茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第二十六回 君主と名君

一八〇五(文化二)年一〇月。茂姫は自室にて、小さな仏壇を前に拝んでいた。後ろで、宇多とひさもそれを見ていた。茂姫は、
「母が亡くなってから、もうすぐで丸三年じゃ。時々、優しかった母のことを思い出しての。江戸に行く前、わたくしがまだ幼かった頃、母と共に見た桜島が美しゅうて。三〇年近く経った今でも、あの景色は鮮明に覚えておる。もう一度、お会いしたいものじゃ。」
そう言っているのを聞き、宇多もこう言った。
「わたくしも、見てみとうございます。」
すると茂姫は振り返って、
「まことにそう思うか?」
と聞くと宇多は、
「はい。桜島は、薩摩の宝と聞いております。その宝を、わたくしもいつか見てみとうございます。」
そう言った。それを聞いて茂姫は、
「その薩摩が・・・、今は大変な騒ぎとなっておる。わたくしは、このようなところで何をしておるのであろう・・・、と、ふと思うことがある。己の古里が大変な時に、何もできぬ自分が情けのうてならぬのじゃ。」
そう言うので宇多は、
「御台様・・・。」
と呟いた。茂姫は立ち上がり、縁側の前に立つと言った。
「今は、父と弟を信じるしかない。わかってはおるのだが・・・、不安になるのは、信じ切れておらぬからであろうか・・・。」
それを聞き、ひさと宇多も心配そうに茂姫を見つめていた。茂姫は、ただ空を眺めていたのであった。


第二十六回 君主と名君

浄岸院(薩摩のお城では、鶴亀問答の一件から数ヶ月が経っておりました。)
斉宣は、藩士から話を聞いていた。
「江戸行きを、遅らせろじゃと?」
斉宣が聞くと、樺山はこう言った。
「はい。今行けば、親子の対立が深まるばかり。こちらはこちらで、対策を練りましょう。」
それを聞いた斉宣は、
「その話は、以前申したはずじゃ。父上は・・・。」
と言いかけると、それを遮るように、樺山の隣にいた秩父がこう言った。
「このままでは、薩摩の財政は間違いなく転落していくことでしょう。」
「何じゃと?」
斉宣がそう言うと樺山は、
「薩摩の生きる道は、それしかないのです!何卒、お分かり下さいますよう。」
そう言い、秩父と共に頭を下げた。それを、斉宣も何も言い返せないまま見つめていたのだった。
その後、話を聞いた妻の享がこう言った。
「藩士達は、何ゆえそこまでしてお父上様に立ち向かおうとするのでしょう。」
すると斉宣も、
「わからぬ。されど、わたくしは父上を裏切ることはできぬ。」
そう言った。享はふと思いついたように、
「殿。江戸に行って、お父上様と直にお話しすることはできぬのでしょうか。」
と聞くと斉宣が、
「それは、難しゅうなるであろう。何せ、そうなれば藩士達が黙っておるわけにもいくまい。」
そう言っているのを、享は心配そうに見つめていたのだった。
ある夜。一方で茂姫のところにまた、家斉のお渡り(大奥に泊まること)があった。家斉が、
「そなたに出会うて、もう二十数年か。」
と言うと茂姫は、
「何ですか?また改まって。」
そう言うと、家斉はこう言った。
「そう言えば、そなたがわしに嫁いだのは、そなたの父の義祖母おば上からの遺言故であったのぅ。」
それを聞いて茂姫は、
「はい。浄岸院様といって、父上の教育者にございました。それに、父上から聞くに、徳川将軍・綱吉公と吉宗公の御養女でもあらせられたそうにございます。」
と言うと、家斉はこう言った。
「その父が、薩摩藩主だった頃、財政赤字にもかかわらず、様々な事業を行い、終いにはそなたを御台所にしたわけか。」
それを聞いた茂姫は、
「上様?」
と言うと、家斉は続けた。
「そこまでして、遺言を守りたかったのであろうな。」
それを聞いた茂姫は、
「上様は、わたくしと一緒になったことをどう思っておられるのですか?以前、わたくしを守ると仰せでした。あれは、まことのことにございましょうか?」
