それでも俺は帰りたい~最強勇者は重度の帰りたい病~
第五十五話 魔物を苦しめるようなことはしたくないのよ
今日は、いつにも増して静かな夜なのよ。
そう思うのは、昼間がいつも以上に騒がしかったからかもしれない。硬いベッドに横になったまま、あたしは目を閉じずに薄暗い牢の天井を見詰め続けていたのよ。
そう、ここは牢屋。監獄。罪人の収容所。
あたしは、あたしの愛する魔物たちによかれと思って酷いことをしてしまったのよ。魔物に人間たちを襲わせた元凶として投獄されたのも、仕方ないこと。あたしはそれだけのことをやったのよ。納得は……しているのよ。
「こうなったのも、全部あいつのせい……だけど」
あいつがいなければ、あたしは今も〈呪い〉を〈解放〉だと勘違いして魔物たちを苦しめていたに違いないのよ。
だから、これでいい。
「……それにしても」
あたしは首だけ横に向け、牢の鉄格子を見たのよ。
昼間に押し入ってきた勇者が壊した扉の鍵は、もう新しい物に換えられているのよ。
全く意味がわからなかったのよ。その後で勇者の連れの魔導師や王女までやってきて、一体なにがしたかったのよ……?
でも――
「ちょっと、楽しそうだったのよ」
羨ましい。
まだ幼かった頃、魔物の姉妹たちと戯れていた自分を思い出してしまったのよ。
あの頃にはもう戻れないのよ。あたしは、このまま……
「はぁい♪ 夜分遅くにくぉーんにーちはぁー♪」
静謐だった牢獄内に、底抜けにふざけた明るい女の声が木霊したのよ。
「――ッ!?」
あたしは反射的に飛び起きたのよ。この牢獄に女はあたし以外だと一人しかいない。でも、その一人は対面の牢屋なのよ。どっかの盗賊団のボスだったらしい女は――すやすや、と。硬いベッドも慣れたものと言わんばかりに眠っているのよ。
声の主は見当たらないのよ。でもすぐに――
「おっじゃまっしまーす♪」
そいつは、まるで夜の闇から染み出るように、あたしの牢屋の中に現れたのよ。
「誰なのよ!?」
薄暗くてもわかる綺麗な金髪をした、あたしより一回りほど年上の女だったのよ。背が高くて凹凸がハッキリしていて、あたしは別に羨ましくはないけど、人間の女の理想が詰まったようなスタイルなのよ。
貴族の女が着るようなロング丈のドレスを纏ったそいつは、色素の薄い銀色の瞳であたしを見詰めてニコリと笑う。そして、手に持った指揮棒のような杖を軽く一振りしたのよ。
ガチャリ。
あたしを繋いでいた枷が外れたのよ。
「〈呪いの魔女〉ゼノヴィア・キルマイアーちゃん♪ お姉さんがお迎えに上がりましたよん♪」
女は唇を妖艶に歪めてそう言ってきたのよ。
あたしはこんな女なんて知らないのよ。だけど、相手はあたしを知っているのよ。捨てたはずのファミリーネームまで。
迎えに来たということは――つまり。
「暗黒神教会……ッ」
あたしをお尋ね者にしたそいつらが、ついに引き取りにやってきたということなのよ。
そう思ってベッドから立ち上がったあたしに、女は顔の前で人差し指を振ったのよ。
「ノンノン♪ そうじゃないの。そうじゃないわ。彼らに引き取られたらゼノヴィアちゃん処刑よ? しょ・け・い♪」
教会関係者……じゃない?
「だから、その前にこうして助けに来たってわーけ♪」
助けに?
あたしを?
なんのために?
「安心して。警戒しないで。あなたのことはお姉さんが守ってあ・げ・る♪」
やたらと声を弾ませる女。けど、誰も様子を見に来ないのよ。看守は留守なのよ?
