人生ハードモード
知ってる人だからこそ、きっと怖いのだろう
私は今まで仮病なんてもんを使わなきゃ学校が休めない程度には体が丈夫だった。
運動中の怪我も骨折なんてしたことはなかったし脱臼とかもない、強いて言うなら転んでひざを擦りむいたことが数回あるくらいか。
だから気絶なんてものは一度たりともしたことがなかったわけで。
真っ白なシーツに白い布団、この場が清潔であると主張しまくっている保健室のベッドの中で目覚めた私は、意識を失うという体験が人生で初めてだったということもあり、自分の身に何が起こったのかわかっていなかったため、起きた瞬間、ここがどこだかわからなかった。というか保健室自体まだ入学してから一度(紙で指を盛大に切ってしまって絆創膏をもらいに行ったとき)しか来ていなかったので、見知らん空間の中、ベッドで寝かされているこの状況に戸惑いを隠せなかった。いつの間にか日は傾いているし。
(でも、よくよく考えればラッキーかな……)
健康体の人間が授業出ずに学校の中で堂々と、しかもベッドで眠れるなんてそうそうあることじゃない。最近どこかのアリスさんのせいで睡眠不足が甚だしかったし、健康を維持するためにもよかったのかもしれない。
どこか遠くで運動部の威勢の声がして、もう帰らなきゃいけない時間だけどここから起きてから着替えて、帰るのだるいなー、とか思っていると、近くの椅子には私の制服が畳んであった。
誰だか知らないが気が利いた人もいたものだ、と思って、でもなんとなく布団から体を出したくなくて、変な体制で制服に手を伸ばしていると、廊下からこちらに向かってくる足音がして、私は反射的にベッドに戻り布団に包まる。
いや、どうしてとか、そんなの聞かれても私自身にもよくわからなかった。
ガラガラという横戸の音を耳にした私がギュッと目を瞑って寝たふりをこいていると、足音が近づいてくる。
保健室の先生だろうか、だったら時間も時間だし早く帰れとか怒られた大人しく帰ればいいか、なんてことを考えていると、私の心臓は降ってきた声によってドキンと跳ね上がった。
「まだ、眠っているみたいですね……」
声だけでは空似とかよくあることなので、薄目を開いて侵入者の姿を確認すると、そこにあったのは、当たり前だが制服姿に戻っているアリスさんだった。
なんで、という疑問符を頭に無数に浮かべていると、彼女はなんと、ベッドの脇にあるパイプ椅子に座り始めたではないか。
ここで目を開けたら間違いなく自爆する、変なこと言って変な行動をとるに決まっているので、止めようのない心臓だけを動かすつもりで私がそのままでいることにする。
(……っ!)
そんな私を試しているのではないかと疑ってしまう行動をアリスさんはしてきた。
なんと、私の手を握り締めてきたのである。
これ絶対脈計られたらバレるよな、なんて思いながら、これならいっそのこと少し驚かせてしまうことも覚悟してちゃんと起きたほうがいいのではなんて一瞬考えたりもしたが、体が凍ってしまったように動かなかった。
「……どうしてあんなことしたのですか?」
あんなこと……って、もしかして体育館のことだろうか。あまり思い出したくないような、でも記憶から排除するのはもったいないような、私が間抜けに気絶したあれですよね。
確かに自分でもバカなことしたと思っているので、できることなら笑ってほしかったのだが、アリスさんのその声は少し泣きが入っている切なものであったので、私は驚いた。
「……なんで、いつも私の前でいるときに一生懸命でいてくれるのですか? なんで、いつも優しいのですか?」
自分では冷静を装っていたと思っていたので、本来なら恥ずかしさのあまり死にたくなるくらいのはずなのに、アリスさんの声が変わらず切なそうなものだったので、戸惑いという感情が大きすぎてあまり深くは考えられなかった。
ぼんやりと、薄目で彼女の顔を眺めて、その手に温かさを感じながら、なぜアリスさんが私のことを考えてくれるのかを考える。
友達だからだろうか、でも、私は友達に対してこんなに感情的になったことがない。私のために友達が傷ついたら、今の彼女と同じ感情を得ることができるのだろうか。
そのとき、アリスさんが私の手をそっと抱きしめた。
(えっ……ええ!)