と言って、あの時のことを思い出した。
『今度はわしがそなたを守る。それ故、そなたは何も心配するに及ばぬ。』
家斉もその時のことを思い出したように、笑いながら言った。
「まことじゃ。されど、実は最初からそうではなかった・・・。」
「えっ?」
茂姫がそう聞くと家斉は続けて、
「最初は、何か変わった女子であると、そればかり思うておった。されど、夫婦めおとになってみてようわかった。そなたは己を隠さず、ありのままに生きておると。それ故、言うことが全てまっすぐに聞こえる。」
そう言うので、茂姫も嬉しそうにこう言った。
「それが、わたくしの生き方にございます故。」
「生き方、のぅ・・・。」
家斉もそう呟いて、茂姫を見ていると、茂姫も笑いながら見つめ返していたのだった。
江戸の薩摩藩邸では、重豪が小松清宗から話を聞いていた。
「斉宣は、江戸には来ぬか。」
重豪が言うと、清宗こう言った。
「はぁ。されど藩士共は、あのお方を、やはり放っておくわけにはいきますまい。」
それを聞くと重豪は、
「薩摩におる役人に密書を書き、薩摩の様子を探るのじゃ。されど、斉宣には知られてはならぬぞ。」
と釘を刺すと清宗も、
「畏まりましてございます。」
そう言い、頭を深く下げていた。重豪は、真剣な顔になっていたのだった。
浄岸院(しかしその数日後、薩摩藩の江戸屋敷が全焼。)
燃えている屋敷内では、家来達が逃げ回っていた。
(斉宣殿は、その再建のための財政改革を迫られたのでございます。)
斉宣は、
「何たることじゃ・・・。」
と言っていると、樺山と秩父は口を揃えて言った。
「今こそ、財政を立て直すべきと存じ上げます!」
「どうか、ご決断を!」
それを聞き、斉宣は急に立ち上がった。
浄岸院(その後、斉宣殿は父の代から家老を負かされてきた者達を次々に隠居を命じていったのでございます。それは薩摩に留まらず、江戸城大奥にも知らされました。)
茂姫は立ち上がり、
「それは、まことなのか?」
そう聞くと唐橋は、
「はい。そのように。」
と答えるので茂姫は、
「何たることじゃ。改革のためとはいえ、家老達を隠居に追い込むなど・・・。」
そう言ってると隣で、宇多もこう言うのだった。
「薩摩は、それほどまでに圧迫されておるのでございましょうか。」
すると茂姫は落ち着いた表情で、
「父上は、薩摩を守ると仰せであった。わたくしは、ずっとその言葉を信じてきた。斉宣殿も、そのことはわかっておると信じたい。」
そう言うのを、宇多とひさは見ていた。
その後、盛常と清宗が藩邸で話し合っていた。盛常は、
「まさか、斯様なことになるなど。ますます、あちらの様子が気がかりですな。」
と言うと清宗が、
「今、薩摩の者から様子を探っておる。殿があちらにおられる間に、手を打たねばならぬ故な。」
そう言うのを聞いて盛常は、
「では、一橋様に相談してみては?あちらは、大殿様の娘である、御台様の義理の父親であらせられます。」
そう提案した。すると清宗は、
「いや。あのお方は、今は嫡男の斉敦様に家督を譲っておいでだが、表沙汰はまだ担っておられる。相談しようにも、手を貸して下さるかどうか・・・。」
そう言うのを聞いた盛常は諦めたように、
「はぁ・・・。」
と、答えていた。すると、清宗は咳をした。それを見た盛常は、
「小松殿、どうなされました?」
そう聞くと清宗は、
「あぁ、心配いらぬ。」
と言い、部屋を出て行った。盛常は、それを心配そうに見ていたのだった。
浄岸院(そして、年が明け、文化三年。)
一八〇六(文化三)年早春。茂姫は縁側に出て、庭を眺めていた。すると女中が来て、
「御台様。」
と声をかけた。茂姫は振り向くと女中は、
「公方様がお呼びにございます。」
そう言うのを聞き、茂姫は悩んだような表情をしていた。
茂姫が家斉の部屋に行くと家斉は、こう言ったのだった。
「薩摩からの話、耳にしての。」
