一等星の再来、始まりのラビリンス

些稚絃羽

2.記憶の中で

 弱い蛍光灯の明かりさえも吸収して輝くドアに、月日の重みを感じさせるように鈍く光る銀色のプレート。そこに走る<只今捜索中!>の文字は些か間抜けに見えて、裏返すことなく見られる前にコートの胸元に隠したのだった。
 鍵を開け迎え入れると、彼女は興味深そうに辺りを眺めながら、まるで観光地にでも来たように感嘆の声を上げる。

「ここが神咲くんの事務所かぁ」

 綺麗にしてるねとの言葉に、外観の割にはねなどと可愛くない返事を返してしまうのは許してほしい。
 築六十一年を誇る二階建ての小さなビル、その二階に僕の“探し物探偵事務所”はある。他のテナントが全て撤収してからもう随分になる。劣化の激しい階段は今では階段らしい角もなく、外壁のひびは日増しに広がりを見せ、奇妙なところから見たこともない植物の葉が生え始めている。抜こうにもその拍子にビルが崩れてしまいそうな予感もあって、見て見ぬふりをすることにした。
 せめて入口だけでも見栄えよくしておこうと今朝磨いておいて良かった、アルミのドアがステンレスくらいには昇格したんじゃないだろうか。良いドアに代えるほどの余裕はない。それ以前にビル自体が工事に耐えられそうにもなかった。
 彼女を招き入れるには、構えが良い分、あの喫茶店の方が余程ましだ。

「それにしても、世間は狭いって本当なのね」

 よく手入れした自慢のソファに座らせて僕も一度は向かいに座ったものの、落ち着かなくて湯を沸かしに席を立った。ヒーターが温まり切っていないのに火照るようで、素早くコートを脱ぐ。そんな僕に向けて彼女がそう言った。

「偶然がこうも重なると穏やかではいられないね」
「ん、そこは“運命”じゃないの?」

 茶化す声にできる限りの表情で睨んでみせた。当の本人に堪えるものはないらしく、カラカラと笑って気のない謝罪を繰り返す。
 本当に人が悪い。恋人の居る女性の余裕だろうか、笑えない冗談だ。運命だなんて言って迫っても、どうせひらりと躱すくせに。

「三条さん……彼、いい人だね」

 面と向かって直球の文句は言えないものだから、やかんの口から時折噴く湯気を見つめながら、嫌味に聞こえそうな声色で話を続ける。そこで何も気が付かずに――わざとでもいい――、そうでしょ? なんて答えてくれたら、三条さん知り合いの彼女として接することができるから。
 しかしすぐには返って来なかった。一瞬よりは長く、数秒よりは短く。だから至って普通の間合いの筈なのにそれにひどく違和感を覚えて、唾を飲み込んだ。振り返ることは簡単だ、けれど今振り返れば彼女と目が合いそうで、それは恐らく僕を無性に不安にさせるだろう。

「私には勿体ないくらいの人よ」

 そう聞こえて、呪縛から解かれるように首を回す。視線は下を向き、その目は合わなかった。口元の形から微笑んでいることは明らかだ。僕の溜息を掻き消すためにタイミングよくやかんが鳴いた。
 言葉もないまま、マグカップにコーヒーを作ると彼女に差し出した。喫茶店でコーヒーか紅茶か迷っていたのだから当然飲めるだろう。安物のインスタントだが、それを怒るほど了見は狭くない筈だ。示したスティックシュガーもフレッシュも要らないと首を振った。
 ふと彼女がまだコートを着込んでいるのに今更気が付く。

「コート脱いだら? 掛けておくよ」
「初めての場所に夢中で忘れてたわ、ありがとう」
「くつろいでくれたらいいから」

 黒いロングコートは僕の中の彼女のイメージと大分違った。何者も寄せ付けない硬さがあって、脱いでくれるとほっとした。水色や白、ピンクやオレンジといった華やかだが派手さのない優しい色が、彼女に似合う色だ。
 自分のテリトリーの中で、成長した彼女が僕を見つめている。想像もしなかった状況を咀嚼していく内、懐かしさと戸惑いが緊張に変わる。ほんの少しのことで大きく踏み間違えそうな、そんな気がして冷たい汗をかいた掌を握りこむ。――彼女に向けて伸ばすことのないように。