彼女の胸から鼓動を感じられて、私はすぐにその理由がわかってしまう。
同時に、彼女の気持ちもわかってしまって、頭が真っ白になる。
「メイヤさんがそうやって、思わせぶりな素振りを取るから……期待してしまうではないですか」
えっ? 期待って? なんのこと?
っていうか、そんな素振りなんて取ったことないと思うけど?
なに私が好きだってことを知ってるから、からかってるの? 
貴女はそんな小悪魔チックな天使だったのですか?
パニックのパンデミックを起こした頭の中は鎮まってくれない。きっと起きていたとしても頭の中で爆発を起こして倒れていただろう。
アリスさんは私の手をそっとベッドの上に戻したかと思うと、「起きてください、メイヤさん」と声をかけてきた。
本来ならば、この呼びかけに応じるべきなのだが、きっと今アリスさんと向かい合ったら何も言えなくなってまた変なことを言い出してしまうと思うので、ここはこのまま狸寝入りで乗り越える。
「起きてくれないのですか? 起きてくれないのなら――」
この流れ的に『帰ってしまいますよ』だろうか、少し惜しいような気もするけど、今はそうしてもらったほうが助かる。
上がった体温にくらくらしながらも、一息つこうとしていた私であったが、アリスさんの次の行動に胸のドキドキは最高点になった。
「私だって、欲しいものがあるのです――大切なもの、奪ってしまいますよ?」
わけもわからず、ゾクッ、とした。
顔を近づけてきたアリスさんは、私の唇を指で触れてそう言ったかと思うと、いつの間にか息のかかる位置まで来ていた。
ゆっくりと、その赤く艶やかに映る唇が接近してくるのを見て、ずっと見るたびにずっとキスしたかったはずの私は、なぜか、頭が一気に冷えて、
(あれ……これで、いいのかな……?)
何かが違うような気がして、そんなことを思ってしまう。
それでも流れに逆らえずに、私が動かず待っていると――唇は止まった。
というのも、保健室の扉が開いたからである。
私から顔を遠ざけたアリスさんは、侵入者の方を向いた。私も誰が入ってきたのかすぐに確認しておきたかったが、アリスさんの体があるせいで死角になっていて、すぐには誰なのかわからなかった。
「なにやってんの?」
その声はヤヨイだった、アリスさんが立ち上がったので、その姿はすぐに確認できて、手には私の通学鞄を持っている。
誰が入ってきたとかいうよりも、私はヤヨイのその妙に刺々しい言い方に驚く。まるでアリスさんのことを軽蔑しているかのような、突き放した冷たい口調だった。
「すみません、メイヤさんのお見舞いにきたのですが……」
胸の前で拳を置いて視線を漂わせながら、謝るアリスさんの声にはヤヨイに対する恐怖の色がうかがえた。そして、後悔というか反省の色も。
でも私も怖かった、いつも調子良いのが特徴の友達の静かな怒りが。
「ねえ、これ以上、メイっちを振り回すの止めなよ。あたし、恋って感情を盾にして何しても許されるって考え方、大っ嫌いなんだ」
「……すみません」
もしかしてこの二人は二人でいるときだけこんな上下関係なのだろうか、なんてことを考えてしまって、今まで近くにいた親友が偽りのようなものの気がしてしまい、怖くなる。
さっきまでとは違うベクトルで、心臓が痛み出し、汗もひどくなっていく。
俯いていたアリスさんが一瞬だけこっちを見て、保健室から出ていくと、ヤヨイと二人取り残される形になり、さっきよりも居心地の悪い空気が流れ始めた。
ヤヨイが近づいてくるのを感じてビクビクしていると、彼女は私の制服の隣に持ってきた通学鞄を置く。
そして、私のほうを向いて口を開いた。
「ごめんな、メイっち。これの理由は明日話すわ」
それはいつも通りの彼女の口調で、なぜかものすごく安心する。
いつも通りの調子の良い元気な声ではないものの、少なくともさっきまでの心臓を切り付けてくるような鋭利さはなくなっていた。
いや、それよりも、今の彼女の言葉。
もしかして、私が起きてるのバレてる……?
だが、そんな私の中で湧いた疑問はすぐに解消された。
鞄を置いたヤヨイはすぐに背を向けて、保健室の出入り口に歩いていき、部屋から出る直前、振り向かずにそのまま、『私』に言う。
「明日、放課後に屋上来てよ――『最後の』講義」
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