八咫の皇女は奇病を食む ~おてんば娘の討魔奇譚~

Mt.hachi_MultiFace

二十二:「蜘蛛の糸くぐる」

 勝未森のおおよそ西部であろうか、ムスビに案内された小さな空き地に腰を下ろした三人は、主に茉莉の用意した(そして壱子が盛り付けを少しだけ手伝った)弁当を広げようとしていた。無論、弁当は二人分しか無く、それを壱子は三人で分けることを渋々と、しかし自ら提案したのだが……。
 その壱子の様子を見たムスビは「飯とってくる」と言って姿を消した後、間もなく仔鹿を肩に背負い、ついでにイチジクを三つ抱えて帰ってきた。
 思わず平間が口を開く。
「……それは?」
「鹿」
 端的な返答に平間が閉口していると、ムスビはそそくさと鹿を手近な木に逆さ吊りにし、そのくびに刃を入れた。獣の赤黒い鮮血が、小さな川のように流れ落ちる。
その鮮やかでさえある手際の良さに、しばし遠巻きに見惚れていた平間だったが、ふと壱子のことが気になった。今まで流血など見たことが無いだろうから、戸惑っているのではないか――そう思って彼女の方を見遣る。
平間の心配は、しかし、杞憂であった。彼の小さな主は、ムスビが鹿を処理する様子を目を輝かせて見ていたのである。興奮した様子で壱子が言う。
「平間! 鹿じゃ!」
「鹿ですね」
「何故吊るしておるのじゃ?」
「血抜きのためだと思いますが、どうせなので彼に聞いてみてはどうですか」
 少なくともひと月は勝未に滞在するのだ、ムスビとは親しくなっておいた方が良いだろう。それに壱子が饅頭を手渡していたせいか、はたまた歳が近いためか、ムスビとしては平間よりも壱子と打ち解けているようである。と、平間は考えていた。
しかし客観的に見ればこの推測は一部誤りで、ムスビが壱子とより親しげなのは、単に彼と平間がほとんど言葉を交わしていないからである。
 そんな意図を知ってか知らずか、壱子は
「それもそうじゃな。よし」
と言って、平間の手を引いて行く。
「殿下、私はいいですって」
「何を言っておる。私が行くのじゃ、お主も来い」
 まるで母親に嫌々連れられて行く子供のようである。年齢と身長が真逆だが。
 二人がムスビに近寄る。すると、何処か懐かしい、嗅いだ覚えのある匂いが平間の鼻をついた。今日はこういう感覚を抱くことが多いな、と平間は思ったが、やはり自発的にその原因を思い出すことは出来ない。
「ムスビ、その鹿はどうやって獲ったのじゃ?」
「前に仕掛けた罠にかかってた」
 壱子の質問に、相変わらず淡々と答えるムスビ。
「ほうほう」
「それを石で気絶させて、今」
「何故、その場で殺さないのです」
 記憶を探ることを諦めた平間が、口を挟む。ムスビ相手に丁寧語を使う必要は全く無いのだが、壱子の前だとどうしてもこの口調になってしまう。
「生きていた方が、血がよく出てくる」
「……ああなるほど、心臓を動かしておいた方が、重力だけでなく血圧によっても放血できるわけですか」
「多分そう。先に殺してしまうのは初心者。自分で気付いた」
 ムスビの台詞に手を叩いて得心する平間の袖の端を、壱子がくいくいっと引き、小さな声で囁く。
「どういうことじゃ、平間」
「つまりですね、心臓は全身に血を送る“ふいご”の役割をしているのですが……」
「炉の火に風を送る、あれじゃな」
 ふんふん、と壱子が頷く。
「このふいごの先には血を通す管がくっついており、今、ムスビ殿はその管を切って、中の血を取り出そうとしているのです。さて、ここで問題です。ふいごが動いている状態と動いていない状態、どちらの方が血が出やすいでしょう」
 壱子が勢いよく手を上げる。
「はい、殿下」
「動いている方!」
「正解です。と言うわけで、ムスビ殿は鹿の心臓を動かしつつ血抜きをしているのですね。分かりました?」
「うむ。大儀である」
 満足げに言う壱子は、再びムスビのほうを向き直った。
「ムスビ、血が残っているとどうなるのじゃ」
「どうなるわけじゃないけど……なんとなく臭くて不味くなる」
「そうなのか」
「そうなの……しまった」
 突然ムスビが頭を抱えてしゃがみこむ。その様に、壱子が慌てて駆け寄った。
「ど、どうしたのじゃ!?」
「この肉、これからすぐには食べられない。色々やらないと……」
「そ、それが、どうしたのじゃ」
「こうじょは、もう来ない。だから、お礼できない」
「私たちなら、明日も来るぞ。のう、平間」
 平間が頷く。しかし、壱子はおどおどとしたままだ。
「お礼など別にせぬでも良いし、明日や明後日でも良い」
「……本当?」
「うむ、本当じゃ」
 壱子が大きく頷く。
「なんなら、お主も来るか。茉莉が食事を作ってくれているはずじゃ」
 壱子の提案を聞いた平間は、さすがにそれは、と制止しようとした。が、その必要も無くムスビが首を横に振る。
「だめだ、森の外には出られない」
「む、何故なにゆえじゃ」
「母さんにそう言われているから」
「……ということは、やはりお主はこの森に住んでいるのか」
「うん、ずっと」
 ムスビが頷く。
「なるほど、な」
 壱子が虚空を見つめる。しばしの静寂。しかしすぐに
「では、とりあえず食事にしよう! 私も珍しいものを見たら、腹が減ってきた」
と、努めて明るく言った。

