茂姫〜うるわしき日々〜

葉之和駆刃

第四回 女の腹心

『姫よ・・・。そなたはこの先、豊千代を支えるのじゃ。』
『私が、家斉様を?』
『将軍を支えるのが、御台所の役目である。』
『はい・・・。』
茂姫は縁側に座り、考え事をしていた。それを心配したように侍女のひさが来て、
「姫様?」
と尋ねると、茂姫は振り返って、
「何じゃ?」
そう聞き返すとひさは、
「いえ。」
と答えた。茂姫は再び庭の方を向くと、
「私が・・・、家斉様をお支えする・・・。」
そう呟くと、心を決めたように顔を上げたのだった。


第四回 女の腹心

一七八七(天明七)年の初夏。表には、大老の井伊直幸いいなおひでが来ていた。十一代将軍・徳川家斉とくがわいえなりが上座で聞いていると、後ろにいた老中を見て井伊がこう言った。
「こちらに控えし者は、松平定信まつだいらさだのぶと申します。この者を、上様の新しい将軍補佐としたき存じます。」
そして定信も手をついて、
「松平定信にございます。本日より、公方様をお側でお支えする所存にございます。」
と言うのを、家斉は何も言わずに見ていた。それを、家斉の後ろに控えていた大奥年寄・大崎おおさきも見ていた。定信と目が合うと大崎は、浅くお辞儀をした。それを見て、定信も下を向いていた。
その頃、茂姫も常磐から話を聞いていた。
「松平殿?」
茂姫はそう聞くと、常磐がこう言った。
「はい。飢饉の時のお働きを買われ、老中に就任遊ばしたのだとか。」
それを聞いて茂姫は、
「田沼殿は、役人達から賄賂を受け取っておられたと聞く。されど松平殿も以前、幕閣になるため田沼殿に賄賂を贈っていたというのは、まことであろうか?」
と言うので常磐も、
「噂にございますよ、それは。」
そう言った。すると茂姫は、
「そうであろうか・・・。ところで、松平殿はどういう方なのじゃ?」
と言うと、常磐は少し困りながら言った。
「私に聞かれましても、直にお目にかかったことはございませんので、何とも・・・。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「ならば、お会いしてみたいのぅ・・・。」
と言うので常磐は首を傾げながら、
「いや。それはちょっと・・・。」
そう言うので茂姫は、
「そうか・・・。」
と言い、がっかりした表情になっていた。
薩摩藩邸では、重豪が書を書きながらお登勢に言った。
「松平殿が、老中になられたらしい。」
それを聞いたお登勢は、
「はい。四年前のご活躍を幕府に買われ、御三家からのご推挙もあったのだとか。」
と言うのを聞き、重豪もこう言った。
「飢饉があった時、松平殿の政策により白河藩は餓死者が出なかったという。それ故、幕府の重臣の方々から買われておられるようじゃ。」
すると重豪はふと手を止めて、お登勢を見ると、こう聞くのだった。
「時に、斉宣はどうしておる?」
それを聞いたお登勢は、
「まずは、自分にできることをやると部屋に閉じこもっておられます。」
と言うのを聞いて重豪は、
「無理はせぬようにと伝えておけ。」
そう言うので、お登勢がこう言った。
「その必要はありませぬよ。」
それを聞いて、重豪は少し怪訝そうな顔をした。
その頃、自室で薩摩藩二六代藩主であり島津重豪の嫡子・島津斉宣しまづなりのぶは学問に励んでいた。その部屋の前に、一人の女性が様子を見に来ていた。その女性は、斉宣の実母・お千万ちまであった。お千万は部屋を覗くと、愛おしそうに部屋の中の斉宣を見ていたのだった。
変わってある日、茂姫は部屋で書を読んでいた。すると目の前にいる常磐に、こう言った。
「こう、ずっと書を読んでおると、疲れてくるのじゃ。庭に出ても良いか?」
それを聞いた常磐は、
「まだお時間にございます。」
と言うので茂姫は、
「されど目が疲れては、これ以上読めぬでないか。」
そう言って茂姫は傍らの侍女のひさを見ると、
「のぅ。」
