茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第十四回 愛しき人

一七九三(寛政五)年一二月。茂姫は、自室に常磐を呼んでいた。
「ちと聞きたいことがあるのじゃ。」
すると常磐は、
「聞きたいこと、にございますか?」
と言うと、茂姫はこう聞いた。
「今、上様の側室は何人おるのじゃ。」
それを聞き、常磐はこう答えた。
「はい。お万の方様、お楽様、お宇多の三人にございます。」
すると茂姫は、
「もう一人おらぬか?」
そう聞くと常磐は、
「いえ。」
と、答えるのだった。しかし茂姫は信じぬとばかりに、
「ならばもう一つ聞く。この大奥に、身ごもっておる女子はおるか?」
と聞いた。すると常磐の顔色が変わり、
「いいえ。わわわたくしは、存じ上げませぬ。」
そう言った。その焦りようを見抜いた茂姫は、
「おるのか・・・。」
と呟くと常磐は、
「はい・・・。」
と言って、白状した。
「名は何と?」
茂姫が聞いた。常磐は、
「お梅・・・、にございます。」
そう言うので茂姫は、
「お梅か・・・。」
と言い、立ち上がってこう言った。
「その娘を、ここへ呼ぶのじゃ。」
それを聞いて常磐は、
「はい!」
そう言って、頭を下げた。茂姫は、少し笑みを浮かべながら前を見ていた。


第十四回 愛しき人

茂姫の前で、ある娘が頭を下げていた。茂姫が、
「面を上げよ。」
と言うと、その娘は顔を上げた。
「そなた・・・、確かお梅という名であったな?」
茂姫が聞くとおうめは、
「はい。」
と答えた。茂姫は、
「初めに聞いておく。そなたのお腹の中におる子は・・・、上様の子か?」
と聞いた。するとお梅が首を横に振り、
「いえ。」
そう言うので茂姫は見破ったとばかりに、
「正直に申してみよ。」
と言うと、お梅はこう答えた。
「・・・、はい、左様でございます。」
茂姫は、
「いつじゃ。」
と聞くので、お梅は答えた。
「三月程前にございます。公方様の、身の回りのお世話をしておりました。」
お梅は、思い出しながら言った。
「その時、お声をかけて下さったのです。話しているうちに、溶け込んで・・・。」
共に寝ていたのだった。その話を聞き、茂姫はこう言った。
「何ゆえ、わたくしに伝えなかった?」
するとお梅は手をつき、
「誠に申し訳ございません。御台様には、何とお詫びして良いか・・・。」
と言っているのを見て、茂姫はこう聞くのだった。
「して、その子をどうするのじゃ?生まぬのか?」
それを聞いたお梅は、一瞬固まって茂姫を見た。すると再び下を向き、こう言ったのだった。
「わたくしは、恐うございます。」
「何がじゃ?」
「子供を産むことがでございます。生まれつき、体が丈夫ではございません。それに・・・。」
「それに、何じゃ。」
茂姫がしつこく聞くと、お梅はこう言った。
「わたくしは今、病を患っております。」
「病・・・?」
お梅は下を向いたまま、
「医師の方からは、もう数ヶ月しか生きられぬと・・・。」
と言うので、茂姫は顔色を変えた。
「数ヶ月、じゃと・・・?」
お梅は続けて、
「それ故、この子を育てることはできませぬ。どうか、お許し下さいませ。」
と言い、頭を下げた。茂姫は、それを思い詰めた表情で見ていたのであった。
その後、茂姫はある女性と別の部屋で話をしていた。
「恐い・・・、ですか?」
そう聞いたのは、お万であった。茂姫が、
「そうじゃ。残された時間がわかっているのに、何もしてやれぬというのは、己が情けなくてしようがない。」
そう言うので、お万は言った。
「公方様は、何と?」
それを聞いて茂姫は、
「あのお方のことじゃ。ろくに気にしておられぬであろう。」
と言い、溜め息をついた。すると、お万がこのようなことを言い出した。
「ならばいっそのこと、離縁させてみては如何でしょうか。」
