異世界八険伝
95.リンネvs魔王
黒い霧が魔王の魂から竜巻のように沸き起こっている……。
人の背丈ほどもあるその黒く毒々しい霧の渦は、リーンが必死に張った結界を一瞬で崩壊させた後、地底城の大地を駆け巡る。まるで、津波が全てをさらっていくかのように穢していく。
遅かった!!
既に魔王が復活したんだ!
他のみんなは?
――両手で頭を抱え、大地を転げ回っているみんなの姿が目に映る。
一緒に戻って来たばかりのクルンちゃんも、苦しそうにその場で地に伏す。
リーンとボクには魔法攻撃無効があるから大丈夫なのか――。
「リーン、みんなを! 」
ボクの意図を理解し、咄嗟に動いたリーンが全員を覆う結界を作る。
黒い霧を寄せ付けない半径数mの半球――魔王の魂はボクたちを蝕むことを諦め、魔力の痕跡を辿って大蛇のような触手をさらに伸ばしていく。
邪悪な意思を撒き散らし、時には呼び寄せ、殺せば殺すほどに強大化する黒い魔の腕――それが城に残存する魔王軍を吸収し終えたときには、既に採り得る手段はたった1つしか残されていなかった。
奇跡を祈ることしか――。
魔法は使えない。
時間遅滞も、超級水魔法も、得意の雷も無しだ。
苦しむ仲間たちが、次第に強大化していく魔王の魂が、ボクの心を折り、そして蝕んでいく。でも、ボクに、こんなボクなんかに何が出来る? いくら期待されても、何にも応えられないよ!
脚が全く動かない。声が全く出せない。戦うことも、逃げ出すことも、指示を出すことすら出来ず、時だけが徒らに過ぎていく……。
この世界に来たときの、非力な自分に戻っちゃったみたい――。
ふと脳裏を過ぎった感慨に、思わず苦笑いが漏れた。
でも、考えてみれば、たったそれだけのことじゃないか。
そう、力が無くても構わない。強い意思さえ棄てなければ、不可能なことなんてないんだから。
そうやって今まで頑張ってきたんじゃないか。二度と後悔なんて、仲間を失う苦しみなんてしたくない! ボクがやるしかないんだ!!
大地を踏みしめるメルちゃんの脚に、頼もしいほどの力を感じ取る。
動ける!
10mほど先に見える2m大の影、そこに全ての意識を集中する。
1歩、2歩、3歩――空中を踏みしめ、跳ぶように翔ける!
魔王の魂は、まさに目が無いかのようにボクの動きを察知していない。でも、油断はしない。
邪悪な霧を従え実体を形作りつつある魔王の背後に回り込み、首筋めがけて渾身の力で蹴りを放つ!
微かに触れた感触が足先に伝わった瞬間、ボクは叫ぶ!