と言うとひさも不意をつかれ驚いたような表情で、
「あ、はい・・・。」
そう答えた。茂姫は自信満々に常磐の方を見ると、常磐も根負けしたように、
「ハァー・・・。」
と、溜息を吐いた。
茂姫はその後、常磐達を引き連れて庭を歩いていた。茂姫はいくつかの花を順番に眺めていると、茂姫の顔が急に怪訝そうになった。
「あれ・・・。」
茂姫が見つめた先の廊下には、家斉がいたのだった。家斉は落ち着かない様子で、向こうに行こうとすると茂姫は、
「家斉様!」
と声をかけると、その声が聞こえたのか、家斉は一瞬振り返ると、小走りになって向こうへ行ってしまった。茂姫は、もっと怪訝そうな顔でそれを見送っていたのであった。
夕刻のこと、お富は自室で活け花をしていた。
「見られたじゃと?」
お富が手を止めてそう言うと、常磐も答えた。
「はい。」
するとお富は生け花を続け、
「まぁよい。姫も気にしておらぬであろう。」
そう言っていると常磐が、
「ところが、そうでもない様子で。」
と言うのでお富はまた手を止めると、常磐を見て聞いた。
「どういう意味じゃ?」
すると常磐は、困った表情をして話し始めた。
茂姫は、部屋でこう呟いた。
「家斉様は、私に何か隠しておられる。」
そして茂姫は常磐を見て、
「常磐。」
と声をかけると常磐は驚いたように手をつき、
「何でしょう?」
と言うと、茂る姫はこう聞くのだった。
「そなた、何か聞いてはおらぬか?」
すると、常磐は躊躇ったようにこう話した。
「実は・・・。」
常磐はそう話して言葉に詰まると茂姫は、
「どうした?」
と聞くので、常磐はこう言うのだった。
「公方様には、ご側室がおられます。」
それを聞いて茂姫は自分の耳を疑ったような顔をして、
「側室!?」
と聞くと、常磐も頷くのだった。
「はい。老中であらせられた平塚為喜様の娘君で、お万の方様と申します。」
「お万・・・、側室・・・。」
茂姫は、そう呟いて遠くを見つめていた。
常盤の話を聞いたお富は、
「そなた、あの話、姫に話したのか?」
と聞くと常磐は頭を深く下げて、
「申し訳ございません!」
そう言うのだった。するとお富は何か気にしたように、
「もしや、お楽のことも?」
そう聞いた。すると常磐は顔を上げると、
「いえ、それは・・・。」
と言うのでお富は、
「そうか。」
そう言っていると、部屋に年寄の大崎が入ってきたのだった。お富は、
「表の方はどうであった?」
と聞くと、大崎は手をついてこういった。
「公方様は、松平殿をたいそう気に入っておられるご様子にございます。」
そう言うのを聞いたお富は、
「松平殿は数年前の飢饉の際、多くの民の命を救ったのであろう?大したものじゃのぉ。」
と言うので大崎も微笑み、
「はい。」
そう答えるのを、隣で常磐も不思議そうに見つめていた。
その頃、茂姫は縁側に座り、
「側室か・・・。」
そう呟きながら上を見上げていると、何か思いついたように、
「あっ・・・。」
と、言った。
翌日、茂姫の前には一人の女性が頭を下げていた。茂姫は、
「面を上げよ。」
と言うとその女性は、頭を上げた。すると、それを見た茂姫は驚いた。絶世の美女だったのだ。その女性は手をついて、
「お万と申します。」
と言った。茂姫は、
「そなたが・・・。」
そう呟いた。おまんと申すその女性は、
「此度、姫様にはたいへんご機嫌麗しゅう、お呼び頂いたこと、誠に光栄に存じます。」
と言い、再び頭を下げた。茂姫は、それに見とれていた。お万は顔を上げると、
「して、お話とは何でしょうか?」
そう言うと茂姫は慌てて、
「あ、いや・・・。」
と言って戸惑っていると、お万が心配そうに言った。
「どうされましたか?」
すると茂姫は、思い切って尋ねた。
「いえな・・・、上様のことで、聞きたいことがある。」
「はい。」
お万がそう言うと、茂姫は続けた。
「そなたは、上様の側室であると聞いた。されど、上様は教えては下さらなかった。何故じゃ?」