そんなわけないのよ。
たとえ看守がたまたま席を外していたとしても、すぐ隣や前の牢で寝ている囚人たちは気づくはずなのよ。盗賊団のボスの女なんて微塵も目覚める気配もない。気持ちよさそうに寝息を立てているのよ。
魔法で、みんな眠らされているのよ。
「……何者なのよ?」
改めて問うと、女はどう言えばいいかと悩むように顎を指で持ち上げたのよ。
「う~ん、そうねぇ。お姉さんたちはどこの教会にも所属しないハグレ者。通称――『魔女の集い』」
「聞いたこともないのよ、そんな奴ら」
「なくて結構。寧ろあったら困っちゃうわね♪ 一応ヒ・ミ・ツの組織なわけなので♪」
胡散臭いのよ。
でも、だけど、ハッキリしていることならあるのよ。
こいつは、たぶんあたしより強い。
魔導師としての格が違うのよ。
「あたしを、どうするつもりなのよ?」
「お仲間に♪ あなたにはその資格があるわ♪」
「資格?」
「そう、資格♪」
女はあたしの殺気なんてどこ吹く風といった調子で、蠱惑的な動きで胸の谷間へと手を突っ込んだのよ。
そこから取り出したのは――分厚い、一冊の本。
「なんでそんなところからそんな大きい物が出て来るのよ!?」
「あら? ああ、可哀想に……ゼノヴィアちゃんはまだ知らないのね。いい女の胸ポケットは可能性が無限大なの♪」
「魔物に育てられたあたしでも『胸ポケット』がそういう意味じゃないことくらい知ってるのよ!?」
物理的にあり得ないってことは魔法を使っているのよ。それとももしかして本当に、胸が大きくなればなんでも収納できるのよ? あたしの平坦な胸では起き得ない奇跡が……?
「それはそれとして……こぉれ、見覚えあるでしょう?」
「それは……ッ!?」
女に本の表紙を見せられ、あたしは胸のことなんて忘れて絶句したのよ。
古びた焦げ茶色の表紙に、複雑な魔法陣と人類語じゃない文字が描かれたその本は……まさか……間違いないのよ。
少し前までなら希望の、今では忌々しい魔法の使い方が書かれていた――
「そう、あなたも読んで一部だけど解読と実証に成功しちゃった禁書♪ 序章において〈改変〉の魔法が記された『ヘロイアの書』――その写本」
あたしが魔物たちを数々の縛りから〈解放〉するものだと思い込んでいた魔法。
実際は魔物の意識を凶悪に歪め、それが本能だと上書きしてしまう最悪の〈呪い〉だったのよ。
恐らく、目の前の女はあたしよりも解読を進めているのよ。〈改変〉の魔法と口にしたことがその証拠なのよ。
「お姉さんたちの主な活動は知識の収集。世界に散らばる禁書を紐解き、研究し、試す。最終目標は世界の〈創造〉――そう、神の御業に至ることよん♪」
馬鹿げているのよ。
神のように無からなんでも生み出そうと言うのよ? そんなの夢ですらないのよ。人間が生み出せるものなんて限られて……いや、そういえばあいつはいろいろ〈創って〉たのよ。
勇者は、神なのよ?
「はいこれ、お近づきのシ・ル・シにあげちゃう♪」」
女があたしに『ヘロイアの書』の写本を押しつけてきたのよ。
「いらないのよ」
「いいからいいから♪」
「返すのよ!?」
「はいもうダメよん♪ もうお姉さんから所有権はなくなりました♪ それはゼノヴィアちゃんの物。大切に読んでね♪」
そう子供みたいなことを言ってから、女はステップを踏むような軽やかさで後ろに跳んだのよ。
「さあ、お姉さんと一緒にここを出ましょう? 殺されるのをただ待つ無意味な日々なんて捨てて、世界の真理を目指しましょう♪」
「……」
そんなものに興味はないのよ。あたしは、あたしの罪を償わないといけないのよ。その方法が『死』であるなら、謹んで受け入れるのよ。
無理やり渡された禁書は、ポイッと放り捨て――
「断るのよ」
「あら?」
舞い踊るようにその場でくるくると回っていた女に、あたしはハッキリ言ってやったのよ。
要するに、こいつらの仲間になって、『ヘロイアの書』だけじゃなく世界中の禁書を暴いていくってことなのよ。
あたしが言えた義理ではないかもしれないけど、禁書は、使っちゃダメだから禁書なのよ。
「理由を聞いてもいいかしらん?」
「簡単なこと。もう二度と、魔物を苦しめるようなことはしたくないのよ」
告げると、女は一瞬きょとんとしたのよ。
それから黙って頭の中でなにかを考えて――納得したように微笑んだのよ。
「ふぅん♪ いいわね。いいよね。愛に溢れたその言葉。お姉さんは嫌いじゃないわ♪」
ヒュッと。
女は杖をなぜか後ろ向きに振るったのよ。
「……?」
なにも起きない……いや、この女は絶対になにかをしたはずなのよ。牢屋が壊れたわけでもない。前の牢にいる女囚人が花火になって血を撒き散らしたわけでもない。
女はくるりと踵を返して、堂々と牢屋の扉から出て行ったのよ。わざわざそこからじゃなくても、現れた時みたいに魔法で帰ればいいのに――なんで、鍵が開いてるのよ?