「転移!! 」
★☆★
転移先はまさに一か八か。一瞬の判断で得た結論は、ヴァルムホルンの火口! 王都の地下空間に閉じこめることも考えたけど、容易に抜け出すだろうからね。と言っても、どっちにしろ二者択一だったんだけど。
とにかく熱い――マグマから時折巻き起こる熱風が、ボクの髪を巻き上げる。折角の水色サラサラショートを焦がす訳にはいかない。血のような赤銅色の空間の中、滴る汗を拭いつつ、じりじりと後退していく。
とぐろを巻くマグマの不気味な光で辛うじて周囲の状況は知り得る程度だ。
天界を形成していた分厚い岩盤が頭上を塞いでいる。足場には瓦礫が積もりに積もってはいるけど、お陰で消し炭にならずに済みそうだ。外界の光が差し込むことのない密閉された空間が数百m規模で広がりを見せている。
そしてボクは、漆黒の闇を纏う魔王と1対1で対峙する――。
メルちゃんが率いていた悪魔、アバドンとアリオク――その特徴を色濃く残した禍々しい姿。赤く染まる大地と相俟って、それはまさに地獄から召喚された魔王そのものに思えた。
背丈はボク(メルちゃん)のそれを大きく上回って5mに迫るほど。腕と脚は闇の炎に包まれていて、触れるモノを全て焼き尽くそうと燃え滾っている。そして、天を突き刺すように大きく伸びた2本の角の下、無表情の仮面から覗く真紅の瞳がじっとボクを睨みつけている。
目が合った瞬間、激しい悪寒が襲いかかってきた。
恐怖心が心臓を鷲掴みにしてくる。
遅れてやってきた息苦しさと全身の震えが、ボクの立ち直りつつあった心を再び蝕む。
両手の痺れと軽い目眩を感じる。思っていた以上に転移に魔力を消費したらしい。今のボクには、転移で逃げるだけの魔力は残っていなかった。考えが甘かったと言うより、考える暇すら無く反射的に行動したのだから、今さらそれを悔いても仕方がない。
ペタン座りの状態から、何とか手で身体を支えて立ち上がる。
「ま、魔王なんて怖くない…・・・」
自分を鼓舞しようと叫んだつもりが、萎縮して呟くだけになってしまった。それでも、極度の緊張からか、閉じて震える喉から声を絞り出せただけでも大きな収穫だ。徐々に全身に漲る力を糧に、勇気が沸いてくる。
対する魔王の表情は伺い知れない。相変わらずボクの前に仁王立ちし、嘲笑するでもなく見下ろすばかり。その無粋な仮面の奥にある瞳は、ボクの心の内にある弱さを射抜こうと、じっと捉え続けている。
あと4時間粘れれば転移で逃げる分の魔力が回復する――。
そう考えて無意識に下がったボクの1歩が、張り詰めた微妙な緊張関係を破ってしまった。
『ユウシャノタマシイ! 』
咆哮がそのまま剣となる!
両手でその黒炎の大剣を掲げ、背に生やした翼を大きく広げて飛び込んでくる魔王――速い! 10mの距離が一気に縮まる!
両手を顔の前で十字に組み、右足で大きく地面を蹴り、左に避ける!
振り下ろされた剣が地面を大きく抉り、瓦礫が四方八方に飛び散る!
「くっ! 」
石の飛礫がボクの全身を殴打し、爆音とともに吹き飛ばされる。粉塵の中を、追撃を予想して数m転がったとき、案の定、巨大な黒い竜巻がボクの視界から瓦礫の山を吹き飛ばしていった――。
超級の闇魔法!?
純粋な魔法なら効かないけど、あの突風は岩の竜巻だ。効果はほぼ物理攻撃。触れた途端に身体中がバラバラになる。危なかった!
解き放たれたばかりの、その野性的な魔王の攻撃を受け、ボクの意識とメルちゃんの身体は一つになっていく。
砂埃が舞う中、必死に考える!
勝つための手段を!
メルちゃんの身体、このパワーこそが唯一無二の武器。リーンの鎌みたいな強力な武器は無いけど、無いなら作ればいい!
距離を詰めようとして翼を広げ飛び出した瞬間、拳大の石を思いっきり投げつける!
時速180kmをゆうに超える剛球が魔王の翼を捉える!
バランスを崩して傾く魔王、その無表情な仮面を狙って、渾身の投擲を放つ!
『ヤミヨキタレ――』
不気味な声が岩のドームを木霊したかと思うと、黒い闇を纏った濃紺の魔法陣が魔王の前に出現した。1つ、2つ……そして、3つ。
ボクの放った岩礫は、魔王の作り出した半径1mほどの闇の障壁にめり込んで――止まった。
距離をとりながら、幾度となく投擲を繰り返した。
球数制限なんて存在しない。障壁を避けるように放ち続けた200を超える投擲は、魔王の巨体に1発も掠ることさえなかった。それどころか、唯一の命中――初撃の奇襲が穿った翼の穴も、既に塞がっていた。
単調な攻撃に呆れるように徐々に距離を詰める魔王――ボクはその姿を無視し、最後にして最大の一投を放つ!
