ウタカタノユメ
荒神
「ココロのバカ……」
そんなことを十秒に一度の頻度でつぶやきながら歩いていた私は、日が傾き始めた頃に、ようやく自分も馬鹿であることに気づくこととなった。
四方八方、緑と茶色しかない。どれ程歩いても私を囲むのは木と草である。
森の中にあるココロの家を飛び出してから、特に考えもなくただ前にだけ歩いていたせいだろう、自分が今、何処にいるのかわからなくなっていた。
この年になって迷子、いや、これは遭難と言えるのではないだろうか。
一人であることに気が付いた途端、森が怖くなってくる。風で葉がこすれる音に驚き、野ウサギが後ろを通り過ぎただけで足がすくむ。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら歩くが、不安は膨らむ一辺であった。
ザワザワと森が騒ぐ。まるで侵入者である私を歓迎していないように思えた。
道に迷って右往左往し、もう何度目かわからないため息をついたときである。
背筋がスー、と凍りついていく。
何を見たわけでもない、なにかを聞いたわけでもない。肌に空気を隔てて伝わってくる感覚だけが、危ない、怖い、と警報を鳴らしていた。
普段、動物的な感覚を否定している私であったが、このときばかりは、このままでは殺されるという直感があって、後ろを振り向かずに走り出す。
できるだけ足場の良い道を、自分の走りやすい道を選んで、森を駆け抜けていく。
だが、いくら走っても後ろとの距離が詰まっている気がしない。いや、むしろ詰まってきているのではないだろうか。
こぉー、ぐるる、はぁはぁ、様々な音が聞こえてくる。どれが自分の発しているものなのか、後ろから聞こえてきているのか、はたまた全く違う第三者が出しているのか、あるいは自分の幻聴か何かなのか、わからなかった。
ただ言えるのは、止まっては殺されるという直感がずっと消えないということだ。
しかし、その姿を見ていないからか、微かに、自分のこの感覚は間違えだ、本当は後ろにはなにもいないはずだ、なんてことを頭で考えていた。
そのためだろうか、私は道に生えていた木の根に気づかずに足を引っ掻けて転んでしまう。
足の膝のジワジワとした痛みと、出血を感じながら、私はここではじめて後ろを振り返った。すぐに立ち上がることなんて出来なかったし、もしかしたら諦めなんて言葉があったからなのかもしれなかった。
「…………っ!」
追跡者は、確かにいた。
私はそれを見て、声に出すことも出来なかった。
恐怖と、絶望に似た感情が渦巻き、私を飲み込んでいく。
そこにいたのは2メートルはあるだろう巨体であった。ギラギラとした黄色い目を光らせている毛むくじゃらの顔は狼、しかし、2本脚で人間と変わらない様子で立っており、ボロボロの黒い衣を見にまとっていた。
そして、その手に持っているのは銀色の鎌。
間違いない、これは、物語に書かれていた『死神』だ。
私は何が怖いのか、鎌か、顔か、はたまたその存在そのものか、わからなかったが、とにかく恐怖で動けなくなってしまった。
なんで、私が?
まるで金縛りだ、頭では逃げなければならないとわかっていたし、動かそうともした。だが、いくら脳から命令したところで、私の震えた手足は動くこと叶わなかった。
鎌が振るわれる、怪物には一切の躊躇いがなかった。まるで、家畜を殺すかのようだと思った。
鎌の刃は真っ直ぐに私の方へと吸い込まれていく。狼が鎌を振るうなど、あまりも現実味を帯びない光景だったためか、私の頭のなかは怖いくらいに冷静に、まるで映画を観ているかのような、不思議な感覚であった。
(これは……死にます、ね)
こんな唐突な死など、予想できていなかった。それとも恐怖からだろうか、主観的に見ることができない。心臓はバクバクと音をたてているし、全身に汗もかいているのに、まるで他人事のようにしか捉えられなかった。
「危ないっ!」
そんな声が耳に入ってきた。
とても聞き慣れた、久しぶりに聞いたような気もするが、とにかく、私の心を落ち着かせる甲高い声。
同時に掌サイズの石が飛んできて狼の頭に見事に当たり、鎌の動きが止まった。
狼がうめき声をたてながら両手で石の当たったところを押さえる。その間に、よく知った顔が私に駆け寄ってきた。
見知った顔のはずなのに、私は驚きを隠せなかった。
私を助けてくれたからではない。