「はい。」
「そなたの弟が、父の代から居座っておった家老達に隠居を命じたそうじゃな。」
それを聞くと茂姫は、
「はい。」
と、ただ答えていた。すると庭を眺めていた家斉は茂姫の顔を見て、
「許せぬであろう。」
そう言うので茂姫は思わず、
「えっ?」
と聞き返した。すると家斉は、
「そなたは、父が好きであろう?」
そう聞くので、茂姫は言った。
「それは、勿論にございます。」
そして家斉は更に、こう言った。
「その父を、そなたの弟は裏切ったのだとしたら。」
それを聞いた茂姫は直ぐさま、
「それだけでは、裏切ったとは限りませぬ。それに、わたくしは斉宣殿を信じております故。」
と答えた。すると家斉は、
「人は信じることで、己を落ち着かせようとする。されど、それは逃げようとしておるのと同じではないか。」
そう言うので茂姫は、こう言った。
「それは、存じております。されど、できればそうならないで欲しいと願うことは、悪いことでしょうか?」
家斉はそれを聞き、
「そうは思わぬ。」
と言って茂姫を見て、
「それがそなたの生き方であろうからの。」
そう言うと、茂姫はこう言った。
「はい。誰が何と言おうと、わたくしは、斉宣殿と、父を信じております!」
茂姫はそう言い切ると、少し笑みを浮かべていた。家斉も、微笑してそれを見つめていたのだった。
一方、鶴丸城では斉宣が座っていると享が、
「殿。何ゆえでございましょうか。何ゆえ、お父上様の代から島津本家に仕えてきた方達に、あのような御処分を。」
そう言うので、斉宣はこう答えた。
「財政を立て成すため、それしかなかったのじゃ。」
それを聞いた享は、
「何か他の手立ては?」
と聞くと、斉宣は立ち上がった。そして背を向けると、
「わしは、父上が間違っていると言いたいのではない。されど、何があろうと、誰が何と言おうと、今の藩主はわしじゃ。」
そう言うのを聞き、享も黙って斉宣を見つめた。斉宣は再び享の方を向き、座りながらこう言った。
「わしは、薩摩を生まれ変わらせたいのじゃ。」
「生まれ変わる・・・?」
享が聞くと斉宣は続けて、
「あぁ。先祖や父上が守ってきたこの薩摩を、今度はわたくしが守る。そのためには、財政から立て直す必要がある。薩摩は七七万石の大国故、少しのことで藩が乱れる。藩士達にあの問答を配ったも、君主が在宅を慎むためじゃ。即ち、わしは己のことより民のことを日々考えておる。」
そう言うのを聞いた享も、こう言うのだった。
「そのお覚悟・・・、わたくしは信じます。あなた様のためなら、どのようなことも致します故。」
それを聞いた斉宣は享を見つめ、
「享・・・。そなたには、辛い思いはさせぬ。必ず。」
と言うので享は、嬉しそうに頷いた。それを見て斉宣も微笑み、享の手を握った。二人は暫くの間、互いに見つめ合い、手を握り合っていたのだった。
その頃、文を読んでいた斉宣の弟・奥平昌高は顔を上げ、
「兄上が、家老達を・・・?」
と呟くと、前にいた薩摩藩士・鈴木すずき藤昌ふじまさが、
「斉宣様直々に、お命じ遊ばしたとか。」
そう言うのを聞いた昌高は信じがたいような表情をして、
「まさか兄上がそのようなことをなさるとは・・・。薩摩は、一体どうなってしまうのじゃ。」
と言った。すると鈴木は、
「ただ、市田様は家老職を辞めさせられずに、江戸に留まっておられるそうにございます。」
そう言うのを聞いて昌高は、
「確かに、あの方は家老として父上の代から薩摩を引っ張っていると聞く。何とか、これから市田殿に頑張ってもらいたいものじゃ。」
と言い、前を見つめていたのだった。
その数日後、茂姫は縁側に座っていた。茂姫が上の空でいるのを見ていた宇多が、
「御台様?如何遊ばされましたか。」
と聞くと茂姫が、
