人生ハードモード
曇天の空にて 後編
「いい……なずけ、って……?」
お漬物か、お茶漬けの仲間かなんかだっけ?
それとも井伊直弼の親戚か何かか?
あるいは良い那豆家とか……?
ヤヨイの言葉を聞いた瞬間、私の頭の中ではおかしな現象が起こっているのを感じていた。
許嫁という言葉の意味を答えろ、なんて中学生、いや小学生でもわかるかもしれない簡単な答えを忘れてしまって、頭が考え始めるのに、その答えにたどり着くことを無意識に拒んでいる感じ。
要するに混乱していた。
そういえば、つい先日に自分がアリスさんと許嫁だったらいいのになぁ、なんて頭悪いことを考えながら父に『私に許嫁っている?』とか馬鹿なことを聞いたのを思い出す。
だから、私がその意味を知らないはずがないのである。
私がショックで声が出せずに餌を欲しがる金魚のように口をパクパクさせていると、足元にあった鞄から何やら資料を取り出したヤヨイがそこに書かれてあるらしいことを読み始める。
「お相手の名前は龍道院卓也、龍道院財閥の跡取り息子で歳は今年で29」
「一回り違うやないか!」
「いや、なんで急に関西弁?」
「わいは認めへん、認めへんぞ!」
高らかに叫んだ私に対してヤヨイが「メイっちが壊れた……」とか言っていたが、他にどんな反応をすればいいのだろうか。
好きな女の子(同性)に許嫁(異性)がいて、しかもその相手は12歳も年上で、顔も姿も見たことない。今のところわかっているのは相手がどうしようもない金持ちそうだってこと。よって、どう考えても叫ぶしかないだろう。
「そんなロリコンに私の大切な娘、嫁がせるわけにはいかない!」
「いや、お父さんかよ!」
突っ込んだあと、「どうどう」とヤヨイが私の頭が少しばかり冷静になるまで待ってくれたので、湿度と気温の高い生暖かい空気を使って深呼吸した私は、ほんのわずかながら暴走しかけた気持ちを鎮まらせることができた。
ただ、大声を出したせいか、少しだけどんよりとした空気が払しょくしたような気がする。
「……というわけで、メイっちの恋の道はここでまた二つに分岐するわけよ」
「二つ……?」
そっ、と言ってヤヨイはまず一本指を立てる。
「一つはアリスさんを諦めて新たな恋を探すこと――なお、この際、その……ちゃんとした恋を見つけられるまでヤヨイちゃんがもれなくついてきます」
「それで、二つ目は?」
「スルーですか、そうですか……」
言葉の後半を話しているときのヤヨイは少しだけ恥ずかしそうにしていたので無視してあげたのに、食いついついてくるとは。
気を取り直して、とヤヨイは指をもう一本増やしてピースの手を私に突き付けてきた。
「二つ目は簡単、メイっちがアリスさんを拉致監禁して一生メイっちの――」
「いや、おかしいでしょそれ! せめて、駆け落ちとか言ってよ!」
このご時世、高校生が駆け落ちとかいうのもおかしな話なのかもしれないが。
しかし、私のツッコミに対して、うーん、と腕を組みながら、ヤヨイは難しい顔をしている。
「でもそれくらいしないと、さ、アリスさんはメイっちのものにはならないよ。絶対に」
「なんの根拠があって……」
すると、ヤヨイはサラリとこれまた私にとって衝撃的なことを告げる。
「だって、アリスさん一人身だし」
「……は?」
思わず気の抜けた声が出る。いや、高校生で結婚していないとか中々に当たり前のことなのだが、そういう意味での『一人身』じゃないよね。
私が説明を求めるような目をしながらヤヨイの次の言葉を待っていると、彼女はすぐに続ける。
「えーと、アリスさんの家って昔はかなりの名家だったらしいんだけど、アリスさんのお父さんの世代から一気に衰退しちゃったらしいんだ。そこからは陰鬱なドラマみたいに借金まみれで両親が自殺、残った彼女は許嫁に頼るしかない……ってわけ」
