寵愛の精霊術師

触手マスター佐堂@美少女

第73話 カミーユ




 カミーユは、現在のロミード王国の東、今は無きとある小国の農村部で生を受けた。



 両親の畑仕事をよく手伝い、少しでも家族が楽に生活できるように、家のために尽くしていた。
 歳の離れた妹や弟に、苦労はかけさせまい。
 彼女は日々そんなことを思って労働に励んでいた。

 学校には行かなかった。
 そんなところに行っている余裕はなかったし、父も母も反対したからだ。

 敬語で話すようになったのも、母による影響が大きい。
 母は父を恐れていた。
 酒を飲んだ父はよく母に暴力を振るっていたし、その手がカミーユに伸びることも珍しいことではなかった。

 そんなある日。
 カミーユは身売りに出された。

 その年の冬は非常に寒く、農作物の実りが例年よりも悪かった。
 家計が限界を迎えたため、長女であるカミーユを金に換えてしまおうと考えた父によって、カミーユはあっさりと家族に見捨てられた。
 母も、何も言わなかった。






 こうして売りに出されたカミーユは、近くの街で一番有力な貴族によって買い取られた。
 カミーユは、農村の娘にしては美しい容姿をしていたため、その買い取り金額も相当なものになった。

 買取先の主人に直々に案内され、自室だという場所に案内されたカミーユは、大きな不安に包まれていた。
 奴隷となったカミーユに、自由など存在しない。
 ただ、主人がまともな人間であることを祈るしかない。

 そして、そんな彼女の祈りが叶うことはなかった。

 主人は頭のおかしい男だった。
 彼は、少女が悲鳴を上げる姿こそ何よりも愛おしく、尊いものだと考えていた。

 最初の夜に、カミーユは手足の腱を切られ、まともに動けなくなった。
 それから最低限の治癒魔術を施され、他の使用人の男たちに、代わる代わる犯された。

 治癒魔術が使えるのをいいことに、少しでも反抗すれば拳が飛び、何もしなくても男たちの気分で殴られる。
 カミーユの心に、強い恐怖とトラウマが刻まれた。

 肉欲の宴は、週に一度、必ず開かれた。
 主人の奴隷は七人おり、宴は順番に日替わりで行われていく。

 普段カミーユの世話をしてくれる使用人たちが、その日だけはカミーユの身体を貪る。
 妊娠すれば、子宮に『吸収ドレイン』の魔術を使われた。

 ただ主人だけは、カミーユに手を出さなかった。
 彼だけは、カミーユの苦悶の表情を、泣き叫びながら発する悲鳴を、汚い汁にまみれた艶かしい肢体を見て、微笑んでいた。






 しかし、永遠に続くかと思われたその地獄にも、終わりがやってくる。
 主人の罪が露呈し、カミーユ達の屋敷に都からの使者たちが家宅捜索にやって来たのだ。

 この国では、魔術は外法として厳しく取り締まられる。
 どうやら、主人は大きなミスをして足がついたらしい。

 使者たちの話を聞く限り、この家は取り潰しになるとのこと。
 そんな話を、カミーユ自身も捕らえられながらぼんやりと聞いていた。

 カミーユがあれだけ恐ろしいと思っていた主人も、あっけなく捕らえられた。
 顔を真っ赤にして、言葉にならない言葉を喚き散らしながら、使者たちの中でジタバタと暴れていた。