「離縁?」
茂姫が聞くと、お万は続けた。
「はい。限られた時間、失礼ながら公方様のお側に仕えるのは無理がございます。それ故、誰か他の男性に引き取ってもらい、幸せな時間を過ごさせるのが最良の選択かと。」
茂姫はそれを聞き、
「誰か・・・、か。」
と呟いて、考え込んでいた。
そして茂姫は、家斉の部屋へ行った。茂姫が、
「上様。お伝えしたきことがございます。」
と言うと家斉は、
「何じゃ。」
と聞いた。すると茂姫は続け、こう言った。
「上様は以前、お梅と申す女子と夜を共にされたことがございますよね?そのお梅のお腹の中に今、ややこがおります。」
それを聞いた家斉は、
「またお節介か・・・。」
と呟くと茂姫は、
「何故、すぐそのように客観的にお考えなさるのですか?問題は、上様なのですよ?」
そう言うので家斉も、
「うるさいのぉ。わしには政という大事な役割があるのじゃ。」
と言った。茂姫は続けて、
「ならば上様、もう一つだけ申してもよろしゅうございましょうか。」
と言うと、
「何じゃ。」
そう家斉は聞いた。すると茂姫は、こう言うのだった。
「その女子は今、重い病にかかっており、医師からは後数ヶ月しか生きられぬと言われております。それでも上様は、側室より政の方が大事であると言われるのですか?」
「側室ではない。」
「弱っている女子を、上様は見殺しになさるのですか!?」
茂姫が言うと、家斉は落ち着いた表情でこう言うのだった。
「ならば、どうせよと申す。」
それを聞き、茂姫は黙った。家斉は続けて、
「所詮、病であればどうすることもできぬ。人は皆、無力なのじゃ。」
と言うのだった。それを聞いて茂姫は、
「・・・、わかりました。ならばお万の言う通り、お梅を離縁させましょう。」
そう言うので家斉は、
「離縁じゃと?」
と聞いた。すると茂姫は、
「側室ではないのでしょう?ならばよいではありませんか。あの者にとっては、今は幸せではございませぬ故。それでは、失礼仕ります。」
と言い、軽く頭を下げると立ち上がって部屋を出て行ってしまった。それを、家斉は遠目で見ていた。
その頃、薩摩藩邸では重豪が部屋に斉宣を呼んでいた。斉宣は父の前に座ると、
「運が巡って来たようじゃ。」
と、嬉しそうに言った。それを聞いて斉宣は、
「はい?」
そう聞き返した。そして重豪は続けて、
「此度は、近衛家からじゃ。」
と言うので、斉宣はこう言った。
「その話は、以前お話しした通りにございます。」
「しかし・・・。」
「わたくしには既に間に合っております。二年前、世継ぎも生まれました。」
「あれは、側室であろう。正室ではない。」
重豪がそう言っても斉宣は、
「まことに、よいのです。失礼致します。」
と言って立ち上がろうとすると、重豪は言った。
「おぉ、そうであった。」
それを聞いて、斉宣は重豪を見た。重豪は続けて、
「先程、そなたに登城せよとの知らせが参った。」
そう言うので斉宣は、
「登城って・・・、江戸城にでございますか?」
と聞いた。すると重豪が、
「あぁ、そうじゃ。しかも、此度は、公方様直々のお達しであるぞ。」
そう言うので斉宣は驚いたように、
「まことにございますか!?」
と聞くと重豪は頷き、
「大事な話があるそうじゃ。呉々も、失礼のないようにな。」
そう言うので斉宣は嬉しそうに、
「はい!」
と、重豪を見つめながら答えていた。
茂姫は縁側に立ち、考えていた。
「他の男性のぅ・・・。」
すぐ後ろにいた宇多が、
「何の話にございますか?」
と聞くと茂姫が振り返り、
「お梅のことじゃ。わたくしは、あの者が可哀想でならぬ。それなのに上様は、何という冷たいお方なのか。」
そう言うので、宇多はこう言った。
「公方様は、後悔しておいでなのではないでしょうか。体の弱い女子に、あのようなことをさせてしまって。」
「あのようなこと?」