それが真っ直ぐ天井を打った瞬間、空気が地鳴りを伴って振動した――。
分厚い岩盤の一部が轟音と共に落下する!
それは、ボクに向けて大剣を掲げた魔王ごと、まるで計ったかのように押し潰した!
角度をつけて再三投げ続けた岩は、勿論、落盤を狙っての作戦。天井に見えた突起状の岩盤は、その半分を残して綺麗に削り取られていた。
★☆★
壁沿いの岩山に登り、状況を確認する。
眼下に広がるのは、落下した幅50m超、厚さ10mほどの大岩盤――予想以上の落盤に、思わず背筋がぞっとする。
これなら……。
僅かな望みは所詮、折られる運命のフラグでしかなかった――。
砂塵を避けて距離を置いたボクの目に映ったのは、しかし、驚愕の事実――厚さ10mもの巨岩が持ち上がる想像を絶する光景。
そして、亀裂が走ったその隙間からは、あの不気味な黒い霧が漏れ出してきた。
魔王、強すぎるでしょ!
マグマが照らし出す光に、黒くおどろおどろしい闇が溶け込んでいく。
岩を吹き飛ばして現れる闇の障壁。3枚の重なった障壁が圧力を増し、岩盤を砕いていく。
そして、障壁が展開するその下には、再び無表情な仮面が現れた――。
落盤から数分しか経たず、またあの目で射抜かれるボク。
あれだけ頑張って投げ続け、思った以上に成功したのに、たった数分の時間しか稼げないなんて!
光魔法さえ使えれば活路が見出せるかも知れないのに! アユナちゃん、助けてよ!
その後、瓦礫を盾にして逃げ回りながら、ボクは必死に作戦を練り続けた。
苦労してマグマの中に落としても平然と這い出してくる魔王……粉塵爆発を応用して吹き飛ばしても、やはりあの障壁を打ち破ることすらできなかった――。
そして火口での死闘が3時間を経過した頃、上空を黄金色で照らす力強い味方が現れた。
「フェニックス!? どうやって――」
『此処は妾が居城。リンネ様をもてなしたいのじゃが、まずはこの些か物騒な輩を燻製にでもせんとな! 』
「フェニックス……魔王はとてつもなく強い。逃げ――」
『なに、妾と主の力を合わせれば最強じゃろ? 精霊王としての初仕事、盛大にいこうかのぅ』
火口のマグマが一段と明るさを増したとき、上空で魔力が一際大きく弾けた。
そして、轟々と燃えたぎる長剣――精霊王フェニックスが全身全霊を込めた真紅の炎がボクの眼前に揺らめいていた。
長さ3mを超える炎の剣を手に取り、その見事な意匠が施された柄を両手でがっしり握り締める。
メルちゃんの腕力が凄いからか、そもそも炎自体の質量が小さいからか、ボクの両手には重みは感じなかった。でも、それと反比例するかのように両肩と、心に背負った重みは増していた。絶対に負ける訳にはいかないと。
これは唯一無二の武器――ボクたちと精霊の絆。
この一撃に、全てを賭ける!
メルちゃん、力を貸して!
みんな、ボクに勇気を!
運動エネルギーは速度の2乗に比例する!
壁を駆け上がり、天井を蹴り飛ばす。
もつれそうになる脚をコントロールし、自然落下を超える勢いで急加速していく。
そのままのスピードで、なけなしの魔力を使い込んで空を翔ける!
そして――精一杯の加速度でもって、炎の剣を突き出す!!
魔王は3枚の黒い障壁を盾に低く構え、ボクたちの攻撃を受け止める構えだ!!
「貫けぇ~!!! 」
黒は紅を吸収し、紅は黒を溶かす!