 カミーユにはそれが、とても滑稽な見せ物にしか見えなかった。





 押収された奴隷たちは、国によって再び奴隷市場で売られることになった。
 国にとっては、奴隷も罪人から押収した財の一つ。
 売って国家の財源に充てるのは当然だ。

 カミーユを買い取ったのは、とある商人の男だった。
 特に目を見張るところなどない、凡庸な若い男だ。

 王都にある男の家も、前の貴族と比べれば小さなものだった。
 もっとも、庶民にしては十分すぎるほど大きなものだったが。

 カミーユも、別に期待はしていなかった。
 この男も、暇なときに自分の身体を求めたり暴力を振るったりするだけだろうと、そう思っていた。

 だが、男はカミーユにそういったものを求めなかった。
 代わりに最初の夜、彼女は一本の瓶を飲まされた。

 飲むと、手足の傷が癒えていくのがわかった。
 カミーユが驚きに目を見開いていると、

「皇級のポーションだよ。それを飲めば、大抵の傷は治る」

 男はカミーユのために、そんな高級なものを用意していた。

「僕は君に莫大な額のお金を投資した。だから、君も死ぬ気で僕のために働いてくれ。投資した分に加えて一定の利益が出たら、君を解放してあげるよ」

 男はそう言って笑った。
 とても空虚な笑みだった。






 こうして、カミーユの新しい生活が始まった。
 基本的に男の世話係のような位置で、雑用などをやらされることが多かった。

 それに加えて、文字や一般的な教養についての勉強もさせられた。
 カミーユは控えめに言っても学習能力が高い方ではなかったが、真面目ではあったので時間をかけてそれらを吸収していった。

 そんな平穏な生活を続けていた、ある日のこと。
 カミーユは、庭のベンチに腰掛けている男の姿を見つけた。

 男は、何かをしていた。
 口を開き、その喉から声を発していた。

 ただ、その声が普段のものとは違った。
 その声はいつものような気だるげなものではなく、もの悲しげだが、不思議と心地よい音の流れになって、カミーユの耳に入ってくる。

「それは、なんですか……?」

「ん?」

 男はカミーユの質問に一瞬いぶかしげな表情を浮かべたが、すぐに合点がいった様子で、

「これは、だよ」

「うた?」

「うん。聴いたことないの?」

「……はい。初めて、聴きました」

 心の一番深い部分に染み渡るような、不思議な感覚。
 こんなにも心地よいものがこの世界にあるなんて、カミーユは知らなかった。

「もしよければ、もっと聴かせていただけませんか?」

 カミーユがそう言うと、男は少し驚いた顔をした。
 しかし、すぐにその表情を戻し、

「……好きにするといい」

 男はぶっきらぼうにそう言って、再び歌い始める。
 カミーユはその音に耳を傾けながら、目を閉じた。

「……とても、素敵ですね」

 カミーユのそんな呟きは、男の歌声にまぎれて消えていった。






 その日から、二人の関係は変わった。

 男が歌っている時、カミーユも、男に歌うことを求められるようになった。
 男はカミーユの歌声を気に入ったらしく、カミーユも、そういった形で男に求められることが嫌ではなかった。

 暇な時間ができると、話をすることも多くなった。
 最初はお互いの過去の話をしていたが、最近はこれからの未来を話すことが増えた。

 カミーユは、男と共にいると安らぎすら感じるようになっていた。

「……君の歌は心地いいね」

 そしてそれは、男も同じだった。
 男はカミーユのことをただの雑用の奴隷ではなく、一人の女性として見るようになっていった。
 男のそんな変化を、カミーユは感じ取っていた。

 しかし、カミーユは悩んでいた。



「僕のものに、なってくれないか?」



 ある日、いつものように男に求められて歌っていると、男は突然そんなことを言い出した時も、まだ。

「……わたしは、汚いです。ただ、それだけの女です」

 陵辱の限りを尽くされたこの身体は、汚れてしまっている。
 そして、カミーユには何もない。
 強いて言えば、男に褒めてもらえる歌ぐらいか。

 それ以外、本当に何もなかった。
 何も。

「……実はね、僕のところに、お見合いの話が来てるんだ」

「え?」

 想像もしていなかった言葉に、カミーユは驚きの声を上げる。

「実家からの紹介でね。いつまでも結婚しない僕に、しびれを切らしたんだろう。お見合いとは言うけれど、事実上の婚約さ」

「それは、おめ……っ」

 おめでとうございます、と言おうとしたが、できなかった。
 心が痛い。
 その痛みが自身のどういった感情から来るものなのか、理解はしていても、認めるのは難しかった。

