異世界八険伝
86.再会、そして誓い
深呼吸し、気合を注入して伸ばしたはずの手が虚空を掴む。無造作に開かれた玄関のドア、そしてそのドアの向こうから現れた懐かしい顔に、ボクの全神経が持っていかれる。
「あ……アユナちゃん……」
「お帰り、リンネちゃん!! 」
笑顔、最高の笑顔がボクを迎えてくれる。生きていてくれて、ありがとう。言葉にならない感情が心の中に渦を巻き、ボクの身体を押し流す。気付いたらアユナちゃんを精一杯に抱きしめていた。
「えっと、私もいるんだけど……」
「えっと、どちら様? 」
「「えっ!? 」」
「あははっ! 冗談です、ミルフェちゃんもお帰りなさい! 」
舌をペロッと出して謝るアユナちゃん。いつもの天真爛漫な彼女だ。やっと出会えた。
「焦らせないでよ……それから、いつまで抱き合ってるの? 」
「「あっ」」
ミルフェちゃんのジト目のツッコミに、名残惜しい気持ちを味わいながらアユナちゃんを解放する。照れて赤くなっている顔も可愛い。って、たぶん、2人して同じような顔をしているんだろうけど。
「2人ともこっちに来て。会ってもらいたい方がいるの」
両手で大げさに手招きし、廊下の奥へと歩いていく背中では、小さく畳まれた羽がぴょこぴょこ可愛らしく揺れている。あの羽を見ると、どうしても過去の辛い記憶が蘇ってしまう。今ある再会の喜びは、辛い記憶の上に乗っかっているんだ。その不安定な喜びが少しでも揺らぐと、すぐに過去の悲劇が顔を覗かせる。もう二度とあんな思いをしたくない。唇をぎゅっと噛みしめ、強い気持ちでアユナちゃんの後ろを追いかけていく。
そんなボクの気持ちを察してか、ミルフェちゃんが手を繋いでくれた。強い意志を宿した瞳で、力強く頷いてくれた。そうだね、ここがゴールじゃない。やらなければならないことはたくさんある。頑張らないと!
廊下の左手から伸びる2階へ向かう急な階段。そこを通り過ぎ、廊下の突き当りの部屋に向かう。途中、台所やお風呂場、リビングが、開け放たれたドアの隙間から懐かしいままの姿を見せていた。
「他人の家みたいにキョロキョロするのね」
「だって……」
懐かしいのは確かだ。でも、なんだか違和感もある。魔神に見せられた記憶がボクの記憶を上書きしているかのような錯覚。本当にここが自分の家なのか、確信が持てずにいる。それを確かめるすべがあれば今すぐにでもそうしたい。それを探して、記憶を探して、ついついあちこちを覗き見てしまう。
「連れてきました」
『うむ』
『はい……』
扉の前に立つと、部屋の中から2人の声がする。片方は魔神の声。そして、他方、女性らしい声は天神だろうか。弱々しいつぶやき。
扉が開く。
部屋の奥のベッドに横たわる白き者は目を閉じていた。彼女の傍からこっちを見上げる黒い鳥、その目が優しく微笑んでいる。その両者を労わりつつ、サクラちゃんがベッドに座って微笑みかけてくれた。
「やっと会えた」
無意識に出たボクの第一声を聞いて、天神が横たわった身体を起こす。その目は未だ閉じられたままだ。綺麗……白い布から覗く透き通るような白亜の肌、雪の結晶のごとくに煌めく白い髪……そこには1頭のユニコーンが居た。
天神はゆっくりとベッドから降り、目を閉じたままボクの足元でひざまずく。
それを見た魔神も、同じように床の上で首を垂れる。
「なん――」
なんで、と言いかけたとき、横に居たアユナちゃんとサクラちゃん、ミルフェちゃんまでもが同じようにひざまずいているのが見えた。
「ちょっと! みんなやめてよ」
『謝罪と……そして、出逢えたことへの喜びを胸に』
顔を上げた天神の、その閉ざされた目からは赤い涙が頬を伝っていた。
「謝罪? 天神……もしかして、あなた、目が見えていないの? 」
