただただそれを見ているしかなかったのであった。
浄岸院(一方、江戸城大奥では・・・。)
茂姫は、急ぎながら廊下を走っていた。部屋に入ると、美尾が横になっていた。茂姫は布団の横に座ると、
「調子はどうじゃ?」
そう真剣に尋ねた。すると医師は、
「はい。今は落ち着いておられます。」
と言うと礼をして、下がっていった。茂姫の隣には、まだ幼い美尾の子・浅姫あさひめが座っていた。美尾は目を開けると、
「御台様・・・。」
と呟き、起き上がった。すると茂姫は体を支え、
「よい、横になっておれ。」
そう言うと美尾は微笑んで、
「大丈夫にございます。」
と言った。すると美尾は正座になり、手をついて茂姫にこう言った。
「恐れながら、御台様にお願いがございます。」
「何じゃ?」
茂姫が聞くと、美尾はこう言った。
「浅のことを・・・、どうか宜しくお願い致します。」
息が荒れている美尾が何とかそう言うと、茂姫は答えた。
「わかっておる。安心するがよい。」
それを聞き、美尾は嬉しそうに、
「わたくしは、ここにいて幸せにございました。まだ幼き娘を残して逝くのは名残惜しゅうはございますが、これがわたくし与えられた運命であれば、それでよいと思うております。」
と、浅を見ながら言った。それを聞いた茂姫は目に涙を浮かべながら、
「そなた・・・。」
と、呟いた。そして美尾は茂姫に向き直ると最後に、
「御台様。今までの様々なお気遣い、誠に有り難う存じ上げます。」
そう言い、頭を下げた。茂姫は目に涙を溜め、それを見つめていた。美尾は顔を上げ、優しい表情で茂姫を見つめていたのであった。
浄岸院(その後、お美尾が息を引き取ったのは、文化五年の六月七日のことでございました。)
茂姫は縁側に座り、
「何にせよ、人が死ぬというほど辛く、悲しいことはないの。」
そう言っているとそのすぐ後ろで宇多も、
「はい。」
と、頷いていた。茂姫はまた目に涙を浮かべ、こう言った。
「わたくしは、あの者の意思を無駄にはせぬ。それ故、今は・・・、泣けぬのじゃ・・・。」
そう言いながらも、茂姫は次第に涙声になっていったのである。それを、後ろで宇多やひさも見つめていたのだった。
その後、斉宣は家臣を呼び、こう言った。
「父上には、まだ病が治らぬため、江戸行きは引き延ばすとの旨を伝えおくように。」
それを聞いて家臣は、
「ははぁっ。」
と頭を下げ、出ていった。その様子を、部屋の外から享も窺っていた。
浄岸院(しかし、半月も経たぬ七月。斉宣は、ついに薩摩を発つことを明らかにしたのでございます。)
斉宣は籠に揺られながら、窓から見える桜島を眺めていた。
浄岸院(これが、斉宣にとって薩摩への永久の別れとなったことは、この時、誰が存じ上げたでしょう。)
茂姫が、
「薩摩を出たじゃと?」
そう聞くと、唐橋は言った。
「去る七月三日、とうとう薩摩をお出になったとのことにございます。」
それを聞いた茂姫が、
「そうか・・・。」
と呟き、怪訝そうな顔をしていた。
浄岸院(しかし、斉宣が薩摩を出た直後、重豪殿が薩摩の役人達に重い刑罰を下したのでございます。家老の秩父季保は喜界島きかいがしまへ島流しに処せられ、近思録を率いていた樺山主税もまた、蟄居を命じられました。更に、切腹や謹慎など、事件に関わったとされる者達も罰せられていったのです。その中には、親戚が近思録党にいたというだけで、罰せられた者達もおりました。その数、何と一一五人。そして、七月六日。)
島流しにされた秩父季保は、暗い部屋の中で小刀を持っていた。その刃を自分の腹に向けると、それを思い切り押し当てた。そして、秩父はそのまま倒れたのだった。
