紅葉のいろは忍ぶれど

きー子

 鬼を抱いたまましのぶは走り続けた。その脚はやがて西京極、葛野川かどのがわ流域へとおよんだ。この一帯は地質的な問題のせいで発展が遅れていた。これは京の西側、右京に敷衍していえることである。したがって左京ほど人が多くない。当然、治安も一段階落ちる。検非違使は今でも手一杯なものだから、右京にまで勢力を行き渡らせることは実際難しい。むろんのこと、少女はそれらを知悉のうえでここまでやってきたのだった。

 抵抗を許さぬように抱えたもみじを川べりに下ろし、少女もまた座りこむ。息がかすかに乱れている。「しのぶ」気遣わしげな鬼の声。少女の白く整った鼻梁に一筋の汗が流れる。その一方で背中の傷はあからさまに深い。「心配はございませぬ」しかし少女はあっけらかんとしていた。旅の荷から指先大の黒くて丸いなにかを取り出し、いったものである。「これなるは秘伝の丸薬。ひとつぶ口にせばたちまち痛みは失せ、傷も一昼夜にして消え失せる代物でございます」手早く放りこむようにして口にする。がりがりと音を立てて咀嚼。もみじはそれをただ間近で見ている。

 そして、程なくして切り出すのであった。「しのぶ」「はい」「橡木とちのきの実であろ」沈黙が応じた。図星であった。山が長いもみじにとって京の都の闇は浅い。植生の知見もまたお手のものである。当然、橡木にそのような薬効はない。「切るものを貸しとくれ。傷は看なければなるまい」躊躇するしのぶであったが、「妾にはかようなことしかできぬでな」鬼のもの寂しげな面差しに屈してしまった。刃渡り一尺にも満たぬ短刀を手渡す。

 もみじは着物を裾からばっさりと切る。帯状の布がいくつか出来る。それを重ねてよく洗う。傷口もまた同様である。そして着物をはだけさせると、布を幾重にも重ねたそれで縛りつけるように傷口を覆う。間に合わせの処置以上のものではない。赤い布地がみるみる紅く染め上がる。一通りをすませると、もみじは短刀を宙にかかげる。目を閉ざす。歯を食いしばる。「────っ!!」そして突き立てた。鬼の肩口に。

「────もみじ殿っ」なんたる迂闊、間抜け、不心得者か! 自身を呪う内側の声が、それ以上の驚くべき言葉によってあまねく排他される。「呑みや」傷は深くない。まっしろな肌に浮かぶ珠の血。肩の近くを無造作に流れていく。「鬼の血は傷病に良薬よ。長生きもしてみるものじゃな」「……まるで八百比丘尼」「八〇〇は生きておらぬさ」二〇をこえてからは数えておらぬとれる鬼の微笑。

 闇夜に滲む、白磁を背にした鮮やかな紅。目の前のそれに口付けるなど、少女には当然ためらわれた。あまりにも美しすぎたからだった。ゆっくりと首を振るのに応じてもみじが淡い笑みする。「安心しい。人魚の肉じみた力はもたぬよ」「そうであったらば幸いと。任を遂せるに最適でございます」「任、であるか」人魚の肉を口にせば永劫を生き長らえる。それを踏まえても言い訳じみた少女の言葉であった。たがいの視線が極まって近しく交差する。「それゆえにおんしは身を張るのかえ」「その他なく」端的な声が応じる。「戸隠のものであろ。依頼主は」しのぶが黙する。もみじは全く気にしていない。すでにそれを確信しているのだ。

「妾はちとなごぅ生きすぎた。これ以上におぬしのような小娘の身を張らせるはしのびない」実際、少女は目の前の鬼と出会って半日とたっていない。雑賀の忍である異常な律がなければありえぬことであった。「しかれども、貴女を必要とするものがおりましょう」「不要じゃ。きゃつらが要するのは信ずるものよ。妾が失せども信仰は残る」鬼がそう断言したものである。幼い姿に似つかわしくないほどの、そして生きた年月にふさわしい重みがあった。

