一等星の再来、始まりのラビリンス

些稚絃羽

10.越えるべきモノ

「どうしたの?」
「あ、ちょっとね」

 背後から聞こえる声に、開いていた抽斗を閉じる。けれど何も取り出していないことに気が付いてもう一度開けた。幾つか重なる封筒の一番上には白い封筒が乗っている。分厚いそれの送り主を隠しながら、奥に仕舞われた写真の束を取り出した。全て中学生の時のものだ。家で何かの拍子にばら撒く度に母さんからアルバムに入れるように言われたけれど、どうしてもできなかった。まとめてしまえば邪魔にはならないが、頻繁に取り出して眺めてしまいそうな気がしたから。心の中で拠り所にしていながら視覚に入るものに縋るのは違う気がして、簡単に一枚を探し出してしまえないように乱雑に混ぜて抽斗に仕舞い込んでいたのだ。
 現実から離れたくて、離してあげたくて、卒業してから見ないことにしていた写真に初めて頼ることにした。原因はもう目の前に居るのだから、写真を見ようが見まいが同じことだろう。テーブルに置くと瞬時に察知した彼女が可笑しそうに笑う。

「突然何かと思ったら、写真を取りに行ってたのね」
「うん。久々だしこういうのもいいかと思って」
「見てもいい?」

 微笑んで返すと数枚を掴んで眺め始めた。それに倣って僕も一枚取っては脇に重ねていく。時折彼女が声を上げてその写真の記憶を話すのを、僕は聞いていた。それらはどれも少しの間違いもなく紡がれて、僕がそうであると同じように彼女にとっても色濃く刻まれていることが分かる。その表情はきちんと時を刻んで、彼女も同じだけの年月を過ごしてきたのだとやっと受け入れることができた。
 彼女が公園で話していたことを思い出す。あの頃、幾度も変わりたいと言葉にしていた理由を今になって知ることになった。彼女は僕がそれを聞いて幻滅すると思ったのだろうか。だから泣きそうな顔で、優しいだなんて言ったのだろうか。

 求められることを何でもしたいと思う。けれど、今の彼女が僕に求めていることは、理性的で正しくてほんの少し利己的だから、今の僕は認めたくない。あの頃の僕なら彼女のためになるなら走り出せたけれど、僕は違う。彼女を失って、月日は経って、強引にまた引き合わせられて。これ以上守ってきたものを掻き乱されたくないんだ。自分以外の誰にも、胸の内に隠してきた混じり気のない"彼女"を奪われたくないんだ。……なのに、君は、僕から掻っ攫ってしまおうとするんだね。そんな無害そうな顔をして。

「……君はどうして、ここに来たの……?」

 僕の問いかけに彼女は口を噤んで、顔中で笑って見せた。

「会いたかったからよ、神咲くんに」

 抗ってしまいたい。これまで声にした全ての言葉から逃げてしまいたい。救った気になった人達から非難されることになるとしても、覆して全てを捨ててしまいたい。僕がそれを選んだなら、彼女はきっと何も言わずに付いて来るから。求めることもなしにして、最初からそうだとでも言うように。



 今日何度目かの着信音が鳴る。今度は僕のだった。他と変わりないのに重く響くその音に、息苦しくなってひとつ咳をした。
 表示された番号に顔の筋肉が震えるのが分かる。登録されていない番号だが、これまで何度となく確認してはかけてきた番号だ、見なくたって空でも言える。未だに番号は変わっていないらしい。こちらの番号を教えている筈もないが、相手の職業を考えれば嫌でも納得できた。しかも鳴っているのが仕事用の方ではないというのも、あの人らしい嫌らしさだ。
 放っておいても意味がないことは分かりきっている。悪い方にしか向かわないことも。だから仕方なくその電話を取ることにした。彼女を置いて自室に入る。コール音が切れる瞬間、その声を聞くのは何年振りだろうと逡巡したのは、一体いつの僕だろう?