そう言うのを聞いたお万は少し俯き、こう言った。
「上様と初めてお会いしたのは、宴の時でした。上様がお側に来て下さった時、私に話をして下さいました。」
「話?」
茂姫が聞くとお万は頷いて話を続け、
「姫様は、誰にも負けぬ、強い心を持っていると。」
そう言った。それを聞いた茂姫は、
「強い心・・・?」
と繰り返すと、お万はこう言うのだった。
「それだけではなく、初めて姫様に会った時の話や、前の上様が亡くなる時もずっと一緒だった時の話など、色々話して下さいました。」
茂姫も、それを黙って見つめて聞いていた。そしてお万が、こう言った。
「そしていつの日か、姫様のことを羨ましく思うようになり、次第にこう思うようにもなりました。私も、上様のお側にいたいと。」
茂姫は、
「それは・・・。」
と言うとお万は続けて、
「私も、上様と話す内に、上様のことが好きになっていたのかもしれません。」
そう言うので茂姫は、
「好き・・・?」
と、お万の言葉を繰り返した。
『わしの側にいてくれぬか?』
家斉がそう言うとお万は躊躇ったように、
『されど、私は・・・。』
そう言っていると、家斉はお万の手を取った。家斉はお万を見つめ、
『姫にはわしから話す。そなたは、気にせんでよい。』
と言うので、お万も家斉の手を取った。
全て話し終えたお万は、
「黙っていたことは、申し訳ございません。お許し下さいませ。」
と言い、頭を下げた。茂姫も、それを黙って見つめていたのだった。
その夕方、茂姫はいつものように縁側に出て座った。そしてこの日は、茂姫の頬を涙が伝った。ひさも部屋の中から、茂姫の震える肩を心配そうに眺めていた。茂姫の手には、母・お登勢からもらった御守りが強く握りしめられていた。
浄岸院(一方、江戸の一橋邸にはこの方が呼ばれておりました。)
松平定信が部屋に入ると、そこには重豪と一橋治済ひとつばしはるなりがいた。定信は座ると、
「この度はお呼び頂き、光栄にございます。」
と言うと治済が、
「松平殿は、天明の飢饉の際に、白河藩で死者を出さなかったそうではないか。」
そう言って褒め称えると定信は、
「いえ。あれは、私にできることをやったまでにございます。」
と言った。すると治済は、
「時に公方様にも、たいそう気に入られておいでだとか。」
そう言うので、定信は笑った。すると重豪は話を変え、
「松平殿。田沼政権に、賄賂を送っていたというのは?」
そう聞くと、定信はこう答えた。
「全くのでたらめにございます。私は、田沼殿のような賄賂ばかりの政策は致しませぬ。」
定信は聞いている二人を見ると、続けてこう言うのだった。
「私は祖父・吉宗公が行った改革をもとに、政を行いたいと考えております。全ては、世の中の人々のために、できるだけの人事を尽くしたいと思うております。」
それを聞いた治済は感心したように、
「ほぉー。やっぱり、八代将軍吉宗公の孫であるだけに、立派なことを言うのぉ。」
そう言うと重豪も、こう言った。
「我々としても、期待しておりますぞ。」
それを聞いた定信も、
「はい。」
と、笑顔で答えるのだった。すると、重豪はまた話を変えてこう聞いた。
「時に、大奥の話は耳に入ってきておりますかな?」
「大奥?」
定信が聞くと、治済が補足した。
「この者の娘君が、後程将軍御台所になるのじゃ。」
それを聞いた定信は理解し、
「あぁ。姫様ならば、元気であるとお聞き致しました。ただ・・・。」
そう言うと重豪は怪訝そうに、
「ただ?」
と聞くと、定信はこう話した。
「上様には、もう既に側室がいると。」
「側室、ですと?」
「はい。先日、姫様のお耳にも届き、かなり思い詰めておいでのようで・・・。」
重豪が聞くと、定信もそう言って答えるのだった。その話を聞いて重豪は、
「そうでしたか・・・。」
と言い、腕を組んで下を見つめていた。
その夜、重豪は薩摩藩邸に帰ると、お登勢に話した。お登勢は話を聞くと、
