一等星の再来、始まりのラビリンス

些稚絃羽

6.微睡みは思考を呼ぶ

 本当にひとりになった事務所は、何ひとつ変わりないのにがらんとして見えて、風と窓の音だけが耳障りに主張してくる。依頼人が来て帰っていくのと一体何が違うのか。答えなんてあまりに簡単すぎて、泣きたいくらい可笑しかった。
 言えない。言っちゃいけない。僕が抱える感情はきっと大きな痛みを生むから。だからただ、傍に居させて。何も想ったりしないから。

 客人の居なくなったソファはすっかり元の通りで、けれど残像が僕に彼女を見せる。僕と向かい合う彼女の姿。それはいつも少しだけ遠い。
 どうして彼女は正面を嫌がるのだろう。ほんの少しだけずれた位置にわざと座って。大して変わりはしないのに、中学の頃からどういう訳か誰の正面にも座ろうとしなかった。それでも口に出して嫌がったり露骨に離れようとしていた訳ではなかったから、どれだけの人がそれを彼女の意思だと気付いただろう。僕にしたってそんな気がする程度で、何か特別な理由がある確証なんてないのだけれど。

 軽い溜息をつくと、テーブルの上に置かれたままの携帯電話が目に入る。三条さんの遺していったそれに何か手がかりはないだろうか。あのビルの屋上に上る理由とか、この辺りで僕以外に本当に知り合いは居ないのかとか、彼女とは別に誰かと連絡を取っていなかったかとか。
 いつか耳にしたことがあるが、転落死の場合に自殺かそうでないかを見極める基準は落ちた時の体勢らしい。自殺の場合は足から落ちるために体重が後ろにかかって仰向けに倒れやすい。彼は確かに仰向けに落ちたが、屋上と地面までの間には電線が走っていた。頭から落ちても途中で腕でも引っ掛けてしまえば、容易に体勢は変わるだろう。事故の確率の方が余程高く思える。自殺なんてあり得ないのだから。
 どんな些細なことでもいい、とっかかりになるものはないだろうか。引き寄せてから、暴こうとした手が止まる。
 どうして僕がそれを探そうとする? 僕はただの一般市民で、権限もなくて、そんな力もない。過去の出来事から自分を過信し始めている? それとも彼女からの評価を上げようとしてるのか? そういうのでもない気がしている。自分でも上手く理解できないが、自然と引き寄せられるように脳が働いた。思い返してみればそれまでだって同じだった。やらざるを得ない状況もあったが、ごく当たり前のように一歩進み出ていた。誰かを悪と定義できる存在でもないくせにそうやってきた。違う、違うと否定してきたのに僕は、最も避けていた場所に行こうとしているのか……?

 何の権利も持ち合わせていないことに気が付いて、距離を置くために立ち上がった。壁を彩る絵画に目を移すと、今日は見れそうにない夕日が僕の方を照らしている。いつもはその穏やかさと暖かみにほっと息をつくのに、今日に限って辺りを燃やすようにひどくぎらついて見えて、感情の在り場を責められているみたいだ。
 逃げようと自室のドアを開いた。ネクタイを毟り取ってベッドに投げると同時に、追いかけてうつ伏せに倒れこむ。身体の下で変形する掛け布団が思いの外冷たくてぎょっとしたが、飛び起きる体力はなかった。そのまま自分の体温で温めることにする。ふと本当に彼女が戻ってくるのか不安が過って、考えても仕方がないと瞼を閉じた。


 彼女が解放されるのは何時頃になるだろう。搬送先であろう南警察署まではタクシーを使えば三十分弱か。どう動かされるか知らないが、二時間は帰って来ないのだろうな。
 彼の遺体を目にする時、崩れ落ちてしまわないかだけが心配だった。僕の口から告げた全てを聞き終えても、顔の強張りは別にして彼女は普通だった。取り乱すでもなく全くの無反応でもなくて、ちゃんと彼の恋人の顔をしていた。話を聞いただけでは実感が湧かないのも無理はない。あの体躯と死を結び付けるのはそう簡単じゃない。だから自分の目で知った時、どうなるかが心配だった。

 他の子よりも大人びて凛としていた彼女も、こみ上げる涙に抗うことができないのを僕は知っている。穏やかに見せる表情の裏に確かに誰とも違わない温度があること。涙は言葉よりずっと正直で、感情よりずっと素直だ。音もなく泣いたあの瞬間だけは、世界中の誰よりも嘘偽りなく純粋に清らかだった。
 泣かないでほしいと願っていた。口にしたことはないけれど。その姿を思い出す度、僕が見ている彼女は幻想なんじゃないかって、何かを望むことすら穢れているんじゃないかって、疑ってしまうから。記憶が消えてしまうくらい、笑顔で塗り消してくれたらいいと願っていた。そして彼女は二度と泣かなかった。

 傍に居て見ていてやりたい気持ちと、その場に居ない事実に安堵する気持ちとが入り交じる。結局僕はどうしたいのだろう。どんな立場で彼女と、同じ時間を過ごしたいのだろう。靄の中を進むようなこの感覚は久しくて、まだ何の答えも知らない僕にはその楽しみ方が分からない。単純な言葉で示していいのかも、それが許されるのかも分からない。何だろう、どうしたら……。