「しからば」少女が感性をつくして言葉をつむぐ。背中の傷の痛みを忘れている。「縛られぬ生を得るも幸いではございませぬか」「必要とされるもののない生にいかなる意味があろう?」「自由を」即応した。そして真の名さえ持たない自分が自由を語る滑稽さにおかしくなって、思わず笑ってしまったものである。鬼もまた笑っていた。あざ笑うのでもなく、本当に愉快そうに。「おぬしが自由を知るか」「いえ。不要物には違いありませぬが」悲しみのひとつもなくただの事実としてしのぶは語る。「さようかえ? 妾はしのぶが必要であるのだが」────だからその言葉は不意だった。阿呆のように口が開きっぱなしになる。

「貴女が身を捨つならば不要にございましょう」「妾が身を投げたなら、おぬしは無事に済もう。簡単にはいえまい?」「任を果たしえぬ忍の末など知れたもの」見開かれた瞳をつとめて眇める。胸の内を穏やかに静める。少女の声色ばかりは全く平静である。「ふぅむ」鬼が首をひねる。そして得心のいったように幼いまでの腕がしのぶの背に回される。「つまるところ、おぬしには妾が必要というわけだのう」

 ────白旗であった。観念するほかない。少女はその唇を傷口につける。肩口にかんばせがもたれるように伏す。ぴちゃ、とわずかな水音。ちいさな舌が赤朱をすくう。応じてもみじが少女の頭を抱きすくめる。それはさながら母が乳飲み子をそうする様にも似ていた。少女の黒い髪が風にそよぐのを穏やかに梳いた。「────ぁ、ふ」くすぐったいように鬼の声が漏れるが、抱いたままであった。傷の具合を確かめるように背に触れると、しのぶの身体が腕の中でちいさく震えた。しばらくそうしていた。葛野川の水面が淡く朝陽にきらめくまで。


 三〇絡みの男がフジワラの邸内にあった。男の面差しは苛立ちもあらわなそれであった。「心底使えぬ者共め────」鬼の失踪である。これにあたって家中の何人かの首が飛んだ。理由はおおやけにできぬため内々のことであったが、それとしては苛烈の一言であった。男────フジワラ・ナリマサはそれから昼を待たずして兵部の長と連絡をつけた。公的なものでなく私的な繋がりであったため、密会はナリマサの自邸で行われることとなった。ナリマサは肩をいからせ大仰な足取りで客間へとおもむく。几帳をわけて入れば、さても客人はすでにそこにあった。

 それはさながら小山のごとき男であった。後ろに流された総白髪に狩衣の翁。白い髭が仙人めいてたくわえられているが奇妙に汚らしくはない。老いを隠しえぬ男はしかし腰の曲がったところなど無く、刀は脇に置き、静かに湯呑をかたむけたものである。貴人の屋内やないでありながら平然としているものだから、彼もまた相応の身分のものであるとはたやすく知れた。

「ご足労感謝する。ライコウ殿」言って座する。小山が静かに鳴動した。「構わぬ」かわいた声が重く響く。老いさらばえてはいたが、芯があった。「挨拶は抜きにさせていただこう」危急のことであるからだ。そう前置きして、自分の茶を一口した。「鬼が、失せた」「察している」当意即妙の声にナリマサが目を剥いた。「なんだと」「羅城門、そして東寺に火がかかった」「聞いている。それがどうした」ナリマサは苛立った様子である。「面倒なときに面倒なことを────」と、そういう認識をしているのであった。

「我が配下の報による。子連れの女だったそうだ」子連れ────ナリマサが翁に迫る。翁もまた彼の事情を承知していた。かの鬼を軟禁するに至る経緯には、彼の思惑も関わっているからだった。「捕らえたのか」「逃した。手傷は負わせたものの、凄まじい手練のようであるな」翁が悠長に茶をすする。なんともかくしゃくとしている。「そんなことは良いのだ! 犬は放ったのか!?」「途中でにおいが切れた。補足には今しばらくかかろう」「ぐっ────」災厄からの復興に際して都市計画の拡充を推し測ったのがあだとなったか。ナリマサは歯噛みするが、いかんともしがたい。