 それから暫くの間、他愛もない話をした。中学を卒業してから今までのことや、かつてのクラスメイト達のこと、そして僕の仕事のこと。当たり障りなくどちらも距離を取ったその会話は、傍から見れば面白味に欠けていただろう。しかし生憎この場はふたりきりで、他の誰も聞いてやしない。
 その空気を変えたのはやはりと言うべきか、彼女の方だった。

「そういえば覚えてる? 卒業式の日の夜のこと」

 その言葉に自嘲の笑みが零れた。喫茶店で回避した気になっていたが、共にする時間が長くなれば機会を与えているようなもの。それこそ何かの運命さだめであるかのように口をつく、こびり付いた記憶なのだ。
 それは僕の一世一代の勝負の日。友達にも親にも明かさなかった、僕の秘密。……結果は苦く、足の進まない帰り道だったけれど。
 僕にとっては暗い思い出で、では彼女にとってはどうなのだろう。

「若気の至りなんだからさ、もう忘れてよ」
「えー、でもあれが神咲くんとの一番印象的な思い出なのに。花屋の前を通る度に思い出してるよ」
「それ、すごい複雑な気分なんだけど」

 そう? と悪びれず微笑む彼女。別れ際のあの瞬間も確か、こんな風に笑っていた。


 僕にとって中学の卒業式というのは、とても大きな節目の時だった。殆どが同じ小学校からの持ち上がりで代り映えのしない面子との中学時代。居心地のいい日々とお別れして、知らない人ばかりの中に飛び込んでいくのは、それなりに不安を伴う変化だった。だが勿論、それだけが理由ではない。
 一年の夏休み明けに転校生がやって来た。大都市から来たというその人は、雰囲気からしてこの辺りの人でないことは一目瞭然だった。しなやかな髪も、佇まいも、話す時の口調や仕草だって。文学作品を抜け出してきたような、素朴かつ上品な美しさを纏っていた。当時の僕にこんな言葉が思い浮かんだとは言わないけれど、「透子」という名前は彼女にぴったりだとあの頃から思っていた。
 そうして彼女に惹かれ始めたのはいつだったか。今となっては厳密に思い出すのは難しいが、奇跡的にずっと同じクラスだったことが恋心を加速させたのは言うまでもない。三年になってからは毎日のように彼女との別れを想像しては、どうにか打破できないかと計画を練ったものだ。しかしどれも実行に移すことができないまま、あっという間に恐れていた別れの日はやって来た。

 卒業式の内容なんて覚えていない、何度もさせられた予行の記憶があるだけだ。その中でも鮮明に残っているのは、胸元のコサージュを上手く付けられない僕に代わって、彼女がそれを付けてくれたこと。思いの外近いその距離に無意識に身体を引いては「じっとしてて」と叱られたのをよく覚えている。……思えばその瞬間かもしれない。彼女の手にある造花を見て、いつか聞いた女子達の言葉を思い出したのは。

「あれ、どうしてゼラニウムだったんだっけ?」
「……君が貰いたいって話していたんじゃないか」
「そっか、そうだった。流行ってたんだよね、ドラマのワンシーンが。ん、でも神咲くんに話したっけ?」

 口篭る僕に、盗み聞き? なんてさも無邪気に聞いてくるのはやめてくれないか。

「別にわざと聞いた訳じゃ……!」
「でも、本当にあのドラマの中に居るみたいだったなぁ」

 そう言ってうっとりと目を細める。今の僕の弁解は必要ではないらしい。
 相手が誰でも、どんなに下手くそでも、憧れのシチュエーションになれば女性はこんな顔で喜んでくれるのだろうか。実際の彼女はこんなにも嬉しそうには見えなかったけれど。


 当時、うちのテレビはニュース専用だと勘違いしていた僕は、そのドラマの存在も主演俳優の名前さえも一切知らなかった。それなのに流行りのドラマさながらに彼女の元を訪れることができたのは、偶然聞いた情報によるところが全てだった。
――卒業したら寂しくなるね。
 話の始まりはそんな他愛もないものだったと思う。放課後、忘れ物を取りに教室に戻って来た僕は特に気にも留めず、女子が数人残った教室に入って行った。その中には勿論、稲森さんの姿もあった。クラスは割と仲が良く、また明日ねなんて皆と声を掛け合ってから教室を出る。そのまま帰ろうとした時に聞こえてきたのが、卒業式の日の告白についてだった。
 流行りに疎い僕でも数十年と続いているらしい第二ボタンの風習はそれなりに知っていた。あれは女子から男子に向けた告白めいたものだし、僕の第二ボタンが無くなる予定は皆無だったからそもそも無関係だったのだけど。しかし彼女達が話していたのは、自分がされたい告白について。卒業という日を彩るための、言わばスパイスのようなものを求めていたのだと思う。
 稲森さんの発言をきっかけに、ドラマを夢想した少女達の言葉が飛び交った。

