一等星の再来、始まりのラビリンス

些稚絃羽

11.解答は解かないままで

 電話を終えて、念のため電源も落として彼女の元へと戻る。僕を見止めると、分からないほど緩く目を細めてコーヒーの最後の一口を飲み干した。
 彼女の出方を待った。本来なら僕の一言から始まるべきなのだろうけれど、このくらいは任せてしまってもいい筈だ。彼女もそれを心得ているように、潤した唇を開く。

「いつまで私をここに置いてくれる?」
「……明日の朝までなら」

 カウントダウンするように掛け時計の秒針の音が大きくなった気がする。その時間が長いのか短いのかは測りようもない。けれど面白くもない話に時間の全てを使うつもりは毛頭なかった。
 彼女はほんの少し嬉しそうに口角を上げて、

「そっか、今すぐじゃないんだね。良かった」

と呟いた。今この場から、というのも覚悟していたという訳だ。これから始まるのが何かを彼女はちゃんと理解している。だから優しくなんてしない。彼女を好きだった自分を隠して、ただ罪を暴く者として割り振られた役をこなしてやる。彼女の求めるその通りに。

「君が、殺したのか」
「事故なんじゃなかったの?」
「事故かもしれないし、事故じゃないかもしれない。本当の答えを知っているのは君だけだ。だけど僕は、屋上に立った君が殺意を持っていたと思っている」

 曖昧ね。そう言って居住まいを正す。故意なのか彼女は僕の正面を捉える位置に座り直して、僅かに挑戦的な眼をこちらに向けた。

「私は屋上になんて上ってない。だってずっと本屋に居たんだもの」
「違う。君はあの屋上に上った筈だよ。じゃなけりゃ、燦々ビルを五階だなんて言い当てられる訳がない」

 警察もマスコミも燦々ビルを六階建てと認識していた。五階と知るにはあの螺旋階段を目にしていなくては無理だろう。どの階からも出られるように取り付けられた出入り口のドアは階数分の五枚。僕のように上り下りしていなくては数を知ることも稀だろう。彼女は気が付かなくても彼がそんな話をしたかもしれない。だから彼女には燦々ビルは五階建てとしてインプットされたのだ。

「じゃあ、私はどうやってわざわざそんな所まであの人を連れていけたのかしら?」
「彼の履歴は消えていたけど、君の方は着信も発信も消えていなかった。ひとつ履歴を消したくても丸ごと消す以外に方法はないから、ここで取った電話の後はふたりの間に連絡はなかっただろう」

 つまりあの電話の段階で既に燦々ビルの近くで落ち合うことを決めていた筈だ。もしかすると、もっと前なのかもしれない。フェリーが欠航になるため彼女を心配して彼もこちらに来ると聞いていたが、初めから今日落ち合う予定だったんじゃないか? しかし台風の影響で早く来ざるを得なくなった、あれはそういう連絡だったんじゃないか?
 そうであれば予定通り落ち合った後、大事な話をしたいと切り出せば誘導は簡単かもしれない。彼の心理を知っている彼女なら、どんな風に言えば彼が乗り気になるか分かっているだろう。そうして屋上まで上がり風を味方につければ、体格差はあっても突き落とすことができてしまう。特に身長の高い彼では屋上の囲いは低すぎただろう。身を乗り出して階下を覗かせて脚を払う、それだけで良かったのかもしれない。

「喫茶店の裏の本屋で時間を潰していたのが不思議だった。大通りを素直に歩けば喫茶店の影に隠れて本屋は見えないから。たまたま見つけたのかとも思ったけど、ビルから事務所ここに戻ってくるのに僕は自然と裏道を真っ直ぐ帰って来たから、君もそうしたんじゃないかと思ったんだ」

 待っていた、僕からの連絡を。その場に居合わせるとまでは思っていなかっただろうけれど、彼の死を知れば真っ先に連絡があると考えて、ある程度近い場所で待っていたのだろう。場合によっては偶然を装って現場に向かわせることも考慮していたかもしれない。どちらにしても周囲の動向を探るには丁度良かったのだろう。
 間髪入れず、動機は? と問い質してくる。これでは僕の方が自白に追い込まれているようだ。それでも僕はそれに返答することができない。