『はい……両の目を潰しました』
アユナちゃんが手で顔を覆う。
「ど、どうして……」
『——邪神から逃れるために。リンネ様、どうか私の話を聴いてほしい……』
しばしの沈黙の後、強い決意を込めて天神が言う。魔神は何かを言いたそうだったが、敢えて口を閉ざす決心をしたようだ。それを見て、ボクは小さく頷いた。
『邪神を生み出したのは私です』
「えっ!? 」
『深く、深く謝罪いたします』
「ちょっと待って! どういうこと? 」
『長くなりますが、全てをお話しします。リーン様と別れるまでの経緯は黒が伝えた通りです。
その後、私はこの世界——天界を造りました。天魔、いえ地上世界を模倣して。その頃の私は必死でした。平和な、誰もが笑顔で暮らす世界を造り、リーン様を迎え入れる。荒んだ地上世界を放棄し、幸せを取り戻すために。
でも、それは間違いでした……。当初こそ、争いのない平和が続いていましたが、魔人に殺められた者の魂を浄化する術はなく、次第にこの天界にも怒りと憎悪の感情からなる穢れが満ちていきました——』
俯きながら語る天神の横で、魔人の生みの親である魔神が異議ありとばかりに話し出す。
『そう、魔人は人の持つ負の感情から生まれる。ただし! それは、人から負の感情を吸収し、人の代わりに苦しみを受け持つんだ。魔人は、魔素を集約し、体内に希望の星を宿す存在。その星が全て集うとき、人から負の感情を吸収する永久機関たる魔王が——』
『負の感情をまき散らす! 魔王は負の感情を吸収なんかしない、まき散らすの! 世界は負の感情の大海へと沈む。全てを巻き込んで——』
『そんな筈は、そんな筈は……ない。ぼくはそれを望んでいない』
地上に誕生する魔王は世界を滅ぼすとされる。1000年前、リーンが魂を削って戦った過去の真実がそれを裏付ける。“負の感情はコントロール出来ない”それは既に証明されている。
『話を、話を戻します。
天界に満ちる穢れを消すべく私がとった選択は、この世界の消去……天界は、一部を除いて数日のうちに海に没するでしょう。白樹の塔、聖樹結界、ヴァイス・フリューゲル、ローゼンブルグ……人々は手を取り合い、内なる憎悪と戦っている。リンネ様もご覧になったでしょう? 』
「うん、見てきた……」
地上世界で亡くなった人たちが必死にこの世界を守る姿を、ボクはアユナちゃんたちを追いかけながらずっと見てきた。これは天神の決断だったのか……。
『ここまでしなければならなかった理由、それが邪神の誕生なのです。
本来、穢れは私が浄化できる筈でした。でも、想定外の穢れが私の魂を蝕み始めました。それは、この世界の理を越えた存在。私の力の及ばぬ領域の悪意……。それでも、私は全ての穢れを吸収し、命を賭してうち滅ぼす予定でした。しかし、その悪意は……私の力を奪い、新たな存在“邪神”となって生まれ落ちました。
思い起こせば、その者の存在はずっと私と共に在った……。かつて私たちが神樹となる以前の、人の優しさと、人への憎悪を糧に力を蓄えていた頃のことです。遥かなる森の中で、私はその者の存在を見ていました。
その者は小さな小さな白いウサギだった。子どもの仕掛けた罠に掛かり、木の枝に宙吊りにされた。子どもたちはその惨めな姿を嘲笑し、皮を剥ぎ、目を潰し、耳を切り取り、舌を抜き……死を奪うことを楽しんだ。生きるためには他者の命を頂くことは悪ではありません。しかし、それは善でもありません。
ウサギはその状態で7日間も生き続けた……。その間、その者の抱く恐怖と憎しみは私を遥かに上回っていました。そのとき、私がどんな感情を抱いていたのかは今でも分かりませんが、共感していたのは事実です。何らかの力を貸した気がします。