浄岸院(秩父は、自ら命を絶ったのでございます。)
薩摩藩邸で、広郷は重豪に紙を差し出した。広郷が、
「こちらにございます。」
そう言いながら、紙を広げると、多くの名前が連なっていた。重豪はそれを見て、
「これほど、多くの者が関わっておったとは・・・。厳しく罰せねばならぬ。」
と言うので広郷は戸惑いながらも、
「はぁ・・・。」
と、返事をしていた。
浄岸院(その知らせは、この方の耳にも入ったのでございます。)
定信は書状を読み、愕然とした。定信は、
「これほどまでに多くの者を・・・。」
と呟いていると森田が、
「されど、騒動に関わっていたのも事実。これは、やむを得ぬかと。」
そう言うので定信は、
「だからといって・・・、重豪殿がこれほどのまでに多くの者達に罰を与えるとは・・・。これは、もはや戦か・・・。」
と呟き、前を見つめていたのであった。
そして、一八〇八(文化五)年九月二五日。樺山の屋敷には、享が足を運んでいた。享が樺山に文を見せると、
「旦那様から、これを預かって参りました。」
そう言った。樺山は、
「殿から・・・?」
と言い、紙を手にとって広げると、その場で読み始めた。
『七月、わしは江戸に行くことと相成った。そなたの言うた通り、そなたを連れて行けば良かったのかもしれぬ。父上により、そなたが隠居になったと聞いた時、わしは幾度も己を責め続けた。悔やんでも、悔やみきれなかった。わしは江戸に行き、父上に本当のことを話すつもりじゃ。そなたも許して下さるよう、言うて参る。それまで、どうか耐えていてくれ。』
読み終えると樺山は紙を折りたたみ、享を見つめるとこう言った。
「今日は、どうも有り難う存じ上げます。殿には、ご自分をこれ以上お責めにならぬよう伝えておいてくれまするか?」
それを聞いた享も嬉しそうに、
「わかりました。必ずや、伝えます。」
と言うのを聞き、樺山も笑っていた。
浄岸院(その翌日・・・。)
樺山は一人、屋敷の縁側で禅を組んでいた。すると、役人達の声が聞こえた気がした。その声は段々と近くなっていき、はっきりと聞こえるようになった。
「樺山は!樺山主税はおるか!」
それを聞き、樺山は目を閉じた。そして腰に刺さっていた刀を抜き取り、
「うおーー!」
と叫びながら、役人が来る前に、切腹して果てたのだった。
浄岸院(この樺山の死によって、騒動は収束したのでございました。)
その頃、薩摩藩邸の小部屋で斉宣は目を瞑っていた。樺山の死を、どことなく感じているようでもあった。その様子を、部屋の外ではお千万が更に感じているのだった。
茂姫も話を聞き、呟いていた。
「父上は何ゆえ、そこまでして多くの者に重い罰を下されたのか・・・。」
すると唐橋が、
「失礼仕ります。」
と言いながら、入って来た。唐橋が座ると、
「薩摩の件、幕府の役人達も関わっていたとのことにございます。」
そう言うので茂姫は、
「どういうことじゃ?」
と聞いた。唐橋は続け、
「薩摩の大殿様と共に薩摩の動きを探り、近思録党の政策を邪魔立てしたのもその一環だとか。」
そう言うので茂姫は、
「幕府の者が・・・?」
と呟き、立ち上がるとこう言った。
「老中を呼ぶのじゃ!直接話がしたいと、すぐに申し伝えよ。」
それを聞いて唐橋が、
「はい!承知致しました。」
と言って頭を下げると、部屋を出て行った。
その後、茂姫の部屋には安藤信成と牧野忠精が来ていた。茂姫は、
「その方らに確認したきことがあって呼んだ。」
そう言うと安藤は、
「何でございましょう?」
と聞くと、茂姫は言った。
「我が父の子が有馬ありま越前守えちぜんのかみに養子入りする際、その折りを利用して薩摩からの使いを通さなかったと聞いておる。それは、父から頼まれてそうしたのか?」