「いえ、何でもありませぬ。」
宇多はそう言うと、思い出したようにこう言った。
「そういえば・・・、御台様の弟様が、また登城するそうにございます。」
「え?」
茂姫は、嬉しそうに言った。宇多は続けて、
「松平様が、公方様に推薦状を送られたのだとか。御台様の弟ならば、何かとお役に立つと。」
そう言うのを聞いて茂姫は庭の方を向き、
「そうか・・・。」
と言って、微笑んでいた。
浄岸院(松平定信によって、島津家当主の斉宣は城に招かれることとなったのでございます。)
定信は、部屋の机で推薦状を書き綴っていた。
浄岸院(一方・・・。)
お富の部屋に、お楽が来ていた。お富が、
「何じゃと?」
と聞くと、お楽は顔を上げてこう言った。
「わたくしの子を、次のお世継ぎと定められるよう、公方様に掛け合って欲しいのでございます。」
それを聞いたお富は、
「何じゃ、厚かましい。」
と言うとお楽は続けて、
「今のところ、公方様のお子で男子はわたくしの子だけでございます。お願い致します。お母上様のお力で、公方様をご説得頂きたく存じ上げます。敏次郎がお世継ぎとなれば、良き教育を仕込むとお約束致します故!」
そう言うとお富は、
「どいつものぉ・・・。世継ぎ世継ぎと、騒がしい。」
と言って立ち上がり、部屋を出て行こうとした。するとお楽は咄嗟にお富の裾を掴んで、
「お願い申し上げます!どうか、どうか、掛け合いを!」
と言うのでお富は嫌気が差し、
「ええい、しつこい!」
そう言うと、お楽を振り払った。お富は、
「よく覚えておくのじゃ。全てが、己の思い通りにゆくとは思うでない。」
と言い、お富は何人かの女中と共に部屋を出て行った。そして、お楽は悔しそうに拳を握りしめていた。
その一方で茂姫は、再び家斉の部屋に足を運んでいた。茂姫が、
「上様、お梅は・・・。」
と言いかけると家斉は嫌そうな顔をして、
「またその話か。」
そう言った。茂姫は、
「上様が女子に弱いことは知っております。されどそれはそれで、よいこととも思います。されど、子を産ませた相手に対して何とも思わぬとは、無責任かと存じます。」
そう言った。すると家斉は、
「しかしまだ生んでおらぬのであろう。」
と言った。茂姫が、
「そうですが・・・。」
そう言い、呆れながら家斉を見ていた。すると茂姫は、あることを思い出した。
『公方様は、後悔しておいでなのではないでしょうか。体の弱い女子に、あのようなことをさせてしまって。』
すると、茂姫は声をかけた。
「上様。」
「何じゃ。」
家斉が答えると、茂姫がこう聞いた。
「上様は、何か隠しておいでなのでは?」
それを聞いた家斉は茂姫を見て、
「何を隠すと申すのじゃ。」
と言うので茂姫は困ったように、
「いえ。それは・・・。」
そう言って戸惑っていた。すると家斉は自分から、
「前から、そなたには話しておかねばと思っておった。」
と言うので茂姫は驚き、
「では、何かあるのですね?」
そう聞くと、家斉は答えた。
「あの者が、自分から子を産みたいと話してきてな。」
家斉は、そのまま話を続けた。ここからは、回想である。
『子を産みたい?』
家斉は聞くと、お梅は頷いた。
『ならば老中に良さそうな者がおらぬか探して・・・。』
家斉はそう言いかけるとお梅が、
『上様の・・・、お子を・・・。』
そう言うのを聞いて、家斉は黙ってお梅を見つめていた。
そして話し終えると、家斉は最後にこう話した。
「それで、掛かり付けの医師が言っておったことを思い出して、体内の卵子を促進させる薬を飲ませたのじゃ。」
その話を聞いて茂姫は、
「そのような・・・。上様は、ご自分がおやりになったことをわかっておいでなのですか?」
と言っても家斉は、目を合わせようとはしなかった。暫く沈黙が続いた後、茂姫はこう言った。
「わかりました。お梅は、わたくしで何とか致します。」
