紅葉のいろは忍ぶれど

きー子

 洛中には京の南北をまっすぐに貫く二本の溝がある。これがすなわち堀川である。右京と左京のいずれにもあるそれだが、一条戻り橋は右京の堀川にかけられたものであった。ただ戻り橋とも呼ばれるそれはぞんがいこじんまりとした木橋であり、数知れぬ因縁を背負いこんだいわくつきの場所にはとても見えないのであった。しかもその木はよくよく見れば穏やかに朽ちかけていて、長く放っておかれているのだとたやすく知れたものである。七年前の傷痕がそこにはあった。

 もみじとしのぶはとうとうここに至ったものである。合間合間に身を潜め、一度抜けた包囲を散らすためにもとすでに二夜をへだてていた。人気ひとけはない。よくもこれまでと荒れた右京にも無法者のたぐいがしばしばあったものだが、それさえも見られなかった。北面は山の連なりであり、警邏のきびしい内裏がほど近いのだ。右京に居着くようなものであればあるほど、戻り橋にわざわざ訪れるわけはなかった。「鬼には出くわさずにすんだようだのう」もみじの戯れは止めどがない。余裕があるということだった。「幸いでございます。ここには式神もおらぬでしょう」少女はといえば、数多の追手を軽くいなしておきながら淡々としたものである。「セイメイはとうに死んでおるからな」「陰陽師の死など信用なりますまい」かたわらの鬼が大笑いしていた。

「長くて三日、この一帯を拠点とします」鬼が落ち着いたところで切り出す。しのぶの言葉はやはり最悪を想定したものであった。三日という時間に覚える鬼の物思い。「包囲が狭められやせぬかの」「さようにございます。問題は、出方次第ゆえ────早ければ明日にもなりましょう」実際にそうなる公算は高いと見る。対手たいしゅの指揮は適確かつ即応的であった。にも関わらず拙速に陥ってはいない。というより、速度をたっとぶあまり追い詰めすぎることがないようにしているかのようだった。暴発を恐れているのかもしれなかった。その意味で、誤解をおそれずにいうならば適当な対手といえた。

「ふふ────心配しておるのかえ?」「いえ。ただありのままに」「なればいかなるときも、そうしとぉくれ」「ご随意に」幸いなのは山から下る清流が生きていることだった。飲水にはことかかない。しのぶが芝居がかってうやうやしく応じれば、不意にいったものである。背中を斬られるような心地であった。「おぬしと共なれば苦ではないでの」鬼の微笑み────そう、まさに鬼である。かの名高きワタナベ・ツナこそかような美しさにだまくらかされたやも知れぬ。そうよぎるほどのものであった。「おたわむれを」思わず目をそらした。少女の言葉はつとめてすげない。

「先にお休みなさいませ」「襲うでないぞ」「私が守るものでございますよ」枝垂れた木陰にもみじが腰をおろす。少女がそのかたわらにある。それが当たり前であるように。着物をはだければ露わになるきゃしゃな肩。「────代わらぬでよいのかえ?」流血はないが痛々しい傷痕があった。もみじはそれを拭ってやりつつ、いったものである。動き続けての夜通しは無茶があろうと、気遣わしげな瞳であった。「差し支えはございませぬ」無理とはいつか祟るものだが、それまでもてば良いのだ。おまけにひらけた場所であるものだから、眠りの中であっても足音ひとつ聞き逃しはすまい。「明日はよく動きましょう。ゆえ、御身を気遣われるが肝要にございます」鬼も、それ以上は言わなかった。

 鬼は山から流れきた清水で布地を濡らすと、少女の傷口をよく洗う。赤い色がわずかに滲む。そのちいさな背中がまれに跳ねる。「痛む、かの」わずかな逡巡めいた間隙のあと、首肯があった。その表情はうかがえなかった。見えないからこそ、その心意を聞けたのかも知れなかった。「痛みは、するのであるな」「痛みは、障害ではございませねば」もみじが秘めやかに嘆息した。まるでそれが己の機能を口にするような語り口であったからだ。動きに差し支えのないよう緩く巻きつけ傷口を覆い、着つけなおしてやる。「ありがたき────こと」淡い笑みを見せ、鬼は樹の幹にもたれかかるようたたずんだ。片膝を立て、その膝を抱えるように。「……おんしも、よぅ休みや?」「はい」迷いが無さすぎてかえって不安であった。気がかりであったから果たして寝付けるものかという様子のもみじであったが、あっさり寝た。なにせお尋ねものに等しい立場だ。それはかなり神経をすり減らすものである。