「でも、正直僕は相手の女性に毛ほども興味がなくてね。だから僕としては、既成事実を作ってでも君を妻として迎え入れたいんだ」

 男の目には、強い光が宿っていた。
 有無を言わせぬ、強烈な光が。

「僕は君の過去を知ってる。君が過去のことで何か負い目を感じているのだとしても、僕は気にしない。だから、僕と来い。僕が君を幸せにしてやる」

 それは、不器用な求婚だった。
 美しくもなければ、特別に感動的だったわけでもない。

「――はい!」

 だが、カミーユの心は温かいものに包まれていた。




 こうして、男とカミーユは結婚した。
 とはいえ、特にやることは変わらない。
 変わったのは、愛を持って男と夜の営みをするようになったことくらいか。

 そして、それからしばらくしたある日、カミーユの妊娠が発覚した。
 やることをやっていたのだから当然だ。

 だが、今までとは全く違う感覚に、カミーユは戸惑っていた。
 「よくやった」と男に抱きしめられ、自身の心の中が温かいもので包まれた。

 カミーユは気付いた。
 これが、幸せというものなのだと。






 しかしその頃、王都は物々しい雰囲気に包まれていた。
 カミーユには政治的な事情はわからなかったが、街に買い出しに行くたびに周りの空気が重々しくなっているのは感じ取ることができた。

「わたしたちは、ここにいても大丈夫なのですか?」

 ある日、不安になったカミーユは、男にそう尋ねてみた。

「うん。シェフィールドやエノレコート、それにディムールも、かなりきな臭いことになってるからね。ロミードもあまり安定してるとは言えないし……なんだかんだで、ロミードのお膝元であるこの辺はそこそこ安全なのさ」

 カミーユは男の返答を聞いて安心した。
 男が言うのならば、間違い無いのだろう、と。



 ――しかし、男の予想は外れることになる。



 王都にて、大規模なクーデターが発生した。
 カミーユがそんなしらせを受けたのは、男が大慌てで屋敷に帰ってきた時であった。

 男の説明はざっくりとしたものだったが、おそらく、ロミードがこの国を併合するつもりなのだということは理解できた。
 そして、その混乱に乗じて、この屋敷に暴徒が侵入してくる可能性は決して低くないという。

 持てるものを全て持って、国外へ逃亡する。
 男がそう決断するのは早かった。

 カミーユは身重の身だが、馬車での移動ならなんとかなるはずだ。
 男はそう考え、急いで用意を済ませ、馬車を走らせることにした。
 護衛の一人でも雇っておけばよかったと歯噛みするが、今となっては後の祭りだ。

 王都は炎に包まれていた。
 あちこちで悲鳴と怒声が飛び交い、死体がそこらじゅうに転がっている。
 もはや一刻の猶予もなかった。

 炎の間を抜け、死体の合間を縫って、襲い来る暴徒を何人かいて、男とカミーユはなんとか王都から出ることに成功した。

 男はこのまま、ロミードへと向かうつもりだった。
 ロミードには男の実家があり、そこまで逃げ延びればなんとでもなる。
 カミーユを妻としたことについて何か言われるかもしれないが、目の前の問題と比べたら瑣末さまつなことだ。

 ……しかし、そんな男の考えは、徒労に終わることになる。

「ど、どうしたんですか?」

「……クソっ。囲まれてるな」

「え……」

 男の苦々しげな言葉通り、街道の横の茂みから、下卑た笑みを浮かべた男たちが次々と出てくる。
 その人数は、二十人は下らないだろうか。
 全員が武装しており、粗末な衣服に身を包んでいる。

 それは他でもない、旅人を狙う野盗だった。
 なんにせよ、男一人で相手をするのは無謀な数だ。

「よぉ、兄ちゃん。こんな時間にどこへ行くんだい?」

 野盗の一人、特にガタイのいい男がそんな声を発した。
 どうやら、彼がこの集団のリーダーらしい。

「王都がひどい有様でしたからね。ロミードに向かってるところですよ」

「なるほど。しかし、そんな大荷物じゃあロミードまで行くのも大変だろう。どうだ? ここでちょっくら、荷物を軽くしていかないか?」

「悪いですけど、そんな予定はないですね。お互いのためにも、ここは穏便に済ませたほうがいいと思うんですが……」

「俺たちが、そんな提案に乗るとでも思ってるのか?」

 男は飄々(ひょうひょう)とした態度でリーダー格の男と会話を交わしているが、その額には汗が浮かんでいる。
 この人数を相手にして、勝てる未来が思い浮かばないのだろう。

