テッサイ 〜青き春の左ミドルキック〜
日常風景
 松原太一との練習試合を終えた後日、久島はあいも変わらず、定位置となっている窓際最前列の席にて、昨日の松原との練習試合を思い返していた。
 正味な話、戦う事も難しい程一杯一杯になるかと思えば、英雄キックボクシングジムに出稽古に来るプロキックボクサー、熊谷幹也のお膳立てにより久島は勝てる事が出来た。自身の有利なルールによる、勝算が高い戦いを制した久島は、言い表せない心にかかる霞により、素直に勝利を喜ぶ事ができなかった。
「はぁ……」
 最初から勝てた試合であると、熊谷幹也は言った。時としてルールは、経験を枷にして、実力差を覆す事ができると。フルコン空手の覇者松原太一は、ただの体力作りの久島に負けたのは、それが理由。しかし、敗北の言い訳はできないと厳しい言葉も彼は言った。
 故に、憂鬱から溜息を吐いた久島は、思った。
『何故、試合を受けてしまったのだろう』
『何故、逃げておかなかったのだろう』
『何故……勝ってしまったのだろう』
 正味な話、土下座でもなんでも最初から松原太一にしておけば、こんな事にならなかったのではとすら、久島は思い返していた。触らぬ神になんとやら、自分が侘びを入れれば全て収まったはずだとこの一件を思い返す。どこの場面でも、逃げられた筈の自分が、何故逃げずに戦ったのかすら、自分自身理解できなかった。
 そして更に、久島の心を締め付ける考えが脳裏に浮かび上がって来た。当の本人、松原太一は同じこの慧学館高校の生徒であり、隣のクラスである事。目と鼻の先に昨日戦った相手が居るのだ、あの敗北を根に持ち、こちらにまた突っかかって来るのではないかと、常々考えてしまうのだった。
 そんな久島の心情は知った事ではないと、朝の予鈴が鳴る。予鈴が鳴り始めれば朝の歓談を止める生徒も居れば、未だ下品に笑う、金髪茶髪に着崩したブレザーを着た不良達も居た。
 それでも久島は相変わらず、ただ呆けたように窓辺を見つめていた。窓辺から見える桜の木の花弁は、いよいよ残り少なくなっていた。
 慧学館高校は、婿川市にある公立高校であり、学科は普通科の高校である。制服はブレザー、偏差値は下は35〜上は70と頭いい奴から脳みその少ない奴と様々な顔ぶれであり、良くも悪くもなく普通の高校ではある。
 その中で久島は一年次の三クラスの内、A組に席を置き、窓際に座している。授業の休憩も一人、昼休みも一人で過ごし、帰宅も一人と……まさしくぼっちそのものであった。
 
 本日も淡々と、現文、数学、移動教室からの生物、戻ってきて日本史の、午前4時限を真っ当に受けて、いつも通り、毎朝母が作ってくれる昼飯の弁当をありつこうとしていた。
 だが……この日は少しだけ、悲しいことがあった。四角四面アルマイト製弁当箱の蓋を久島が開けようとしたところ、彼を呼ぶ声が響いたのだ。
「久島君、ちょっとええかな?」
 彼を呼んだのは、白髪混じりに小皺が目立つ男だった。入学してからまだ数十日、それでもこの男を久島は知らない訳が無かった。
「大宮先生……僕に何か?」
 慧学館高校1-A担任、大宮進教諭である、担当教科 
数学で、おおよそだが五十代に差し掛かる中年教師は、掠れた声で久島を呼んだ。
「あぁいや、身構えんといて、やれ注意やら叱り事とはちゃうから」
「はぁ……」
 生返事をして久島が立てば、大宮先生は教室の外に向かった。久島も教室の外に出ると、大宮先生は振り返り、眉間に皺を寄せて思い悩むような表情を浮かべる。
「あのな久島君、もしかしてやけどキミ……イジメられとん?」
「はい?」