一週間後、再び現れた子どもたちの目に映るのは、禍々しい角の生えた子鬼でした。驚く以上に笑い転げる子どもたちの姿を見るや、縄を切り、角と、牙と爪で蹂躙しました。あの光景は今でも忘れられません。
子鬼は憎しみの感情の赴くままに全てを襲い続けました。食べるためではなく、ただただ命を奪うために。恐怖を喰らい、憎悪を宿し、力を増していきました。既にウサギの面影はどこにもなく、白鬼の姿となっていました。
私たちが神樹となり、リーン様と共に世界を創造したときには既にその者の存在はありませんでした。それもその筈、私が吸収してしまったから。しかし、世界の理を越えた悪意を身に受け、その者が目覚めてしまった……』
『ウィズレイ——鬼人族の魔人か』
「ウィズ!? 確かに、あいつはこの世界とは別の世界から来た。理を越えた悪意……か」
ウィズをこの世界に連れてきたのは、もしかしてボクかもしれない。そうだとしたら、とんでもないことをしてしまった。サクラちゃんと一瞬目が合う。あの町での記憶が脳裏をかすめる。
『白鬼の姿をした邪神は、再び憎しみの赴くままに殺戮を繰り返しました。ご存知かと思いますが、この天界で傷つけられた魂は世界から放逐され、消滅します。この天界を造った者の責任として、私は全ての魂を守らねばなりません。そのために、世界を染めざるを得なかったのです。
邪神は白より生まれます。空を雲で多い、地を荒波で覆い、人々を森や地底に匿いました。しかし、邪神には知恵があった。かつて私の体内に入り込んだように、巧妙に自らの一部を分離して他者を支配しました』
「支配……まさか、南王カーリーも!? 」
魔神だけでなく、ミールを通じて見ていたミルフェちゃんも大きく頷く。
『その者だけではありません。恐らくは他にも数体の分身、そしてどこかに本体が居る筈です』
「火口、ヴァルムホルンの火口にも居たけど、あれは——」
『——いえ、分身でした。案内役を申し出た幼き者、彼女は既に邪神の手の内にあった』
俯くアユナちゃんたちを見ると、心を通わせた子と戦わざるを得ない苦しみを味わったのが伝わる。
『邪神は私の力を奪っています。その最大の力は“耐魔法”。邪神には魔法は通じません! それと、彼の者は私の目を通じて世界を見ていました。今ではその力は封じましたが……』
それで目を……。
今、邪神はボクたちがここに居るのを知らないということか。こっちも邪神の居場所が分からないけど……。
『ぼくたちはここに追い込まれたのかもしれないよ。だとしたら、ここも安全とは言えない』
『黒の言う通りかもしれません。かと言って、戦って勝てる相手では……』
「リンネちゃんより強いの? 」
静観していたミルフェちゃんが身を乗り出してくる。
火口で襲われたとき、魂ごと食べられる恐怖を感じた。あれと戦って勝てるのだろうか。
『相性が悪いのです。私より生じた邪神は、私の力に由来する全てを糧とし、喰らいつくします。ここに居るアユナやサクラの、召喚石の勇者の力は通じません。リンネ様やリーン様の力も、その大本を辿れば私と黒の力……恐らくは、邪神に力を与えてしまうでしょう』
「ちょっと待って! でも、レンちゃんはカーリーに寄生した分身を斬ったよ?」
『そんな筈は……』
「そう言うことか! 」
ミルフェちゃんが一人納得した様子で立ち上がる。
「どういうこと? 」
「カーリーが負けたとき、優しく笑ったのを見たの。その意味がやっと分かった。あの魔王、支配されながらも、常に邪神と戦っていたんだ。レンちゃんの剣が邪神を分離した瞬間、自らの魔法で滅することに成功した。そう考えれば全てが納得いく! 」
南の魔王カーリーは、邪神を倒すためにわざと攻撃を受け、自分に向けて魔法を放ったということ?