 少女はしばし鬼の寝顔を見ていたが、すぐに周囲に気をかけた。網を張るかのごとくそうしたものだが、人の気配どころか足音ひとつさえなかった。あるのは川のせせらぎばかりである。そんな様子であったから、一刻もして少女もやはり休むことにした。眠っている間に忍び足でさらわれてはたまったものではないから、少女はもみじを抱いて寝た。秋口の夜なのが幸いであった。背中を刺激せぬこともちょうどよかった。

「しのぶ、ちと、大胆だのう……?」一刻と少しがすぎていた。朝というにはちょっと早いが、空は薄っすらと白んでいた。「よくお休みになれましたか」「────おかげさまに過ぎようぞ」羞恥と感嘆がないまぜになった声であった。もみじが赤くなったまましばらくかんばせを伏せっていた。

 さしあたって対手の動向を感じられたのは日がのぼってからだった。追手であるかと思われたが、下部ではないと一目でわかる。罪人を縛する役目を負った彼らは人ならざるもの────"すなわち非人ひにん"であるから、身に付ける摺り衣もそれと決まったものであるのだ。一方で少女が感じた気配は、あからさまに鎧を身にまとっているのだった。貴族の私兵か、内裏の衛兵か。見分けかねるものだが、それは重要ではない。つまるところ内裏近辺にまで追手がかかるに至り、系統を別とする兵が介入しているということが肝要であった。

 少女は彼らの目にふれたものと知り、もみじとともに西市へ向かう。糧食を得るためだった。対手の速度をかんがみれば長期的なやりあいにはなるまいと、数日分のそれである。なにより一度は内裏近辺に向かったものだから、今さらここで人目にふれることを厭うわけはない。むしろそれらを繋げて考えれば、事を起こす準備をしていると考えるものもあるだろう。余程でなければ陽動と喝破するだろうが、わずかな疑いを持たせられたらば十二分である。

 一通りの用を済ませれば事のついでと、川べりでふたりして食事をとることにした。よくよく考えれば、共に丸一日はまともにものを口にしていない。この御時世に餓えを経験しないものなどいたものではないから、それはある種の慣れっこだったのだ。永き時を生きる鬼に字句通りの忍というふたりであっては、実になおさらのことであった。

「しのぶ」「はい」「────腹をこわさぬかえ」鬼の瞳がうろんげにしのぶを見た。買いこんだ食料はほとんどが保存のきくたぐいのものだが、一部はすぐに食べてしまうものだからと新鮮なものを選んだのであった。「生は不得手でございますか」少女は血抜きのよくされた鴨をなますにして、焼きもせぬまま平然とぱくついたものである。魚ならばまだしも、ふつう鳥獣は生では食さない。決定的なずれがあった。「おんし、なにを食うておったのだ……」もみじが半眼にまでなったものだから、少女がつらつらと語る。つまるところ里にあったころの食事であった。なんの問題もうかがえそうになかった。

「どうしてそうなったものかのう」「母上の教えなれば」「へ?」鬼の気の抜けた声がもれた。自然と目を丸くする。果たしてなんの関係があろうものか。「好き嫌いのなきようにと」「おんしは孝行が過ぎる」もっとも、少女の言葉には理があった。火をおこすにも手間がかかる。つまるところ追手にかかり食いっぱぐれては元も子もないわけだが、しぶしぶといった様子が全くないのが気にかかった。生存力がずば抜けているぶん、生活力が犠牲になっているのかもしれなかった。

 とはいえ、もみじのそれとて大差があるわけではない。竹の皮に包まれたすずきの干物に軽く酢をつけ、これをつまむのである。実際のところ生魚をなますにしたいところであったが、内臓まで使いきってやれる余裕がないのもあって断念したのであった。値も少し張る。「時が許せば釣り糸を垂らしてやろうものを」「腕に覚えがございましょうか」「妾に任しや。調理まで万全であるからのう」ふたりして味噌をつけた胡瓜だの人参だのをかじっている。おおよそ人間らしいと言いがたい食事をしていながらでは説得力がかけらほどもなかった。「いずれおんしに妾の釜の飯を覚えさせてやろうでの。覚えておきや」「御意に」勢いづいて立ち上がる。わびしいくせにかえって覇気を奮い立たせるもみじであった。