「人相、諸々の情報をいただきたい。兵子へこに回すのだ」「なまなかではいたずらに犠牲を増やそうぞ。ここは抑えるところであろうよ」「犠牲?」ナリマサが笑った。「結構なことだ! 犠牲をもって捕えられるならば私がいくらでも支払おうではないか。はは」言葉に応じて翁が手を打つ。使用人に紙と筆を所望し、あらかたの言伝を残して席を立った。そのつもりならば止めるべくもない、といった様子であった。「我らもまた独自に動く。伝えるべきは伝えよう。だが、ことを構えるならばこちらであるべきだ。いらぬ犠牲を払わぬためには」せめてそう言い残して、翁────ゲンジ・ライコウが几帳の脇を抜ける。

 齢はとうに一〇〇を越すとさえ語られる生ける伝説。そしてライコウ四天王と呼ばれる者たちの発足人であり、長でもある男だった。そして、彼と私的といえども対等な口をきくナリマサもまた、「異様」の評を禁じえない男であった。

 フジワラ・ナリマサは七年前まで、一介の貴族であった。それも没落した貴族に過ぎなかった。

 七年前の都は荒れ果てていた。絶え間ない暴風雨があった。山々をも揺るがすような大地震があった。加茂川、葛野川の両河川はひっきりなしに氾濫を繰り返した。荒廃する土地に病が染みついた。地獄の釜から押さえつけていたものがふきだしたような有様であった。それら全ての災厄は宮中の謀略によって刑死した上皇の祟りであると囁かれた。彼は今もなお都内にて"地之皇つちのすめらぎ"────"天之皇あめのすめらぎ"にゆいいつ対しえるものとして崇め奉られている。それほどのものであった。

 これに際して都では独立の気運が爆発的に高まった。表立ってのものではないが、一部の貴族らが私兵を率いて反旗をひるがえす気配があった。各地方への影響は大きくなかったが、それでも動乱が頻発した。"皇"の権威も風前の灯火といってよかった。

 そこに現れたのがナリマサであった。彼の家は数十年も前に汚名をかぶったせいでくすぶり続け、じっと力をたくわえることに終始していた。大方の予想を外さず、彼は独立をこころざす上流貴族の一派へと取り入った。その手腕は控えめにいっても巧みで、ますます"皇"の地位は脅かされる一方と考えられた。

 そして実際にそうはならなかった。全ての情報が大内裏へと流れていたのだった。結果、私兵を挙げた貴族はまとめて取り潰された。ナリマサを除いて。情報を流したのはナリマサであったからだ。まさに大儀である。ナリマサの叛意は偽りのものと見なされ、おおいに恩赦が与えられた。むろん、ナリマサの叛意は本物であって途中から鞍替えをしたのだと考えるのが妥当であったが、誰も指弾することが出来なかった。それほどまでに都はいちじるしく荒れていた。

 それからのナリマサは皇のためにと朝廷へ尽力した。建築をやり、治水をやり、政治をやり、検非違使をよくしたものである。荒廃した都とその周辺の立て直しに彼が果たした貢献は少なくない。復興の裏側では多くの民が使い潰されたが、知ったことではなかった。栄華を極めたかつての都とまでは言わずとも、京は少しずつ繁栄を取り戻していた。全ては彼自身の野心のためであった。皇を飾りの権威におとしめ、自儘に執権として振る舞うためであったのだ。ナリマサの齢は三〇を数えるが、すでにして盤石は近しくあった。

 そこに偶然舞いこんできたのがかの鬼であり、難物ではあるがうまくやれば過去の汚名をすすぐ機会にもなるはずだった。そのはずであったのだ。それをこのようなかたちで、わけのわからぬうちに逃してなるものか────ナリマサはすぐにも私兵に命を放った。鬼を、そしてそれを攫った女を捕らえよと。市井にて名無しをうたう奇矯な女を刑するべく。

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