「あぁ、いや。薩摩の、父のことを思い出しておった。父は、わたくしの戦場いくさばはこの多くじゃと仰せられた。されど、側室が次々に子を生む中で、わたくしには一人しか授からず、その子もまた天へと旅立ってしもうた・・・。近頃は、わたくしはもうここにいる意味はあるのであろうかという思いまでしてきた。母上様の仰る通り薩摩に帰り、お楽を正室にした方がよいのではないか?とも思う。」
そう言うのを聞いた宇多は、
「何を仰せでございますか!それに、御台様はまだ子を産める御年ではございませぬか。」
と言うので、茂姫はこう聞いた。
「そなたは、四人であったな。」
それを聞くと宇多は、
「はい。わたくしは仰せの通り、四人の子を産みました。されながら、その子達は皆、亡くなりました。わたくしは、幾度も己を責めました。子を亡くすことは、何よりの悲しみであり、それを乗りこえるのは、至難の業だということも知りました。」
と言うのを聞き、茂姫がこう言った。
「そうじゃな。子が病で苦しんでいるのに、見ているだけしかできぬとは・・・。敦之助の時も、同じであった。わたくしは許せぬ、己の無力さを。されど無力故、感じられることもある。それは同じ気持ちになって、考えることじゃ。」
それを聞くと宇多が、
「同じ気持ちになって、考える・・・。」
と繰り返した。茂姫は空を見上げ、
「わたくしは、もっと誰かの気持ちに寄り添いたい。そうすることで、相手との思いを分かち合うことができるはずじゃ。」
そう言うのを聞いた宇多は微笑して、
「はい。」
と、小さく頷きながら答えていた。茂姫も、それから暫く空を見つめていたのであった。
浄岸院(そして文化三年も、半ばに差しかかった頃・・・。)
斉宣は、書状を読むと樺山達を見てこう言った。
「何じゃと?」
樺山は、こう言った。
「わたくしを、薩摩藩家老にして頂きたく、存じ上げ奉ります。」
そして、頭を下げるのだった。それを見て斉宣が、
「そちを、家老にじゃと?」
と聞いた。すると樺山の隣にいた秩父も、
「樺山殿が家老になれば、薩摩を大きく動かすことができまする!」
そう言うので斉宣は、
「薩摩を、動かす・・・。」
と呟いた。樺山は、
「我らが成すべきことは、まずは大殿様と渡り合うことにございます!」
そう言うのを聞いた斉宣は半立ちになり、
「渡り合う?父上と対立せよと申すのか。」
と聞いた。秩父は、
「そうするしか、薩摩を変える手立てはないと思いますが。」
そう言うと樺山も、
「何卒、宜しくお願い申し上げます。」
と言い、頭を下げると秩父も同じように下げるのだった。それを見て斉宣は暫く黙った後、
「わかった。」
そう言うので、二人は顔を上げると秩父が、
「まことでございまするか!」
と聞くと斉宣は、こう言った。
「その話、考えておく。それまで、余計な騒ぎは起こすでない。よいな?」
それを聞いた二人は声を揃えて、
「ははぁっ!!」
と言いながら、再び頭を下げた。そして樺山は、顔を伏せたままニヤリと笑っていた。
その頃、茂姫は薄暗い部屋で布団に座っている美尾に茶碗を持たせていた。茂姫が、
「具合はどうじゃ?」
そう聞くと美尾は、
「大丈夫にございます。」
と答えた。すると美尾は、
「あの、浅のことは。」
そう聞くと茂姫は微笑んで、
「それなら心配ない。わたくしが、責任を持って育てる故な。」
そう言うので美尾は嬉しそうに、
「ありがとうございます。」
と言った。茂姫は布団を美尾に掛けると、
「そなたは、自分の病を早う治すがよい。」
そう言うのを聞いて美尾は、急に暗い表情になった。美尾は、
「わたくしは・・・、あの子の成長を見ることができるのでしょうか。」
と言うので茂姫は、
「不吉なことを申すでない。浅も、そなたには早うよくなって欲しいはずじゃ。」
そう言うと茂姫は茶碗を預かり、
「暫く、よこになるがよい。」
と言い、美尾をゆっくり横たえて布団を肩まで掛けた。美尾も茂姫を見た後、上を向いて目を閉じた。茂姫も、それを微笑んで見つめていたのだった。
戻って薩摩の鶴丸城では、ある日の夜のこと。斉宣は縁側に腰かけ、あのことを思い出していた。