「今なら、大人しく積荷を置いていけば、お前は見逃してやるぞ」

 野盗たちの眼光は鋭い。
 ハッタリではなく、日常的に人間を殺している奴の目だった。

「……わかりました。積荷はここに置いていきます」

 男は野盗の要求をあっさりと受け入れた。
 ここで戦えば、男もカミーユも死ぬ。
 それ以外の未来が見えなかったからだ。

 野盗たちが、積荷を下ろしていく。
 その中の価値ある品を見つけるたびに、野盗たちの目が輝いた。

 そして、すべての積荷がその場に下ろされた。
 だが、野盗たちはその場から離れない。

「……これで積荷は全てですよ?」

 男が怪訝な表情でそう言うと、野盗たちは下卑た笑みを浮かべて、

「何言ってんだ? まだ残ってんじゃねえか」

 リーダー格の男が指差したのは、身重のカミーユだった。
 硬直する男を気にした様子もなく、彼は言葉を続ける。

「その女も置いてけ。安心しろ、そいつは俺らがちゃんと使ってやるから」

「…………」

 もはや悪意を隠そうともしていない。
 多勢に無勢。

 積荷を全て渡そうが渡さなかろうが、どちらにせよ野盗たちは男を殺すつもりだったのだろう。
 男は、覚悟を決めた。

「――我が名のもとに集え、『風精霊』! その力を以って全てを切り裂け! 『風の刃ウィンド・カッター』!!」

 男の放った『風の刃ウィンド・カッター』が、リーダー格の男の首を切り裂いた。
 リーダー格の男は呆然とした様子で首に手を当て、その場に倒れこむ。
 起き上がる気配はなかった。 

「っ! 我が名のもとに集え、『風精霊』! その力を以って全てを切り裂け! 『風の刃ウィンド・カッター』!!」

 突然の事態に動きが止まった野盗たちめがけて、再び『風の刃ウィンド・カッター』が振舞われる。
 仲間たちの首が次々に切り裂かれるのを見て、ようやく彼らも我に返った様子だ。

「カミーユ! 早く!」

「え、ええ!」

 手綱を引くが、馬はなかなか動こうとしない。
 カミーユの動揺が、馬にもしっかりと伝わっているせいだ。

 そして、その一瞬が命取りになった。

魔術師マグスか……」

 カミーユの目の前で、血が弾けた。
 治癒魔術を受けたリーダー格の男が、殺気を撒き散らしながらナイフで馬を滅多刺しにしていた。

「我が名のもとに集――」

「もういい」

 リーダー格の男のそんな声と同時に拳が飛び、詠唱をしていた男が吹き飛んだ。
 馬車の後ろを突き破り、道端に転がり落ちる。
 ほかの野盗たちも、リーダー格の男の行動を静かに見ていた。