「そうですか、ご側室が・・・。」
そう言うと重豪も、こう呟いた。
「やはり、於篤には、荷が重すぎたな・・・。」
すると、お登勢はこう言うのだった。
「いえ。あの子は、そのようなことでくじけるような子ではありません。ここは親として、共に温かく見守るべきと存じます。」
それを聞いた重豪も微笑んで、
「そうじゃな。」
と言い、腕を組んで前を見つめていた。
家斉は、縁側に肘をついて横たわっていた。すると老中が一人来て、
「公方様、姫君様がお見えにございます。公方様に、お会いしたいと。」
と言うので、家斉はその姿勢のまま振り返って横目で老中の顔を見ていた。
廊下を茂姫が女中を数人引き連れて歩いているのを、一人の娘が見ていた。それは、中臈・おたのであった。お楽は、じっと茂姫を後ろから見つめていたのだった。
その後、茂姫と家斉は一室で向き合った。家斉はずっと黙っているのでまず茂姫が、
「お万の方のこと、聞きました。何故、話して下さらなかったのでございますか?」
そう言うと家斉は、
「怒っておるのか?」
と聞き返した。すると茂姫は、答えた。
「そうではございませぬ。」
「じゃぁ、何故参ったのじゃ。」
家斉が言うので茂姫は、こう言うのだった。
「お万の方のこと、どう思っておいでなのかと。」
「どういう意味じゃ。」
「父がよく言うておりました。良き家柄の当主にとって、政の次に大切なのは、お世継ぎを授かることであると。されどあなた様があの者を選んだのは、それだけではない気が致します。」
茂姫がそう言うのを、家斉は見ていた。茂姫は続けて、
「先日、お万の方を私の部屋へお呼びしました。お万の方は・・・、あなたのことが好きと言うておりました。私はその言葉を聞き、家斉様も同じ気持ちであるならば、私は・・・。」
そう言いかけると家斉は、こう言った。
「それは違う。」
「えっ?」
茂姫はそう言って、家斉を見つめた。家斉は続けて、
「わしは、ほんの軽い気持ちであった。そなたを悲しませるつもりもなかった。」
そう言うので茂姫は、
「それは・・・。」
と言っていると家斉は続け、
「お万との間に子は作らぬ。それだけじゃ。」
そう言って立ち上がり、部屋を出て行こうとした。すると、茂姫はこう言った。
「家斉様は、弱虫にございます!」
「あ?」
家斉は、振り返りながらそう言った。茂姫は家斉を見つめ、
「何故、逃げようとなさるのですか?」
と聞くと家斉も、
「逃げる?」
そう繰り返し、怪訝そうな顔をした。そして茂姫は続け、
「お万の方は、綺麗な方です。あなたも、初めて見た時気になったのでしょう。それならば、ご自分の思いを貫き通して下さいませ!」
と言うのを家斉は、見つめていた。茂姫は表情を変え、
「私には、覚悟が足りませんでした・・・。私は、あなたの妻になれば、お世継ぎを生むつもりでした。上に立つ方にとって、お家を相続することは宿命にございます。されど、側室がいることを知り、私は悔しゅうございました。でもそれ故、私は必ずお世継ぎを、男の子を生もうと思うたのです。」
そう言って家斉を見ると、こう言った。
「お万の方も、きっと同じ気持ちでしょう。きっと、あなたの子を抱きたいと思っておられます!それを、お分かりになってあげて下さいませ。」
茂姫は、そう言って頭を下げた。それを、ずっと見続けていた家斉は笑った。それを不思議に思った茂姫は、顔を上げた。すると家斉は、こう言った。
「そなたとわしは、似ておるようじゃ。」
それを聞いた茂姫は少し顔を赤らめて、
「そんな・・・。」
と言うと家斉が、
「わしは、自分と似ておる人間が嫌いじゃ。」
そう言うので茂姫は、
「えっ?」
と言った。そして家斉が、部屋を出て行った。すると茂姫は、小声でこう呟いたのだった。
「こっちもです!」
その頃、薩摩藩邸では斉宣が床に寝かされていた。父の重豪が濡れた布を額からとると、こう言った。