『なるほど……魔界の魔王の力ならば、邪神に対抗できるかもしれません。でも、この天界には入ることすら叶わぬでしょう。この状況を打開する力にはなり得ません』
「なら、私は? 」
「ミルフェちゃん、何を言って——」
「天界に来る前、狐っ娘に言われたの。私の力が役に立つって。私は邪神と戦う。きっとそのためにここに来た、いえ……そのために産まれ、みんなと出逢ったのかもしれない」
「ミルフェちゃん……」
心の中で鑑定眼を発動する。レベルは天界に来てから上がっていない。魔法が効かないらしい敵を相手にするには心許ないステータス。
◆名前:ミルフェ
年齢:13歳 性別:女性 レベル:7 職業:国王見習い
◆ステータス
攻撃:0.80(+1.10)
魔力:42.5(+3.60)
体力:1.25
防御:0.95(+5.20 魔法防御+4.00)
敏捷:1.40
器用:2.35
才能:1.80(ステータスポイント0)
確か、光竜の短杖の特殊効果は中級の光矢だ。スキルは、回復魔法/上級、光魔法/中級、投擲/初級、歌唱、速読……勝算はあるのだろうか……。
『若き地上の王よ、貴女の気持ちはとても嬉しい。しかし、その身体に邪神を退ける力が備わっているようには見受けられない』
「神様だか何だか知らないけど、私はね、もっと無謀な、絶望的な戦いを、たくさん間近で見てきたの! 強い意志さえあれば不可能はないってその人は言ってた! 絶対に負けないんだから!! 」
「うん、私もそう思う! 」
アユナちゃん……。
「私もです。信じる力は奇跡を現実にします。ミルフェ様の信じる力を私も信じます! 」
サクラちゃんも……。
ボクもミルフェちゃんを、皆の力を信じよう。クルンちゃんの占い、それを信じてボクたちを送ってくれたアイちゃんたち……ここで負ける訳にはいかない!
思わず右手を皆の輪の中に伸ばす。
笑顔でボクの手の甲に可愛い手を重ねるアユナちゃんがいる。力強く差し出すミルフェちゃんがいる。少し照れながら、でも小さな手を目いっぱい広げて伸ばすサクラちゃんがいる。そして、黒と白は……お互いに見つめ合いながら、そっと翼と蹄を重ねる。
「重い! けど、頼もしい!! 」
ボクの一言に、皆の笑い声がこだまする。澱んでいた空気が晴れた気がする。
窓の外で、一陣の風が、美しい桜吹雪を舞い上がらせているのが見えた。
「あ……アユナちゃん……」
「お帰り、リンネちゃん!! 」
笑顔、最高の笑顔がボクを迎えてくれる。生きていてくれて、ありがとう。言葉にならない感情が心の中に渦を巻き、ボクの身体を押し流す。気付いたらアユナちゃんを精一杯に抱きしめていた。
「えっと、私もいるんだけど……」
「えっと、どちら様? 」
「「えっ!? 」」
「あははっ! 冗談です、ミルフェちゃんもお帰りなさい! 」
舌をペロッと出して謝るアユナちゃん。いつもの天真爛漫な彼女だ。やっと出会えた。
「焦らせないでよ……それから、いつまで抱き合ってるの? 」
「「あっ」」
ミルフェちゃんのジト目のツッコミに、名残惜しい気持ちを味わいながらアユナちゃんを解放する。照れて赤くなっている顔も可愛い。って、たぶん、2人して同じような顔をしているんだろうけど。
「2人ともこっちに来て。会ってもらいたい方がいるの」
両手で大げさに手招きし、廊下の奥へと歩いていく背中では、小さく畳まれた羽がぴょこぴょこ可愛らしく揺れている。あの羽を見ると、どうしても過去の辛い記憶が蘇ってしまう。今ある再会の喜びは、辛い記憶の上に乗っかっているんだ。その不安定な喜びが少しでも揺らぐと、すぐに過去の悲劇が顔を覗かせる。もう二度とあんな思いをしたくない。唇をぎゅっと噛みしめ、強い気持ちでアユナちゃんの後ろを追いかけていく。
そんなボクの気持ちを察してか、ミルフェちゃんが手を繋いでくれた。強い意志を宿した瞳で、力強く頷いてくれた。そうだね、ここがゴールじゃない。やらなければならないことはたくさんある。頑張らないと!