ココロは、いつもかぶっている彼女のトレードマークといっていい麦わら帽子をつけていなかった。だが、私は別に帽子がないことに驚いているわけではない。
彼女の頭に、銀色の狐耳が生えていたから驚いているのである。
彼女と似たような容姿の少女を、私は少し前に見た。ココロとは違って、もっと小さな妖狐を。
「ココロ、あなた……」
「説明はあと、ミライ、こっち!」
ココロの言葉が頭に入ってきた途端、一気に現実へと引き戻され、彼女に手を握られた瞬間、ずっと動かなかった手足が、まるで別の生き物のように動き始めた。
「怪我してない?」
「うっ、うん……」
森のなかを再び走り抜けていく。ココロは一切迷っていない様子だった。
(ココロって、こんなに……)
頼りになっただろうか、安心と戸惑いを感じながらそんなことを思う。
ふわふわと揺れている真っ白な尻尾を見ながら、聞きたいことは山ほどあったが、今は逃げて二人で生きなければならない。
しかし、安心してはいられなかった。怪物は確かに追ってきている。今度は気配だけでなく、草を踏む音、ガルルッという鳴き声までちゃんと聞こえてきた。
今追いかけている者が一体何者なのか、そんなことを考えている余裕はない。私は繋がれた手を離さないように握りしめながら、走る。
すぐに森を抜けて、見覚えのある道へと出た。どうやら私は迷いながらも村のほうへと進んでいたらしかった。
でも助けを呼ぼうとしても、村の人は誰もいない。どこかの家に駆けこむべきだろうか。
私がそんなことを迷っていると、ココロにはどこへ向かへば良いのかわかっているらしく、速度を緩めることがなかった。
近づいてくる足音に、怯えながら、走っていると、村の奥にまで来てしまう。この先には祖母の家しかないはずだ。
「どこ行くの?」
「たぶん、ミライの家なら……」
「でも、お祖母ちゃんがいるんだよ?」
私たちが家に転がり込めば祖母だって被害を食う。殺されてしまうかもしれない。けれども、私はココロの「大丈夫、私を信じて」なんていうオカルト宗教の宣教師が言いそうな言葉に頷いてしまう。助けてくれたばかりだからか、彼女の言葉に逆らう気がしなかった。
祖母の家の門が見えてきたとき、後ろを振り向いたココロが止まる。
「ミライ、伏せて!」
「…………っ!」
私はココロの言葉にすぐさま反応できなかった。
わけも分からないままに、ココロがいつものように飛びついてくる。目の前を彼女の良い匂いのする銀髪に覆われる。
地面に尻もちをついた私は、目の前に狼の化け物がいて、恐怖にかられる。震える手でココロを抱くと、回した手からぬめりとした感覚がする。
「早く、逃げて……」
苦しそうに言うココロ。
触れたものが血だとわかった私は、怖かったが、それよりもなぜか怒りの方が強かった。
勝手に助けておいて、自分を置いて逃げろ?
言っている方は自己満足ができるかもしれないけどね、押し付けられる法の身にもなって頂戴。
「馬鹿言わないで、そんなこと、できるわけないでしょ!」
近くにあった石を思い切り狼へと投げつけると、運よく怪物の目に当たる。
怪物がひるんだ瞬間に、私はココロに肩を貸しながら再び走る。
「でも、私は……」
「つべこべ言わない、絶対に私が助けるから」
拒もうとするココロを抑えながら、無理矢理に歩く。ゴールはもう少しなのだ、このまま見捨ててなんて置けるはずがない。
(もう、少し……)
なんとか、門の前までたどり着くが、私の体力はもう限界であったし、何より、ココロがこれ以上動けなかった。
助けを呼ぼうにももう手遅れ、怪物は彼女たちの背後まで来ている。
そもそも、ここへ来たところで何があるというのだ。この怪物を相手に私の祖母が立ち向かえるとでもココロは考えていたのだろうか。
そのとき、ココロが前に倒れる。
肩を貸していた私も巻き添えを食らって一緒に門の中へと倒れこんでしまう。
すぐ後ろまで怪物は来ていた、これから再び立ち上がって家のほうへと歩き出すのは困難。
今度こそ、終わったか、そう思った瞬間
奇跡が起きる。
「……えっ?」
怪物が止まっている、門の中へと入ってこようとしないのだ。
ココロの血がついている鎌を下して、恨めしそうにこちらをにらんでいた。
まるで魔法にかかってしまったかのように、怪物は動かない。
どうやら、彼は門の中へは入れないようだった。
「ココロ、これは――」
――どういうこと?