「藩主になったからと言って、無理をするからじゃ。暫くは、ゆっくりと休むがよい。そうじゃ、久方ぶりに薩摩に帰ってみてはどうじゃ?」
すると斉宣は重豪を見て、
「父上・・・。松平様が、蘭学を嫌っておられるというのはまことでしょうか?」
と言うと少し怪訝そうに、
「蘭学?」
と聞くと、斉宣は言った。
「蘭学は、学べるところが沢山ございます。私は、先日、長崎の西川殿が書いた書を読みました。外国の技術は、未知数にございます。私も、外国へ行ってみとうなりました。」
それを聞いた重豪も、
「そうであったか。ならば、そなたの好きに生きるがよい。」
と言うのを聞き、斉宣は嬉しそうに重豪を見つめていた。
その夜、お登勢が驚いたように重豪に聞いた。
「外国を?」
「そうじゃ。いつか、自由に見て回りたいそうじゃ。」
重豪は言うと、お登勢の横に座っていたお千万がこう言った。
「あの子は昔から、好奇心が強うございましたから。」
すると重豪は、
「しかし松平殿は、蘭学を嫌うておられるようじゃ。八代将軍・吉宗公は蘭学書の輸入が禁じられていたのを緩和したと聞いたが。」
と言うのを、二人は聞いていた。
一方で、お富がお楽から報告を聞いていた。
「姫が公方様に会っているじゃと?」
お富が聞くとお楽は、
「はい。」
と、答えるのだった。お富は、
「噂では聞いておったが・・・。」
そう呟くと、お楽は続けてこう言った。
「そのほか、お万の方様を部屋にお呼びし、話されていたそうにございます。」
お富はお楽を見つめながら、
「そうか。ならばそなた、側室になるがよい。」
そう言うので、常磐や花野井をはじめ、周りにいた女性たちが驚いた。しかしお楽は冷静な顔をし、
「有り難き幸せに存じます。」
と言い、お富に頭を深く下げたのだった。そして、顔を伏せたまま笑みを浮かべたのだった。
茂姫の部屋には、お万が来ていた。お万の前には、お菓子が置かれていた。
「これを、私に?」
お万が聞くと、茂姫はこう言った。
「薩摩の名物・安納芋から作った菓子じゃ。薩摩の城から取り寄せたのじゃ。」
茂姫は、菓子を示して促した。するとお万が、
「では・・・。」
と言い、そのお菓子を手にとって口に運んだ。お万が一口食べると、
「美味しゅうございます。」
笑顔でそう言うので、茂姫も笑顔になった。すると茂姫は表情を変えて、
「今日、そなたを呼んだは、聞きたいことがある故じゃ。」
そう言うのでそれを聞いたお万は食べかけのお菓子を皿に戻し、一歩下がって手をつくと、
「何でしょう?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「家斉様のことじゃ。」
「公方様の?」
お万は顔を上げると、そう言って茂姫を見た。茂姫は続けて、
「お万殿は以前、家斉様のことを好きだと言っておったが、家斉様にお万殿のことを聞いても、お万殿との間にお子は作らぬと仰せでした。私はそれを聞いて、家斉様が私からあれこれ聞かれることから逃げようとされているように思うたのです。」
そう言うのでお万は少し俯き、
「やはりですか・・・。」
と言うので茂姫も、
「やはりじゃと?」
そう言い、頭を覗かせるようにお万を見た。そしてお万は、こう言った。
「私も以前より、そう思っておりました。」
茂姫はお万を見ているとお万は続け、
「あれは、一月ほど前のことでした・・・。」
と言って、話し始めた。
縁側から月を眺めている家斉に、斜め後ろからお万は尋ねた。
『公方様。やはり姫様には、お話しした方がよろしいのでは?』
『あの者は、誠にわしの妻になりたいのであろうか・・・。』
『えっ?』
『昔、言うておったのじゃ。己は、男の道具になどならぬと。』
お万は家斉を後ろから見つめながら、
『そうですか・・・。』
と言っていた。
お万は話し終えると、
「私は、あの方が好きでございます。たとえ姫様に恨まれようと、私は・・・。」
そう言いかけると、茂姫は言った。
「そのようなことはない!」