淡々というヤヨイにどうしてそこまで冷静なままでいられるのかと、若干の怒りを感じた。
だが、もしも私がヤヨイの立場で言わなきゃならないときのことを想像して、下手に感情を入れすぎるときっと相手に伝わらないのも理解できたため、何か彼女に言うわけでもなく、私は押し黙るしかなかった。
私は勝手なイメージでアリスさんはどこかの国のお姫様――とまではいかないにしろ、ご令嬢様というイメージがあった。
きっと、苦労なんてほとんど知らないだからこそ――あれだけ優しくて奥ゆかしくて擦れていないんだと思っていた。
好きな子のことだ、聞かなきゃよかったと思ってはならない。
それでも、私の中で、少しずつアリスさんの――いや、彼女自身ではなくて彼女の周りにあったイメージが崩れていって、次に彼女に会うときのことを考えると息苦しさを感じてしまう。
「アリスさんが転校してきたのも、許嫁が海外からもうすぐ日本に戻ってくるとかで、その彼の家がこっちにあるかららしいし、ずっと一緒にいたいなら、もう結構強引な手段しかないと思う」
ヤヨイの言葉は理解していた、だからこそ、私は何もわからなかった。
人が好きってだけじゃどうにもならないことがある、と誰かが言っていた言葉が頭に響く。
袋小路に迷い込んでしまったように、進むべき道が見当たらない私は、逃げるかのように、気になっていたことをヤヨイに聞く。
「……ねえ、ヤヨイはどうしてそんなこと知ってるの?」
「伝手使ってね、探偵業者に頼んだんだよ」
「なんで、そんなことを……?」
探偵、と聞くと小説だとかドラマの中では『推理する人』という感じだが、現実の探偵はそういうことをしないというのはもちろん知っていたが、私ならともかく、どうしてヤヨイがそんなことをしたのか、疑問だった。
しかしヤヨイは、あっけらかんと、私の疑問を解消する。
「そりゃ、友達の恋人は気になるっしょ?」
「…………っ!」
友達、なんて一緒にいると滅多に使わない言葉だったからか、そういわれると、なぜか、嬉しいやら恥ずかしいやら、あとちょっとの驚きたやらで、私は何も言えなくなって、ただ俯くしかできなかった。
ふー、と目の前で息を吐いたヤヨイは、やはり自分でも言って恥ずかしくなったのか、耳まで顔を赤くして、両手で顔を隠したかと思うと、「まっ、ちょっと考えておいてよ」とだけ言ってから、その場を立ち去ろうとする。
「……ヤヨイ」
その背中に、私はなぜか声をかける。
好きな人について一度にあまりにも多くの情報を得て、選択を迫られた私には今すぐに選ぶことはできない。だから彼女を呼び止めたのはその答えを言うためではない。
強いて言うならば、なんとなく。
ヤヨイのその背中が泣いているように思えたから。
でも、振り返ったヤヨイはいつもの、笑顔だった。涙なんて想像できないくらいに。
そして、私の方へと歩いてくると、その手で私の頭をグシャグシャにした。
「心配しなさんな、メイっちのパーティには私がいる。まっ、切り札は使いどころが肝心だけどな」
なにそれ、とヤヨイの意味不明な言葉に対して返すと、手を放したヤヨイは、「行くか」と言って私の手を取って歩き出す。
普通ならばこんなコミュ二ケーションでも恥ずかしくて振り払ってしまうところだったが、なぜか、その日の私はヤヨイと別れるまで、ずっと彼女の手を握っていた。
珍しく会話のない帰り道、疲れたのか妙におとなしいヤヨイを見てそういえば、ヤヨイと一緒に帰るのは私がフラれたときを除くと初めてだな、なんてことを考えながら前を向くと、遠くに雲の切れ間を見つける。
私たちの頭上はまだ真っ黒な雲しかなかったが、この道の先には確かに雲を割く光が見えていた。
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