 少女はそれに思う────諦観。その後というものを思えぬのであった。"雑賀の"しのびであるがゆえに。いかんともしがたく。


 あからさまに検非違使の下部からは距離を取られていた。一条大路までの道程で少女は感覚する。手を出しかねているというより、その動向を掴むことに専念しているかのようであった。まっすぐに動くことを避け、小路を適当に何度も曲がり続けながらふたたび戻り橋へと至る。撹乱のためではなく撹乱しているという印象を与えるだけのものであった。橋のたもとで止まるが、包囲が狭まる様子はやはりない。つまるところ、彼らに捕える意図はないのであった。だが、包囲が破れたときに必ずそれと知れるようつとめている。

 宵の曇り空を一瞥する。「一荒れくるやも知れませぬ」「夜を待っておったか」「おそらくは」まさに少女と同様の考えであった。引きつけられたまではよい。そこから振り切れるならば理想的だ。だが、背に張り付かれるような状況はうまくない。つまりは今のことだ。「ゆえに、好機でございます」「────算段はあるのであろ?」もみじが当たり前のようにいったものである。そこには不安もいぶかしみもない。「つまるところ、正念場。内裏の衛兵か、あるいはといったところ。押し返せば返す刀で切り込めましょう」問題となるは、もみじを守りながらそれを出来るかどうかだ。

 やるしかあるまい。そう考えたところで不意打ちを食う。「身を隠すのならば得意じゃぞ。"隠形"はよく心得ておる」鬼の言葉であった。少女がにわかに瞬きして続きをうながす。「長くはもたぬし、一度見つかれば無意味であるがの。不用意に動いておっても見つかるようなものよ」ライコウからは逃げ延びてやったがのう、と底意地の悪い微笑。鬼の伝説が思い返され、得心した。時間制限は、つまるところここが京であるからであろう。魔除けだの神社だの仏閣だのが至るところに張り巡らされている土地なのだ。「……情けないことだがの、おんしとしては一番よかろう?」幼い笑みする口の端をそのまま釣り上げる。つとめて明るい様子であった。

「────不躾なれども、所望いたします」少女がいう。内裏の衛兵などならばまだしも、四天王のたぐいを相手に大立ち回りを演じきれる保証はなかった。なにより、待ち構えることができる優位を活かさぬ手はない。ひとえに力不足とそれを求めなければならない不甲斐なさがつのったが、声は静かだった。「うむ」もみじが頷き、はれやかに笑む。「しのぶ────信じておるぞ」そして黒い打掛を羽織る姿が木陰に寄り、闇にとけるように陰った。驚くべきことに、たったいま目の前にしていたしのぶでさえも薄っすらとして見えるほどの"隠形"であった。息遣いか体捌きかあやしの力か。いずれとも知れぬそれが幼い鬼を夜に秘めさせたのである。

 夜の帳が下りる中、一条戻り橋のたもとに少女は立つ。周りを囲う漠然としたいくつもの気配を感覚するうち、急速に肉薄する一塊があった。それは少女の背後であって、ちいさな橋の向こう岸でもあるのだった。それは従者をひきつれるひとりの若い男であった。ふたりの従者はただ松明を手にして暗闇を晴らしており、男の背後につき従うばかりである。そして男が前に進み出た。草鞋が木橋をにわかにきしませる。つくりの整った顔立ち、簡素な狩衣、腰に刀を二振り佩いた武士。その全容が灯火の明るみのもとにさらけ出される。「おまえ」少女がゆっくりと振り返る。橋をはさんで相対する。男が愉快げに笑みを浮かべた。「また会えようとはな」ワタナベ・ヒモがそこにあった。

「なにようにございましょう」火に照らされる面差しを見やる。「茶のひとつも頂けるようには見えませぬが」「所望なれば、先払いよ」ヒモがその手を刀の柄に伸ばす────音もなく抜き放たれる。火の光をてりかえす刃が目にもあらわになる。「腕、一本。置いていってもらおうではないか」「とんだ暴利もあったもの」「鬼に求めるものなど、それくらいのものよ」白くかがやく剣先が、迷いなく少女へと向けられる。端的にいって業物であった。目を凝らす。その表情はまばゆさに遮られてうかがえなかった。「名を問うておこう」「ございませぬ」即応する。あの名は、鬼のものである。ゆえに首をふる。

