紅葉のいろは忍ぶれど

きー子

 少女は東寺に踏み入るとともにまるで私兵を蹴散らすがごとくして進んだ。気づかれるよりも早く暗がりから一撃して仕留め、時間をかけるような真似はしない。手間をかければかけるほどに不利になることは自明であったからだった。五重塔の最上層にふんぞりかえっているであろう対手に"返事"をしたためてやり、塔の裾野から改めて天上を見上げる。それは少女の身の丈では見果てぬほどの高みにあった。各階層からはほのかに灯火がもれ出し、それはさながら不夜城めいた様相を呈しているのであった。

 一階に通ずる桟唐戸さんからどを蹴り飛ばして堂内へと押し入る。果たして周囲を見渡した少女の目に入ったのは────数多の人であった。一〇か、二〇か、あるいはそれ以上。「来おったか」「敵襲!!」「命知らずめが────」重なる人影を見ては数えることもやめて少女は観察を進める。それぞれが鎧を身につけ、腰に刀を帯びる。すなわち一階層にあるもの全てが武士なのであった。思い思いに口にする様は喧々諤々とした様子であったが、中でも中心前列に位置する男が前に出ると一様に静まり返る。「よくきおったな」一目では長身痩躯。髪を真ん中で分けた男であった。年の頃は三〇を満たすか否か。

「ひとりで来るとは全くもって良い度胸────それは無謀というものであるがな」蛇のような目が少女を見る。少女の着衣は相も変わらず何の変哲もない着物で、帯びる得物はなにひとつない。かんばせにはくっきりと返り血の痕が残ったものである。いかにも荒事慣れした姿を見れば侮る色はないが、多勢に無勢であると考えているのかもしれなかった。「私はライコウ四天王が一、ウスイ・コレミツ」名乗りをあげながら、その身は一歩下がる。「その勇気にめんじ、ここに居並ぶは京の守護にあたる武士団が精鋭────こちらが正々堂々たるお相手をつとめようではないか」そしていかにも底意地悪く、くつくつと喉を鳴らして笑うのであった。

 武士団の中でにわかにざわめきが起こる。誰が先んじて打って出るかと様々にやりあっているのであった。少女を討ち取ったものになんらかの褒章が約束されているのかもしれなかった。「ひとりずつ、でございますか」「うむ」当然といったようにコレミツが頷く。「正々堂々、といったではないか。であろう?」少女はちょっと見たところで器量よしの小娘にしか見えなかったが、その業前と罪業は保証済みである。武士団の男達が遠慮というものを見せる様子はなかった。だから少女も遠慮をすることはやめた。

「では、俺から参ろう」前列の男がひとり、抜刀しながら進み出た。相対するのに応じて向かい合う。少女は特に構えを取ることもなく、だらりと両手を垂らす。つとめて誘いをかけたつもりであったが、それがかえって踏み込みづらいのか敵手の足が止まる。「────どうぞ」それで半身を向けるようにして、少女がいったものである。瞬間、その男が踏み込みをみせる────上段からの斬り下ろし。

 刃の冴えはナリマサの私兵などを大きく上回るものであったが、ワタナベ・ツナのそれと比べれば児戯にも等しかった。少女が無造作に右手を突き出す。それで刃がぴたりと止まった。少女の剣指のはざまに捕らわれた剣先が微動だにしないのであった。「な────」男が驚愕を見せるのもよそに身を滑らせて詰めかけ、左手で放つ貫手が喉を穿つ。防具を避けねばならない以上、狙いは空いた急所に集約されてしまうのだ。くぐもったうめき声をあげながら男が吹き飛び、その手からこぼれた刀が木目の床を打つ。武士団はわずかにどよめくが、コレミツは動じず「聞きしに勝る腕前といったところか────次」と促したものである。その間に少女が刀を拝借すると、向けられる視線に怒気が強まった。武士というものは刀に愛着があるのかもしれない。

 二番手の男は慎重であった。刀を手に相対してもなお踏み込む様子がなかったものだから、少女の方から踏み込んでやるものとした。眼前へと一足飛びすると同時、袈裟懸けの剣閃を見舞う────太刀筋が通り抜ける軌跡のままに鎧を胸から真っ二つに両断した。それとともに浅く切り裂いた胴からあふれる血液が、鎧の内側をこっぴどく濡らしていく。それでもなお振るわんとした彼の剣に即応してさばき、弾く。「次」コレミツの声を無視してあらわになった男の胴に肘を打ち込む。「お、ごッ────」苦悶の声をあげて膝から崩れる。胸元を持ち上げて引きずり上げる。刀を手放し拳を握り、正確にみぞおちを狙って打つ。「う、げェエエエエエエッ」男が腹を抱えるようにして崩れ落ちる。そして何度も痙攣すると、派手に吐瀉物をぶちまけたものである。嘔吐であった。「つ、次────」コレミツの声があからさまに焦りを帯びていたが、構わない。蹴鞠をするようにその頭を蹴っ飛ばしてやる。もはや名状しがたき絶叫があがった。