「……分からない。それは君達ふたりの問題で、ふたりの間に何があるのか僕は聞くべきじゃないような気がしてる」
「そう。そうね、多分分かってもらえないと思うわ。だから今回は特別に正解ってことにしてあげる」

 立ち上がって両手を後ろ手に組むと、二、三歩距離を取るように進む。彼女は僕の友人というスタンスを崩さない。待ち合わせに遅れたのに開き直っているような気軽さで、自分の犯行を認めた。
 嫌悪しなくちゃ。誰であろうと、どんな理由があろうと、人の命を奪うことの重さが等しくない訳がないんだ。

「よりによって神咲くんに再会しちゃうとはね。初めから捕まる運命だったのかも」

 やけに清々しく、斑に剥がれ落ちた天井を見上げる彼女に、そう仕向けたんだろ、と投げやりに声を飛ばす。表情を変えないままこちらを仰ぎ見たその瞳に向けて、僕は続ける。

「君の目的は最初から僕だった。僕に見せるため、僕に暴かれるためにここに来た。そうだろう?」

 何も言わない。ただソファの肘掛けにそっと腰を預けて、子守歌を聞く少女のように瞼を閉じた。その姿は憎らしいほど美しく、それでいて憎むことができないことを僕の心にありありと知らしめた。

「何もかも全部嘘だった。婚約者が世話になった人にお礼を言いたい、名前も分からないけどとりあえず来てみた、なんて。こんな粗しかないような計画をよくここまで引っ張れた、君は名女優だな。……いや僕がいいカモだっただけか」

 自虐的に笑ってみれば、そんな自分への嫌悪感が湧き上がる。楽しくもないのに笑って、卑下することでしか今の自分を保つことができない。それは彼女をまだ信じたいからでも、彼女を更生させたいからでもない。僕自身が傷付きたくないからだ。彼女の目的のために選ばれて、いいように走らされたことを認めたくないからだ。あれは全て僕の意志だったのだと、この期に及んで格好付けたいだけなんだ。
 彼女は自分を捕らえてしまいたかった。掴み所のない、矛先の見えない憎しみを抱えた自分を。それから逃れられない自分を。そうして、本当に変わりたかったんだ。
――そのために犯される罪は、なんて滑稽だろう。

 どこで気が付いた? 目を開けた彼女は声を出さずにそう訊ねていた。小さく傾げた首に毛先がさらさらと流れていく。

「君が、彼の婚約者だったからだ」

 そうでなければ、そうだと話さなければ、僕は何も気付かなかったかもしれない。

「彼に代わって礼を言いたい、そう君は言った。だけど、自分も彼もその人の名前が分からないとも言った。
 そんな筈がなかったんだ。だって彼は僕宛てにお礼の手紙を送ってくれていたんだから」

 事務所の隅、キャビネットの抽斗から一通の白い封筒を取り出す。差出人は無論、三条時宗となっている。封筒の表には彼の体を表すような、綺麗とは言い難いが力強く大きな字で、事務所の住所と僕の名前が記されていた。契約書に記入された字と確認するまでもなく同じ筆跡。消印は荷物があちらに届いたその日になっている。

「僕は彼の荷物を宅配便で送っている。送り主の住所までしっかり確認する人は少ないだろうけど、宛先に書こうとすれば多少なりとも記憶する。世話になった人の名前なら尚更。現に彼は手紙の中で、十数回は神咲さんと書いてくれていた」

 三枚綴りの便箋に最初に目を通した時、くどいくらいの書かれたお礼の言葉に幾らか胸焼けしたほどだ。しかし今ならその気持ちも理解できる。あのバックパックの中には、愛する人に贈る指輪の原石が入っていた。時間をかけて選別しながら集めた石は、彼にとってすでに大切なものだったのだろう。それを無くしたときの絶望感、そして手元に戻って来た時の安堵感。きっと僕が想像するよりも大きく彼の心は変動した筈だ。この手紙にはそんな思いの丈が詰め込まれている。もしかしたら彼が最後に書いた手紙かもしれないと思うと、愛おしささえ滲んでくる。
 相当律儀な人だね、と言えば、いっそ怖いくらいよ、と彼女は呟いた。その顔はこれまでで一番、幸福そうに見えた。