「かれこれ入学してからなぁ、他の生徒は輪っかやら集まってたりするけど……キミだけずーっと一人やったからな、イジメとか、悩みとかあったりするんかなぁて……」
 開口一番、大宮先生は自分が一人で居る事に対して、君はイジメられているのかと言われた久島は……まさか入学してしばらく経過してこうも心配されるとは思ってもいなかった。そして、気を掛けてくれる大宮先生に、久島は心の中で空笑いするしかなかった。まさか、まさか入学して短期間で、ぼっちである自分の雰囲気から、イジメを心配されるなんて思いも寄らなかったのだから。
「いやあの、別に……中学時代の同級生も居ないですし……うん、しかたないんじゃあないですかね?はは……はぁ……」
 久島は大宮先生の質問に答えた、実際は同じ中学の人間は居るのだが、さして親しくもないし面識すらないので、居ないのと同じであり、話に入れないのはしかたないと言う。
 実際、友達の居ない『ぼっち』ではあるが……決してイジメられてはいない。しかし、まさか担任にまでこうも声を掛けられるとは思わず、久島は空笑いを飛ばす事となった。
「そか、でも悩みやらがあったら言いんさいよ、自分のクラスでそんなんあったら悲しいやんなぁ……ごめんなぁ昼飯時に、戻ってええよ」
 
 大宮先生は、久島に対して申し訳なさそうにして、戻っていいと伝えてから、その場を立ち去った。その白髪交じりの後頭部と弱々しさが見え隠れする哀愁深き背中を見て、何故だかこちらも申し訳なさそうな気持ちにさせられた久島は、席に戻り再び弁当に箸を伸ばしたのだが、御飯が日の丸だった為、更に気を落とす事となった。
「母さん……俺、梅干しダメって言ってるのに……」
 久島秀忠、梅干し嫌いの少年は、梅干し付近を避けながら、白米と母の茶色の多いおかずを食べるのだった。
 昼飯時の鬱な感情があれど、時は進むし授業は続く。五時限目の世界史の眠りに耐え、六時限目は担当教諭出張の為に自習……と言う名の歓談となっていた。自由時間と化した教室、久島はただ呆ける……。周りに聞こえる会話もなんのそのと、五十分を無駄にする。
 それを越え、ホームルームとなればもう数十分耐え、その後は掃除を経て帰宅となる。そこからは様々だ、部活へ急ぐ者、街中への寄り道を計画する者、ただ教室で友人と歓談する者と様々だ。
 友が居れば自分も、寄り道をしていたのかもしれないなと。姦しい、髪の毛を脱色した女子のクラスメートが教室を出るのを目にした久島は、帰りの準備を終えて教室を後にする。
 準備を終えて、廊下に出る。昨日の試合の事もあるから、今日は練習を休もうかなと、今日のジム行きはやめて帰宅しようとも思ったが、家に帰ろうと両親不在か、気難しい母とは顔を合わせたくないのでやる事もなしと、結局その足も、意思も、ジムへ向かっていた。
「久島くん、久島くん待って!」
 だが、その足が教室を出てから下駄箱近くまで来た時に、自分を呼び止める声を聞いて久島は振り返った。
 しかし、誰も居なかった。空耳か、遂にぼっちの精神状態から異常を来し、幻聴すら聞こえてしまう程になったのかと、久島は血の気が引いた。
「ごめん久島くん、目線下げて……」
「目線?あ……えぇと、確か……」
 次に放たれた言葉通り、首を縦に曲げて目線を下げれば、久島は安堵した。はるかに小さな、それこそ首を傾けなければならない程の女生徒が、その場に息を切らして立っていた。
 染めていない真っ黒な髪を、肩の長さで整え、おおよそだが150cmにも達していないだろう低身長、ブレザーもぶかぶかのこの女生徒は、自分の名前を知っていた。しかし哀れなり、久島はクラスメイトであるこの女の子の名前を全く知らなかった。
