紅葉のいろは忍ぶれど

きー子

 少女にはある種の胸騒ぎが去来していた。果たしてそれはなにが寄越したものか。鬼の元いた場所へと戻ってきたものだが、全く歯噛みせざるをえない事態がそこにあった。「────疾いものですね」驚きを隠しえぬ様子であったが、その声はよく落ち着いたものであった。高くも澄んだ声色に男装めいた女、ワタナベ・イトがそこにある。「兄さんは、どういたしましたか」彼女は内裏に通じる門を背にしてそこにあった。さしもの少女とて大内裏の内部までは追跡しかねるであろう。「死んではおりませぬ。死ぬやもしれませぬが」端的に応じる少女の視線の先────もみじの身柄が女の手の中にあった。なんたることか!

「よい心がけです」なぜそうなったか。こうなっては類推にすぎないが、彼女は陰陽────たとえば見鬼けんきの術に長けるのではあるまいか。イトの剣は控えめにいってもヒモに劣るものであったが、そう考えれば彼女が四天王に名を連ねていることにも得心がいく。彼女がその手に振るっていた"黒縄"など、まさに陰陽かあやしの結実とさえいうべき得物である。神仏の祝福をさずかる京内では、鬼の隠形を見破ることはどれほどの労苦であろうか。「さもなくば、この鬼の命がなくなっていたところでしょう」もみじはその意識を落としていた。息があるのは間違いない。だがそのまっしろな首筋に、妖しく輝く"黒縄"が巻きついている。女の髪を結い上げた漆黒の縄が、刃めいて鋭くその柔肌に食いこまされていたのだった。

 少女はイトを睨めつけるも微動だにしなかった。ただ、もみじを戒める"黒縄"がわずかに緩められる。あくまで生け捕りであって、命をとる気はない様子であった。「めったな考えは起こさぬことです」もみじの矮躯をしっかりと抱えなおして、女がきびすを返す。「この鬼は────叛逆者として処されるのですから」つまるところ、それが鬼を殺められぬわけであった。内裏付近に身を潜めたこともあるいは仇となったか。イトが駆ける先には大内裏があった。間に合うかどうかという以前の問題として、六衛府を守護する衛兵に取り囲まれることは間違いないだろう。いずれにしても、少女のすべきことに変わりはなかった。一歩を踏み出す。戻橋を踏みつけにしながら足音ひとつさえ立たない刹那である。

「お────ぉおおおおおおッ」裂帛の気合がこめられた咆哮とともに、背後で風がうなりをあげる。それを耳にした瞬間、少女はすんででかわし切った。ワタナベ・ヒモの一太刀であった。まさに鬼気迫る面差しで振るわれた全力の剣であったが、手負いのそれではいかんともしがたい。先ほど少女に浴びせかけた連撃のどれよりも遥かに劣るものであった。「ひゅっ」呼気ひとつ漏らして少女が振り落とされた刀を持つ手首をしたたかに打つ。柄が男の手から呆気無くこぼれ落ちる。それが地に落ちるよりもなお早く少女のちいさなてのひらが絡め取る────奪刀だっとう。そのまま流れるようなよどみない動作で放たれる斬り上げがヒモの右腕を刎ねた。「が────あぁああ、ぐッッ」イトの言葉がなければ首もそうしていただろう。聞き苦しい悲鳴があがる。喉を傷めているせいか、その声はひどくくぐもったものである。

 膝から崩れ落ちるさまを見やる。その姿は腕を断たれてなおも戦意をそこなってはいなかった。執念にとらわれた、まさに鬼ともいうべき姿であった。「妹君に感謝を」鬼への殺意をものがたるイトの眼は本気のそれであったからだ。彼女にとって任務とは絶対のものでないのかもしれない。今も少女を見張る包囲は健在であるから、彼らを通じて兄の進退を知るのはさして難しいことではない。「は……は」男がかすれきった笑いをもらす。「おれは、あれが身を立てれば、満足であるというに」死もいとわないふうであったが、遺言を伝えてやるつもりもなかった。従者たちが近づくのをためらっている様子であったから、少女は刀を捨ててその場をさっさと離れる。頭ではすでにもみじを奪還するすべしか考えてはいない。「おまえは────ほんものだ。ほんものの、鬼だ」その鬼こそが人の腕を一本奪っていったのだから、全く皮肉といわざるをえない始末であった。


