八咫の皇女は奇病を食む ~おてんば娘の討魔奇譚~

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八:「ある男の挫折について」

 平間京作という男は、もともと学士を志す少年であった。
 貧しい家の生まれながらもよわいわずか十で皇国の最高学府の一つである大皇国薬学術院の書士となり、その後も修学を認められるまで同期の中で成績は常に最上位か、それに近いものであった。最終的には主席こそ逃したものの、彼は、自らの未来が輝かしいものになると確信していた。
 しかし、その期待は裏切られることになる。それは、あまりにあっさりとしたものだった。
 そもそもいずれも皇都にある皇国の五つの学術院は、多くの場合若者が学問を修める場所ではないのである。入学試験は賄賂やコネで容易に結果が改竄かいざんされ、有力貴族や諸侯の子らが箔を付けるために入学し、ろくに学ばずに学歴だけ手に入れて去って行く。学術院とは、そんな「学府」とは程遠い「ハコ」に過ぎなかったのである。
 そんな学術院の実情を、平間も知らなかった訳ではない。それでも、毎日のように花街に繰り出す学友を横目に、平間は毎日学問に精を出した。自身の所属する薬学術院の図書室から引っ張り出した書籍を机に山のように積み上げ、読み込み、疑問があれば教官の部屋に通ったし、また彼ほどではないにせよ学問に真摯に向き合う者も決して少なくなかった。
 であるから、若かりし頃(と言っても現在も十分に若い部類ではあるが)の平間は、他の多くの書士たちのように「七光りの放蕩息子」でない自分にも、皇国の中枢へ進む道が開かれていると信じて疑わなかったのである。

 学術院での修学に必要な期間は四年であるが、毎年新しい書士を受け入れているのではなく、四年ごとに書士を総入れ替えする形を取っていた。四年間で学問が一定の水準に達しておらず、かつ家柄が卑しい者には学位は与えらず、放院という処分が下される。放院された者は再び学術院へ入ることは許されておらず、多くはその未来の可能性を閉ざされることとなる。

 さて、平間が修学を迎える日、合わせて五つの学術院を去るおよそ三百名の若者のうち、おおやけへの出仕を希望する書士は七割程度おり、彼らには全員の前で帝の名のもとに配属先が伝えられ、晴れて学士となって華々しい生活が約束される。なお、出仕を希望しない者には、たとえば諸侯の息子で地元へ帰る者や、商家などの家業を継ぐ者、放院の下知が与えられた者などがいる。
 当然のように放院を免れていたどころか、しっかり次席の栄誉を受けていた平間が希望したのは、朝廷の中でも医術・薬術の分野で最も力のある医薬事所いやくじどころへの配属であった。ここへは学士となった者の内、毎期ごとに数名しか配属されない、いわゆるかなりの難関である。されど、次席ともなればまず間違いないだろうと平間は踏んでいたし、実際、今までの学士達を見てもそれは正しかった。

 その日、平間に言い渡された配属先は政所黒蔵係まんどころこくぞうがかりであった。
 皇室財産の出納すいとうを管理する職務であるが、皇室財産が国庫とほぼ同義である皇国においては国庫の管理をする大蔵係おおくらがかりに仕事を奪われており、言わば閑職である。
 医薬事所の配属となったのは、名門出の主席と、その取り巻き一名であった。

 その日の晩、平間は凄まじい憤りで吐いた。
 どんなに努力を重ねても、結局家柄とコネが全てなのだと。
 総合的な学問の質でも、平間は主席に勝るとも劣らない。しかし最終的に席次を決定したのは、生まれた家の格であった。

 失意の下であっても、黒蔵係で平間は精力的に働いた。しかし、その努力はまたしても省みられることは無く、一年も経つ頃には黒蔵係の同僚と同じように無気力になっていた。
 そのような日々が四年続いた。

 現在の和倉係わくらがかりに突如として配置換えを言い渡されたのは、彼が十九歳のときである。
 当時従司徒じゅうしとであった覆山烙愁おおやまのらくしゅうの発案で新設されたこの部署は、一部の高位の者達のみを対象としている医薬事所とは違い、より幅の広い人種の人々を対象にした治療の研究および普及を目的とするものであった。
 客観的に見れば医薬事所出で司空しくう向峰定生むこうみねのさだおと覆山の政争の一環であったのだが、平間は飛びついた。やっと自分の知識を、努力を生かせると思った。
 その考えは概ね正しく、平間は命じられるまま次々と地方への調査をこなして行き、係内での評価も上がっていった。その甲斐あってか覆山が司徒へ昇格すると、なおさら懸命に職務に当たった。

 さて、平間の調査への取り組み方にはいくつかの特筆すべき事柄があるが、殊更に異様な点といえば、彼が自分自身の身体に極端に負荷を掛けるということである。彼が壱子と共に皇都を発った際に背負っていた、あの巨大とも言うべき荷の量もその一環であるし、また僻地と言うべき地方へ単身踏み入る際も、命を捨てるような危険で大胆な調査を行っていた。
 それは、彼の職務に対する真摯さによるものであるとも言えるが、どちらかと言えば彼が、自分の人生に関してある種の諦観の念を持っていた為である。自殺願望といってもいいかもしれない。

とにもかくにも、彼は日々自らの体重の十倍を超える荷を背負い、無意味に、しかし死にかけるまで遠い道のりを和倉係に着いてから現在までの三年間、ほぼ毎日歩いていた。
その結果、当然ではあるが彼の脚力は、果たして常人のそれを大きく凌駕していた。

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