「だから何か隠したい秘密があるんだろうとは思っていた。勘違いであってほしかったけど」
「……手紙を書いていたなんて。最後の最後にやられちゃったな」

 言葉ほど残念そうにもなく、あっさりとした溜息を吐く。事実を知らなければ今朝と今、彼女は何も変わらないように見える。けれどふとした瞬間に苦々しく引くつく下瞼に、その痛みは隠れている気がした。
 何が彼女を駆り立てて殺人という罪を犯させたのか。心の中で繰り返してきた行為を、現実にしてしまったのは何故なのか。それを知ることは何かの終わりを予感させた。そこには明るい感情はない。けれど終わらせなければ始まらないのなら、その終わりはきっと今しかないのだ。



 彼女はゆっくりと、そしてしっかりとした口調で話し始めた。

「公園で話したでしょ、家族も自分も……って。何もかも嫌いで、なのに受け入れてほしくて。ずっと宙に浮いているような心地だった。学校に居る間だけはそんなの全部忘れられたけど。
 覚えてるかな? 私、県外の寮のある高校に進学したの。それは家族と離れるためでもあったし、私自身から離れるためでもあった」

 彼女にとって"家族"という存在は大きくて近すぎて、それが重圧となって圧し掛かっていた。距離を置くことはその心を守るために必要なことだっただろう。家族が理由を知れば胸を痛めた筈だ。しかし彼女は上手くそれを伝えないで家族から離れていったのだと思う。だって彼女は家族を嫌っていながら、恐らく誰よりも家族を愛していたのだから。

「驚くほど心が軽くなったの、ひとりになった途端。だから友達とはあまり距離を詰めないようにした。近付きすぎたらまた同じように誰かを嫌いになってしまうような気がしたから。
 大学に入っても同じ。寧ろ高校の時より楽だったかな。人付き合いは自由だったし、一人暮らしを始めたから。サークルもそんなに頻繁に活動してないところを選んで、何となくどこかに所属してるってことに満足してたの。だからね、多分間違えちゃったんだ」

――私はもう大丈夫だ、って。
 変われたように思ったのだろう、普通に生活できていたから。遠くから眺めていた筈なのにすぐ傍に居るような錯覚を起こして、いつかの醜い感情なんて消え失せたと誤診してしまった。実際はただ解決を後回しにしていただけだったのに。
 だから間違えてしまった。過去の自分とは決別したから、まともに恋もできるような。家族とは違った感情で愛し、そこには重苦しい猜疑の目も自身を呪うような怨恨もなく、純粋な色でひたすら愛されていけるような。それを信じてみたかった。それまでの自分の方が偽りだと認められる存在が彼女には必要だった。彼と出会って、彼女にとっては彼が新たな自分に変えてくれる存在だった。

「あの人と上手くやっていけると思ったの。愛してくれてるって思えたから。ちゃんと叱ってくれたし、それも心配しているからだって言葉で伝えてくれた。
 けどね……怖くなっちゃったの。ふとした瞬間に過去の自分に戻っているのに気が付いたから。一緒に居たらこの人を駄目にしてしまう、きっといつか治らないような傷を負わせてしまう、そう思った」

 結婚の意思を告げられたのはそんな時だったと言う。内側で燻る感情に気付いていたから何も答えられなかった。指輪を作ったら改めて言うと照れ笑う彼を前に、幸福感と罪悪感でまるで迷子になったような気分を彼女は抱えた。
 そしてある日彼は出掛けていった。指輪を作ろうとしていることはすぐに分かっただろう。そろそろ決断しなくてはならない、自分を隠して一緒に居ることを選ぶか彼を傷付けないために別れることを選ぶか。しかし決断する前に無理やり過去に押し流されることになる。