 ワタナベ・イトは周囲を一顧だにせずして内裏を一直線に抜ける。常ならばありえないことだが、今は急を要する状況であった。その手の中には幼い風貌をした鬼の身柄があった。なにぶん小柄であるものだから、術によって練り上げられた彼女の膂力をもってすれば抱えこむのは造作もない。叛逆者と認められたものを内裏に置いておけるわけはないから、イトの目指す先は別にあった。大内裏正面に位置する朱雀門から朱雀大路に出て、迷うことなくまっすぐと南下する。

 こたびのイトの動向は他と連携してのものではない。今の情勢に乗りかかるかたちで申し出た提案がライコウに受け止められた、その結果なのであった。それゆえに動向を追いながら迎え撃つよう動いていた検非違使の手のものとわずかに齟齬をきたしたが、かえってよく裏を掻くことになったのは幸いであった。今は彼らと、そしてフジワラ・ナリマサの私兵があわさって少女の進路を阻んでいることであろう。

 実際、あっけないほどに邪魔も入ることなく東寺へと至る。東寺は九条通に面する羅城門東の寺院であったが、ここにはいくつかの伽藍が並んでいる。中でも北面に位置する食堂じきどうこそはかの少女に焼き討ちをうけたものであった。損傷が激しく、昼には今も職人たちの手による修復が続けられている。イトはそれを通り過ぎて伽藍のひとつ────御影堂へと至る。境内はすでに暗闇へとしずんでいたが、そこだけはいまだわずかな灯火をもらしているのであった。

 入口は閉ざされていたが、イトが歩み寄ると間もなくして控えるものが急いだように門を開いたものである。よく見てみれば、ライコウ配下にあたる武士団の中でも京の守護にあたるもののひとりであった。労いの言葉を投げ、堂内へと踏み入る。「失礼いたします────」静寂と暗闇が支配する世界を照らすよう、壁際に点々とかけられた灯火があった。薄闇の中、かすかに浮かび上がるふたつの人影。ひとつはイトの到来をもってしても泰然として動じぬ白髪の老翁。そして対するは神経質そうな面差しをたたえた三〇絡みの男────フジワラ・ナリマサであった。ナリマサはおおいに慌てて立ち上がった様子である。「や────やったのだな」ひとりでに声が震え、上擦るのを押し殺せないほどであった。

「こちらに」イトがその幼い身柄をゆっくりと横たえる。"黒縄"はいま、鬼を簀巻きにして戒めるにとどめていた。すると薄明かりに刺激されたのか、あるいは堂内の床がずいぶんと冷えたものであったか────鬼がゆっくりとその双眸を開かせたものである。「……ここ、は────」もみじは首を回して朱い視線をはしらせる。暗闇を照らす薄明かりにぼんやりと浮かび上がる不動明王坐像、そして三人の存在を知ったものであった。鬼はまもなく瞳をせばめ、いまわしげに眉をつる。「揃い踏み、といったところだのう」皮肉るもみじの身を引いて立たせ、イトがナリマサに差し向ける。「どのようになさいますか」

 鬼気迫る表情をしていたナリマサの顔がわずかにゆるむ。そしてもみじの矮躯を引き寄せると、いかにもいやらしげに口の端をつり上げた。悪辣といってさしつかえない笑みであった。「う゛────ぁ、ぐ」不意に鬼がうめき声をあげる。その幼い身体をくの字に曲げて膝から崩れる。えづきかけたように喉をふるわせる。ナリマサの拳が細い胴にめり込まされていたのであった。「よくも逃げまわってくれたものだな?」握った拳をほどき、ひらひらと手を揺らす。「躾けをしてやらねばならぬところだ!」居丈高にするナリマサを、もみじがまっすぐと見上げる。睨めつけている。苦痛にかんばせを歪めながらも「ふん」とその男をあざ笑わんばかりの様子であった。痛みを怒気で噛み殺しているのかもしれなかった。

 一瞬、その朱い瞳にナリマサが気圧される。「なんだ」まるでおそれを押し隠すように、ふたたび拳が握りこまれる。その手がわずかに震えている。振り上げられる。「なんだその目は────鬼め!」

「やめておけ」淡々とした声があった。小山のごとき老翁が鳴動したかと思えば、その声はまるで堂内に響くように行き渡るのであった。今まさに振り下ろされんとしたナリマサの手が、もみじの眼前でとまる。「我らはそれをえさにするのであるよ。滅多なことをするものではなかろう」「全く弱気ではないか、大将軍殿が!」ナリマサの讃える言葉には皮肉の色があった。静止をかけられたことが不満なのだ。「我らは逆賊を討ち取ることに力を尽くす。貴殿を守ることはその範疇でないな」だが、続けられたそれ────きっぱりとしたライコウの言葉にはっとした様子であった。振り下ろすところをなくした掌が、もみじの肩に落ちる。鷲掴みにしてその細い肩を圧迫するが、すぐに離れた。忌々しげな男の苦い表情は健在であった。だが、もみじの表情はといえば、その比でないほど気を悪くしたものである。