茂姫は軽くお辞儀すると、立ち上がっていつものようにそそくさと出て行った。家斉は、今度はそれを見ずに、何かを考えているような表情をしていたのであった。
茂姫は部屋に戻り、宇多に尋ねた。
「そなたは、知っておったのか?お梅のこと。」
すると宇多は、
「申し訳ありません。ただ、公方様は御台様にだけは言わないで欲しいと。」
そう言うので茂姫は、
「そんな・・・。」
と言っていた。宇多は、
「公方様は、たいそう悔いておいでなのでしょう。己が、お梅を殺したやも知れぬと・・・。」
そう言うのを聞いて茂姫は下を向き、
「上様は・・・、ほんにお優しいお方なのじゃな。」
と、呟いていた。
浄岸院(そしてついに、斉宣の登城の日がやって参ったのでございます。)
重豪はその日、部屋に斉宣を呼んでこう言った。
「於篤に会ったら宜しく伝えておいてくれぬか?」
斉宣はそれを聞き、
「姉上、でございますか?」
と聞き返すと重豪が斉宣の反応を見て意外そうに、
「会わぬのか?」
そう聞くので斉宣は、こう言った。
「いえ。わたくしは、公方様に呼ばれたのです。それに、姉上が今の何の変わりもないわたくしを見たらがっかりされます。」
すると重豪は微笑みながら、
「よい。行ってくるがよい。」
そう言った。それを聞いて斉宣も、
「はい!」
と言って、笑っていたのだった。
一七九四(寛政六)年五月九日。家斉は斉宣に、
「よう参ったな。」
と言うと斉宣も、
「はっ。」
そう言って、軽く頭を下げた。すると家斉は、
「そなた、蘭学書を好むそうじゃな。」
と聞くので斉宣は顔を上げると、
「何故、それを・・・。」
そう言った。家斉は笑い、
「以前、定信に意見書を出したそうではないか。わしも、読ませてもらった故な。」
そう言うので斉宣は驚きながらも嬉しそうに、
「まことでございますか!?」
と聞いた。家斉は続けて、
「あぁ。その後、儒学者であったはやし錦峯きんぽうと対面し、己の意見を述べたと聞いておる。余程蘭学好きじゃと思うてな。」
そう言うので、斉宣は手をつくと逆に質問した。
「恐れながら、上様は・・・、どのようにお考えですか?」
それを聞いた家斉から笑みが消え、
「わしに意見を述べよと申すか・・・。」
と言うので斉宣は焦ったように、
「いえ、そのような。ただ、公方様が今、どのような意見をお持ちか気になった次第でございます。」
そう言うのを聞いた家斉は、また笑い出した。
「そなたは姉上に似て、面白いのぉ。」
それを聞いて、斉宣は思わず顔を上げた。すると家斉は、こう言ったのだった。
「残念じゃが、わしはどちらでもない。」
「それは・・・。」
斉宣は言うと、家斉は続けて言った。
「鎖国派でも開国派でもないという意味じゃ。わしの父上は、鎖国はであった。されど、この城に上がって老中達の書斎に忍び込んでは、蘭学書を読んでおった。その内に、異国についてもっと知りとうなっての。この国は開国への道を歩むべきではないかと・・・。」
「ならば・・・!」
斉宣は言いかけると家斉が、
「されど、それは父に背くことにもなる。よって、わしはどちらの意見も持たぬようにしたのじゃ。」
と言うと斉宣はがっかりしたように、
「そんな・・・。」
そう呟いた。すると家斉が、
「今日そなたを呼んだのは、他に話があるからじゃ。」
と言うので、斉宣は聞いた。
「話、でございますか?」
「あぁ。薩摩に、塾を作ってみてはどうじゃ?」
家斉がそう言うので斉宣が、
「塾、でございますか?」
と言い、驚いた表情で家斉を見つめた。家斉は続けて、
「あぁ。そなたの考えは、この時代の人間としては珍しいと思うてな。どうじゃ?費用はこちらから出す。三〇〇〇両でどうじゃ?」
と言うと斉宣は戸惑った後、
「もう暫く、考えさせては下さいませぬか。」
そう返答した。家斉もわかっていたように、
「そうくると思うておった。よい、いつでも待っておるぞ。」