 ひとりめは失敗だった。喉を潰せば声がこもる。だからふたりめは徹底的に痛めつける。痛みの絶叫はなによりも有効に、かつ効率的に戦場を征圧することができる。それは高揚した精神に冷や水をぶちまけて恐怖を揺り起こすたぐいの代物であった。相手は正々堂々といったものだが、少女にとってはやっていられるものではない。一〇人も二〇人も馬鹿正直に相手にしていては日が暮れる。さっさと全員の心を挫いてやらなければならない。だから、まだ許さない。うつ伏せに倒れて陸に打ち上げられた魚のように跳ねるそれの髪を掴む。何ともつかぬ液体にまみれた面相があらわになる。脊椎を全力で踏みつけにする。「い、ぎ、ひいいいいぃぃぃぃッ!」恐怖が限界を通りこしたように男が失禁の醜態を晒した。意識もまた落ちていた。

「次、行けッ!!」コレミツが怒声を張るが、それに応じるものはすでにひとりも無かった。完全に腰が引けて怖気づいてしまっているのであった。「しまいでございましょうか」静まりかえった堂内に少女の声がよく響く。誰も答えるものはなく、足音だけがする。少女が歩を進めるたびに、武士たちがみな彼女を避けるようにして上り階段への道をつくる。「貴殿ら」ひとり真ん中に取り残されたコレミツが、いかんともしがたくあった。本心ならば逃れたくもあったろうが、武士団の手前であるがゆえにそうすることが出来ないのであった。男は歯噛みした。「私だ、私が参るッ」コレミツは背中の得物を抜き放つ。十字槍であった。

 少女に差し向けられた矛先。これといった構えもなく立つ姿に向け、それが疾く突き出されたものである。「ッ────」とん、と足音がした。少女の身が掻き消えるかのごとくして虚空を突き、槍先は不意に下を向く。これはいかなるか────少女の身体が十字の中心に着地していたのであった。跳躍の姿勢すら垣間見えない早業であった。その身を支える槍が地に落ちるよりも早く少女は二度蹴る。床と水平に飛んだ。槍を突き出すがままのコレミツはまるで無防備な姿を余儀なくされている。「ひ」と悲鳴をあげる猶予さえ与えられず、男の顔面に肘鉄が突き立ったものである。

 コレミツは盛大に仰け反り、たたらを踏む。そのままぐらり、と崩れ落ちる様子はいっそゆっくりとしたものであった。倒れ伏してもはや物言わぬそれを一瞥し、残心するとともに改まって背後を見回す。少女はすでに階段を前にしていたが、その歩みを止めるものは誰もなかった。その無防備な細い背を討とうというものさえなかった。もうここに用はない。上階へと駆ける。

 第二階層は幸いなことに第一階層のような大勢ではなかった。そこにはただひとりの男がいるばかりだ。それは壁際の連子窓れんじまどにもたれかかり、背を振り返るようにしながら盃を傾けさえしているのであった。酒をやっているのは間違いなかった。男は足音を聞き止めたのかゆっくりと向き直る。特徴的な総白髪が灯火のもとであらわになる。「おう」気楽にてのひらを振りさせした────壁に手を突いて彼は立ち上がる。全く掴みどころのない男であった。サカガミ・ギンジがそこにあった。「来たか」「はい」

「お上ってぇのはつくづく面倒なことをしてくれやがるもんだ」迷いなく盃を干した。雄弁であったが、酔いの回っているしるしはかけらもあらわれてはいなかった。「おかげでこんなところに出張ってくることになっちまった」少女はそれを聞いて、ただ構えた。「大様はお察しいたしました」「本当にわかってんのかい」「手早く済ませたい、というところにございましょう」「ありがてぇな。物分かりがはやい」「ご同感ですゆえ」サカガミ・ギンジは皮肉に笑い、構えた。少女は笑わなかった。少女が素手であるように、ギンジもまた素手であった。