『わたくしを、薩摩藩家老にして頂きたく、存じ上げ奉ります。』
斉宣は、迷ったような複雑な表情をしていた。すると着物で誰かが近付いてくるような、音と気配がした。それを聞いて斉宣はが振り返ると、そこには母・お千万がいた。それを見た斉宣は少し驚いたような表情で、
「母上・・・。」
と呟いた。お千万は、斉宣のところに座るとこう言った。
「家老のお話で、思い悩んでいるのでしょう。」
それを聞いて斉宣は、
「母上・・・。わたくしは、どうしたらよいのでしょうか。」
と聞くと、お千万はこう言った。
「これは、あなたの問題です。あなたが、思うた通りになさいませ。」
「ですが、もしあの者を家老になどしたら、父上を裏切ることになるのではありませんか。母上をも、追いつめてしまいます。」
斉宣がそう言うとお千万は、
「わたくしのことは、心配いりません。わたくしは、そなたの母なのですから。」
と言うので斉宣は、
「母上・・・。」
そう言うと、続けてこう聞くのだった。
「母上。わたくしは、間違っておるのでしょうか?」
お千万は、それを黙って聞いていた。斉宣は続けて、
「わたくしは、父上を裏切ろうとしているのでしょうか。それを、父上は見越しておられるのでしょうか。わたくしは、一体これからどうすればよいのでしょうか・・・。」
そう混乱したように言っていると、お千万はこう言った。
「大丈夫です。そなたは、どのような困難に見舞われようと、乗り越えることができる子です。わたくしはそう思います。お父上がそなたを選んだのも、長男だからではなく、そなたが折れない心を持っているからです。もっと、お父上を信じなされ!」
それを聞いていた斉宣は、
「折れない、心・・・。」
と繰り返すとお千万も、
「はい。わたくしは、何があっても、あなたの味方です。」
そう言うので斉宣も目に涙を浮かべながら、
「母上・・・。」
と呟くと、お千万は不意に斉宣を抱きしめた。斉宣はそれから、母の肩に涙を零していたのだった。
浄岸院(薩摩の動きが江戸に届けられた五月。)
小松清宗は盛常に、
「薩摩の樺山主税が、殿に家老にして欲しい義を願い出たそうじゃ。」
と言うと盛常は、
「樺山が、家老にですと?」
そう聞くと、清宗は立ち上がって縁側の前に立つとこう言った。
「どう出てくるかと思うたら、まさか家老とは・・・。」
それを聞くと盛常は、
「大殿様には?」
と聞くと清宗は、
「いや。まだ話してはおらぬ。まずは、そなたにと思うてな。」
そう言うのを聞き、盛常はこう呟いた。
「まさか家老になりたいとは、殿はそれに対してどうお考えなのであろうか・・・。」
すると、
「う、うぅっ!」
と言う声が聞こえるので盛常は顔を上げると、清宗が倒れていた。それを見た盛常はかけより、
「小松殿!しっかりなされませ、誰か、誰かおらぬか!!」
そう言って、助けを呼んでいた。
それを聞いた重豪は、
「清宗が倒れたじゃと!?」
と聞くと伝えに来た家臣は、
「はい!」
そう答えるので重豪は、
「このような時に、何ということじゃ・・・。」
と、呟いていた。
浄岸院(その頃、それとは知らない茂姫は・・・。)
茂姫は庭に出ているとひさが後ろから、
「御台様?」
と尋ねると茂姫は振り向き、
「あ、あぁ。」
そう言い、中へ入っていった。それを、遠くからお楽も見ていた。帰ろうとすると、宇多とすれ違った。宇多は振り返り、
「お楽様。御台様ですか?ならばこちらへ。」
と言うのでお楽は、
「いや、よい。少し、様子を見に来ただけじゃ。」
そう言い、下がっていった。宇多は、
「あの!」
と声をかけても、お楽は振り返らずに急いで帰っていったのだった。それを、宇多も不思議そうな目で見つめていた。
浄岸院(その数日後・・・。)
一八〇六(文化三)年五月九日。薩摩藩邸の廊下を、盛常は早足で進んでいた。部屋に入ると、清宗が寝かされていた。そこには、重豪もいた。盛常は重豪の隣に座ると、