そう言うので斉宣は、
「はい!」
と答え、頭を深く下げていたのだった。家斉も、それを見ていた。
茂姫は、お梅の部屋にいた。お梅は、布団の上に座っていた。茂姫が、
「具合はどうじゃ?」
と聞くとお梅が、
「大分楽になりましてございます。」
そう言うとお梅は下を向き、続けてこう言うのだった。
「御台様。わたくしは・・・、まことにこれで良かったのでしょうか。このこの行く末を考えると、わたくしは・・・。」
それを聞いた茂姫は、
「何を言うのじゃ。そなたの思いは、決して無駄にはせぬ。」
と言うのでお梅も、
「御台様・・・。」
そう言い、笑顔を見せていた。すると女中の声がかかり、
「御台様。お客人が参られております。」
と言うのだ。茂姫はお梅を見るとお梅は笑顔のまま、
「構いませぬ。」
そう言うので茂姫は振り向いて、
「通すがよい。」
と言った。すると、部屋に入って来たのは斉宣であった。茂姫は驚いたように、
「斉宣殿・・・。」
そう呟いた。お梅を見て斉宣は戸惑っていると茂姫が、
「どうぞ入って下さい。」
と言うと、斉宣は部屋に入ってくると茂姫の横に座った。茂姫が斉宣を差すと、
「弟じゃ。」
そう言うとお梅は斉宣を見て、
「初めまして、お梅にございます。」
と言った。斉宣も、
「斉宣と申します。」
そう言った。するとお梅は口を押さえて、苦しそうにした。茂姫はすぐに支え、
「大事ないか?」
と言うのだった。斉宣は暫く、その様子を見ていた。
その後、茂姫と斉宣は隣の部屋で話をした。茂姫が座りながら、
「あの者は、病にかかっております。もうあとどれほど保つかわかりませぬ。」
そう言った。それを聞いた斉宣は、
「医師にはご相談されたのですか?」
と聞くと茂姫は、
「いえ。もう、本人も覚悟しております。子が無事に生まれることを祈るばかり・・・。」
そう言い、下を向いているのを斉宣も見ていた。すると茂姫は思い出したように顔を上げ、
「それで・・・、今日はどのようなご用件で登城されたのですか?」
と聞くので斉宣は、
「あ、はい。」
と言って、話をした。
「塾を?」
茂姫は斉宣の話を聞き、聞いた。斉宣は、
「はい。わたくしが蘭学に興味を持っていることが、公方様のお耳に入ったそうで。」
と言うと茂姫は、
「その話を最初にされたのは、松平老中だそうですよ。」
そう言うのを聞いて斉宣は笑顔で、
「はい、父から聞いております。それで、費用は幕府から出して下さるそうでございます。」
と言った。それを聞いた茂姫は、
「良かったではございませぬか。」
そう言うと、斉宣はこう言うのだった。
「されど・・・、わたくしは少しばかり戸惑っております。」
「何故なのですか?」
「公方様から直々にお話があったのは、有り難き幸せでした。しかしわたくしは、開国派として鎖国派の方々から睨まれるのが恐いというか、その・・・。」
それを聞いた茂姫は少し呆れたような顔で、
「何をおっしゃいます。上様は、あなたを気に入られたのですよ?薩摩の学問所を、復興させるよい機会ではありませんか。それにより、のちに薩摩からこの日本国を引っ張っていく方が現れるやも知れませんよ。わたくしからも、お願いします。」
そう良い終えると、茂姫は軽く頭を下げるのだった。それを見て斉宣は、
「姉上・・・。」
そう言い、少々照れ笑いをしていた。すると隣の部屋から、
「お梅様!」
と言う、女中の声が聞こえて来た。二人は驚いて、茂姫が扉を開けると、お梅が布団の上でお腹を押さえながら苦しんでいた。二人は駆け寄り、お梅を支えた。斉宣がお梅の体を支えながら茂姫に、
「係の方は!?」
と言うと茂姫は気がついたように、
「あ。」
そう言うと振り向いて女中に、
「急いで係の者を呼ぶのじゃ!」
と言った。女中は、
「はい!」
そう言って立ち上がると、走って部屋を出て行った。そのすぐ後、斉宣は、