 リーダー格の男は、ゆっくりと男に近づくと、その頭を無理やり掴んだ。

「……おい。どうしてくれんだテメェ」

「ぐっ……」

「俺様の可愛い子分たちを三人も殺したんだ。覚悟はできてんだろうな?」

 その声は静かだった。
 だが、抑えされない怒りに満ちていた。

 だから、カミーユもまた、決死の覚悟を決めた。

「……なんのマネだ、おい」

 リーダー格の男が、白けた顔でカミーユのほうを見る。
 そこには、リーダー格の男の足にしがみつき、謝罪するような格好をしているカミーユの姿があった。

「お願いしますっ! わたしはどうなってもいいです! 彼だけは、彼だけは、どうか……っ!」

「お前、ごちゃごちゃうるせえぞ」

 だが、返事は足蹴りだった。
 その一撃はカミーユの腹部に直撃し、彼女の身体が後方へ吹き飛ぶ。

「カミーユっ!!」

 男が初めて悲痛な声を上げたのを見て、リーダー格の男は笑った。
 笑いながら、ナイフを男の背中に突き刺した。

 悲鳴が響き渡る。
 それに呼応するように刃が引き抜かれ、再び背中にナイフが刺し込まれた。
 それは、男が悲鳴を発しなくなるまで続いた。

 カミーユは、その光景を呆然と眺めていた。

 足は動かない。
 先ほどの蹴りで、背骨が折れた感覚があった。
 そして、自身の股から大量の血が流れているのを見て、全てを悟った。

 痛みよりも、やるせなさや絶望感が先立った。
 ……これで、終わり。
 あまりにもあっけなく、カミーユの幸せは奪われた。

 このまま何もできずに、カミーユは死ぬ。
 二人の死体は適当な場所に埋められ、積荷は換金されて野盗たちの懐を潤すのだろう。

 野盗たちは笑っていた。
 仲間が殺され、目の前でその下手人が始末されたのが、そんなに面白いのだろうか。

「ちっ、妊婦か……。何の役にも立ちそうにねぇな」

 そう言って、リーダー格の男が地面に転がるカミーユの頭を踏みつけた。
 彼はカミーユの打ちひしがれた様子に、満足そうな顔をしていた。

「――――」

 そのとき。
 カミーユの中に、初めて芽生えた感情があった。



 ――それは怒りだった。



 目の前にいる男たちへの怒り。
 ささやかな幸せを噛みしめることすら許さない、この世界への怒りだ。



 そして皮肉なことに、その怒りを、この世界はたしかに聞き届けたのだ。



「……あなた」

 カミーユは、頭を踏みつけられたままの体勢で、夫を呼んだ。
 リーダー格の男には、それが死に際に気が触れた女の、最後の弱々しい抵抗に思えた。

 だが、

「……なん、だ。お前……」

 男の前には、何かがいた。

 それは宙に浮いていた。
 それは黒い布を身に纏っていた。

 それの顔は、すぐそこで事切れている青年のものに他ならなかった。

「彼の歌は素晴らしいんですよ。皆さんも聴かれていってはいかがですか」

 踏まれたままのカミーユが、微笑みながらそんなことを言い出した。
 野盗たちも、正体不明の不気味な男と、気の触れた狂人にいつまでも付き合っていられるほど優しくはない。
 彼らがその場から離れようとした、そのときだった。



 黒衣の男が、歌い始めた。



 その音は強烈だった。
 直接魂に訴えかけるような、心の一番深い部分を無理矢理に変貌させてしまうような、悪夢の音色。

 黒衣の男の口から発せられるその音はしかし、カミーユが生前に男から聴いていたものとはかけ離れている。
 カミーユはそれでもよかった。
 彼が、これから先もずっと一緒にいてくれる。
 それだけで、彼女は満足だったのだ。

 この世界は不平等だ。
 だから、

「せめてワタシだけは、ワタシの手の届く範囲だけは、平等にします。そうしないと、彼が浮かばれませんものね」

 カミーユの声に反応する者はいない。
 それどころか、その場で生きた人間と呼べる姿をしている者は、もうカミーユしかいない。

 黒衣の男の歌を聴いた野盗たちは、赤黒い肉塊にその姿を変えていた。
 まるで身体の動かし方をわかっていないように、声の発し方をわかっていないかのように、必死に触手を動かしてカミーユから遠ざかろうとしている。
 そんなことをしても無駄だというのに。

「大丈夫ですよ、みなさん。ワタシはとても優しいですから。一緒に行きましょう」

 カミーユは、積荷を肉塊たちに運ばせる。
 肉塊となった彼らは、もうカミーユの奴隷同然だ。
 もちろん、二度と人間の姿には戻れない。

「おや?」

 そこでカミーユは、自身の腹部に違和感を感じた。
 腹の肉を突き破り、中から小さな触手が生え出ている。
 それを見て、カミーユは小さな笑みを浮かべた。

「大丈夫ですよ。ずっとずっと、一緒ですからね」

 カミーユはそう言って笑い、近くにいた男の霊体ミューズを抱きしめる。

 愛する夫がいる。
 愛しい我が子がいる。
 それ以上、何を望むものがあるだろうか。

 だが、これ以上カミーユのような人間が生まれることは許容できない。
 カミーユは幸運にも何も失わずに済んだが、ほかの人間はそうではないだろう。
 それはとても悲しいことだ。



 この世界を正してから、親子三人で静かに暮らそう。
 カミーユはこの日、そう誓った。


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