 ベッドが温まってきて途端に眠気に襲われる。精神的な疲労のせいだろう。やけに色々なことが一気に押し迫ってきて、胸の内がパンクしてしまいそうだ。このまま眠ってしまえば少しは小さく萎むだろうか。そんな風に誘われながら、けれどやはり、起きたまま彼女を迎えてあげたかった。
 騒がしい窓の音に、ドアを開け放したままであることを教えられる。窓のないこの部屋であんな音がする筈がないからだ。もし誰かが訪ねて来たら自室を簡単に覗けてしまうが、そんな風に奥まで入ってくるのは顔見知りだけだろう。こんな風の強い日にわざわざ依頼人が来るというのも考えにくい。どうせすぐ戻るのだし、少しくらいいいや。


 窓の音を別にすれば本当に静かだ。プライベート用の電話はいつものことだが、依頼の――間違いも含め――電話もかかってこない。……彼の電話も、鳴らないままだ。
 テーブルに置きっぱなしの携帯電話が気にかかった。勝手に見てはいけないだろうとそのままにしてきたが、それは正しかっただろうか。
 彼女が帰ってくれば恐らく、一緒に中を見ることになるだろう。いずれ警察に求められるとしても今はこちらの手元にあるのだし、重要な事項があるのなら先に知ってもいい筈だ。後で他人から知らされる方がつらいことだってある。きっと彼女も同意してくれるだろう。そうして一緒に見てもし知りたくない事実と出くわしたら、どうしたらいいのか。たとえば、ありえない気はするが浮気とか、借金とか。死と直接関係ないことでも彼が隠していた秘密を開いてしまったら、どうなるのだろう。相手はもう存在しなくて、責めることも許すこともできなくて、それはとても苦しくないだろうか。やり場のない気持ちは、どう昇華させてあげたらいいのだろう。

 いや、まだ何かがあると決まった訳じゃない。まるで彼が悪いみたいな空想はやめておこう。
 むしろ彼の携帯電話が駄目にならなかったのは彼女にとってせめてもの救いだったかもしれない。目に見える彼との繋がりは、何もないよりも不安を和らげてくれる。きっとそうだ。僕は身体を張って彼女の心の一部を守ったんだ。思い出したように疼く肩も、そう思えば勲章のようだ。

 勲章……証。婚約者の、証。彼がしていた指輪。プロポーズはもう済んでいたのだろうか。しかし彼女はしていなかった。指輪どころか何のアクセサリーも身に着けていなかった。世の中には指輪をするのが苦手だという人も居るからおかしなことでもない……あぁ、あれは無理やり持たされていた指輪だったか。えっと、なんだったっけ……?
 あ、そうそう。指輪をしない理由だ。貰ってないってことはないよな。でも男の方がして女がしないのは珍しい、か。聞いた話では既婚者でも同窓会に行く時なんかは指輪を外す人も居るって言うし。そういうこと? ある意味同窓会みたいなものだし。違うけど。けど彼女は僕だって知らなかった訳で、彼女が男と見れば指輪を外すような不埒な筈がない。あ、そもそも僕相手に外す理由もないか。貰ってないが一番妥当な結論なんだけど、それはないよな。でも男の方が……って、なんかループしてる?


 頭は辛抱強く考察を続けていたけれど、それもままならなくなってきた。身体は既にほぼ眠ってしまっていると言っていい。これでは思考が停止するのも時間の問題だが、雀の涙ほどの僕の強情な部分が自身に抗おうと必死になっていた。多分その部分が、性懲りもなくあの頃の自分を引きずっているのだろう。それが何だか可笑しくて、でも表情が動く感覚はなかった。
 浮かんでくる言葉も断片的で、もう完全に眠ってしまう寸前なのだと、薄れる意識の中で無意識に思う。ふと細かな文字が並ぶ手紙が頭の隅にぼんやりと浮かんだけれど、何を考えようとしていたのかも分からなくなって、肩の痛みだけが妙にリアルだった。



 何度も何度も、かつての彼女が点滅する。フラッシュを焚くような激しい光と共に。きっと夢の中なのだ、そんなことを思った。
 黒板の前で自己紹介する彼女から、友達と笑う彼女。体操服姿で走る彼女に不思議と驚いた記憶も、真剣な顔でハサミを使う彼女に逆にひやひやした記憶も鮮明だ。
 授業中、問いの答えをこっそり教えてくれた後に見せた悪戯っぽいこの笑顔が、僕に向けられた最初だったように思う。お礼はジュースね、と言われて放課後に学校裏の自動販売機に向かったけど、選んだのは一番安いパックのいちごオレで、田舎の女子と都会の子の違いに尊敬すら感じた。
 今思えば単純なことだけど、そんな積み重ねで簡単に心は奪われるものだ。それに、そうしてくれたからではなくて、そうしたのが彼女だったから。だから僕はあの子を見つめるようになって。そうしてそれを恋と呼んで。

 全てが錯覚だったなら。あの頃抱いた感情も、断定した想いも、何もかも錯覚だったなら、何も怖くないのに。教科書にした落書きみたいに、そんなこともあったかなって笑い飛ばせるのに。
 だけどそうじゃないから、あまりにも強い感情で彼女だけを想ったから。その証拠が深く刻みついているから、何もかも怖くて仕方がない。それじゃ駄目だ、分かっているのに。
 縛られて動けなくなっているのは、ずっとずっと僕の方だ。

 

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