 刹那、ギンジの手の中にある盃が握りつぶされる────さながら粉微塵のごとくなり果てたそれが踏み込みとともに撒布される。目潰しか。きわめて古典的ながら有効な手であった。少女にとって打撃や斬撃をかわすことなど容易いものだが、たとえば振る雨を避けられようはずもない。つまるところ、粉のごときそれもまた同様であった。「ひゅ」ゆえに吐息して放つは後ろ廻し蹴り。極論、目を逸らしていても攻めかかるならば対手に機を与えることはないのであった。男の拳と蹴り足が打ち合わさる────相殺。端的にいって重い。剛拳といってさしつかえないものである。落ちた粉塵の向こう側に見るギンジの表情は必死のそれだ。前哨に過ぎぬ一合のみですでにして死を覚悟している眼だ。

 続けざまに放つ貫手を十字に交差された野太い腕がふさぐ。後退しながらも返しで放たれる男の拳を掌底で受け、さばく。そのまま懐へ飛び込んで急所への手刀を振るうが、ギンジは打点をずらして分厚い胸板で受ける。その上で放たれる大振りの蹴り足────当たろうはずもないそれであったが、むしろ少女に回避行動を取らせるための一手と思われるものであった。事実、少女と男の間合いは開くことを余儀なくされていた。「中年に無茶させるもんじゃねぇよ────」冗談めかしていたが、その額には汗が浮いている。四股踏みのごとく足が落ちて、拳が大きく振りかぶられる。

 少女もまた身を低く沈める。疾駆の姿勢であった。さながらそれは総身を一本の矢とするがごとき様でもあった。「いざ」声はいずれのものとも知れぬ。撃ち落とされる槌のごとき拳と抜き放たれる鏃がごとし貫手が交錯する────互い違いに行き交う。

 少女の指先は胸元に達した。男の拳は届かなかった。勝敗は明らかであった。そもそもギンジの身は一歩引いていて、攻め切ることがかなわなかったのであった。「元より」冴え冴えと輝く少女の瞳が鋭く向けられる。「このつもりでございましたか」一歩を引いただけ、凶器めいたその一手は男の命を穿たなかった。ギンジが笑った。「物分かりがいい」にやりと口端をゆがめる。冷や汗はすでに頬を流れて顎にまでも垂れ落ちていた。「だが、そういうことは口にするもんじゃあねぇな」元よりギンジが死を免れるべく動いていることはあからさまであった。命を張る気などそもそも無かったのだ。それでも少女と対することは、ギンジにまごうことない命がけの覚悟を要したものだが。

「解せぬことをいたすもの」はじめから見逃せば良かったものをといぶかしがる少女に、ギンジは皮肉な笑みを崩さないのであった。「仕事はする。つまり、そういうことよ。官人つかさびとに過ぎぬ身だ────命を賭ければ明日の職務がとどこおる」そういって男はどっかりと腰を落とす。道を開ける。少女へと示す先はもはや言うまでもないとばかりに。「だが、おまえさんは違う。そうだろう?」その通りであった。少女が頷く。身ひとつ、命もかえりみずに飛びこんだ少女を見る男の目は全く呆れた様子を隠しもしないのであった。「ではな。もはや会うこともあるまい」「願わくば」応じて駆け出した。上階、第三階層へと駆ける。

 階段を上りつめる。第三階層へと至った瞬間、少女を迎えたのは奔流のような殺意の具現であった。それは少女の目と鼻の先をかすめるように黒く、鋭く通り過ぎていく────階段の手すりが断ち切られてまっぷたつに落ちる。なかば反射的に身をかわした結果であった。一瞬たりとも反応が遅れていたらば、斬撃は狙い違わず少女の頭を輪切りにしていたことだろう。それを象徴するかのごとくわずかにふれた頬からは血の雫が滴り落ち、首筋までをも赤く濡らしていく。少女は意に介することなく奥にあるべき姿を見やった。ワタナベ・イトがそこにあった。問答無用に振るわれる"黒縄"はいまだ彼女の手の中にある。

 そればかりではない。堂内の四辺には妖しげな黒い糸がくまなく張り巡らされており、それらは全て彼女の左手に繋がっているのであった。それはさながら敷きつめられた蜘蛛の糸のようでさえあった。そして少女は今、まんまと蜘蛛の巣へと足を踏み入れたのである。「────言葉は」イトは右手の刀をかざす。剣先が少女へと突きつけられる。「不要です」「そのようで」押し殺したような怒気に交えて殺意がにじんでいる。ワタナベ・ヒモの腕を刎ね飛ばしたせいかもしれない。知ったことではなかった。この期に及んでものをいうつもりもない。「ライコウ四天王、ワタナベ・イト! いざ参らんッ!!」名乗りがあった。そして次の瞬間、殺意の嵐が吹き荒れた。