「住之江、住之江佳奈……久島くん、今日掃除当番だから……」
「あ……あー、そうなんだ、ごめん……全く知らなかったよ、ごめんスミノエさん」
 自ら名乗ったこのクラスメイト、名前は住之江佳奈と呼ぶらしい。彼女は、自分が掃除当番だとわざわざ呼び止めてくれたらしい。そう言えば、掃除当番は出席番号順だかなんだかで決まっていて、ついに己の番が来たらしい。
 呼び止めてくれた彼女に、ぎこちなくも謝罪するや、久島は教室に戻った。
 机を一つ一つ拭きながら、久島は住之江佳奈と、掃除当番である男子一名と女子一名をふと目に入れた。自分とは別の男子は、黒板のチョーク受けに落ちた粉を、小さな箒でゴミ箱に掃き落としていた。髪の毛を伸ばした、新宿歌舞伎町のホストの様な、いや、最近はやりのビジュアル系バンドの様な髪型で、胸元をだらし無く開けて、ブレザーを脱いでカッターシャツを捲り、ご機嫌にも鼻歌を奏でながら掃除をしていた。
 もう一人の女子は、住之江佳奈の掃く箒の先で、塵取りを構えている。住之江佳奈を文化系とするなら、彼女は体育系か、短く切りそろえたボーイッシュな髪型に、スポーツ女子特有の健康体、すらっと伸びた肉体と、屈んで見えるスカートの下に履いたハーフパンツ越しの太腿、その筋肉の膨張が見て取れた。
「住之江さん、これでOK?」
「うん、ありがとう小山さん」
 住之江さんに呼ばれた、スポーツ女子の小山さんとやらが立ちあがるが。小山の名字とは裏腹に、彼女が立ち上がるや住之江さんを見下ろした。恐らくだが、彼女は男子よりも身長が高い、自身よりも高いのではと久島は彼女を見つめていた。
「なーに見てんだよ、久島くぅーん?」
「んおっ!?」
 しばらく見ていれば、軽く背中に衝撃を感じた。そして自らの右肩に手が回された。
「どしたどしたー久島くん、どっちかタイプな訳?聞かせろよ?」
「た、タイプって……そんなわけじゃあ、あー……」
 自分と同じ、掃除当番のビジュアル系男子が、ニヤニヤ笑いながら左肩よりひそひそと訪ねて来た。
「あれ?あぁ覚えてない、名前?水本京介な、で、どっちよ?つーか久島はマニアックだなぁ、小山みてぇなデカ女何処が……」
「聞こえてるぞ水本ぉ……また蹴られたいの?」
 小山さんの切れ長な瞳が、久島と水本を睨みつけた、凛として力強い声とその一睨みに、水本は素早く
久島の背中に回り込んで隠れた。どうやら、犬猿の仲らしい。そして今更になって、水本京介は男にしては細身で、華奢であり、さらには自分より少し身長が低い事に気付いた。
「そ、そんな凄むから色々言われんだろ小山!」
「よーし久島君、そこをどけて?そいつ一発蹴るからさ?」
 水本は、小山の凄む態度に怯えとからかいを込めて、久島の背後に隠れ続ければ、小山は拳を握って鳴らし始めた。
「小山さん、暴力は駄目だよ……ほら、水本君も謝って……」
「ほら!住之江さん言ってんじゃん、暴力ハンターイ!ハーンターイ!」
 小山を苛立たせる様に、久島の背後に隠れ続けて声を出す水本に、流石の久島もこれは駄目だと呆れて、水本の腕を掴んだ。
「えっ、ちょっ……久島君!?」
「水本君、小山さんに謝りなよ、これは擁護できないから……」
 そのまま水本の身体を、小山の前にさらけ出せば、水本はまさかの裏切りと、久島の力強さに驚き、小山はニヤリと笑った。
「サンキュ、久島君……さぁ水本覚悟なさい、キツイの一発食らわしてあげるからさぁ」
「待て待て待て待て!久島君、こいつの蹴りはマジで駄目だって!バレー部の健脚で思い切りは本当に駄目だってば!ゴメッ!マジでゴメン!本当悪かった!許して小山さん!!」
