一等星の再来、始まりのラビリンス

些稚絃羽

8.涙の理由は風まかせ

「ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「だって、神咲くんの前では泣いてばっかり」

 そう言って、彼女は流れないまま溜まった最後の涙をタオルで拭った。なるべく色の薄いのをと探し出して貸したけれど、残念なことに濡れてない部分が斑模様に浮かび上がってあまり意味はなかったらしい。赤らむ目元と鼻はあの時よりずっと少女的だった。
 変なところを気にするものだから、安心してほしくて口元を緩めた。

「たった二回じゃないか」
「そうよ? たった二回。だけど……私が泣くのはね、神咲くんの前でだけなんだよ」

 僕の前でだけ? そんなことある筈がないと思うけれど、それを否定する材料は記憶の中には転がっていなかった。

「家族の前でも殆ど泣いたことないの。泣きたいと思うことがなかったから。でも神咲くんと居ると泣きたくなっちゃうの。本当に泣いたのは二回だけど、泣くのを我慢したことは何度もあるんだよ?」

 そんな言葉にどう返したらいいのか。だってそれは少しだけ素敵な言葉に聞こえて、だけど僕が不幸を呼んでいるようにも思えて。彼女に泣かないでいてほしかった僕がその涙の元凶なら、なんて皮肉なことだろう。
 落ち込む僕はきっと泣きそうで、でも彼女は首を振った。そうじゃないんだよ、と。

「一緒に居ると悲しいとか、そういうのじゃないの。たとえば感動する映画を観ても、ひとりじゃ泣けないの。他の誰かと観ても泣けないの。でも神咲くんが居てくれたら泣けるんだよ。分かってもらえないと思うけど、嬉しくても悲しくても、神咲くんが一緒じゃないと涙が出るほど心が動かないの」

 その気持ちは、彼女の言う通り分かってあげられなかった。だけど僕の心にあるものと比べてみたら、もしかしたらわずかに似ているのかもしれなかった。
 僕が涙に願いをかけるのはただ、稲森透子、ひとりなんだ。何ができる訳でもないのにそんなことを思い描いてしまうのは、彼女のことだけなんだ。
 泣かないでほしいと願う僕は自身の中で何よりも真っ新で。新品のシャツを着た子供のように染みを作ってしまうのが怖くて動けなくなったまま、晴れた日を夢想し続けている。泣くのなら傍に居るのは自分がいいと望む僕は微かな欲望に淀んでいて。駄々をこねる子供のように自分が何に対して頑なになっているのか分からなくなったまま、強情に叫び続けている。
 自分というものがよく分からなくて、それでも彼女のことを想う自分だけは確立された「僕」のようで、そんなちっぽけな自分を誇らしいとさえ思えて。純粋には程遠い小汚い自分を愛してしまったから、あの頃の僕はさよならを言い訳にして彼女を拠り所にしてしまったんだ。傍に居ない彼女が泣いていないだろうか、どんな景色を見て笑っただろうか。そんな風に想像することでひとりきりになってからも自分を支えていたんだ。弱くても、浅ましくても、それが僕の糧だった。……きっと君にも、分かってはもらえないだろうけれど。

 強張りを解すみたいにその胸を優しく叩きながら、あの時が最初だった、と彼女はまた話し出す。

「神咲くんの腕から血が出てるのを見た瞬間、あんなに悲しくなったことなかった」
「でも稲森さんだって額に」
「言ったじゃない、本当に痛くなかったの。自分が怪我しているのにも気付かないくらい、神咲くんで頭がいっぱいだったのよ」
「でも傷が付いたことには変わりない。僕にはそのことの方が余程つらかった」

 本音でそう告げる。彼女が泣いていたから、その傷はとても深くて痛いんだろうと想像した。それはとても悲しくて、僕もすぐにでも泣いてしまいそうだったのに。僕のことで流した涙だと知っていたなら……知っていてもそれがまた悲しくて、結局泣いたのかもしれないな。
 彼女がゆっくりと首を振る。とても楽しげに、嬉しそうに微笑みながら。

「そんなことはいいの。何と言われようと神咲くんは私を守ってくれた、ヒーローなんだから」



**********


 僕が園芸委員に入ったのは特別入りたい委員会がなかったからだし、草むしりくらいならぼうっと考え事しながらでもできそうだからって安易な理由からだった。だけど稲森さんが園芸委員を選んだのは単純に花が好きだからなのかもしれない。多分僕とは違ってポジティブな理由からなんだろうな。
 昨年は皆の様子を見ている内に余ってしまって、保健委員に入らなくてはいけなくなった。行事とあれば駆り出されて、通常授業でもクラスメイトが体調を崩せば保健室に連れて行かされる。年間を通して忙しくて、これが中学の洗礼かとショックを受けたものだ。
 だから二年になった今年はできればゆっくりしたかった。時間が取れればもう少し稲森さんと仲良くなれる気がしたんだ。まさかこんな風に、時間の方から近付いてきてくれるなんて思わなかったけれど。