 イトの戦術はかつての夜とまるで異なった。刀は手元に引きつけたまま、彼我の間合いなど構うことなく自在に"黒縄"を振るうのだ。それはさながら刃のごとく飛来する線上の斬撃であって、その通過点にあるものは一切合切わけへだてなく断ち切られることとなる。「────猪口才な」その性質には二種類あった。イトを基点として射出されるものか、イトの元に舞い戻るべく集約するものかのふたつである。つまるところ、前からも後ろからも"黒縄"は縦横無尽に襲いかかるのであった。距離も角度も選ぶことがない。「────は」少女はそれを避けながら観察し続ける。短刀を鞘から抜き払い手中におさめる。

 回避を続けながら距離をつめれば、寄せ手は"黒縄"にとどまらない。「そこ!」雌伏に甘んじていたイトの刀が突き出される。少女はそれをすんでで避ける。風を切って飛来する刃の疾さたるや、それを躱すだけでも綱渡りにさえ等しいものである。直後に接地するところなどはまさに隙を生ぜざるをえない瞬間なのであった。ゆえに、「────獲ったぞ」続けざまに巻き取られる"黒縄"は、無防備な少女の背後を襲うものであった。回避行動の直後、躱すべくはもはやない。イトがそう断じたまさにその瞬間であった。少女が身を沈めながら振り返る。

 イトの驚愕と少女の呼息が重なった。振り返りざまに短刀が低所から宙へ無造作に斬り上げられる────ぷつりとちいさな音がする。"黒縄"を中心から断ち切っていた。斬撃はわかたれ地に落ちる。少女の身を刻むことはもうなかった。「な」信じられないというイトの表情。その眼は丸く、まさに呆気にとられたという様子である。だが、すでに少女には大したことではない。"黒縄"は真っ向から立ち向かえばあまねくを断ち切る刃であるが、つまるところは糸なのだ。女の髪を幾重にもより合わせた紐にすぎない。正面から打ち合わず、上下のどちらかから刃をあてがい振りきればそれで敢えなく断ち切れる程度のものである。後は呼吸を合わせるのみ。

 イドが事態を理解しかねるように"黒縄"を絶え間なく振るう。確かめるために二度、三度と繰り返す。そして、全く無駄であると知れた。少女は向かい来る"黒縄"を全て、余すことなく断ち切って無力化せしめたものである。「────どうして」思わずというようにこぼれた呟きへの答えはごくごく端的であった。「いささか、見飽きました」常人の目では見ることさえもかなわないだろう。少女にしても一度や二度では見ることで精一杯である。しかし、堂内を照らしだす灯火が仇となった。それは少女の見切りをおおいに助け、果てに前言のごとき言葉を口にさせるまでに至ったのであった。

 少女がこの機を逃すわけはなく踏み込む。応じてイトの刀が振るわれる。先ほどの再現のようでさえあったが、続けざまの"黒縄"への反応は比べようもなく迅速であった。少女が背後に飛び退りながら黒い糸をまっぷたつにする。そうしてなお、いまだイトの刀は振り切られたばかりである。二の太刀が続く隙はなかった。少女が返す刀で放つ────槍のような蹴り脚の閃き。もはや間に合うわけはない。「がぁッ、ふ─────ぅ、ぐッ」勢いのままにイトが吹き飛ぶ。長身が心柱に叩きつけられ、木くずを散らし、そして堂内をにわかに揺るがした。柱にもたれかかるようにして身体がへたりこむ。

 静寂が訪れる。一撃をみぞおちにまともに食らい、さらに脳天を揺らされたのだ。もはやイトが起き上がるべくはなかった。力の入らない身体をもがかせるも、すでにいかんともしがたいものである。「しからば」少女はそれを一瞥ばかりする。そして階段へと向かった。すでに彼女に用はない。「殺せ」だが、背後から声があった。ワタナベ・イトが身を伏したまま言い切ったのであった。「────兄を不具にして挙句にこの身のざま。いかに生き恥が晒せますか」彼女が顔をあげた。その面差しは悲痛に歪んでいた。少女が向き直る。そしていったものである。

「生き恥だろうと晒せばよろしいでしょう」先んずるは生きることと少女の頭の中でささやく声があった。誰のものかなど考えるまでもなかった。「それでなおそうしたければ、好きに死ね」そうしてやるつもりなど少女にはなかった。イトの刀は手の中にある。その手がゆっくりと握りしめられる。「────ヒモ殿は妹御を案じておられました」イトのかんばせが伏せられる。少女にいうことはもはやなかった。刀の刃先が床に突き立つ。そしてそれを見届けることもなくきびすを返す。第四階層へと、駆ける。