「荷物を受け取ったの、私だったの。あの人、買い出しに出かけてて居なかったから。
 送り状を見て驚いちゃった。同姓同名かとも思ったけど、あの人に聞けば聞くほど神咲くんのイメージに近付いていったから間違いないと思った。
 ……神咲くんのことを思い出したら、自分の残酷さに気が付いた。あの頃と同じで自分は何もしないまままた逃げようとしてるんだって」

 それは僕が、彼の死の原因を作ったということなのか? 多分そんな目を向けたと思う。彼女はソファに座り直すとかぶりを振る。

「何も決めてなんていなかった。今の神咲くんに会いたくなって、何も持たずに飛び出しただけ。あの人は心配して来てくれただけだったの。
 神咲くんに会えて、それからあの人に会ったらね。無性に消えたくなった、私の全部を終わらせたくなった」

 そこには明確な理由はなかったのだろうか。ただ消えたい、そんな漠然とした思いに駆り立てられたとでも言うのだろうか。
 無我夢中で僕はビルを駆け上がった、叩きつける風の中をだ。それほど強い感情で死を選ぶその心根はどこに植え込まれていたんだろう。

「あの場所で死ぬのは、私のつもりだった。揉み合うふりをして飛び降りようと思ってた。ひとりでそうできなかったのはきっと、まだ暫くあの人に愛されていたかったから。本当に身勝手よね」

 その愛は深すぎて、だけど分かる気がした。僕だって何度も、彼女のその心に残るため必死になった記憶があるから。
 “普通”ではないかもしれない。けれど愛されきることを願って死を選ぶことが異常なことには思えなかった。歪に育った果実も同じく甘いように、彼女の心に生まれた愛情も皆と等しく変わりない愛情だった。それが消えていくのを見ない内に、受けた愛と共に終われるなら寧ろそれを幸せだと思っても決して異常ではないと僕は思った。
 しかし彼は死んだ。彼の方が死んだ。逸らそうとしない彼女の瞳を覗き込んでも、その感情を読み解くことはできない。

「私の身勝手で、私は生き残ってあの人は死んだの。あの人は私を助けようとしてた。「死ぬほど嫌なら別れるから」って。結婚するのが嫌だった訳じゃないのに、あの人はそのせいで私がヒステリックになってるんだと思ってた。だから死ぬだなんてそんなのおかしいってそう言われたの。そうよ、おかしいの、私だって分かってる。けどあの人が否定した私が、本当の私。あの人がおかしいと思った思考が、ずっと隠してきた私の本当の感情だった。
 ……あれは事故じゃない。私は確かに殺意を持って、その肩を押したから」

 壊してしまうことを思考が思い巡らす前に身体が決めてしまった。肩に手を添えて力を込めてしまえば呆気なく、別れは訪れてしまった。
 彼女が流した涙は本当だった。演技でも誤魔化しでもなく、単にそこでやっと彼の死を受け入れたから。傷付けすぎて麻痺した心に届くには時間が必要だった。息をしない、もう目覚めない彼を目の前にしてからやっと、彼が死に自分が殺したことに気が付いたのだ。悲しくて愛しくて、寂しさに彼女は泣いたのだ。それがとても純粋に彼を愛していた証拠である以外に、何だと言えるだろう。

 動機がもっと罪深ければよかったのに。そうしたら彼女が望む通り、痛みを感じる部分まで奥深く言葉の刃で貫いてあげられた。心底彼女を嫌って、そうして彼女も僕を嫌って。本当の意味で全てを終わりにできたのに。
 だけど僕にはそれができない。彼女を憎むほど嫌う僕を想像することもできないでいる。

「お願いがあるの」

 だから僕は、浮かぶ涙を必死に堪えて彼女の言葉に耳を傾けるんだ。

「神咲くんの時間を、私に頂戴」

 今の彼女にどんな思いを向けるべきか、その正解を僕は知らない。知らないなら僕は僕の回答で応えるしかない。
 おもむろに立ち上がると、彼女が怯えるように身を固くした。僕は何も言わず、ただコーヒーを入れるため、ふたつのマグカップを手に取った。背を向けた途端、抑えきれなかった涙が大袈裟に巻かれた包帯に落ちた。

  

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