 小山さんはバレー部なのか、成る程、ならばその恵体や見える太ももの太さも頷けるなと、場違いな事を思いながらも、久島は本当に必死になる水本を見て、その手を緩めながら、小山に言った。
「小山さん、水本くん謝ったから許したげて、それに……当たり前と言うか、言うのもどうだけど、暴力は駄目だよ」
「そうよ小山さん、暴力は駄目、駄目だよ」
 久島に続き住之江も言う、流石に二人から言われた小山は、はぁと溜息を吐いて握り拳を解いた。
「はぁ……いいわよ、おい水本ぉ……次は無いからな?」
 不完全燃焼とばかりに、小山はやっとその襲い掛かりそうな気配を解けば、掃除道具を戻しに背を向けた。
「お、おっかねぇ……まさに進撃の◯人、汎用人型決戦兵器、コヤマゲリオンだわ」
「!?馬鹿っ!!」
 しかし、この水本京介とやらは、余程彼女をからかうのが好きらしい、折角許して収まった彼女の怒りの火に、油どころかニトログリセリンを注ぎ込んだのだ。
「水本ぉお!!」
 流石バレー部、流石のスポーツ女子。耳にしてから身体を翻して戻るまでが凄まじく早かった、まるでデッドボールを受けた外人野球選手がピッチャーに殴りかかるスピードで、久島の前に立つ水本へ走り出した。
 思わず馬鹿と、水本に言った久島だったが、これはまずいと身体が動いた。暴力沙汰になりかねないと思った彼は、水本を自らの背に隠した。
 その瞬間、スカートを翻しながら放たれた小山の蹴りが、左側脇腹目掛けて飛び込んできたのを見た久島は……。
「ぐぅうっ!!」
 左手を持ち上げ、左足をしっかり抱えつつ、そこに右手も添える。これは、ミドルキックに対する防御であった。どんっ、と小山の脛辺りが久島の左腕に当たり、鈍い音が響くも、久島の身体はビクともせず、少し呻いたがそこまでの痛みはなかった。
「ちょ……なにしてんの久島君!大丈夫!?」
 蹴り足が着地した小山は、水本を庇った久島に慌てて近寄った。
 正味な話、戦う事も難しい程一杯一杯になるかと思えば、英雄キックボクシングジムに出稽古に来るプロキックボクサー、熊谷幹也のお膳立てにより久島は勝てる事が出来た。自身の有利なルールによる、勝算が高い戦いを制した久島は、言い表せない心にかかる霞により、素直に勝利を喜ぶ事ができなかった。
「はぁ……」
 最初から勝てた試合であると、熊谷幹也は言った。時としてルールは、経験を枷にして、実力差を覆す事ができると。フルコン空手の覇者松原太一は、ただの体力作りの久島に負けたのは、それが理由。しかし、敗北の言い訳はできないと厳しい言葉も彼は言った。
 故に、憂鬱から溜息を吐いた久島は、思った。
『何故、試合を受けてしまったのだろう』
『何故、逃げておかなかったのだろう』
『何故……勝ってしまったのだろう』
 正味な話、土下座でもなんでも最初から松原太一にしておけば、こんな事にならなかったのではとすら、久島は思い返していた。触らぬ神になんとやら、自分が侘びを入れれば全て収まったはずだとこの一件を思い返す。どこの場面でも、逃げられた筈の自分が、何故逃げずに戦ったのかすら、自分自身理解できなかった。
 そして更に、久島の心を締め付ける考えが脳裏に浮かび上がって来た。当の本人、松原太一は同じこの慧学館高校の生徒であり、隣のクラスである事。目と鼻の先に昨日戦った相手が居るのだ、あの敗北を根に持ち、こちらにまた突っかかって来るのではないかと、常々考えてしまうのだった。
 そんな久島の心情は知った事ではないと、朝の予鈴が鳴る。予鈴が鳴り始めれば朝の歓談を止める生徒も居れば、未だ下品に笑う、金髪茶髪に着崩したブレザーを着た不良達も居た。
 それでも久島は相変わらず、ただ呆けたように窓辺を見つめていた。窓辺から見える桜の木の花弁は、いよいよ残り少なくなっていた。