「……何か御用ですか?」
「用もなく電話をかけるほど暇じゃない」
「そうでしょうね。僕だってそんな電話を取るほど暇じゃないんで、手短にお願いできますか?」

 挑発的な態度だと思う。けれど今更「もしもし、父さん?」というお決まりの文句を言う訳もなく、相手だってそれを欠片も望んでいないことは返答の言葉から分かった。相変わらずしゃがれた声。ぼんやりとくぐもって聞こえるのは煙草の煙を吐いているせいだろう。苦みの強い臭いが漂ってきそうで、思わず眉根が寄った。
 こちらもそのつもりだ、と吐き捨てて、単刀直入にこう切り出された。

「稲森透子、知ってるな。一緒に居るんだろ?」
「……警視庁の方は地方の小さなヤマも追うんでしたっけ?」

 お前には関係ない、と言いすぐさま答えるよう威圧している気配がする。
 相変わらず鼻だけはいい、警察官としての嗅覚だけは。事件発生から半日も経っていないのは本来ならばありえないスピードだが、しかし神咲学かんざきまなぶなら認めざるを得なかった。
 その仕事はあの人の天職だと言ってもいいだろう。今は警視庁に配属されているが、僕が高校を出るまでは地元の署で長く勤務していた。多分その頃の署内で神咲学を知らない人は居なかっただろう。「検挙率ナンバーワン」「早期検挙の鬼」と噂されていたようだから。それも捜査というより閃きによるところが大きかったらしい。刑事の勘、とでも言うのだろうか。そんな曖昧なものを周囲に信頼させるほどに実績を挙げていった。その素早さと切れ味、そして仲間にもプレッシャーという傷を付けるという意味で「かまいたち」と囃されていたのを何度か耳にしたことがある。
 だから僕の中学時代の同級生の名前をあの人が覚えている筈もないのに、どうやって僕に当たりをつけたかは到底想像もつかない。尾行したなんてことはまずない。勘が鋭い上に、尾行するくらいなら乗り込んで直接何か言ってくるタイプの、荒っぽくて型にはまろうとしない人なのだ。この人に目をつけられた時点で、事件はもう収束に向かうしかない。

 答えを決めかねていると何を勘違いしたのか、合同捜査でこちらに来ているだけだ、と告げてきた。それはすぐに居なくなってやるからと案に示されているようで、余計に胸糞悪かった。それで黙ったままでいると、

「……最近、色々と首を突っ込んでるらしいな」

と機嫌の悪そうな声が聞こえてくる。警視庁に居た人間がどうしてこんな地方のたったひとりの人間の動向を簡単に知り得るのか。南署の中に僕とこの人の繋がりを知っている人が居るとは思えないが。しかし、色々、とはどこまで知っているんだ。長く離れていたのにずっと監視されていたようで気味悪く、反抗期の少年のように言い返していた。

「僕の素行調査ですか? 暇じゃないと言う割にどうでもいいこと調べてるんですね」
「いい加減にしろ。巻き込まれて取り返しのつかないことになったら、終いなんだぞ」

 奥歯を噛み締めて吐き出すような声が、知ったように言う。経験者としての言葉なのか、父親としての言葉なのか。後者はあり得ないのだろうな。
 もう随分と巻き込まれていることはどうせ分かっているんだ、こちらからわざわざ話してやる必要もない。これまで人の死と図らずも対面して、見たくないものを見て、知るべきでないことまで知った。感謝される度に居心地が悪くて、けれど無理やり納得しながら今日までやってきた。そこに僕は居るべきではなかったけど、僕が少しでも力になれるならって、そう思ってきたんだ。多分それは、何度求めても見知らぬ誰かを選んで家を飛び出す父親のようにはなりたくなかったから。地域のため? 国のため? 目の前に居る息子のために何もしてくれなかった人のようにはなりたくなかったからだ。だから放っておけなかったんだ。だから、人の過去や心を荒らし回って、罪に定めて説き伏せて。綺麗事を並べ立てて……?