 当初予想していたよりも細々した仕事は多かったけれど、激務の一年を思い返せば仕事量は五分の一程度なんじゃないかと思う。勝手な予想だけど。
 でも頻繁に水やりなんかの当番が回ってきたから、稲森さんとふたりきりで過ごす時間が確実に確保できたのは嬉しかった。ホースの水が散って怒られたり、じょうろの水をぶちまけたせいで濡れた僕に必死に謝ってきたり。最後には何だか可笑しくてふたりして声を出して笑った放課後が、何度もあった。夏の草取りも秋の落ち葉掻きも委員の皆でやったけど、僕達はずっと隣に居た。同じ教室に居る時より僕達は仲が良かったと思う。だからってそれを‟前進”と呼ぶにはささやかすぎたけど、今はそれで充分だった。

 僕達の中で何かが変わった瞬間があった。
 雪の降る時期を過ぎて、でも春が来るには早い頃。台風でもないのに暴風警報が発令された日。三限目を終えた後、大事を取って下校となったため教室を出ると、声をかけられた。委員長さんだ。裏庭の樹の保護に駆り出されているから手伝ってくれという内容だ。うちの中学の裏庭には樹齢一〇〇年を超える桜の大木がある。代々守られてきたが秋に幹の一部に腐食がみられたため、今回の風を受けると折れてしまうかもしれないのだ。非力な僕で役に立てる筈もないけれど、一人でも多くの力が必要ならと裏庭に急いだ。稲森さんも付いて来たことに気付いたのは、暴れるように枝をのたうつ桜を前にした時だった。危ないからと言ったけど私も力になりたいと言われれば強く出ることもできず、一緒に行動することにした。先生の指示に従って、僕達は樹の支えを幾つも取り付けた。上方では風よけのにビニールシートが張られている。気休めに次ぎないだろうけど、何もしないよりはましな筈だ。

 用意していた道具や木材が粗方使い終わったのを目途に、後は何事もないことを祈ろうという先生の呟きに押されて解散することになった。
 その時、一番の突風が吹いて誰もがふらつく身体に力を込めた。僕はまず稲森さんの姿を見て、つらそうでも倒れてはいないのを確認した。それからふと桜の樹に目を移す。地面に刺した支えの木材ごと引っこ抜いてしまいそうなほど大きく揺れていた。多少の被害は免れないだろう、そう思った瞬間、風に巻き上げられた一枝が持ち場を離れて稲森さん目掛けて飛んでいくのを見た。咄嗟に身体が動いて気付けば稲森さんを突き飛ばしていた。降ってきた枝は僕の脚よりも一回りほど太く、反射的に腕を顔の前に翳したものの、重さに耐えかねて一緒に倒れ込んでしまった。
 枝の先に固まったままの稲森さんが居る。風で剥き出しになった額につっと赤い筋が流れるのを見た。打ち付ける心臓のせいでおかしくなってしまいそうだ。血が、血が、血が――――。
 自分の右の二の腕から、ずるりと何かが抜ける感触がする。のしかかっていた重みが離れていく。折れて鋭利になった枝元がべったりと赤く染まっている。僕の血なんだろうなと考える僕は他人事で、そんなことより稲森さんのことが心配だった。
 大丈夫? そんな陳腐な言葉を言いかけて、頭が真っ白になった。泣いていたから。乱れる髪の隙間で、よく見なければ見落としそうな静けさで、稲森さんが涙を流していた。風が耳鳴りのように轟々と響いて、周りの人達が慌てふためくのを目の端に見ながら、稲森さんを取り巻く時の流れを正しく進めてほしいと思った。早めてほしかった。世界の中にひとり取り残されているようで、怒りさえ滲んだ。

――君に痛みを加えるものなんて、なくなってしまえばいい。君を悲しくさせることなんて僕が請け負うから、涙をなかったように拭い去って、そうして、ねぇ……笑ってほしいんだ……。


**********



 気を失った僕はその後すぐに病院に運ばれた。縫ったのは十針だったが、腕を貫通していなかったことと骨に当たらなかったのは奇跡だと、意識を取り戻してから医者に何度も聞かされた。
 傷のできた場所を撫でてみる。自分で見るには腕を上げなくてはいけないから、久しく見ていない。彼女に言われるまで、あの時重傷だったのは僕の方だったことも忘れていたほどだ。彼女を守りきることもできず自分も大きな怪我をして、それでヒーローなんて呼ばれているだから、なんて中途半端なヒーローだろう。

「今日は何だか、あの日に似てる。冬で、風が強くて」
「僕は怪我をしてるし?」
「そんな風に言わないでよ」

 くすりと笑って見せるから、少しだけ心が救われた。

「ねぇ」

――外に出ようか。
 この瞬間、僕達は初めて息が合った。どちらかが誘ったり促したりするのでもなく、それぞれ自らの意思で閉じこもっているのをやめることにした。外はもう嵐になっていた。