「大丈夫ですよ。」
と言い、お梅を静めていた。茂姫は、それを愛おしそうな目で見つめていた。
その後、お梅は同じ部屋で係の中臈に支えられ、陣痛に耐えていた。
すぐ近くの部屋では、斉宣は一人座禅を組み、瞑想をしていた。向こうからは、悲鳴のような声が聞こえてくる。それでも斉宣は目を開けることなく、精神を集中させていた。すると扉が開き、
「失礼致します。」
そう言う声がするので、斉宣は目を開け、振り向いた。部屋の外には、宇多がいてこちらを見ていた。斉宣も、暫く宇多と目を合わせていた。
その後、斉宣と宇多は少し話をした。宇多は、
「話は・・・、お聞きしております。」
そう言った。斉宣は、
「あの・・・。」
と言うと宇多が、
「お気になさらないで下さい。ただ・・・、どのようなお方か知りたかっただけですから。」
そう言うので斉宣は、
「はぁ、そうですか・・・。」
と言っていた。すると斉宣が、こう呟いた。
「大丈夫なのでしょうか・・・。」
「何がですか?」
「いえ。だから、あの人のことです。病で先が永くないのに、子を産む決心を・・・。」
それを聞いた宇多は、こう言った。
「運命とは、残酷なものです。されどだからこそ、それを乗り越えるための強さが必要なのではないでしょうか。」
「強さ・・・。」
斉宣はそう呟くと、微笑してこう言った。
「姉上も・・・、その強さをお持ちなのでしょうね。」
それを聞いた宇多も、
「御台様は、お優しいお方です。優しさから強さが生まれ、それによって誰かを助ける力となる、そうではないでしょうか。」
と言うので斉宣は、
「わたくしも、そう思います。」
そう言うと、部屋の外から産声が響き渡った。それを聞いた二人は、顔を見合わせて微笑んでいた。
夕方、お梅の横には赤子が眠っていた。その側で、茂姫と斉宣も見守っていた。
その後、部屋では茂姫はこう話した。
「わたくしは、あの子を育てたい。そして、血が繋がっていなくとも、まことの母親として見守ってあげたいと思います。」
それを聞いて斉宣は、
「姉上らしいお考えです。」
と言うのを聞いて茂姫も、笑っていた。茂姫は斉宣を見つめると、
「今日は、ありがとうございました。」
そう言うと斉宣も、
「そのような。こちらこそ、ありがとう存じます!」
と言い、頭を下げていた。茂姫は、
「父と母にも、宜しくお願いお伝え下さい。」
そう言うと斉宣も頷き、
「はい。」
と言うのを聞き、茂姫は安堵したような表情をしていた。するとひさが走って来て、
「大変にございます!」
そう言うので茂姫が、
「どうしたのじゃ?」
と聞くと、ひさはこう言った。
「お梅様が生んだ子が、亡くなられました。」
「えっ?」
茂姫はそう言って、ひさを見つめていた。
行くと、薄暗い部屋の中で赤子の顔に白い布がかけられていた。その隣で、お梅は魂が抜けたような顔で赤子を撫でていた。医師が、
「生まれた時点で、かなり衰弱していたようでして・・・。」
そう言うと茂姫も赤子を見つめ、
「何たることじゃ・・・。」
と言い、自分のやるせなさを悔いたような表情になっていた。それを、すぐ後ろで斉宣も見ていた。
部屋に戻ると、茂姫は言った。
「わたくしは・・・、何もしてやれませんでした。」
後ろにいた斉宣は、
「そのようなことは、ありませんよ・・・。」
そう、次第に自信なさげになっていった。茂姫が部屋に入っていくと斉宣が、
「あの!」
と、声をかけた。茂姫が振り返り、
「何でしょう?」
と聞くと、斉宣はこう言った。
「わたくしでよければ・・・、お力になりたいのです。」
「あなたが・・・?」
茂姫はそう言い、斉宣を見た。斉宣は続けて、
「あの方を・・・、わたくしに下さい。必ずや、幸せに致します。」
と言うので茂姫は、
「それは・・・、もうお梅が永く生きられぬとわかって言っておられるのですね?」