 慧学館高校は、婿川市にある公立高校であり、学科は普通科の高校である。制服はブレザー、偏差値は下は35〜上は70と頭いい奴から脳みその少ない奴と様々な顔ぶれであり、良くも悪くもなく普通の高校ではある。
 その中で久島は一年次の三クラスの内、A組に席を置き、窓際に座している。授業の休憩も一人、昼休みも一人で過ごし、帰宅も一人と……まさしくぼっちそのものであった。
 
 本日も淡々と、現文、数学、移動教室からの生物、戻ってきて日本史の、午前4時限を真っ当に受けて、いつも通り、毎朝母が作ってくれる昼飯の弁当をありつこうとしていた。
 だが……この日は少しだけ、悲しいことがあった。四角四面アルマイト製弁当箱の蓋を久島が開けようとしたところ、彼を呼ぶ声が響いたのだ。
「久島君、ちょっとええかな?」
 彼を呼んだのは、白髪混じりに小皺が目立つ男だった。入学してからまだ数十日、それでもこの男を久島は知らない訳が無かった。
「大宮先生……僕に何か?」
 慧学館高校1-A担任、大宮進教諭である、担当教科 
数学で、おおよそだが五十代に差し掛かる中年教師は、掠れた声で久島を呼んだ。
「あぁいや、身構えんといて、やれ注意やら叱り事とはちゃうから」
「はぁ……」
 生返事をして久島が立てば、大宮先生は教室の外に向かった。久島も教室の外に出ると、大宮先生は振り返り、眉間に皺を寄せて思い悩むような表情を浮かべる。
「あのな久島君、もしかしてやけどキミ……イジメられとん?」
「はい?」
「かれこれ入学してからなぁ、他の生徒は輪っかやら集まってたりするけど……キミだけずーっと一人やったからな、イジメとか、悩みとかあったりするんかなぁて……」
 開口一番、大宮先生は自分が一人で居る事に対して、君はイジメられているのかと言われた久島は……まさか入学してしばらく経過してこうも心配されるとは思ってもいなかった。そして、気を掛けてくれる大宮先生に、久島は心の中で空笑いするしかなかった。まさか、まさか入学して短期間で、ぼっちである自分の雰囲気から、イジメを心配されるなんて思いも寄らなかったのだから。
「いやあの、別に……中学時代の同級生も居ないですし……うん、しかたないんじゃあないですかね?はは……はぁ……」
 久島は大宮先生の質問に答えた、実際は同じ中学の人間は居るのだが、さして親しくもないし面識すらないので、居ないのと同じであり、話に入れないのはしかたないと言う。
 実際、友達の居ない『ぼっち』ではあるが……決してイジメられてはいない。しかし、まさか担任にまでこうも声を掛けられるとは思わず、久島は空笑いを飛ばす事となった。
「そか、でも悩みやらがあったら言いんさいよ、自分のクラスでそんなんあったら悲しいやんなぁ……ごめんなぁ昼飯時に、戻ってええよ」
 
 大宮先生は、久島に対して申し訳なさそうにして、戻っていいと伝えてから、その場を立ち去った。その白髪交じりの後頭部と弱々しさが見え隠れする哀愁深き背中を見て、何故だかこちらも申し訳なさそうな気持ちにさせられた久島は、席に戻り再び弁当に箸を伸ばしたのだが、御飯が日の丸だった為、更に気を落とす事となった。
「母さん……俺、梅干しダメって言ってるのに……」
 久島秀忠、梅干し嫌いの少年は、梅干し付近を避けながら、白米と母の茶色の多いおかずを食べるのだった。
 昼飯時の鬱な感情があれど、時は進むし授業は続く。五時限目の世界史の眠りに耐え、六時限目は担当教諭出張の為に自習……と言う名の歓談となっていた。自由時間と化した教室、久島はただ呆ける……。周りに聞こえる会話もなんのそのと、五十分を無駄にする。