廊下の左手から伸びる2階へ向かう急な階段。そこを通り過ぎ、廊下の突き当りの部屋に向かう。途中、台所やお風呂場、リビングが、開け放たれたドアの隙間から懐かしいままの姿を見せていた。
「他人の家みたいにキョロキョロするのね」
「だって……」
懐かしいのは確かだ。でも、なんだか違和感もある。魔神に見せられた記憶がボクの記憶を上書きしているかのような錯覚。本当にここが自分の家なのか、確信が持てずにいる。それを確かめるすべがあれば今すぐにでもそうしたい。それを探して、記憶を探して、ついついあちこちを覗き見てしまう。
「連れてきました」
『うむ』
『はい……』
扉の前に立つと、部屋の中から2人の声がする。片方は魔神の声。そして、他方、女性らしい声は天神だろうか。弱々しいつぶやき。
扉が開く。
部屋の奥のベッドに横たわる白き者は目を閉じていた。彼女の傍からこっちを見上げる黒い鳥、その目が優しく微笑んでいる。その両者を労わりつつ、サクラちゃんがベッドに座って微笑みかけてくれた。
「やっと会えた」
無意識に出たボクの第一声を聞いて、天神が横たわった身体を起こす。その目は未だ閉じられたままだ。綺麗……白い布から覗く透き通るような白亜の肌、雪の結晶のごとくに煌めく白い髪……そこには1頭のユニコーンが居た。
天神はゆっくりとベッドから降り、目を閉じたままボクの足元でひざまずく。
それを見た魔神も、同じように床の上で首を垂れる。
「なん――」
なんで、と言いかけたとき、横に居たアユナちゃんとサクラちゃん、ミルフェちゃんまでもが同じようにひざまずいているのが見えた。
「ちょっと! みんなやめてよ」
『謝罪と……そして、出逢えたことへの喜びを胸に』
顔を上げた天神の、その閉ざされた目からは赤い涙が頬を伝っていた。
「謝罪? 天神……もしかして、あなた、目が見えていないの? 」
『はい……両の目を潰しました』
アユナちゃんが手で顔を覆う。
「ど、どうして……」
『——邪神から逃れるために。リンネ様、どうか私の話を聴いてほしい……』
しばしの沈黙の後、強い決意を込めて天神が言う。魔神は何かを言いたそうだったが、敢えて口を閉ざす決心をしたようだ。それを見て、ボクは小さく頷いた。
『邪神を生み出したのは私です』
「えっ!? 」
『深く、深く謝罪いたします』
「ちょっと待って! どういうこと? 」
『長くなりますが、全てをお話しします。リーン様と別れるまでの経緯は黒が伝えた通りです。
その後、私はこの世界——天界を造りました。天魔、いえ地上世界を模倣して。その頃の私は必死でした。平和な、誰もが笑顔で暮らす世界を造り、リーン様を迎え入れる。荒んだ地上世界を放棄し、幸せを取り戻すために。
でも、それは間違いでした……。当初こそ、争いのない平和が続いていましたが、魔人に殺められた者の魂を浄化する術はなく、次第にこの天界にも怒りと憎悪の感情からなる穢れが満ちていきました——』
俯きながら語る天神の横で、魔人の生みの親である魔神が異議ありとばかりに話し出す。
『そう、魔人は人の持つ負の感情から生まれる。ただし! それは、人から負の感情を吸収し、人の代わりに苦しみを受け持つんだ。魔人は、魔素を集約し、体内に希望の星を宿す存在。その星が全て集うとき、人から負の感情を吸収する永久機関たる魔王が——』
『負の感情をまき散らす! 魔王は負の感情を吸収なんかしない、まき散らすの! 世界は負の感情の大海へと沈む。全てを巻き込んで——』
『そんな筈は、そんな筈は……ない。ぼくはそれを望んでいない』
地上に誕生する魔王は世界を滅ぼすとされる。1000年前、リーンが魂を削って戦った過去の真実がそれを裏付ける。“負の感情はコントロール出来ない”それは既に証明されている。
『話を、話を戻します。