そう問いただした。それを聞いて斉宣は、
「はい。」
と言った。すると斉宣はその場に膝をつき、手をつくと頭を下げてこう言った。
「お願い致します!ずっと、このようなわたくしにもできることがあると、探しておりました。そしてようやく、見つけられそうな気がしたのです。どうか、わたくしの妻にあの方をお譲り下さい!」
それを聞いた茂姫は、斉宣の前に座った。
「わかりました。あなたにそのお覚悟かあるのなら、喜んでその話、お受けいたします。あの者も、きっと了承してくれると思います。」
斉宣は頭を上げ、
「はい・・・。」
と言った。すると茂姫は、
「されど一つだけ、約束していただいても宜しいでしょうか。」
そう言った。斉宣が、
「はい。」
と答え、茂姫を見つめた。茂姫は続けて、
「必ずあの者を幸せにすると、残りの人生を悔いなく終わらせてやると、そう訳して欲しいのです。」
そう言うので斉宣もすぐに頷き、
「はい。」
と答えた。それを聞いて茂姫も、安心したような顔をし、
「よかった・・・。」
そう呟いた。そして茂姫は続けて、このようなことを言った。
「あなたは・・・、運命が招いたのかもしれませんね。」
「運命?」
斉宣が聞くと、茂姫が言った。
「運命は、無邪気に不幸と幸運を同じ数だけ連れてくる。わたくしはそう思うのです。あの者にとってこれからは、幸運なのかも知れませんね。あなたから、どうか言ってあげて下さいませ。幸せにすると、己が守ると。」
それを聞いた斉宣が嬉しそうに、
「はい!」
と言って、頷いていた。茂姫も安心したように斉宣を見つめていたのだった。
お梅は、目を覚ました。目を開けると、そこには斉宣の顔があった。
「あなたは・・・。」
と言うと、お梅は起き上がった。斉宣は、
「あ、どうかそのままで。」
そう言うとお梅は、
「構いませぬ。先程は、ありがとうございました。」
と言った。斉宣は、
「いえ。」
そう言い、続けて言った。
「姉上・・・、御台様から、聞いております。病で・・・、あと一月ほどしか生きられないと。」
それを聞いてお梅は、
「はい。でもわたくしは、それでいいのです。それが、己の定めなのですから。」
と言うと斉宣は、
「あの。」
そう言うと、お梅は斉宣を見た。そして斉宣は続けて、
「わたくしは、島津家の当主です。これといった取り柄もありませんが、藩や一家を守ろうと日々考えております。わたくしは、誰かを救いたいのです。人一人を助けられぬようでは、藩主として恥ずかしゅうございます。だから、わたくしは誰かに手を差し伸べられるような人間になりたいと、あなたの話を聞いてそうお思いました。」
そう言うのでお梅は、じっと斉宣を見つめた。そして斉宣は、
「どうか、わたくしの妻になって下さい。決して、残りの命を無駄には致しません。きっと幸せにしてみせます!そして・・・。」
と言いかけて、お梅を見てはっとした。お梅の目に、涙が溢れかえっていた。そして斉宣は顔を和らげ、最後にこう言った。
「あなたを・・・、守ります。」
それを聞いてお梅は、
「はい・・・。」
そう答えた。そして斉宣は、お梅の手を握っていた。その様子を、茂姫は部屋のすぐ外で感じていた。さらに向こうから、宇多も見守っていたのだった。
その後、薩摩藩邸に帰ると話を聞いた重豪が、
「ほぅ、塾か・・・。」
そう呟いた。斉宣は、
「はい。藩の繁栄のためにも、やってみることにします。」
と言うと重豪も笑い、
「そうか。ならばよかった。」
と、言っていた。すると斉宣が、
「それと父上、もう一つ報告があります。」
そう言った。重豪が、
「何じゃ。」
と聞くと、部屋にお梅が入ってきて斉宣の隣に座った。それを見て重豪が、
「その娘は?」
そう聞くと、斉宣は言った。
「わたくしの妻にございます。病で、あとほんの僅かしか生きられませぬ。以前は公方様の側室でしたが、姉上にお話しし、了承して下さいました。」