それを聞くなり、安藤はこう言った。
「さ、さぁ・・・。わたくしには、何のことやら・・・。」
それを聞いて茂姫は、
「知らぬ・・・、か。」
と言うと安藤は、
「はい。薩摩の内輪のことは、薩摩で何とかすべきと存じますし、幕府が首を突っ込むことではございますまい。もし万が一、そのような話があるとすれば、役人が誤って流した噂に過ぎぬかと。」
そう言うのを聞いた茂姫は、
「わかった。少なくとも、そちは知らぬと申すのじゃな?」
と聞くと安藤は、
「勿論にございます。」
そう言い、隣にいた牧野にも促した。
「ほら、そなたも何か言わぬか。」
すると牧野は、
「は、はぁ・・・。恐れながら、わたくしも存じ上げません。」
と言うので、茂姫は二人を見つめ続けていたのであった。
その後、茂姫は縁側に立っていた。
「近思録党は、市田様を隠居に追いやり、父上を藩政から遠ざけようとした。確かに、それは父上からしたら許せなかったのであろう。罰せられるのは、仕方のないことじゃ。しかしそれはそれで、別の手立てがあったのではないか・・・。」
茂姫が呟いているとひさが来て、
「御台様、牧野様がお目通りを願うておられます。」
そう言うのを聞いて茂姫は振り向き、
「牧野じゃと?」
と言っていた。
茂姫は平伏している牧野に対し、
「面を上げよ。」
そう言うと、牧野は顔を上げた。茂姫は、
「先程の話じゃが・・・、そなたはどう思うておる?」
と聞いた。すると牧野は、
「はい。その前に、御台様にお詫びしたきことがございます。」
そう言うので茂姫は牧野を見つめ、
「詫びる・・・?」
と聞くと、牧野はこう言った。
「島津殿の目通りを邪魔したのは、まことにございます。」
それを聞くと茂姫は、
「やはりそうであったか・・・。」
と言うと、牧野はこう言った。
「いずれ、言わなければならないと思いつつ、口止めされておりました。まことに、申し訳ございません。」
牧野はそう言うと、頭を下げた。茂姫は、
「そなたが詫びることではない。それに、よくぞ本当のことを教えてくれた。」
そう言うので牧野は顔を上げると、
「はい・・・。」
と言い、嬉しそうに笑っていた。茂姫は、
「許せぬのは、他の者達じゃ。やっておきながら、問い詰めれば言い逃れをしようとする。そのような者がおっては、この後の幕府の行く末が案じられるばかりじゃ。」
そう言っているのを、牧野は見つめていた。それを見た茂姫は、
「どうしたのじゃ?」
と聞くと、牧野はこう言った。
「あ、いや。御台様は、昔とは少しお変わり遊ばしたと思いまして・・・。」
「変わった?」
「はい。何やら、凛々しゅうなられました。」
それを聞いて茂姫は、
「そのような・・・。」
と言っていると、牧野はこう言うのだった。
「御台様は、薩摩の誇りにございます。」
茂姫はそれを聞き、
「誇り・・・。」
そう繰り返した。牧野は続けて、
「はい。あなた様は、誰よりも、古里である薩摩のことを大事に思っておられます。それはきっと、薩摩の方々にも沢山の勇気を分け与えているのだと思います。誰よりも薩摩を愛し、誰よりも薩摩の平和を願うておられるお姿は、まさに誇りにございます。」
そう言うので茂姫は少し嬉しそうに、
「そのようなたいそうなことではない・・・。」
と言うので牧野は、
「これからも、それは薩摩の力となるでしょう。これは、あなた様にしか出来ぬことなのです。」
そう言うので茂姫は、
「わたくしにしか、出来ぬこと・・・?」
と呟くと牧野は、
「はい。」
そう答えた。それを聞いて茂姫は、
「新次郎・・・。そなたこそ、大分変わったのではあるまいか?」