「あの、ご様子は。」
と聞くと重豪は、
「大事ない。」
そう答えた。すると清宗は気がつき、
「大殿様・・・。」
と言うと重豪は、
「無理に喋るでない。すまぬな、そなたを使いすぎてしもうて。」
そう言うと清宗は、
「誰が・・・、飛んでもないことでござる・・・。」
と、うわごとのように言った。盛常は、
「お気を確かに。」
そう励ますと、清宗はこう言った。
「薩摩がこのような時に、相すみませぬ・・・。」
「何を言うか。そなたは、ようやってくれた。礼を申す。」
重豪の言葉を聞いた清宗は、
「薩摩を、どうかお守り下さい・・・。そして、殿を、お信じ下さいますよう・・・、お願い申し上げます・・・。」
と言うと重豪は微笑んで、
「勿論じゃ。」
そう言うのを聞いた清宗は、一瞬笑みをこぼした。そして、静かに眠りについた。その様子を見ていた重豪は、
「清宗・・・!」
と、声にならない声を上げた。盛常も目に涙を浮かべ、
「小松殿・・・。」
そう言った。重豪は涙を堪えながら、清宗の手をずっと握っていたのだった。
浄岸院(小松清宗殿の急な死去から半年。薩摩の斉宣は、思わぬ事態を招こうとしておりました。)
斉宣の前には、樺山をはじめとする藩士達が集まっていた。斉宣は藩士達を見渡すと、こう言った。
「昨年、薩摩藩江戸屋敷が全焼するという事態が起こった。それ故、我が藩は今、苦しい財政の渦に飲まれようとしておる。そこで、わしが藩を背負って立ち上がる覚悟を決めた。」
それを聞いた藩士達から、響めきが起こった。斉宣は続けて、
「そこで、樺山に薩摩藩筆頭として、家老を命ずる。」
と言うので樺山は、
「ははぁ!!」
そう言って、深く頭を下げた。藩士達も、たまらず歓声を上げていた。すると斉宣は、
「されど、これは薩摩の為である。それ故、そなた達も余計な謀反などは企ててはならぬ。絶対じゃ。」
と言うと藩士達は、
「はぁっ!」
そう言い、一斉に頭を下げた。斉宣は、息をのむようにしてそれを見つめていた。
一方江戸の薩摩藩邸で、その報せが書かれた文を読んでいた盛常は、
「まさか・・・。」
と、怯えたような目で呟いていた。
その夜、斉宣は一人、縁側に立っていた。そして、あの時自分が藩士達の前で唱えたことを思い出していた。
『父上は、藩をお見捨てになることはない。断じてない!』
『父上を無理矢理政から引きずり下ろすよりも、大切なことがあると、わしはそう思っておる。』
それを思い出すと、斉宣は不意に切なそうな顔になっていたのだった。
話を聞いた茂姫は、
「藩士を、家老にじゃと?」
と聞くと、唐橋はこう言った。
「斉宣様は、これは薩摩の御為と、はっきりと仰せになったそうにございます。」
それを聞くと茂姫は少し安心したように、
「そうか・・・。」
と言っていた。唐橋は続けて、
「二年後の参勤交代まで、薩摩に留まられるとか。」
そう言うので茂姫は、
「ならば、父上とも会わぬのか?」
と聞くと唐橋は、こう言った。
「詳しくは聞いておりませぬが、そのように。」
それを聞いた茂姫は、
「わたくしの古里で、財政が圧迫されておる。これは、全て父上の精ではない。わたくしは、そう思いたいのじゃ。藩士達も、それをわかってくれればよいのじゃが・・・。」
と言うのを聞いて側にいた宇多も、
「きっと、わかって頂けるはずです。」
そう言うので茂姫は宇多を見ると微笑して、
「そうじゃな。」
と、答えていたのだった。
樺山が家老になったという知らせは、重豪の元に届けられていた。話を聞かされた重豪は、
「何じゃと?樺山が、家老にじゃと?わしは聞いておらぬが。」
と言うと、知らせにきた盛常はこう言った。
「殿は、何を考えておいでなのか、わたくしにもわかり兼ねます。あの者が家老になどなれば、間違いのう大殿様に刃が向けられまする。それを、わかっておいでなのでしょうか。」
それを聞いた重豪は立ち上がり、