それを、お万は少し驚いた表情で見た。茂姫は続けて、
「私は、あなたに初めて会った時には、あなたを憎みました。されど、今はあなたにも家斉様のお子を生んで欲しいと思っております。それは、徳川家に嫁ぐ者の宿命です。」
そう言うのでお万も、
「宿命・・・?」
と聞くと、茂姫はこう言った。
「将軍にとって、政の次に大切なことは、お世継ぎを作ること。それ故、側室のことは、もう気にしないことにしました。」
それを聞いて、しばらく唖然としていたお万は微笑んで、こう言うのだった。
「やはり、姫様はお聞きしたとおりのお方にございます。」
「えっ・・・。」
茂姫はそう言うと、お万は言った。
「姫様は、お強いのですね。」
「強い?」
「はい。強うございます。何故そのように強う生きられるのか、是非教えて頂きとうなりました。なので、これからも姫様とお話がしとうございます。また、こちらに伺ってもよろしいでしょうか。」
お万がそう言うので茂姫も嬉しそうに、
「あぁ、いつでも。」
そう言うのでお万は、
「ありがとうございます!」
と言い、頭を下げたのだった。それを、笑顔で茂姫も見つめていた。
その頃、表の家斉の所には定信が来ていた。定信は、
「私は、この国の人々に役立つ改革をしたいと思うております。まず、飢饉に備えて、国の資金で社倉を作らせ、米などの備蓄を考えております。そのほかに、田沼政権時代の蘭学や株仲間といった制度を改め、よりよい国造りを・・・。」
そう言いかけ、さっきから上の空の家斉に、
「公方様?公方様!」
と声をかけると家斉は気がつき、
「何じゃ?」
そう言うと定信は、
「ですから、米の備蓄を・・・。」
と言っていると、家斉はこう言った。
「あ、あぁ。そなたの好きにするがよい。」
それを聞いて定信は、
「はっ!」
と言って、頭を下げた。しかし家斉は、何か他のことを考えているような目をしていたのだった。
茂姫は、縁側に出て夕日に染まる庭を眺めていた。すると、
「姫様。」
と、聞き覚えのある声がした。茂姫は振り向くと、
「奥方様、お久しぶりにございます。」
そう言った。そこには、お富が立っていた。するとお富は、立ったままこう言った。
「そなた、近頃公方様に会っているそうじゃな?」
すると茂姫は驚いたように、
「何故それを・・・。」
と言うとお富は、
「そなたことなど、すべてお見通しじゃ。お万のこともな。」
そう言うので、茂姫はこう言った。
「婚礼の日まで会わぬという約束を破ってしまったことは、お詫び致します。されど、家斉様は・・・。」
茂姫が言いかけるとお富が、
「田舎の娘ごときに何ができる?」
と言うので茂姫は、
「えっ・・・。」
そう言葉を詰まらせた。お富は続けて、
「対面の時に逃げ出すような礼儀知らずの娘が、御台所じゃと?たわけな。そなたが家斉様の御台所になっても、私は一切認めぬ。無論、この先も何があっても認めるつもりなど到底ない。」
と言うので茂姫は下を向き、こう言い返した。
「私にも、できることはございます・・・。」
するとお富は、
「何じゃ?言うてみよ。」
そう言うので、茂姫は上を向いてお富を見るとこう言った。
「お子を生みます!」
それを聞いたお富は笑みを浮かべ、
「そなたに生めるのかのー。」
と言うと背を向け、歩き出すと数歩先で足を止めた。
「そなたがどこへ行こうと、何をしようと、私の目はごまかされぬ。」
お富が言うので茂姫は、
「えっ?」
と言うと、お富は振り向いてこう言うのだった。
「そなたは、私の腹心に見張らせておる。」
「腹心・・・。」
茂姫はお富の言葉を聞き、そう繰り返した。お富は、
「そなたが何か不審な行動をとれば、たちまちその腹心によって私のもとへ伝えられる。そのことを、よくわかっておくのじゃ。」
と言い捨てるようにして言うと、顔の向きを変えて帰って行った。それを見送ったあと、茂姫はこう呟いたのだった。
「私は、負けぬ・・・。」