と言うので、牧野は吹き出すようにして笑った。そして、その後も二人は笑い合っていたのであった。
ある日、薩摩藩邸では斉宣の所にお千万が来ていた。お千万は、
「お父上とは、いつお会いになるのですか?」
と聞くと、斉宣はこう答えた。
「今は、何を話したらよいか・・・。それに、父上に会うことが怖いのです。」
それを聞いて、お千万は何かを悟ったような表情になった。斉宣は、
「母上・・・。わたくしは、この先どうしたらよいのでしょうか・・・。」
と言うとお千万は、
「そなたの気持ちは、よく分かっているつもりです。されど、お父上は恐らく、許しては下さらぬでしょう。此度の騒動で、大勢の者が命を落としました。たった意見の食い違いで、このようなことになるなど、考えたこともありませんでした。」
そう言うと斉宣は、
「母上・・・。」
と言い、お千万を見ていたのだった。
茂姫はその頃、仏壇を眺めながら、牧野の話を思い出していた。
『あなた様は、誰よりも、古里である薩摩のことを大事に思っておられます。』
『これは、あなた様にしか出来ぬことなのです。』
そこへ宇多が来て、
「御台様。お客様がお見えにございます。」
と言うので茂姫は振り向かず、
「誰じゃ。」
そう聞くと宇多は少し戸惑いを見せ、
「それが・・・。」
と言っていたのだった。
茂姫は急いで部屋に行くと、そこに平伏していたのは松平定信であった。茂姫はそれを見て、
「定信・・・。」
と呟いた。そして茂姫が上座につくと、定信は顔を上げた。それを見た茂姫は愛おしそうに、
「ほんに、懐かしい・・・。」
そう言うのを聞き、定信は言った。
「公方様のお取り計らいにより、参上仕りました。」
それを聞いて茂姫は、
「上様の・・・?そうであったか。市田殿の件、取り計らってくれたこと、聞いております。」
と言った。すると定信は、
「その市田殿が御役御免になったと聞き、とても残念にございました。あのような方こそ、薩摩を支えていくに相応しいと思っておりました。」
そう言うので茂姫は、
「わたくしもじゃ。あの方は、わたくしの叔父に当たるお方。とても惜しいことをしたと思っておる。まさか、父上の藩政に不満を抱いている者達が、斉宣殿を動かし、このようなことになろうとは。」
と言うのだった。定信は、
「まことに、惜しゅうございました。」
そう言っているのを見て茂姫は、
「今日は、それだけか?」
と聞いた。定信は、
「はい。御台様のことが気にかかっておりましたもので。」
そう言うのを聞いて茂姫は嬉しそうに、
「そうか・・・。」
と言っていると、不意にあの時のことを思い出した。
『わたくしは、定信様をお慕いしておりました。』
大崎の言った言葉である。茂姫は、
「時に、大崎とはあれきりか?」
と聞くと定信は、
「あ、はい。今は、すっかり途絶えております。」
そう言うので茂姫は、
「そうか・・・。あの者も、きっとそなたに感謝しておろう。」
と言った。それを聞いた定信は、
「そのような・・・。わたくしが、この大奥から追い出したようなものですから。」
そう言うので、茂姫はこう言った。
「いや。そなたがおらなんだら、あの者は今もずっと一人であったであろう。」
『わたくしは、あの方を信じておりました。ただ、それによって他の誰かを傷付けてしまうのではないかという思いも芽生えました。わたくしは、自分に甘え過ぎていたのだと思います。あの城には戻りません。』
定信は思い出すと、
「わたくしも、あの方が側にいてくれるだけで安心できました。わたくしの方こそ、感謝しております。」
そう言うのを、茂姫も微笑みながら見つめていたのだった。