それを聞いた重豪は真剣な顔になり、
「ならば聞く。そなたは、その娘の残り僅かな人生を幸せにするか?」
と聞くと斉宣は頷き、
「はい。」
そう答えた。すると重豪は嬉しそうな表情になり、
「そうか。それならばよい。」
と言い、部屋の隅にいたお登勢に声をかけた。
「今日は祝いじゃ。豪華の食事にするよう、伝えて参れ。」
それを聞いたお登勢も安心したように、
「はい。」
と言い、部屋を出て行った。斉宣とお梅は、嬉しそうに笑っていた。
それと同じ頃、江戸城でも茂姫と家斉が話していた。家斉が、
「今日は何じゃ。」
と聞くと、茂姫が言った。
「お梅は、ある方に引き取って頂きました。」
それを聞いた家斉は、
「そうか・・・。」
と言い、茂姫の方を向いてこう聞いた。
「そなたの弟か?」
「何故それを?」
茂姫が聞くと、家斉はこう答えた。
「あの者に、そなたに会うように伝えたのはわしじゃ。」
それを聞いた茂姫は驚いたように、
「まことですか?」
と聞いた。そして茂姫は続けて、
「でも、最初に話してきたのはあちらです。わたくしは、あの人と姉弟でよかったと思います。」
そう言うと家斉が、
「何故じゃ?」
と聞いた。すると茂姫は、
「あのお覚悟は、到底、誰にでも真似できるものではありませんから。」
そう言い、家斉に向き直ると茂姫は、
「上様、ありがとうございました。」
と言うと、頭を下げた。家斉は、
「何じゃ、急に。」
そう言うと、茂姫は微笑みながら言った。
「斉宣殿を連れて来て下さって。」
それを聞き、家斉は苦笑いをしていた。
浄岸院(それから一月近くが経ち・・・。)
一七九四(寛政六)年六月一〇日。斉宣は、仏壇を拝んでいた。すると後ろから、
「もう、七日程が経ちますね。」
と言い、お登勢が部屋に入ってきた。それを見て斉宣は、
「母上様。」
そう言った。お登勢は、斉宣の隣に座ってこう言った。
「運命とは、とても残酷ですね。」
すると、斉宣はこう言った。
「しかしわたくしは、後悔しておりません。まことに、幸せでしたから。」
その後で、斉宣は宇多が言ったことを思い出した。
『優しさから強さが生まれ、それによって誰かを助ける力となる、そうではないでしょうか。』
そして斉宣が俯くのを、お登勢も見つめていた。
そして一方、茂姫にも知らせが届いた。
「そうであったか。お梅が・・・。」
知らせに来た宇多は、
「はい。優しい旦那様に見送られ、悔いなく逝ったと。」
そう言うのを聞いた茂姫は、
「愛しい人は・・・、すぐそこにおるのかもな。」
と呟くと宇多が、
「はい?」
と聞くと茂姫は、
「あぁ、いや、何でもない。」
そう言うのだった。茂姫は立ち上がり、
「わたくしも、早く上様のお子が欲しい。」
そう言うと、茂姫は宇多の方を向いてこう聞いた。
「そなたもそうであろう?」
すると宇多も笑いながら、
「はい!」
と、と言った。茂姫は、縁側に出ると庭を見つめながら、
「わたくしは・・・、もっともっと強う生きる。」
そう呟いていたのであった。


次回予告
茂姫「身ごもっ、たのか?」
宇多「はい。」
斉宣「あのお言葉が、忘れられません。」
お楽「あまり調子にのるでないぞ。」
雅姫「雅と申します。」
本多忠籌「公方様は、島津家をたいそうお気に召されたご様子。」
重豪「この国は鎖国で成り立っておる。」
斉宣「それはおかしいと思います!」
家斉「また話がしてみとうなった。」
茂姫「上様?」
宇多「わたくしは、この子を幸せにしとうございます。」
茂姫「誰も彼も、味方ばかりではないということじゃな。」
宇多「御台様!?」
茂姫「わたくしにも、子が・・・?」



次回 第十五回「女の願い」 どうぞ、ご期待下さい!

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