 それを越え、ホームルームとなればもう数十分耐え、その後は掃除を経て帰宅となる。そこからは様々だ、部活へ急ぐ者、街中への寄り道を計画する者、ただ教室で友人と歓談する者と様々だ。
 友が居れば自分も、寄り道をしていたのかもしれないなと。姦しい、髪の毛を脱色した女子のクラスメートが教室を出るのを目にした久島は、帰りの準備を終えて教室を後にする。
 準備を終えて、廊下に出る。昨日の試合の事もあるから、今日は練習を休もうかなと、今日のジム行きはやめて帰宅しようとも思ったが、家に帰ろうと両親不在か、気難しい母とは顔を合わせたくないのでやる事もなしと、結局その足も、意思も、ジムへ向かっていた。
「久島くん、久島くん待って!」
 だが、その足が教室を出てから下駄箱近くまで来た時に、自分を呼び止める声を聞いて久島は振り返った。
 しかし、誰も居なかった。空耳か、遂にぼっちの精神状態から異常を来し、幻聴すら聞こえてしまう程になったのかと、久島は血の気が引いた。
「ごめん久島くん、目線下げて……」
「目線?あ……えぇと、確か……」
 次に放たれた言葉通り、首を縦に曲げて目線を下げれば、久島は安堵した。はるかに小さな、それこそ首を傾けなければならない程の女生徒が、その場に息を切らして立っていた。
 染めていない真っ黒な髪を、肩の長さで整え、おおよそだが150cmにも達していないだろう低身長、ブレザーもぶかぶかのこの女生徒は、自分の名前を知っていた。しかし哀れなり、久島はクラスメイトであるこの女の子の名前を全く知らなかった。
「住之江、住之江佳奈……久島くん、今日掃除当番だから……」
「あ……あー、そうなんだ、ごめん……全く知らなかったよ、ごめんスミノエさん」
 自ら名乗ったこのクラスメイト、名前は住之江佳奈と呼ぶらしい。彼女は、自分が掃除当番だとわざわざ呼び止めてくれたらしい。そう言えば、掃除当番は出席番号順だかなんだかで決まっていて、ついに己の番が来たらしい。
 呼び止めてくれた彼女に、ぎこちなくも謝罪するや、久島は教室に戻った。
 机を一つ一つ拭きながら、久島は住之江佳奈と、掃除当番である男子一名と女子一名をふと目に入れた。自分とは別の男子は、黒板のチョーク受けに落ちた粉を、小さな箒でゴミ箱に掃き落としていた。髪の毛を伸ばした、新宿歌舞伎町のホストの様な、いや、最近はやりのビジュアル系バンドの様な髪型で、胸元をだらし無く開けて、ブレザーを脱いでカッターシャツを捲り、ご機嫌にも鼻歌を奏でながら掃除をしていた。
 もう一人の女子は、住之江佳奈の掃く箒の先で、塵取りを構えている。住之江佳奈を文化系とするなら、彼女は体育系か、短く切りそろえたボーイッシュな髪型に、スポーツ女子特有の健康体、すらっと伸びた肉体と、屈んで見えるスカートの下に履いたハーフパンツ越しの太腿、その筋肉の膨張が見て取れた。
「住之江さん、これでOK?」
「うん、ありがとう小山さん」
 住之江さんに呼ばれた、スポーツ女子の小山さんとやらが立ちあがるが。小山の名字とは裏腹に、彼女が立ち上がるや住之江さんを見下ろした。恐らくだが、彼女は男子よりも身長が高い、自身よりも高いのではと久島は彼女を見つめていた。
「なーに見てんだよ、久島くぅーん?」
「んおっ!?」
 しばらく見ていれば、軽く背中に衝撃を感じた。そして自らの右肩に手が回された。
「どしたどしたー久島くん、どっちかタイプな訳?聞かせろよ?」
「た、タイプって……そんなわけじゃあ、あー……」
 自分と同じ、掃除当番のビジュアル系男子が、ニヤニヤ笑いながら左肩よりひそひそと訪ねて来た。