『あんな風に花束を持って見送られたら、一生忘れられないと思うな』
『花言葉は、君ありて幸福、だっけ?』
『薔薇だとキザっぽくてくどいけど、ゼラニウムだったら赤でも可愛いよね!』
『旅立ちって意味では渡米も卒業も一緒だよね。誰かくれないかなぁ』
『こんな田舎で誰がやるって言うのよ』

 沸き上がった笑い声に押されるみたいに、僕はその場を後にした。いつもは真っ直ぐ帰るところを寄り道して、本屋でそのドラマについて書かれている雑誌を片っ端から立ち読みして怒られたことは、健気な少年時代を語るにふさわしいエピソードだ。……実際に行動に移してしまったのは、あんな田舎・・・・・では僕ひとりだっただろうが。因みにあの歳で薔薇の花束を贈ったことがあるのも――たった二輪を母に、しかもなかなかに辛辣な言葉をかけられたが――僕ひとりだろう。


 彼女はふと首を傾げて瞼を閉じて、僕はコーヒーに口を付けた。

「ゼラニウムが咲いたから、君に会わずにはいられなかったんだ」
「ちょっ、今更復唱するのやめてくれないかなっ……!」
「好きなドラマの、好きな台詞を言ってみただけよ?」
「ずるいな、もう」

 口の端から垂れたコーヒーを手の甲で荒く拭う。火傷したふりをして既に冷えた液体に息を吹きかけた。
 そう言われたら何も言えないじゃないか。ドラマの台詞を丸っきりそのまま使ってしまった僕が悪いみたいじゃないか。……まぁ、良くはないんだろうけれど。
 あのドラマではさ。そうやって言葉を選ぶように不思議に間延びした声が彼女らしくて、僕は笑みを落とした。

「ラストシーンはふたりの別れのシーンなんだよね。でもいつかまたふたりが肩を並べる時が来るような、希望みたいなものもあって。赤いゼラニウムの花言葉は、主人公なりの告白なのかもしれないって思ってたの」
「そう、か」
「……神咲くんは、どうだったんだろうね?」

 もう十一年も前のこと。だからこんな風に懐かしく、さも喜んでいるように彼女は語るんだ。言わせなかった想いを当たり前みたいに答えさせようとするんだ。
 彼女だって覚えていない訳ではないだろう。困った顔をして、恐る恐る花束を受け取って、
――さよなら、だね。
そう言ったことを。無言で微笑む筈のヒロインに、彼女はならなかった。
 深い意味なんてなかったのかもしれない。だけど身勝手だと言われても、笑ってくれたなら言えたかもしれない、君が好きなんだと言えたんじゃないかって思ってしまうんだ。だけど彼女の表情で、その言葉で、あぁもう本当にお別れなんだって扉を閉ざされたように思えたんだ。去り際に手を振る君が笑っていたって、もう遅かったんだ。
 君はなんて狡くて、僕はなんて女々しいんだろうね?

 黒い水面に映る何かを探すように、彼女は両手で包んだマグカップを覗き込む。下りた前髪が伏せた瞳を隠して、続けるつもりの皮肉な言葉を忘れさせた。その躊躇は恐らく正解で、再会を美しいまま留めておいてくれそうだ。
 互いに何も言えなくなった。久しく会っていない人なら話題は山程ある気がしていたのに、意外にも頭の中が空っぽだった。しかしよくよく考えてみれば、僕達の間に長く続いた会話をすぐに思い起こすことはできなかった。だからこんなものなのだろう。それはつまり、僕達には初めから未来なんてものはないという証拠なのかもしれなかった。


 空気を裂くような電子音がふたつ、部屋中に響く。僕も彼女も突然のその音に思わず肩を揺らした。それらは微妙に違う音程で混じり合って、早く出ろよと僕達を急かしてくる。それぞれ携帯電話を手に取って、何ともつかない息を吐いた。

  

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