 少女が辿り着いた先、第四階層は静寂が支配する場であった。ひとりの男が堂の中心で坐禅を組んでいるばかりである。ただし男には右腕がなかった。隻腕なのである。右の腰には一振りの刀を帯びている。かたわらには従者がひとり────ただそれだけだった。「早いものであるな」瞳がゆっくりと開かれる。少女の来訪にも関わらず、まるで警戒する様子がないのであった。「あなたでございますか」少女の目に、かすかな困惑の色が宿る。ワタナベ・ヒモがそこにある。ここには彼以外の姿がなかった。いぶかしむのも道理であった。ヒモが口の端を軽く吊りあげる。笑っていた。

「ここにはナリマサの兵どもがおったのだがな」ゆっくりと立ち上がる。からっぽの右袖がひらひらと揺らぐ。「おまえが近づくのを気取って、逃げ出してしまいおったよ。上にな」笑うしかないというふうでさえあった。つまるところ彼が管轄にあたっていたのだろうが、恐慌状態に陥ってはどうにもならなかったのであろう。瞬く間にして精鋭の武士団、くわえて四天王を三人、それらをたったひとりで退けてみせたことを意味するのだから無理はない。「今のおれではそれさえも押しとどめられぬ」笑みにはかすかに自嘲の気配があった。その手が刀の柄にかかる。その動きによどみはない。左手であっても剣を振るうにさしつかえはないのだろう。「そしておまえを止められるわけもないだろう」知ったうえでのことであった。

「ひとつ、聞きたい」少女が無造作に歩みよる。頷いた。「イトは、どうした?」少女はほんの少しだけ考えて、そしてありのままを伝えた。「死にたければ、好きに死ね」とそういったのも、全て包み隠さずのことである。特に恨みがあるわけはなかったが、情け容赦をかけるような真似もできなかった。ヒモの手が柄の上を穏やかに滑る。「────然様か」そして掌が、柄尻を押さえた。刃が抜かれることはなかった。「娘よ。おまえは真に鬼ならざるか」「私の知るかぎりは」少女が歩みを進める。決然として答える。「人の腹から生まれたものと聞き及びますゆえに」ヒモが愉快げに笑った。はじめて出会った時と変わらぬそれであった。

「十分であるな」男が瞑目する。同時に腰に帯びた刀を鞘に納めたまま、かかげるようにして手にする。「おれはおまえに二度救われた」「二度?」「然様。二度だ」床を一度叩くように踏みつけにした。それは下方を示していた。得心のいかぬ少女に思い知らせるかのような所作なのであった。「報いよう。恩には報いねばならない」ヒモはそういうとともに刀を軽く放り投げる────回転しながらゆるやかな弧を描いて宙にあるそれ。少女がとっさに手を伸ばす。はっしと受け止める。「これは」「持っていけ。おれには無用の長物よ」

 全長にして二尺七寸ほどであろう一振りの刀であった。鯉口を切り、刀身をあらためる。そこにはまばゆいまでの白銀を浮かばせる刃があった。剥き身の表面には冴え冴えとした少女の瞳がうつりこんでいる。かつてヒモと相対したときの刀とも比べ物にならないほどの名剣であると、一目にして知れる代物なのであった。少女が瞑目して、刀を鞘に納める。「私はこれを使い潰すことになりましょう」「承知の上よ」少女の声はいかんともしがたく決断的であって、男の覚悟もまた断固としていた。「冥土の土産くらいにはなろうものだ」いうまでもなく、ヒモは最上層に待ち構えるひとりの男の実力をよくよく知り得ているのだ。叩き折られども至極当然。これしきのことで勝敗がうつろうわけはないと、そう思っている様子であった。

「────しからば御意に」少女にとって刀はもっともよくするものである。そして道具であり、それ以上でも以下でもないのであった。このうえなく頑強でありながらに鋭利なこの道具を使わぬわけはない。刀を右手に引っさげて少女が行く。すれ違いざまにヒモがゆっくりと膝を折る。「娘よ」そしていう。「────有り難し」平伏しているのであった。「詮無いこと」少女はそれにも歩を止めることはない。背にある男を置き去りにして最上層へと至る階段に向かいながら、誰にともなくうそぶくばかりである。「あなたの撒いた種に過ぎませねば」それがなければワタナベ・イトは自刃していただろうか。少女のあずかり知るところではないが、彼の善果は疑いなく彼の善因あってのものなのであった。

 ────あとはただ行くのみ。第五階層、最上層へ。迎えに行くべきものが待つ場所へ。

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