「あれ?あぁ覚えてない、名前?水本京介な、で、どっちよ?つーか久島はマニアックだなぁ、小山みてぇなデカ女何処が……」
「聞こえてるぞ水本ぉ……また蹴られたいの?」
 小山さんの切れ長な瞳が、久島と水本を睨みつけた、凛として力強い声とその一睨みに、水本は素早く
久島の背中に回り込んで隠れた。どうやら、犬猿の仲らしい。そして今更になって、水本京介は男にしては細身で、華奢であり、さらには自分より少し身長が低い事に気付いた。
「そ、そんな凄むから色々言われんだろ小山!」
「よーし久島君、そこをどけて?そいつ一発蹴るからさ?」
 水本は、小山の凄む態度に怯えとからかいを込めて、久島の背後に隠れ続ければ、小山は拳を握って鳴らし始めた。
「小山さん、暴力は駄目だよ……ほら、水本君も謝って……」
「ほら!住之江さん言ってんじゃん、暴力ハンターイ!ハーンターイ!」
 小山を苛立たせる様に、久島の背後に隠れ続けて声を出す水本に、流石の久島もこれは駄目だと呆れて、水本の腕を掴んだ。
「えっ、ちょっ……久島君!?」
「水本君、小山さんに謝りなよ、これは擁護できないから……」
 そのまま水本の身体を、小山の前にさらけ出せば、水本はまさかの裏切りと、久島の力強さに驚き、小山はニヤリと笑った。
「サンキュ、久島君……さぁ水本覚悟なさい、キツイの一発食らわしてあげるからさぁ」
「待て待て待て待て!久島君、こいつの蹴りはマジで駄目だって!バレー部の健脚で思い切りは本当に駄目だってば!ゴメッ!マジでゴメン!本当悪かった!許して小山さん!!」
 小山さんはバレー部なのか、成る程、ならばその恵体や見える太ももの太さも頷けるなと、場違いな事を思いながらも、久島は本当に必死になる水本を見て、その手を緩めながら、小山に言った。
「小山さん、水本くん謝ったから許したげて、それに……当たり前と言うか、言うのもどうだけど、暴力は駄目だよ」
「そうよ小山さん、暴力は駄目、駄目だよ」
 久島に続き住之江も言う、流石に二人から言われた小山は、はぁと溜息を吐いて握り拳を解いた。
「はぁ……いいわよ、おい水本ぉ……次は無いからな?」
 不完全燃焼とばかりに、小山はやっとその襲い掛かりそうな気配を解けば、掃除道具を戻しに背を向けた。
「お、おっかねぇ……まさに進撃の◯人、汎用人型決戦兵器、コヤマゲリオンだわ」
「!?馬鹿っ!!」
 しかし、この水本京介とやらは、余程彼女をからかうのが好きらしい、折角許して収まった彼女の怒りの火に、油どころかニトログリセリンを注ぎ込んだのだ。
「水本ぉお!!」
 流石バレー部、流石のスポーツ女子。耳にしてから身体を翻して戻るまでが凄まじく早かった、まるでデッドボールを受けた外人野球選手がピッチャーに殴りかかるスピードで、久島の前に立つ水本へ走り出した。
 思わず馬鹿と、水本に言った久島だったが、これはまずいと身体が動いた。暴力沙汰になりかねないと思った彼は、水本を自らの背に隠した。
 その瞬間、スカートを翻しながら放たれた小山の蹴りが、左側脇腹目掛けて飛び込んできたのを見た久島は……。
「ぐぅうっ!!」
 左手を持ち上げ、左足をしっかり抱えつつ、そこに右手も添える。これは、ミドルキックに対する防御であった。どんっ、と小山の脛辺りが久島の左腕に当たり、鈍い音が響くも、久島の身体はビクともせず、少し呻いたがそこまでの痛みはなかった。
「ちょ……なにしてんの久島君!大丈夫!?」
 蹴り足が着地した小山は、水本を庇った久島に慌てて近寄った。
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