天界に満ちる穢れを消すべく私がとった選択は、この世界の消去……天界は、一部を除いて数日のうちに海に没するでしょう。白樹の塔、聖樹結界、ヴァイス・フリューゲル、ローゼンブルグ……人々は手を取り合い、内なる憎悪と戦っている。リンネ様もご覧になったでしょう? 』
「うん、見てきた……」
地上世界で亡くなった人たちが必死にこの世界を守る姿を、ボクはアユナちゃんたちを追いかけながらずっと見てきた。これは天神の決断だったのか……。
『ここまでしなければならなかった理由、それが邪神の誕生なのです。
本来、穢れは私が浄化できる筈でした。でも、想定外の穢れが私の魂を蝕み始めました。それは、この世界の理を越えた存在。私の力の及ばぬ領域の悪意……。それでも、私は全ての穢れを吸収し、命を賭してうち滅ぼす予定でした。しかし、その悪意は……私の力を奪い、新たな存在“邪神”となって生まれ落ちました。
思い起こせば、その者の存在はずっと私と共に在った……。かつて私たちが神樹となる以前の、人の優しさと、人への憎悪を糧に力を蓄えていた頃のことです。遥かなる森の中で、私はその者の存在を見ていました。
その者は小さな小さな白いウサギだった。子どもの仕掛けた罠に掛かり、木の枝に宙吊りにされた。子どもたちはその惨めな姿を嘲笑し、皮を剥ぎ、目を潰し、耳を切り取り、舌を抜き……死を奪うことを楽しんだ。生きるためには他者の命を頂くことは悪ではありません。しかし、それは善でもありません。
ウサギはその状態で7日間も生き続けた……。その間、その者の抱く恐怖と憎しみは私を遥かに上回っていました。そのとき、私がどんな感情を抱いていたのかは今でも分かりませんが、共感していたのは事実です。何らかの力を貸した気がします。
一週間後、再び現れた子どもたちの目に映るのは、禍々しい角の生えた子鬼でした。驚く以上に笑い転げる子どもたちの姿を見るや、縄を切り、角と、牙と爪で蹂躙しました。あの光景は今でも忘れられません。
子鬼は憎しみの感情の赴くままに全てを襲い続けました。食べるためではなく、ただただ命を奪うために。恐怖を喰らい、憎悪を宿し、力を増していきました。既にウサギの面影はどこにもなく、白鬼の姿となっていました。
私たちが神樹となり、リーン様と共に世界を創造したときには既にその者の存在はありませんでした。それもその筈、私が吸収してしまったから。しかし、世界の理を越えた悪意を身に受け、その者が目覚めてしまった……』
『ウィズレイ——鬼人族の魔人か』
「ウィズ!? 確かに、あいつはこの世界とは別の世界から来た。理を越えた悪意……か」
ウィズをこの世界に連れてきたのは、もしかしてボクかもしれない。そうだとしたら、とんでもないことをしてしまった。サクラちゃんと一瞬目が合う。あの町での記憶が脳裏をかすめる。
『白鬼の姿をした邪神は、再び憎しみの赴くままに殺戮を繰り返しました。ご存知かと思いますが、この天界で傷つけられた魂は世界から放逐され、消滅します。この天界を造った者の責任として、私は全ての魂を守らねばなりません。そのために、世界を染めざるを得なかったのです。
邪神は白より生まれます。空を雲で多い、地を荒波で覆い、人々を森や地底に匿いました。しかし、邪神には知恵があった。かつて私の体内に入り込んだように、巧妙に自らの一部を分離して他者を支配しました』
「支配……まさか、南王カーリーも!? 」
魔神だけでなく、ミールを通じて見ていたミルフェちゃんも大きく頷く。
『その者だけではありません。恐らくは他にも数体の分身、そしてどこかに本体が居る筈です』
「火口、ヴァルムホルンの火口にも居たけど、あれは——」
『——いえ、分身でした。案内役を申し出た幼き者、彼女は既に邪神の手の内にあった』
俯くアユナちゃんたちを見ると、心を通わせた子と戦わざるを得ない苦しみを味わったのが伝わる。
『邪神は私の力を奪っています。その最大の力は“耐魔法”。邪神には魔法は通じません! それと、彼の者は私の目を通じて世界を見ていました。今ではその力は封じましたが……』