その頃、江戸城の一室で定信が大老の井伊直幸に呼ばれていた。井伊が、
「皆、そなたの政を期待しておる。」
そう言うと定信も、
「私の、政を?」
と聞くと、井伊が続けてこう言った。
「田沼政権で薄汚れた幕府を立て直せるのは、そなただけじゃ。あとは、頼んだぞ。」
それを聞いた定信は、
「はい!」
と言い、井伊を見つめていた。井伊も定信を見つめ、頷いていたのだった。
浄岸院(こうして、松平殿にのちの政権を託したあと、井伊直幸様は大老を辞職。)
江戸の薩摩藩邸では、重豪が部屋でお登勢と話をしていた。
「井伊様が、大老を辞職なされた。」
「それは?」
「次の政権の座を狙っておられたという話は聞いたが、結局は松平殿にその夢を託されたそうじゃ。」
お登勢もそれを聞き、
「左様でしたか・・・。」
と、俯きながら言った。すると部屋に斉宣が入ってきた。
「父上、新しい蘭学書は?」
斉宣が言うと、重豪は傍らから本を取って、斉宣に手渡した。お登勢が、
「あの、それは?」
と聞くと重豪が、
「幕府の役人を通して、手に入れたのじゃ。こやつが、どうしても読みたいと言うてな。」
そう言うので、斉宣も恥ずかしそうに笑っていた。
茂姫は、部屋にいた。茂姫は、
「父上は、ここが私の戦場いくさばじゃと言うておったがまことであった。」
そう独り言のように言っていると、隣にいた侍女のひさが、
「姫様。」
と言うと茂姫も、
「何じゃ?」
そう言って、ひさを見た。するとひさは、
「お富様の腹心の方にございますが。」
そう言うのを聞いて茂姫は、
「そなた、何か知っておるのか?」
と聞くと、ひさはこう言った。
「その・・・。聞いた話にございますが、公方様のご側室になったそうにございます。」
「側室、じゃと・・・?」
茂姫は、驚いたように聞いた。するとひさは、
「はい。」
と、答えるのだった。茂姫は遠くを見つめて、
「そうか・・・。」
そう呟くと、ひさを見て聞いた。
「そうじゃ。名前を聞いておらぬか?」
それを聞いて、ひさは答えた。
「はい。確かお名前が・・・、お楽様。」
「お楽殿・・・。」
茂姫は名前を呟き、何か考えていた。
そして、そのお楽のところに文が届いた。夕方にお楽が縁側に座り、その文を読んでいると、届けに来た侍女がこう言った。
「御台所におなり遊ばす、姫君様からにございます。“共に公方様のお子を産もう”とのことにございます。」
するとお楽は、こう言った。
「私は、公方様のために子は作らぬ。」
「はい?」
侍女が聞くとお楽は、
「すべては、自分の子を次の将軍にするのみ。」
と言うと、侍女は言った。
「さ、されど御台様が男の子をお産みになった場合、原則としてその子が次の将軍に・・・。」
それを聞いたお楽は、
「つまらぬ。」
と言い、茂姫からの文を破り、庭に捨てた。
その頃、同じように茂姫は縁側に出て庭を見つめていた。
そして、幕府の外でなにやら不審な動きがあった。田沼意次たぬまおきつぐが暗い部屋で茶を点てていると、部屋に家臣達が入ってきた。田沼の腹心の二人・深谷市郎右衛門ふかやいちろうえもん三好方庸みよしまさつねであった。深谷が、
「田沼様。役人達を集めました。」
そう言うと田沼は手を止め、茶筅を立てると、
「いよいよか・・・。」
と呟き、茶を飲み干すと、にやりと笑ったのだった。


次回予告
茂姫「田沼殿の反乱?」
松平定信「やはり来たか・・・。」
茂姫「あなた様をお守りしたいのです!」
お楽「あなた様が嫌いにございます。」
田沼意次「すべて貴様のせいじゃ、定信!」
茂姫「何故皆、争うのであろう?」
お万「嘘です。」
お富「御台所など・・・。」
浄岸院「そなたの信ずる道を行くのじゃ。」
茂姫「母上・・・。」
家斉「わしはそなたを、好きになっておったのかもしれぬ。」



次回 第五回「田沼の乱」 どうぞ、ご期待下さい!

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