拮抗しているのか、それともどちらかが一方的に凌駕しているのか――。
結果はすぐに分かった。
爆散した障壁の隙間から吹き飛んでいく影が、一瞬だけ見えた。
それは業火を纏って魔王の胸に飛び込み、悲痛の叫び声を上げて消えていった――。
フェニックスは消えた。
そして魔王は未だ平然とその場に立っていた。それが事実の全てだった。
届かなかった――。
障壁は打ち砕いた。恐らく、魔王の纏う鎧も。しかし、それだけでは勝てなかった。
鎧の内にある魔王の魂に触れた瞬間、あらゆる憎悪と怨念に支配される――仲間たちと同じように、己の魂を、存在意義を掻き消されるかのような強烈な攻撃に苛まれるんだ。正直言って勝てる気がしない。
魔王の持つ精神攻撃に耐え得るのはボクとリーンだけだろう。でも、ボクにはもう、どこにも力は残っていない。魔力も底をつき、辛うじて意識を保っているのが精一杯で、それすらも奇跡とさえ言えた。
魔王は希望の星を集めた存在、か。真の魔王が復活していたら、つまり、ボクが魔人を全て倒してその器となっていたら、こんなことにならずに済んだはず。
どこで間違ったんだろう。いや、最初からずっと間違いだらけだったのか。最初から世界の意思に、次元の存在に踊らされ続けていたんだ。魔王復活を阻止するために頑張ってきたのに、結局それは世界を書き換えるために利用されていただけ。そして、ちっぽけなボクなんかには超えることすら出来ない1本のレールをひたすら走り続けていただけ。
俯くボクの脳裏に、今まで出会った多くの顔が浮かび上がる。それは走馬灯のように駆け巡っていく。でも、その全てが弱気なボクを叱り、励ますかのような表情で――笑顔はただの1つも見られなかった。
こんな寂しい終わり方しか出来ないなんて――期待に応えられない悔し涙と一緒に、心から寂しいときに流れる冷たい涙が頬を伝う。マグマから迸る熱気に抗うように、その雫が蒸気を伴って大地を濡らしていく。
そして、ボクの視界の上辺には、あの邪悪な闇を纏う脚がゆっくりと迫るのが映る。
みんな、ごめんなさい……勝てなかった……世界を救えなかった……。
人の背丈ほどもあるその黒く毒々しい霧の渦は、リーンが必死に張った結界を一瞬で崩壊させた後、地底城の大地を駆け巡る。まるで、津波が全てをさらっていくかのように穢していく。
遅かった!!
既に魔王が復活したんだ!
他のみんなは?
――両手で頭を抱え、大地を転げ回っているみんなの姿が目に映る。
一緒に戻って来たばかりのクルンちゃんも、苦しそうにその場で地に伏す。
リーンとボクには魔法攻撃無効があるから大丈夫なのか――。
「リーン、みんなを! 」
ボクの意図を理解し、咄嗟に動いたリーンが全員を覆う結界を作る。
黒い霧を寄せ付けない半径数mの半球――魔王の魂はボクたちを蝕むことを諦め、魔力の痕跡を辿って大蛇のような触手をさらに伸ばしていく。
邪悪な意思を撒き散らし、時には呼び寄せ、殺せば殺すほどに強大化する黒い魔の腕――それが城に残存する魔王軍を吸収し終えたときには、既に採り得る手段はたった1つしか残されていなかった。
奇跡を祈ることしか――。
魔法は使えない。
時間遅滞も、超級水魔法も、得意の雷も無しだ。
苦しむ仲間たちが、次第に強大化していく魔王の魂が、ボクの心を折り、そして蝕んでいく。でも、ボクに、こんなボクなんかに何が出来る? いくら期待されても、何にも応えられないよ!
脚が全く動かない。声が全く出せない。戦うことも、逃げ出すことも、指示を出すことすら出来ず、時だけが徒らに過ぎていく……。
この世界に来たときの、非力な自分に戻っちゃったみたい――。
ふと脳裏を過ぎった感慨に、思わず苦笑いが漏れた。
でも、考えてみれば、たったそれだけのことじゃないか。
そう、力が無くても構わない。強い意思さえ棄てなければ、不可能なことなんてないんだから。
そうやって今まで頑張ってきたんじゃないか。二度と後悔なんて、仲間を失う苦しみなんてしたくない! ボクがやるしかないんだ!!