「さて、では、茨木童子とでも呼んでやろうものか」「鬼にはございませねば」もしも少女をそれと誤解しているならば幸いであるが、そんなわけはない。目の前の男はまごうことなくワタナベ・イトと通ずるものである。「残念だ。先々代ツナの墓にでも備えてやりたいところであったが」足元の橋が悲鳴のように軋みをあげる。剣先が残光を引いてはしった────そのときすでに少女の身体は飛び退っている。だが、襟から胸元にかけて浅く斬られたあとがあった。

 少女はただ一手で確信する。「構うまい。さいわい、俺の腕はよく振るえそうであるからな」これの剣はワタナベ・イトよりも上手うわてであると。

 趨勢すうせいは徹底して男の側にあった。少女よりもはるかに恵まれた体格であり、そして得物を活かした間合いを保ち続けているのであった。矢継ぎ早に繰り出される剣閃はまったく少女の身体を寄せつけるところがない。一閃の疾さたるや少女がその切っ先を見切れぬほどのものであって、紙一重でかわしきることがきわめて難しい。下手を打てば一瞬にして脳天をざっくりと断たれることであろう。かようなまでに遠慮のない太刀筋であるから、少女を鬼と誤認しているわけはなかった。つまるところ、禍根を断ち切ってからゆっくりと探しだそうという算段であったか。

 ワタナベ・ヒモが残心とともに少女を一瞥する。「防戦一方か」咎めるような、あるいは失望の色がわずかにあった。少女は黙してこたえない。実際不利にしか見えないような戦況なのである。どうか出てこられますまい────近くにあるのであろうもみじにそう祈りながらやはり少女は相対するのみ。「────ッ」ならばいっそと男から振るわれる剣はすなわち連撃。それも、ただ続けて放たれているわけではない。一太刀がかわされたとき、敵手はいかにして避けているか。それを想定したうえで回避を確認した直後、少女が避けた先へと刀身が走るのだ。それはさながら数十手の先までも最適化された定石であるがごとき、剣の理の具現。手を尽くす間を与えずして斬ることのみに特化した、おそるべき執着の賜物であった。

 事実、少女は足並みを乱して見えた。手を返す間がないのは、つまり余裕を最小限までにそぎ落とされることを意味するものである。剣の軌跡を認める間がなくなり、どちらに躱すかを考える隙もない。かといって反射に任せていればいつかは後ろが詰まってしまう。しかし少しでも迷えばそこで刃に追いつかれる。受け手からしてみればいかんともしがたい二律背反に追いこまれる、きわめて悪辣な剣技といえた。「────なるほど」ちいさくうそぶく。息を切らしたふうでもないが、余裕はあまりない。今の少女は前者、半ば身体に動きを任せるかたちである。ゆえに必然、こうなる。

「獲った────」斬り下ろしが空を過ぎる。滑るように後ろへ退いた少女の後がつまる。背には朽ちかけた屋敷の塀があった。次の手に横薙ぎが来たりて必殺。詰みである。瞬間、ヒモは手首を返してわずかに刃を引く。彼の刀は三尺四寸におよぶ。そうしなければ刃を石壁に引っ掛けてしまいかねなかったのだ。やむをえぬことである。そしてまさに刃は鮮やかな弧を描き、少女へと向かう。

 そして、届かなかった。「ぐッ────アガッ」結局のところ、刃を引いたことが致命的な隙を生んだ。ほんの刹那の動作であったが、少女はそれを見逃すことがなかった。ヒモが"必ずそうする"と予見していなければ、絶対に突くことの出来ないような微細な間隙にも関わらずである。鞘走るように抜き放たれた少女の剣指けんしが瞬く間にヒモの喉頭こうとうを破壊する。呻きをあげて後ずさるその身を逃すことなく鷲掴みにし、引きずり倒すように頭から叩き付ける────したたかに後頭部を強打したものである。

 振るわれている剣を目視することは、少女にさえも困難である。だが、少女はその刃渡りをとっくに知悉していた。勝負の前に剣先を突きつけられたその瞬間から、彼女の双眸ははっきりと男の刀身を目測していたのだ。後は追い詰められているかのように振るまいながら引きつけて誘導、後が詰まったところでいかんともしがたく生じる隙を叩く。ただそれだけのことだった。勝負は始まる前にほとんど決していたのである。「な…………ぜ」ヒモは倒れながらうめき、意識を絶やす。少女は答えなかった。一瞥もせず、放ったらかしにして駆け出した。

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