さっき見た時は……いや今だってずっと鍵はかかったままなのよ。
「ふふっ、鍵は開けておくわ。ちゃんと施錠されているように魔法で見せかけたから」
女は鉄格子越しにあたしを見詰め、
「いつでも好きな時に、その気になったらお姉さんのとこまでいらっしゃい♪ お姉さん、もう少しだけこの王都で『実験』する予定だから♪」
少しだけヒヤリとする言葉を告げられたのよ。
「実験? なにをする気なのよ?」
「気になる? 気になっちゃう? だったら、自分の目で確かめてごらんなさい♪ ――でもまあ、お姉さん親切だから、ちょっとだけ教えてあげる♪」
女はパチリと片目を瞬かせたのよ。男だったら一発で魅了されていたかもしれないその仕草に、あたしは悪寒しか覚えなかったのよ。
「ええ、とっても楽しいことになるわ♪」
女は心底そう思っているように笑って。
お気に入りのオモチャを手に入れたとでも言うように。
「例えば、お昼に魔法で透明になってまで男の子を追いかけていた女の子とかが♪」
実験の生贄が既に存在していることを教えてくれたのよ。
……誰だか知らないけど気の毒なのよ。人間がどうなろうと、あたしには関係ないのよ。
でも。
だけど。
「お前の名前くらいは聞いてやるのよ」
「ヘラヴィーサ・ホルバイン。――〈幻惑の魔女〉って呼ばれているわん♪」
こいつは、あたしにとっても放っておいたらまずい気がするのよ。
そう思うのは、昼間がいつも以上に騒がしかったからかもしれない。硬いベッドに横になったまま、あたしは目を閉じずに薄暗い牢の天井を見詰め続けていたのよ。
そう、ここは牢屋。監獄。罪人の収容所。
あたしは、あたしの愛する魔物たちによかれと思って酷いことをしてしまったのよ。魔物に人間たちを襲わせた元凶として投獄されたのも、仕方ないこと。あたしはそれだけのことをやったのよ。納得は……しているのよ。
「こうなったのも、全部あいつのせい……だけど」
あいつがいなければ、あたしは今も〈呪い〉を〈解放〉だと勘違いして魔物たちを苦しめていたに違いないのよ。
だから、これでいい。
「……それにしても」
あたしは首だけ横に向け、牢の鉄格子を見たのよ。
昼間に押し入ってきた勇者が壊した扉の鍵は、もう新しい物に換えられているのよ。
全く意味がわからなかったのよ。その後で勇者の連れの魔導師や王女までやってきて、一体なにがしたかったのよ……?