「いや・・・。」
と言い、縁側の前に立った。
「あの者は、わしを藩政から陥れるのが狙いじゃ。」
それを聞いた盛常は、
「何を仰せですか!」
と言うと、重豪は険しい表情でこう言った。
「わしは間違っておったか。もっと早う、そのことを知っておれば、その一件は阻止できたはず。あの者を信じた、わしが愚かであった。」
そして重豪が振り返ると、盛常にこう命じた。
「薩摩に使者を送れ。一刻も早う、薩摩の様子を探るのじゃ。」
そして重豪が上座につくと盛常が、
「お待ち下さい!まことにそうでしょうか。殿が、父であらせられる大殿様を裏切るなど、わたくしには考えられません。」
と言うと重豪が、
「いや。そちとて、もうわかっておるはずじゃ。これまで名のなかった藩士を家老にするなど、わしに刃向かうに等しい。今のうちに、手を打たねばならぬ。」
そう言うので盛常は青ざめて、
「そんな・・・。」
と言うと、重豪がこう言った。
「とにかく、使者を送るのじゃ。そうせぬうちは、話が進まぬでな。」
それを聞いた盛常は仕方なく、
「ははぁっ。」
と言い、頭を下げていたのだった。
その頃、茂姫は縁側に座って御守を手に、こう呟いていた。
「母上・・・。わたくしは、誰を信じればよいのでしょうか。」
そして茂姫は、母との様々なことを思い出していた。
『於篤。あれが、桜島です。』
『桜島・・・?』
『はい。桜島は、一日に七色もの色に染まります。そして桜島はいつも、薩摩のことを見守ってくれているのです。』
『於篤、日々学問ばかりで、疲れていることでしょう。庭を歩いて心を落ち着かせましょう。』
『はい!』
『わたくしは何処へ行こうと、何をしようと、母上の子にございます。』
『於篤・・・。』
茂姫はそれらのことを思い出した後、ふと空を見つめていた。そして茂姫の目から、一筋の涙が零れたのであった。
一方、鶴丸城では享が斉宣の所へきていた。
「あの、何故ですか?何故、あのようなことを。」
それを聞いた斉宣は、
「今は、それしかなかったのじゃ。許せ。」
と言うと、享はこう言った。
「あなた様は、己を信じよと仰せでした。わたくしは、その言葉通りに、あなた様を信じて参りました。されど、それが本当によき策なのでございましょうか。わたくしは・・・、何が何だかわからなくなって参りました。辛いのです、すごく、苦しいのです。今の、あなた様を見ていて・・・。」
それを聞いた斉宣は、享を抱き寄せた。斉宣は、
「すまぬ。そなたに辛い思いはさせぬと申しておったのに、すまぬ・・・!」
と言うのを聞いて、享は涙を流していた。
その夜。寝室で茂姫は、家斉と話をしていた。茂姫は、
「上様。上様に、お尋ねしたいことがございます。」
と言うと家斉が、
「何じゃ?」
そう聞いた。茂姫は、
「わたくしが、薩摩出身の人間であること、どう思われますか。」
と聞くと、家斉は暫く考えてこう言った。
「そうじゃのぉ・・・。そなたはそなたのままでよい。わしはそう思う。」
すると、茂姫がこう言った。
「わたくしは、今でも薩摩のことを思うことがあります。もう、徳川の人間であることは承知しております。しかし、わたくしは弟と父の間にこれ以上亀裂が入らぬか心配なのです。父は、ずっと前に隠居され、弟に家督を譲りました。されど今でも、父上が藩政を握っておられると、不満を持つ者が薩摩にいるようです。君主は弟の斉宣殿、それなのに何故隠居の身である父上が政に加わるのか、それに対して藩士達は、不満を抱いているのだと思います。それは、斉宣殿一人に薩摩を任せるのは心配だから、父は今も尚、藩政に手を加えられているのだと思うておりました。されど、それは違うのでしょうか。父上は、何の目的でそのようなことをしておいでなのか、上様はどうお考えでございますか?」
それを聞いた家斉は、こう言うのだった。
「そなたの弟が薩摩の君主であれば、そなたの父は名君じゃな。」
「名君?