 僕は一体何をしてきたのか。今更になって都合よく逃れようとしているのは、誰のためなのか。誰もそんなこと望んでやしないのに。

 頭の中がぐちゃぐちゃして、溜息を受けた耳が痛い。まるで屋上で身体を打つ風のようだった。

「いいか、お前の目の前に居る女は、さつじ」
「分かってるっ! ……全部、分かってるんだ……」

 発せられた言葉に無我夢中で蓋をした。そんなこととっくに気が付いているんだ。だから第三者にそれを、ましてこの人の口から聞きたくはなかった。本音を言えばもう何も、今以上に嫌いになりたくなかった。
 自棄になった訳じゃない。もう少しだけ求められるままの僕で居ることを決めただけだ。自分を捨てて、ただ彼女の望み通りの僕であるのやめようとした、それを僅かに延期することにしただけ。だってどうしたって彼女を縛り付けておくのは、いつの僕にもできないのだから。
 警察ほど確実な証拠も、立証する手立てもない。だけど僕が彼女と居る以上、彼女をどうするかは僕が決めさせてもらう。たったひとつの我儘だ。それがたとえ罪とされるのだとしても、今この瞬間だけは譲らない。

「一日、いや半日でいい、時間をください。無茶な願いだということも分かっています。それでも今、彼女との時間を奪わないでください。明日になったら必ず、彼女を行くべき場所に向かわせます」

 この人の沈黙はどう捉えればいいのか、僕は知らない。肯定でもあれば否定でもある。激高する前触れの時もあったし、頭を撫でた時もある。次の声がするまで待っていなければならない。どんな反応も遮らず見落とすことのないように。
 ざわりと擦れる音がした、服を擦ったのだろう。僕に答えないで誰かとの話を始めるつもりのようだ。小さな会話でも拾ってやろうと携帯電話を耳に押し付けたが、聞こえた声は思いの外近く、何にも消されることなく鮮明だった。

「おーい、姉川。今日の燦々ビルのあれ、事故だろうな?」
「ですねぇ、この強風ですもん。六階の屋上なんて立つもんじゃない。他のとこでも転落事故、多いみたいですよ」

 遠くで応える声がする。これが今の警察全体の見解なのだろう。彼の死も多くの事故のひとつとして片付けられようとしていた。

「あれを覆すにはかなり時間がかかりそうだな」
「え、何か思い当たる節でも?」
「いや、これに関しては何も」
「流石の神咲さんでもこれをひっくり返したらもはや化け物ですよ」

 周りで煙たい笑い声が上がった。職務怠慢だとなじってやりたくもなるが、この傾向は今の僕には有難い。時間はたっぷりあるのだ。僕と話すより幾らか明るい声で話すのが、無性に耳に付いて仕方なかった。
 わざわざこれを僕に聞かせた意図はなんだ? 自分の口から話すまでもないとでも? 気付かせてやるなんて父親面をしているのだとしたら、とことん僕を馬鹿にしているらしい。
 衣擦れの音がしなくなって、低めた吐息に肩が揺れる。

「明日の十時までだ。南署に、俺を直接訪ねてくるように」

 その結果は手柄か、酌量か。この人を慕っていたのなんて随分と前で、どんな人だったかも上手く思い出せない。疑うのがこんなに簡単になってしまって、無条件の納得なんてできなくなってしまった。それでも頷くしかないから、分かりましたと約束した。
 ふと漂う空気が変化した。そんな気がする。これという明確なものはないけれど、その空気に温度を感じた。幼い頃、電話口で感じていた空気に少しだけ似ていた。

「いいんだな、それで」
「……僕の行く末を決めるのは、僕ですから」

 一度深呼吸をする間を取って、そう答える。警察としてあるまじき問いをしたその人は、今の瞬間だけ父親のようだった。

  

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