それで目を……。
今、邪神はボクたちがここに居るのを知らないということか。こっちも邪神の居場所が分からないけど……。
『ぼくたちはここに追い込まれたのかもしれないよ。だとしたら、ここも安全とは言えない』
『黒の言う通りかもしれません。かと言って、戦って勝てる相手では……』
「リンネちゃんより強いの? 」
静観していたミルフェちゃんが身を乗り出してくる。
火口で襲われたとき、魂ごと食べられる恐怖を感じた。あれと戦って勝てるのだろうか。
『相性が悪いのです。私より生じた邪神は、私の力に由来する全てを糧とし、喰らいつくします。ここに居るアユナやサクラの、召喚石の勇者の力は通じません。リンネ様やリーン様の力も、その大本を辿れば私と黒の力……恐らくは、邪神に力を与えてしまうでしょう』
「ちょっと待って! でも、レンちゃんはカーリーに寄生した分身を斬ったよ?」
『そんな筈は……』
「そう言うことか! 」
ミルフェちゃんが一人納得した様子で立ち上がる。
「どういうこと? 」
「カーリーが負けたとき、優しく笑ったのを見たの。その意味がやっと分かった。あの魔王、支配されながらも、常に邪神と戦っていたんだ。レンちゃんの剣が邪神を分離した瞬間、自らの魔法で滅することに成功した。そう考えれば全てが納得いく! 」
南の魔王カーリーは、邪神を倒すためにわざと攻撃を受け、自分に向けて魔法を放ったということ?
『なるほど……魔界の魔王の力ならば、邪神に対抗できるかもしれません。でも、この天界には入ることすら叶わぬでしょう。この状況を打開する力にはなり得ません』
「なら、私は? 」
「ミルフェちゃん、何を言って——」
「天界に来る前、狐っ娘に言われたの。私の力が役に立つって。私は邪神と戦う。きっとそのためにここに来た、いえ……そのために産まれ、みんなと出逢ったのかもしれない」
「ミルフェちゃん……」
心の中で鑑定眼を発動する。レベルは天界に来てから上がっていない。魔法が効かないらしい敵を相手にするには心許ないステータス。
◆名前:ミルフェ
年齢:13歳 性別:女性 レベル:7 職業:国王見習い
◆ステータス
攻撃:0.80(+1.10)
魔力:42.5(+3.60)
体力:1.25
防御:0.95(+5.20 魔法防御+4.00)
敏捷:1.40
器用:2.35
才能:1.80(ステータスポイント0)
確か、光竜の短杖の特殊効果は中級の光矢だ。スキルは、回復魔法/上級、光魔法/中級、投擲/初級、歌唱、速読……勝算はあるのだろうか……。
『若き地上の王よ、貴女の気持ちはとても嬉しい。しかし、その身体に邪神を退ける力が備わっているようには見受けられない』
「神様だか何だか知らないけど、私はね、もっと無謀な、絶望的な戦いを、たくさん間近で見てきたの! 強い意志さえあれば不可能はないってその人は言ってた! 絶対に負けないんだから!! 」
「うん、私もそう思う! 」
アユナちゃん……。
「私もです。信じる力は奇跡を現実にします。ミルフェ様の信じる力を私も信じます! 」
サクラちゃんも……。
ボクもミルフェちゃんを、皆の力を信じよう。クルンちゃんの占い、それを信じてボクたちを送ってくれたアイちゃんたち……ここで負ける訳にはいかない!
思わず右手を皆の輪の中に伸ばす。
笑顔でボクの手の甲に可愛い手を重ねるアユナちゃんがいる。力強く差し出すミルフェちゃんがいる。少し照れながら、でも小さな手を目いっぱい広げて伸ばすサクラちゃんがいる。そして、黒と白は……お互いに見つめ合いながら、そっと翼と蹄を重ねる。
「重い! けど、頼もしい!! 」
ボクの一言に、皆の笑い声がこだまする。澱んでいた空気が晴れた気がする。
窓の外で、一陣の風が、美しい桜吹雪を舞い上がらせているのが見えた。
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