茂姫が聞くと家斉は、
「そなたの父を批判する者はほんの僅かで、あとの者はそなたの父に期待しておるのじゃ。財政圧迫を招いたのは、そなたの父上故な。」
そう言うので茂姫は、
「そのような・・・。」
と言っていると、家斉は続けてこう言った。
「己のしたことは、己で片をつける、そう感じておられるのであろう。君主は無論、名君に従うことになるがの。」
それを聞いて茂姫は、
「そうかも知れませぬ。上様、ありがとうございます!」
と言い、頭を下げた。家斉は、
「これはあくまで、わしの意見じゃぞ?」
そう言うと顔を上げた茂姫は、
「上様にそう言われたら、何故かそのような気がして参りました。」
と言うのを聞き、家斉も笑って見つめていたのだった。
浄岸院(この年の一二月、樺山だけではなく、秩父ちちぶ季保すえやすも家老の命を受けたのでした。)
斉宣は、部屋で秩父を前に書状を読み上げていた。秩父も浅く頭を下げなながら、それを聞いていた。
その頃、大奥ではお富が側室達を集めて話していた。
「御台所は、未だに薩摩と繋がっておる。薩摩で反乱など起きれば、大奥もを巻き込まれてしまうやも知れぬ。そのことに細心の注意を払い、御台所に目を配るのじゃ。」
それを、宇多も聞いて驚いていた。お富は立ち上がると縁側の方に進み出て、
「もしも、薩摩で何かあらば、この城に薩摩の者がおると言うだけで、お咎めを受けるやも知れぬ。そうならぬよう、何か手を打たねば。」
そう言うと、お富は思いついたように振り向き、宇多を見てこう言った。
「お宇多。そなた、御台所付であったな。よいか?今日から、御台所から目を離すでないぞ?何か不審な動きあらば、すぐにわたくしに伝えよ。」
それを聞いた宇多は、
「お待ち下さい。御台様が、そのようなことをなさるとは思えませぬ。」
と言うとお富は、
「それでもじゃ。隠すでないぞ?」
そう言うのを聞いた宇多は、不安そうにお富を見つめていた。それを、横でお楽も見ていたのであった。
一方、薩摩では皆が集まって話をしていた。樺山が、
「これで、いつでも江戸にゆける!」
と言うと秩父も、憤ってこう言った。
「江戸に行き、大殿様に直談判を申し込む!」
すると、後ろから声が上がった。
「お待ちなされ!」
それは、伊地知いじち季安すえよしであった。伊地知は、
「今行けば、騒ぎになります。そうなれば、御公儀の目にも留まりましょう。それでは、我らの今までの努力が水の泡じゃ。これからが、知恵勝負でごわんど。」
そう言うのを聞き、皆は頷いていた。それを、樺山と秩父も冷静な表情で見ていたのだった。
そしてその頃、そのことは知る由もない茂姫は、部屋の縁側から夕日を眺めていた。茂姫が微笑みながら、夕空に浮かぶ太陽を見つめていたのであった。


次回予告
茂姫「薩摩は、これ以上ない苦しみを背負っておる。」
樺山「我らが、近思録党にございます!」
斉宣「近思録?」
茂姫「近思録・・・。」
家斉「近思録のぉ。」
重豪「わしはわしで手を打つ。」
盛常「薩摩は、このわたくしが守り抜いて見せます!」
斉宣「母上が、江戸へ?」
昌高「お願いにございます!」
茂姫「徳川か、薩摩か、わたくしは何処へ行けばよいのじゃ。」
斉宣「姉上が追いつめられてしまう!」
樺山「まことの気概とは、そういうものにございます。」



次回 第二十七回「斉宣の反乱」 どうぞ、ご期待下さい!

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