大地を踏みしめるメルちゃんの脚に、頼もしいほどの力を感じ取る。
動ける!
10mほど先に見える2m大の影、そこに全ての意識を集中する。
1歩、2歩、3歩――空中を踏みしめ、跳ぶように翔ける!
魔王の魂は、まさに目が無いかのようにボクの動きを察知していない。でも、油断はしない。
邪悪な霧を従え実体を形作りつつある魔王の背後に回り込み、首筋めがけて渾身の力で蹴りを放つ!
微かに触れた感触が足先に伝わった瞬間、ボクは叫ぶ!
「転移!! 」
★☆★
転移先はまさに一か八か。一瞬の判断で得た結論は、ヴァルムホルンの火口! 王都の地下空間に閉じこめることも考えたけど、容易に抜け出すだろうからね。と言っても、どっちにしろ二者択一だったんだけど。
とにかく熱い――マグマから時折巻き起こる熱風が、ボクの髪を巻き上げる。折角の水色サラサラショートを焦がす訳にはいかない。血のような赤銅色の空間の中、滴る汗を拭いつつ、じりじりと後退していく。
とぐろを巻くマグマの不気味な光で辛うじて周囲の状況は知り得る程度だ。
天界を形成していた分厚い岩盤が頭上を塞いでいる。足場には瓦礫が積もりに積もってはいるけど、お陰で消し炭にならずに済みそうだ。外界の光が差し込むことのない密閉された空間が数百m規模で広がりを見せている。
そしてボクは、漆黒の闇を纏う魔王と1対1で対峙する――。
メルちゃんが率いていた悪魔、アバドンとアリオク――その特徴を色濃く残した禍々しい姿。赤く染まる大地と相俟って、それはまさに地獄から召喚された魔王そのものに思えた。
背丈はボク(メルちゃん)のそれを大きく上回って5mに迫るほど。腕と脚は闇の炎に包まれていて、触れるモノを全て焼き尽くそうと燃え滾っている。そして、天を突き刺すように大きく伸びた2本の角の下、無表情の仮面から覗く真紅の瞳がじっとボクを睨みつけている。
目が合った瞬間、激しい悪寒が襲いかかってきた。
恐怖心が心臓を鷲掴みにしてくる。
遅れてやってきた息苦しさと全身の震えが、ボクの立ち直りつつあった心を再び蝕む。
両手の痺れと軽い目眩を感じる。思っていた以上に転移に魔力を消費したらしい。今のボクには、転移で逃げるだけの魔力は残っていなかった。考えが甘かったと言うより、考える暇すら無く反射的に行動したのだから、今さらそれを悔いても仕方がない。
ペタン座りの状態から、何とか手で身体を支えて立ち上がる。
「ま、魔王なんて怖くない…・・・」
自分を鼓舞しようと叫んだつもりが、萎縮して呟くだけになってしまった。それでも、極度の緊張からか、閉じて震える喉から声を絞り出せただけでも大きな収穫だ。徐々に全身に漲る力を糧に、勇気が沸いてくる。
対する魔王の表情は伺い知れない。相変わらずボクの前に仁王立ちし、嘲笑するでもなく見下ろすばかり。その無粋な仮面の奥にある瞳は、ボクの心の内にある弱さを射抜こうと、じっと捉え続けている。
あと4時間粘れれば転移で逃げる分の魔力が回復する――。
そう考えて無意識に下がったボクの1歩が、張り詰めた微妙な緊張関係を破ってしまった。
『ユウシャノタマシイ! 』
咆哮がそのまま剣となる!
両手でその黒炎の大剣を掲げ、背に生やした翼を大きく広げて飛び込んでくる魔王――速い! 10mの距離が一気に縮まる!
両手を顔の前で十字に組み、右足で大きく地面を蹴り、左に避ける!