そう聞こうとココロのほうを見ると、彼女の姿はどこにもなかった、あったのは彼女の着ていた白のワンピースのみ。
いや、違う。
服の中に膨らみがある。私は乱れた呼吸を整えると、服の中をのぞき込んでみた。
「ココロ……っ!」
そこには、背中に傷を負った真っ白な毛の狐が苦しそうに息をしているではないか。
まだ目の前に化け物がいるというのに、狐を見た私は、服で狐を包み、狼の顔を睨みつけてから、家の中へと駆け出した。
家の中にいたトメにココロを助けてほしいというと、祖母は慣れた手つきで服でくるまれた狐の手当てを始めてくれた。私が、自分が泣いていることに気付いたのは、ココロの手当てが終わってからのことだった。
「これでもう大丈夫じゃよ」
「ありがとう……、おばあちゃん」
清潔な布が敷いてある大き目のバスケットのような籠に眠っている狐を乗せる。
私がお礼を言うと、ニッコリと笑ってから祖母は、私の目を見て、
「何か、聞きたいことがあるかい?」
彼女はいろいろと知っているに違いないと思った。しかし、いろいろなことがあったからか、疲れていた私は何を聞けばよいのかわからず、閉口していると、お腹がギュルルと鳴った。
そうだね、と言った祖母は、
「まずはご飯にしようかね」
祖母が囲炉裏の上に置いてあった鍋のふたを開けると、ふわりといい匂いが広がってきて、疲れてあまり動きたくないはずなのに私は自然と立ち上がってお椀と小皿を持ってきていた。
中身はおでん、まだ暑さの残るこの時期にどうかとも思うが、文句は口から一切出なかった。食欲のそそる独特のにおいと共に私は次々と具を口の中に入れていきながら、今日起きたことについて話した。
「……村の三つの伝説については知っているかい?」
熱いおでんにはふはふと口を動かしながらも、私はコクリとうなずく。
「あんたを追いかけてきたのは『荒神』だよ」
「あら、がみ……?」
そうさ、と言った祖母は、温かいお茶を私と自身の分用意し、一口自分の茶を出してから、語り始めた。
「この村は、この村に住む人々はね。荒神様によって、呪われているのさ、いや、守られているのかもしれないね。荒神様は村に来る人間は拒まないのだが、出ようとする人間にはお怒りになるのさ」
「えっと、どういう意味なのですか?」
「この村から離れた人間は7年で荒神様に裁かれる。ある人はそれを呪いといい、ある人は神の鉄槌だといったそうだ」
7年、という言葉に、私は驚いた。
確かに、西園寺冴子が死んだのはここを出てから7年後。そして、私の父が死んだのも、今からちょうど7年前のことだからだ。
あっ、と私は1つ、わかったことがあった。
西園寺冴子が、村役所に出入りして調べていたもの。それは、きっと、『7年』という期間について調べていたのだ。自身の呪いに気づいた彼女は呪いから逃れるために村中を走り回っていた。
「でも、なんで私は父より後なのですか?」
「思い出してみな、あの日、ミライちゃんの父親はミライちゃんよりも一月前にここを出て行っただろう?」
「じゃあ、なんで、止めなかったんですか!」
「…………」
強情な父を私は知っている。だから、彼を止めることは困難だっただろう。私が村にいたいといっても、親権について裁判までしたのだ。私がこの村から出ることも避けられないことだったろう。
しかし、それより前、一時的に住んでいた西園寺冴子は引き止めるべきだったのではないかと思う。
祖母は、小さな声で「止めたさ」とつぶやいた。
そして、窓の外で見える月を眺めながら、
「人間というものは、愚かな生き物だよ。恋なんてものをするせいで命だって粗末にしちまうんだから」
その言葉は私に向けられているものではないように感じる。私はそんな静かながらも迫力のある祖母に何も言うことができなくなっていた。
窓の外から私に視線を戻した祖母は元の優しげな表情に戻って、
「……この家は安全さ。少なくとも今日は、ね」
「……?」
今日は、というのはどういう意味だろうか。
首をかしげる私に対して、狐姿のココロと私を交互に見た祖母はいう。
「今日はもう寝なさい。明日も早い」
うん、とうなずいた私は「おやすみなさい」と祖母に行ったあと、無意識のままココロを乗せた籠をもって私の部屋まで歩いていた。
あまりに眠くて気を失いそうになりながらも、風呂に入って歯を磨いてから、自分の部屋に戻ってベッドに横たわると、自分の思っている以上に疲れていたらしい。すぐに眠気が襲ってくる。
訪れたまどろみのなか、何か温かさを感じながら私は眠りに落ちた。
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