「ライコウ殿。いかな仕儀でありますか」自体を把握しかねるイトの問いに、ライコウがゆっくりと向き直る。「応」と低く頷けば、「くだんの忍よ。必ず討ち取らねばならぬものだ」そう断じたものである。その言葉に不思議なところはない。この鬼が叛逆者として処刑されることと全く同様であった。ライコウはもみじを顎で示していう。「こやつを、餌にする────網を張るということだ。我らがしかるべき場所へ連れてゆく」「危険ではありませぬか」「懸念はもっともだ」深く頷く。つまるところ、承知の上のことなのだ。「処刑は市井で行われねばならぬ。その場にかのものが乱入してみよ。ただではすむまい」より大きな危険の前ではやむを得ない、ということなのだろう。「先んじて禍根は断たねばならぬ」ライコウの声に熱はないが、果断であった。

「────兄上は、敗れました」「然様か」ライコウの声は重い。ワタナベ・ヒモはライコウの武士団でも筆頭格に値する男であった。彼が四天王の名を冠していないのは、ひとえにワタナベ・イトが名を負っているからにほかならない。ゆえに実力面では全く引けを取っていないのだ。イトがひとしきり納得をして頷き、背を向けた。その時だった。

「せんないことよ。小娘ひとりにおおわらわとは、まさしく。大将軍の名が泣いておろうのう」もみじがその華奢な肩をすくめて、いったものである。呆れたように吐息さえする。挑発なのは明らかであった。自暴自棄にも見えたが、そんなわけはなかった。少女の身を案じて、おびき寄せるための餌にはなるまいとしているに違いなかった。「黙れ、この、鬼めがッ」だが阿呆は挑発に乗っていた。イトはいささかうんざりするが、止めることもなかった。ナリマサがこけにされようとも思うところは何もないが、ライコウには尊敬の念が絶えないからだ。「おんしは輪をかけて最悪だがの。父祖からは悪所ばかり似たようじゃな」「手を挙げずにいてやれば、この下郎────」「静まれい」そして、喧々諤々とやりあいかけるのを止めたのは当のライコウであった。

「いかに繰言くりごとしようともその手には乗るまい。案ずるならばせいぜい娘を信じておるが良かろう」ライコウの断言である。もみじが肩を落として瞳を閉ざした。よもや元より期待はしていなかろうが、落胆の様子はあからさまであった。いちいち大げさで子どもじみた所作はとても鬼のそれとは思われないが、イトはつとめて黙したものだ。「────私は先に塔に向かわせていただこう!」ナリマサは肩をいからせて早足で堂内から出て、その後を私兵らしき従者があわててついていく。忌々しげにもみじを睨みつけたが、やがて夜闇にその身を伏せた。

「では、私もこれにて。失礼いたします」「後のことは追って伝えよう。おそらくは五重塔の守護にあたってもらうこととなる」五重塔とは東寺の境内に位置する巨大構造建築物である。言葉通り五層でなりたっており、その丈たるやなんと二〇〇尺をも上回らんかという代物であった。一礼してイトが堂を出かけたとき、ふいに聞こえる会話があった────何の気なしに立ち止まってしまう。

「よもやかようなめぐり合わせとなろうとは、いかなる因縁であろうか」「さてのう。おんしにとってはナリヒラの仇をとるまたとない機であろ」声色はたがいに敵も味方もない。永い時を生きたものにふさわしい穏やかさがあった。「今こそ問おう、鬼よ。貴殿はナリヒラを恨んでおったのではないか」「昔のことじゃの」鬼がけらけらと笑う。「どう思うておったか。とうに忘れてしもうたわ」「また裏切られるとも知れぬぞ」「それはそれで、よかろ。若い娘が命を張るのはしのびない。それもこの老体のためにの」鬼が笑みをひそめる。怒りも恨みもそこにはない。秘めやかな信頼といかんともしがたい諦観が同居していた。「妾はやはり、なごぅ生きすぎたのじゃよ」聞くべきではなかった。イトは影を振り払うように御影堂から離れた。

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