振り下ろされた剣が地面を大きく抉り、瓦礫が四方八方に飛び散る!
「くっ! 」
石の飛礫がボクの全身を殴打し、爆音とともに吹き飛ばされる。粉塵の中を、追撃を予想して数m転がったとき、案の定、巨大な黒い竜巻がボクの視界から瓦礫の山を吹き飛ばしていった――。
超級の闇魔法!?
純粋な魔法なら効かないけど、あの突風は岩の竜巻だ。効果はほぼ物理攻撃。触れた途端に身体中がバラバラになる。危なかった!
解き放たれたばかりの、その野性的な魔王の攻撃を受け、ボクの意識とメルちゃんの身体は一つになっていく。
砂埃が舞う中、必死に考える!
勝つための手段を!
メルちゃんの身体、このパワーこそが唯一無二の武器。リーンの鎌みたいな強力な武器は無いけど、無いなら作ればいい!
距離を詰めようとして翼を広げ飛び出した瞬間、拳大の石を思いっきり投げつける!
時速180kmをゆうに超える剛球が魔王の翼を捉える!
バランスを崩して傾く魔王、その無表情な仮面を狙って、渾身の投擲を放つ!
『ヤミヨキタレ――』
不気味な声が岩のドームを木霊したかと思うと、黒い闇を纏った濃紺の魔法陣が魔王の前に出現した。1つ、2つ……そして、3つ。
ボクの放った岩礫は、魔王の作り出した半径1mほどの闇の障壁にめり込んで――止まった。
距離をとりながら、幾度となく投擲を繰り返した。
球数制限なんて存在しない。障壁を避けるように放ち続けた200を超える投擲は、魔王の巨体に1発も掠ることさえなかった。それどころか、唯一の命中――初撃の奇襲が穿った翼の穴も、既に塞がっていた。
単調な攻撃に呆れるように徐々に距離を詰める魔王――ボクはその姿を無視し、最後にして最大の一投を放つ!
それが真っ直ぐ天井を打った瞬間、空気が地鳴りを伴って振動した――。
分厚い岩盤の一部が轟音と共に落下する!
それは、ボクに向けて大剣を掲げた魔王ごと、まるで計ったかのように押し潰した!
角度をつけて再三投げ続けた岩は、勿論、落盤を狙っての作戦。天井に見えた突起状の岩盤は、その半分を残して綺麗に削り取られていた。
★☆★
壁沿いの岩山に登り、状況を確認する。
眼下に広がるのは、落下した幅50m超、厚さ10mほどの大岩盤――予想以上の落盤に、思わず背筋がぞっとする。
これなら……。
僅かな望みは所詮、折られる運命のフラグでしかなかった――。
砂塵を避けて距離を置いたボクの目に映ったのは、しかし、驚愕の事実――厚さ10mもの巨岩が持ち上がる想像を絶する光景。
そして、亀裂が走ったその隙間からは、あの不気味な黒い霧が漏れ出してきた。
魔王、強すぎるでしょ!
マグマが照らし出す光に、黒くおどろおどろしい闇が溶け込んでいく。
岩を吹き飛ばして現れる闇の障壁。3枚の重なった障壁が圧力を増し、岩盤を砕いていく。
そして、障壁が展開するその下には、再び無表情な仮面が現れた――。
落盤から数分しか経たず、またあの目で射抜かれるボク。
あれだけ頑張って投げ続け、思った以上に成功したのに、たった数分の時間しか稼げないなんて!
光魔法さえ使えれば活路が見出せるかも知れないのに! アユナちゃん、助けてよ!