 二人分の弁当とムスビの持ってきた三つのイチジクを囲み、昼食が始まった。しかしそれらに手をつける前に、平間は銅鏡を出すよう壱子に促す。
「なんじゃ、お主はこれを使うことを躊躇ためらっていると思っていたが」
と、不思議そうに壱子が言う。

 厳密には、平間が躊躇っていたのは銅鏡を使うことをではなく、銅鏡の示す内容を全て鵜呑みにすることである。だが、彼はこうも考えていた。
 銅鏡の化身であろうあの凪と言う男は、壱子に対してのみ強い執着を見せていたようだった。と言うことは、当面の間、凪が壱子を陥れるようなことを企むとは思えない。そんなことをする意義も無いだろう。しかるに平間や茉莉は、こと食事などの百日病に関わる行動を壱子と同じものにすることで、間接的にではあるが、凪によって未知の病原から守られることが可能になる。
 凪が指し示すことがどこまで正確かはわからないが、安全確保の根拠は多いに超したことはないのである。
 壱子の言葉に、愛想笑いを返しながら平間が言う。
「殿下、ここで食事をしてもいいか、聞いてもらえますか」
「うむ、構わぬよ」
 壱子が銅鏡を垂らし、問うた。
「“この弁当と果実をここで食べて、百日病にかかる可能性があるか”」
 銅鏡は左に回る。「いいえ」だ。
「大丈夫みたいじゃな」
 壱子が言うと、ムスビが
「なんだ、それ」
と顔を近付けてくる。
「お守りみたいなものじゃ。さ、食べようか」
 言うが早いか、ぽん、と壱子が両手を合わせた。

比較的和気藹々とした昼食を食べ終えた壱子と平間は、初日ということもあって、この日は早めに村に戻ることを決めた。ムスビに別れを告げ、壱子が森の入り口で銅鏡に
「“私たちは百日病にかかっているか”」
「“私たちから他の者に、百日病をうつす可能性があるか”」
という二つの質問をし、いずれも否定されたことを確認して、森を抜けた。
 帰路の途上でおもむろに口を開いたのは、壱子である。
「ムスビじゃが、どう思う」
 彼女らしくない、なんともあいまいな質問である。が、そう言いたくなる気持ちも平間には何となく分かった。
「疑問点が多すぎて、何とも言いがたいですが……にもかくにも、あんな薄着であるにもかかわらず、何故発病しないかが気になります」
「そうじゃな。服をしっかり着れば大丈夫、と凪が申しておったが……それが正しいとするなら、どう考えてもあの格好は自殺行為に等しい。くだんの病を防ぐ方法は、着込む以外にも何かあるのかも知れぬ」
「念のため、彼が明日渡してくれるであろう鹿肉も、安全性を銅鏡に問うてみましょう。たまたま彼が口にしても病にかからぬ体質なのかもしれません」
「うむ……ムスビには悪いが、仕方なかろう。それにしても……」
 そう言って壱子は、あごに指を遣って言いよどむ。
「何か、他に気がかりでも?」
「いや、あ奴の母親じゃが……」
「……母親?」
「その口ぶりはもしや、気付いておらぬのか。ムスビは恐らく、志乃の娘じゃぞ」
 平間の体調が悪いのではないかと心配するに、壱子が視線を向ける。それをそっちのけで、平間は思案した。
 志乃が子を産み、森へ追いやられたのは十五年前だ。言われてみれば、ムスビの歳はそれとぴったり合う。
「それに、目元が村長むらおさによく似ておった。まず間違いあるまい。森の外へ出たことが一度も無い、と言うようなことも言っておったしの」
「言われてみれば、確かに面影がありましたね」
 実のところ平間は、既に洞察力の点では壱子に白旗を揚げていた。
「ところで殿下、ムスビ殿の匂い、気付きましたか」
「ああ、あれか。何処かで嗅いだことのあるような匂いだったな。どこだったかは分からないが」
 壱子も嗅いだことのある匂いならば、ある程度候補が絞られてくる。二人が一緒にいた場所で嗅いだ匂いか、それ以前に二人が別々の場所で嗅ぐことがあるほどに皇国ではありふれた匂いか、そのいずれかだ。
「何処か甘みがかった匂いと言うか……まず体臭ではないじゃろうな」
「そうですね……」
 現状、あの匂いについては解無しだ。

 しかし、ムスビが志乃の娘であるとなると、いよいよ謎が多い。まず、ムスビは見たところ普通の人間の少年のように見えた。勝美の人々が恐れる「呪われた魔物」の影を、彼から平間は感じられなかった。
では、父親は誰なのだ。なぜ森に行っただけで志乃は子を宿したのだ。そんな疑問が、平間の脳内を掻き乱していく。
 平間は思わず、その癖の強い髪を掻いた。


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