でも――
「ちょっと、楽しそうだったのよ」
羨ましい。
まだ幼かった頃、魔物の姉妹たちと戯れていた自分を思い出してしまったのよ。
あの頃にはもう戻れないのよ。あたしは、このまま……
「はぁい♪ 夜分遅くにくぉーんにーちはぁー♪」
静謐だった牢獄内に、底抜けにふざけた明るい女の声が木霊したのよ。
「――ッ!?」
あたしは反射的に飛び起きたのよ。この牢獄に女はあたし以外だと一人しかいない。でも、その一人は対面の牢屋なのよ。どっかの盗賊団のボスだったらしい女は――すやすや、と。硬いベッドも慣れたものと言わんばかりに眠っているのよ。
声の主は見当たらないのよ。でもすぐに――
「おっじゃまっしまーす♪」
そいつは、まるで夜の闇から染み出るように、あたしの牢屋の中に現れたのよ。
「誰なのよ!?」
薄暗くてもわかる綺麗な金髪をした、あたしより一回りほど年上の女だったのよ。背が高くて凹凸がハッキリしていて、あたしは別に羨ましくはないけど、人間の女の理想が詰まったようなスタイルなのよ。
貴族の女が着るようなロング丈のドレスを纏ったそいつは、色素の薄い銀色の瞳であたしを見詰めてニコリと笑う。そして、手に持った指揮棒のような杖を軽く一振りしたのよ。
ガチャリ。
あたしを繋いでいた枷が外れたのよ。
「〈呪いの魔女〉ゼノヴィア・キルマイアーちゃん♪ お姉さんがお迎えに上がりましたよん♪」
女は唇を妖艶に歪めてそう言ってきたのよ。
あたしはこんな女なんて知らないのよ。だけど、相手はあたしを知っているのよ。捨てたはずのファミリーネームまで。
迎えに来たということは――つまり。
「暗黒神教会……ッ」
あたしをお尋ね者にしたそいつらが、ついに引き取りにやってきたということなのよ。
そう思ってベッドから立ち上がったあたしに、女は顔の前で人差し指を振ったのよ。
「ノンノン♪ そうじゃないの。そうじゃないわ。彼らに引き取られたらゼノヴィアちゃん処刑よ? しょ・け・い♪」
教会関係者……じゃない?
「だから、その前にこうして助けに来たってわーけ♪」
助けに?
あたしを?
なんのために?
「安心して。警戒しないで。あなたのことはお姉さんが守ってあ・げ・る♪」
やたらと声を弾ませる女。けど、誰も様子を見に来ないのよ。看守は留守なのよ?
そんなわけないのよ。
たとえ看守がたまたま席を外していたとしても、すぐ隣や前の牢で寝ている囚人たちは気づくはずなのよ。盗賊団のボスの女なんて微塵も目覚める気配もない。気持ちよさそうに寝息を立てているのよ。
魔法で、みんな眠らされているのよ。
「……何者なのよ?」
改めて問うと、女はどう言えばいいかと悩むように顎を指で持ち上げたのよ。
「う~ん、そうねぇ。お姉さんたちはどこの教会にも所属しないハグレ者。通称――『魔女の集い』」
「聞いたこともないのよ、そんな奴ら」
「なくて結構。寧ろあったら困っちゃうわね♪ 一応ヒ・ミ・ツの組織なわけなので♪」
胡散臭いのよ。
でも、だけど、ハッキリしていることならあるのよ。
こいつは、たぶんあたしより強い。
魔導師としての格が違うのよ。
「あたしを、どうするつもりなのよ?」
「お仲間に♪ あなたにはその資格があるわ♪」
「資格?」
「そう、資格♪」
女はあたしの殺気なんてどこ吹く風といった調子で、蠱惑的な動きで胸の谷間へと手を突っ込んだのよ。
そこから取り出したのは――分厚い、一冊の本。
「なんでそんなところからそんな大きい物が出て来るのよ!?」
「あら? ああ、可哀想に……ゼノヴィアちゃんはまだ知らないのね。いい女の胸ポケットは可能性が無限大なの♪」
「魔物に育てられたあたしでも『胸ポケット』がそういう意味じゃないことくらい知ってるのよ!?」
物理的にあり得ないってことは魔法を使っているのよ。それとももしかして本当に、胸が大きくなればなんでも収納できるのよ? あたしの平坦な胸では起き得ない奇跡が……?
「それはそれとして……こぉれ、見覚えあるでしょう?」
「それは……ッ!?」
女に本の表紙を見せられ、あたしは胸のことなんて忘れて絶句したのよ。
古びた焦げ茶色の表紙に、複雑な魔法陣と人類語じゃない文字が描かれたその本は……まさか……間違いないのよ。
少し前までなら希望の、今では忌々しい魔法の使い方が書かれていた――
「そう、あなたも読んで一部だけど解読と実証に成功しちゃった禁書♪ 序章において〈改変〉の魔法が記された『ヘロイアの書』――その写本」
あたしが魔物たちを数々の縛りから〈解放〉するものだと思い込んでいた魔法。
実際は魔物の意識を凶悪に歪め、それが本能だと上書きしてしまう最悪の〈呪い〉だったのよ。
恐らく、目の前の女はあたしよりも解読を進めているのよ。〈改変〉の魔法と口にしたことがその証拠なのよ。
「お姉さんたちの主な活動は知識の収集。世界に散らばる禁書を紐解き、研究し、試す。最終目標は世界の〈創造〉――そう、神の御業に至ることよん♪」
馬鹿げているのよ。
神のように無からなんでも生み出そうと言うのよ? そんなの夢ですらないのよ。人間が生み出せるものなんて限られて……いや、そういえばあいつはいろいろ〈創って〉たのよ。
勇者は、神なのよ?