その後、瓦礫を盾にして逃げ回りながら、ボクは必死に作戦を練り続けた。
苦労してマグマの中に落としても平然と這い出してくる魔王……粉塵爆発を応用して吹き飛ばしても、やはりあの障壁を打ち破ることすらできなかった――。
そして火口での死闘が3時間を経過した頃、上空を黄金色で照らす力強い味方が現れた。
「フェニックス!? どうやって――」
『此処は妾が居城。リンネ様をもてなしたいのじゃが、まずはこの些か物騒な輩を燻製にでもせんとな! 』
「フェニックス……魔王はとてつもなく強い。逃げ――」
『なに、妾と主の力を合わせれば最強じゃろ? 精霊王としての初仕事、盛大にいこうかのぅ』
火口のマグマが一段と明るさを増したとき、上空で魔力が一際大きく弾けた。
そして、轟々と燃えたぎる長剣――精霊王フェニックスが全身全霊を込めた真紅の炎がボクの眼前に揺らめいていた。
長さ3mを超える炎の剣を手に取り、その見事な意匠が施された柄を両手でがっしり握り締める。
メルちゃんの腕力が凄いからか、そもそも炎自体の質量が小さいからか、ボクの両手には重みは感じなかった。でも、それと反比例するかのように両肩と、心に背負った重みは増していた。絶対に負ける訳にはいかないと。
これは唯一無二の武器――ボクたちと精霊の絆。
この一撃に、全てを賭ける!
メルちゃん、力を貸して!
みんな、ボクに勇気を!
運動エネルギーは速度の2乗に比例する!
壁を駆け上がり、天井を蹴り飛ばす。
もつれそうになる脚をコントロールし、自然落下を超える勢いで急加速していく。
そのままのスピードで、なけなしの魔力を使い込んで空を翔ける!
そして――精一杯の加速度でもって、炎の剣を突き出す!!
魔王は3枚の黒い障壁を盾に低く構え、ボクたちの攻撃を受け止める構えだ!!
「貫けぇ~!!! 」
黒は紅を吸収し、紅は黒を溶かす!
拮抗しているのか、それともどちらかが一方的に凌駕しているのか――。
結果はすぐに分かった。
爆散した障壁の隙間から吹き飛んでいく影が、一瞬だけ見えた。
それは業火を纏って魔王の胸に飛び込み、悲痛の叫び声を上げて消えていった――。
フェニックスは消えた。
そして魔王は未だ平然とその場に立っていた。それが事実の全てだった。
届かなかった――。
障壁は打ち砕いた。恐らく、魔王の纏う鎧も。しかし、それだけでは勝てなかった。
鎧の内にある魔王の魂に触れた瞬間、あらゆる憎悪と怨念に支配される――仲間たちと同じように、己の魂を、存在意義を掻き消されるかのような強烈な攻撃に苛まれるんだ。正直言って勝てる気がしない。
魔王の持つ精神攻撃に耐え得るのはボクとリーンだけだろう。でも、ボクにはもう、どこにも力は残っていない。魔力も底をつき、辛うじて意識を保っているのが精一杯で、それすらも奇跡とさえ言えた。
魔王は希望の星を集めた存在、か。真の魔王が復活していたら、つまり、ボクが魔人を全て倒してその器となっていたら、こんなことにならずに済んだはず。
どこで間違ったんだろう。いや、最初からずっと間違いだらけだったのか。最初から世界の意思に、次元の存在に踊らされ続けていたんだ。魔王復活を阻止するために頑張ってきたのに、結局それは世界を書き換えるために利用されていただけ。そして、ちっぽけなボクなんかには超えることすら出来ない1本のレールをひたすら走り続けていただけ。
俯くボクの脳裏に、今まで出会った多くの顔が浮かび上がる。それは走馬灯のように駆け巡っていく。でも、その全てが弱気なボクを叱り、励ますかのような表情で――笑顔はただの1つも見られなかった。
こんな寂しい終わり方しか出来ないなんて――期待に応えられない悔し涙と一緒に、心から寂しいときに流れる冷たい涙が頬を伝う。マグマから迸る熱気に抗うように、その雫が蒸気を伴って大地を濡らしていく。
そして、ボクの視界の上辺には、あの邪悪な闇を纏う脚がゆっくりと迫るのが映る。
みんな、ごめんなさい……勝てなかった……世界を救えなかった……。
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