その夕方、茂姫は家斉と話していた。家斉が縁側の前に立ち、
「定信とは、一四、五年ぶりになるかのぉ。」
そう言っていると茂姫は、
「もう、それくらいになりますか。」
と言っていた。家斉は振り向くと、
「どうであった。久方ぶりの対面は。」
そう聞くと茂姫は、
「嬉しゅうございました。上様の、そのお気遣いが。」
と言うので家斉は茂姫の前に座り、
「薩摩のことは、もう気にしておらぬのか?」
そう聞いた。すると茂姫は、
「そうとは言い切れませぬが、もう大丈夫にございます。」
と言うのを聞き、家斉も微笑しながら茂姫を見ていたのであった。
浄岸院(そして、翌文化六年六月一七日。斉宣は、父である重豪殿に呼ばれておりました。)
一八〇九(文化六)年六月一七日。斉宣は部屋に入ると、そこには重豪が座っていた。それを見て斉宣は、
「父上・・・。」
と呟いた。斉宣は、ゆっくりと父の前に座った。廊下には、お千万が心配そうに座っていた。重豪は斉宣を見ると、
「昨年起こった騒動じゃが、そなたが近思録党の政策を許可しておったのか。」
そう聞くと斉宣は、
「はい。」
と、答えた。それに驚いたように、母のお千万は斉宣を見た。斉宣は続け、
「わたくしが藩士達に鶴亀問答を配り、その後、近思録に藩の政を任せたことも事実にございます。」
そう言った。それを聞いた重豪は、
「病気と嘘を吐いたこともか。」
と聞くと斉宣は、
「まことにございます。」
そう答えた。それを聞いた重豪は、
「わかった。そなたに、隠居を命じる。」
と言うので、斉宣は何も言わずに頭を下げた。重豪は更に続け、
「享とも離縁し、残りの一生を江戸で暮らすのじゃ。」
そう言うので、斉宣は顔を上げて父を見た。重豪は、至って真剣な顔であった。斉宣は必死に感情を覆い隠し、ただひたすら頭を下げていたのである。お千万も、それを心配そうに見ていた。斉宣は、次第に畳の上につけた手を拳に変えていたのであった。
夕方、お楽の部屋に家慶が来た。家慶が、
「母上。お呼びにございますか?」
と聞くと、お楽は言った。
「そなたに、お願いがあります。」
「何ですか?」
家慶が聞くと、お楽はこう言った。
「御台様には、お近づきにならぬよう。」
それを聞いた家慶は、
「何故ですか?」
と聞くとお楽は、
「あの方は以前、家督争いの時にそなたと対立されたお方。その腹いせに、そなたを毒殺なさるやもしれませぬ。」
そう言うので、家慶は言った。
「あのお方が、とてもそのようなことをなさるとは思えませぬが。」
すると、お楽はこう言うのだった。
「よいか?そなたは、次期将軍にお成り遊ばすお方。これは、母からの願いなのです。」
それを聞いた家慶は、
「はい。」
と、答えるしかなかった。
その頃、茂姫は縁側に出て、いつものように庭を眺めていた。
浄岸院(薩摩と江戸。二つの古里が、茂姫の心の中でひしめき合い始めていたのでございました。)


次回予告
茂姫「あなたを許すことはないでしょう。」
昌高「兄上を、お許し頂きたいのです。」
斉宣「薩摩に、帰れぬ・・・?」
茂姫「これは、己の使命にございます。」
重豪「わしのせいにしたければ、するがよい。」
治済「それは、あまりにも理不尽ではございますまいか。」
斉宣「わたくしは、薩摩を守りたかった。ただそれだけなのです!」
家慶「まずは、自分を信じることだと思います。」
宇多「御台様・・・。」
茂姫「薩摩を、忘れないでいて下さいませ。」



次回 第三十回「さらば故郷」 どうぞ、ご期待下さい!

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