 公園に入ると彼女は一直線にブランコに向かっていった。首元ではためくグレーのマフラーは僕の物だ。気温はかなり冷えてきていて、コートだけで出るのは風を引いてしまいそうだった。こんな日に公園に来る人は僕達の他には誰も居なくて、順番待ちをせずに彼女の隣のブランコに腰を下ろした。

「風、強いね。色んなものが壊れちゃいそう」

 その呟きに辺りを見回す。貧相に伸びた木も、剥がれたトタンも、転がる三輪車も。揺さぶられてぶつかって、確かに壊れてしまいそうだった。

「人も、呆気ないよね」

 彼のことを言っているのだろうか。その空気に僅かに緊張した。
 あれほど身体が大きくても、強い意思を持っていても、驚くほど簡単に人の命は終わってしまう。幸せの只中にあっても、死にたくないと願っていても、その時はあっさりやってきて丸ごと連れ去っていく。避けることも抗うこともできない僕達は、実に呆気ない。

「あの人の強さが羨ましかったのに」
「強さが?」
「弱いから。真っ直ぐ立つこともできなくて、こうやって揺れてもいい場所で誤魔化すしかなかったから」

 羨ましかった、と零しても背中を擦ってあげるには少し遠い。風を受けるままに前へ後ろへと動いて、君だけじゃないよと伝えたかった。でも言葉にはどうしてもできなかった。

「周りも自分も誤魔化して、納得したようなふりをして、自分の居場所を作ろうとする私は最低なの」
「そんなこと……」
「自分が一番分かってるから。だってずっと一緒に居るんだもん」

 勢いをつけて彼女が立ち上がる。色の剥げた囲いに手を付いたから汚れるだろうと心配したけれど、彼女は手元を見下ろしもしないで、寧ろ汚れることを良しとしているようだった。ざらついた鉄の感触はどんなだろう。痛くなければいいのだけれど。そんなことを思っていた。 
 神咲くん。そう呼ばれて向けられた背中に問う視線を返す。

「誰かを殺したいと思ったことある?」

 然程驚きもないまま、僕は何も言わなかった。

「それほど憎んだことは?」

 やはり何も言えなかった。少しでも首が傾けば、僕が、彼女が、崩れてしまいそうだったから。僕達は多分、同じような位置で自身を何とか繋ぎ止めているのだろう。何となく、そんな気がした。だから僕は、ただ彼女を見つめていた。
 すべてを連れ去ってしまいそうな強風の中で、彼女だけが不変だった。黒いコートも貸したマフラーも、こんなにも蠢いているのに、彼女を包み込む何かがあるように見えた。
 騒めく髪、露わになる額、目に焼き付く小さな傷。記憶がそこに血を滲ませて、それを振るい落とせば振り返った彼女がこちらを見ていた。口元で愛おしむような笑みを浮かべながら、突き刺すような瞳で。

「私はあるよ、何度も」

 そんな話をするくらいに彼女は幾らか、壊れかけていた。


「幸せな家族だったと思う。絵に描いたような、なんて言うけど、きっとうちの家族みたいなことを指すんだろうなって自分でも思ってた。
 でも、なんだろうね。それが無性に気味悪くなる時があった」

 たった一度、彼女の家族を見かけたことがある。休日のショッピングモールだ。両親と彼女と妹の四人で笑い合う姿はまさにドラマのワンシーンのようで、もう数日顔を合わせていない父親のことを思い浮かべた。無性に「家族」というものに寄り添いたくて母さんの待つ家に急いだ覚えがある。
 あの時彼女は本当に笑えていただろうか。その隠された心の中を陰らせていたのだろうか。

「お皿を割っても、テストの点が悪くても、帰りが遅くなっても、一回も怒られなかった。そんな話をしたら皆は羨ましがったけど、私は嫌だった。
 本当は何も見てくれてないんじゃないかってずっと思ってた。四人で食卓を囲んでも、私の手元だけ光が当たってないように思えて。でもそんなことを思う自分も嫌で」

――だから何度も何度も、私は家族を殺したし、私自身を殺した。醜い心の中で。


 言わないでほしかった、そんな言葉。僕の中の彼女なんてものはどうでも良かった。ただ彼女が、そうしてまた自分を傷付けるのだと思うと、胸の内が抉れるように痛かった。
 外的な傷を付けるより心を潰す方が簡単なんだ。刃物は要らない、勇気も要らない、痛みもない。自分さえあればそれで事足りるから。誰にも知られず迷惑もかけず、「傷付けて」「傷付けられて」をひとりで全部まかなってしまえるから。だからとても簡単で、そして抜け出せなくなる。そんなの良い筈ない、って止めてくれる人が居ないから。
 人は呆気ない。呆気ないほどに自分をぼろぼろにしてしまえる。でも、だから、抗わなくちゃいけない。どこかが痛んでも苦しくても、そんな自分を救ってあげなくちゃ。

「そうやって自分を、保ってきたの」


 どうか、どうかこれ以上傷付けてしまわないで。傷付いてしまわないで。お願いだから、君の傷を悲しんで。悲しめない君のために、轟くような涙を流して――――。


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