「はいこれ、お近づきのシ・ル・シにあげちゃう♪」」
女があたしに『ヘロイアの書』の写本を押しつけてきたのよ。
「いらないのよ」
「いいからいいから♪」
「返すのよ!?」
「はいもうダメよん♪ もうお姉さんから所有権はなくなりました♪ それはゼノヴィアちゃんの物。大切に読んでね♪」
そう子供みたいなことを言ってから、女はステップを踏むような軽やかさで後ろに跳んだのよ。
「さあ、お姉さんと一緒にここを出ましょう? 殺されるのをただ待つ無意味な日々なんて捨てて、世界の真理を目指しましょう♪」
「……」
そんなものに興味はないのよ。あたしは、あたしの罪を償わないといけないのよ。その方法が『死』であるなら、謹んで受け入れるのよ。
無理やり渡された禁書は、ポイッと放り捨て――
「断るのよ」
「あら?」
舞い踊るようにその場でくるくると回っていた女に、あたしはハッキリ言ってやったのよ。
要するに、こいつらの仲間になって、『ヘロイアの書』だけじゃなく世界中の禁書を暴いていくってことなのよ。
あたしが言えた義理ではないかもしれないけど、禁書は、使っちゃダメだから禁書なのよ。
「理由を聞いてもいいかしらん?」
「簡単なこと。もう二度と、魔物を苦しめるようなことはしたくないのよ」
告げると、女は一瞬きょとんとしたのよ。
それから黙って頭の中でなにかを考えて――納得したように微笑んだのよ。
「ふぅん♪ いいわね。いいよね。愛に溢れたその言葉。お姉さんは嫌いじゃないわ♪」
ヒュッと。
女は杖をなぜか後ろ向きに振るったのよ。
「……?」
なにも起きない……いや、この女は絶対になにかをしたはずなのよ。牢屋が壊れたわけでもない。前の牢にいる女囚人が花火になって血を撒き散らしたわけでもない。
女はくるりと踵を返して、堂々と牢屋の扉から出て行ったのよ。わざわざそこからじゃなくても、現れた時みたいに魔法で帰ればいいのに――なんで、鍵が開いてるのよ?
さっき見た時は……いや今だってずっと鍵はかかったままなのよ。
「ふふっ、鍵は開けておくわ。ちゃんと施錠されているように魔法で見せかけたから」
女は鉄格子越しにあたしを見詰め、
「いつでも好きな時に、その気になったらお姉さんのとこまでいらっしゃい♪ お姉さん、もう少しだけこの王都で『実験』する予定だから♪」
少しだけヒヤリとする言葉を告げられたのよ。
「実験? なにをする気なのよ?」
「気になる? 気になっちゃう? だったら、自分の目で確かめてごらんなさい♪ ――でもまあ、お姉さん親切だから、ちょっとだけ教えてあげる♪」
女はパチリと片目を瞬かせたのよ。男だったら一発で魅了されていたかもしれないその仕草に、あたしは悪寒しか覚えなかったのよ。
「ええ、とっても楽しいことになるわ♪」
女は心底そう思っているように笑って。
お気に入りのオモチャを手に入れたとでも言うように。
「例えば、お昼に魔法で透明になってまで男の子を追いかけていた女の子とかが♪」
実験の生贄が既に存在していることを教えてくれたのよ。
……誰だか知らないけど気の毒なのよ。人間がどうなろうと、あたしには関係ないのよ。
でも。
だけど。
「お前の名前くらいは聞いてやるのよ」
「ヘラヴィーサ・ホルバイン。――〈幻惑の魔女〉って呼ばれているわん♪」
こいつは、あたしにとっても放っておいたらまずい気がするのよ。
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