ウタカタノユメ

ノベルバユーザー172952

再開

 
 ガタン、ガタンとそんな音を立てながらワゴン車が石ころがゴロゴロと転がっている道を走るので、連動するように中も揺れた。
 時々ノイズがかかるラジオだけが聞こえてくる静かな車内には、実は二人もの人間がいる。
 木々が過ぎ去っていくのを、ぼー、と見ながら、私は口を閉じたまま、しかし、窓に手を賭けながら眠ることなく助手席に座っていた。

 私の名前は黒梅くろうめミライ。
 年は今年で17。目の前にある窓ガラスに薄く映っている表情のない自分の顔は自分の体の中で唯一綺麗なところで、少なくとも劣等感にかられるような容姿ではない。後ろで縛った長い髪の毛は少しうっとうしいものの、切ろうと考えたことはなかった。

 そして今、私の隣にいて、大きく膨らんでいるお腹をもろともせずに運転しているのが佐々(ささ)麻衣まい。一応は血の繋がりのある母親だが、苗字が違う時点で察してほしい。
 母と会うのは7年ぶりだったが、随分見た目が老けたことしか、違いがわからなかった。

 私たちは今、ただドライブをしているわけではない。別に一緒にいたくはない母の車に乗って向かっているのは『藤咲村』という母の実家であった。
 一度は捨てた、二度と戻ってくるまいと、決意したはずの場所だ。

 私は生まれてから小学四年生までこの『藤咲村ふじさきむら』に住んでいた。
 だから、今進んでいる道も、これから行く場所も全くの未知というわけではない。
 けれども、やはり一度は捨てた場所。本当は帰ってくるとは思わなかったし、帰ってくるものかといきがっていた。

 7年間都会で生活していた私がここへ帰ってくることになった理由は、ただ一つ。父の他界である。一月前原因不明の変死体として発見された父は、警察の話によると他殺と事故の両面で捜査している最中なのだとか。
 父のことを思い出すと、背筋が寒くなる。体中がきしむような錯覚が起こる。この症状は家庭内暴力を受けてきたせいなのだと、精神科のお医者さんは言っていた。
 恐怖の対象である父の死に、私は悲しみを覚えなかったと記憶している。父の葬儀の最中、私の中を満たしていたのは安堵だった。

 ならば、今私の隣で運転している女はいい人なのかと問われると、そうではない。彼女は既に別の家庭を持っている身、もうすぐ子供も生まれるらしいから、私の存在など、目障りなだけだろう。かつて父を選んでしまった私を母は嫌っているのだ。
 東京から新幹線に乗ってきた私を駅の前で車と共に待っていてくれた母は、しかし、一言の会話も、そう、挨拶さえもせずに私を車に乗せ、まるで荷物のように運んでいる。

 私が預けられるのは、母の家ではなくて、その母、つまり私からすれば祖母の家となる。
 祖母と母は仲があまり良くなく、だから、私自身、祖母と会ったのは数度、顔のかたちや姿はぼんやりとしか覚えていない。たとえ、覚えていたとしても5年の月日が経っているので、まったく同じなはずはないのだが。

 この先、藤咲村、などという標識が目に入ってきて、とうとうついてしまったかと思う。
 きっとこの村には、私の居場所はないだろう。

 いや、私の居場所がないことなど今に始まったことじゃないか。

「……あれ?」

 同い年くらいの女の子、果たしてこの村にどれ程いただろうか記憶にはないが、人間離れした美しい白髪の女の子が、向こう側から誰かがこちらを見ていたような気がする。
 一瞬だけ、人影が私の目に映った。動く車とは反対方向に目を動かしながら、その場所をじっ、と見つめてみるが、姿を現すことはない。狐に化かされたのか、ただの気のせいだったか。

 車は田んぼや畑が広がる細い農地の間にある道を走り、『藤咲村』へと入っていく。窓を開けると、土臭いものの美味しいと思える空気が入り込んできて、私は多少なりとも安心する。窓を開けた私を嫌な表情を隠そうとせずに睨んできたが、どうせ、何も言わないのだ。構うことはない。

 大きな樫木が生えている庭のある、他の家と比べて少しばかり大きな家の前で車は止まった。
 ここで初めて口を開いた母が、「降りなさい」と不機嫌な声で言う。その声を聴いたのは実に7年ぶりであったが、大した感慨もなかった。
 仏頂面を崩さずに私は車から降りて、トランクから荷物を取り出していると、母は大きなおなかを引きずりながら一足先に家の中へと入っていった。

「ただいま、お母さん」

 そんな声が前で聞こえてきて、中から聞いていた年齢よりも若く見える老婆の姿が現れ、母と親子らしい話をし始めたので、その後ろにいた私は、果たして私がこの先に進んでいいのかと不安になる。
 トランクを持ったまま、家の門の前で立ち止まっていた私を見つけた老婆が近づいてきた。

 確か祖母の名前は……中条トメだったかな。

 皺とシミだらけの顔、やさし気な眼に、黒い髪の残っていない白髪は手拭いで頭を縛っており、家主というよりもどちらかというと女中といった容貌であった。老婆の白髪を見て、つい先ほど見た白昼夢だろう女の子を思い出すが、同じ色でも美しさが月とスッポンだと思う。

「ミライちゃんかい?」

 柔和な顔と少ししゃがれた声、その瞳からは敵意をこれっぽっちも感じさせない祖母に、私は口を閉じたまま頷く。母の母というのだから、もっと嫌見たらしい老人だろうと思っていたのだが、毒気を抜かれた。

「大きくなったね、おばあちゃんのことは覚えてるかい?」

 もう一度祖母の皺だらけの顔を見てから、少し記憶をたどってみるが、該当者はいなかったので、私は正直に首を横に振った。すると、老婆はカラカラ笑い出す。

「そりゃそうだ、前にあったときはあんたがこの手に納まるくらいの大きさだったしねえ」

 にかっと歯の足りない口をゆがませて笑った老婆は「こっちだよ」と私を促して家の中へと入れる。私は、重いトランクを引きずるようにして、トメの後を追っていく。
 感情のない眼で見てくる母の横を通り過ぎて家屋に入ると、中は外から見る以上に広い、靴を脱いで入ろうとすると、床の木に足がついてひんやりとした感触が来る。

 玄関から居間に入ると、まず目に入ってくるのは都会では絶滅危惧種である囲炉裏。そして、鹿とイノシシのはく製が置かれており、ソファの上には熊の毛皮。さすがにテレビはついており、家は全て独特の木と祖母の匂いで包まれている。
 都会出身の人に『田舎のおばあちゃん家』を書かせればおそらくはこういった家を思い浮かべるのではないだろうか。
 祖母の家に入ったのは初めてであったので、しばらくの間、都会で育ってきた私はその古めかしさに圧倒された。

「都会っ子の反応は面白いね」

 借りてきた子猫のごとくキョロキョロと物珍しく辺りを見回していると、トメがそんなことを言った。私は妙に恥ずかしくなって少し俯きながら、祖母の後をついていく。
 二階に上がり、廊下を通って突き当りの部屋。そこで、トメは立ち待って、私の方を振り返る。

「ここがミライちゃんの部屋だよ」

 ドアを開けて部屋の中へ入る。むせかえるような埃の匂いと共に私の目の前に広がったのは、どれも木で作られた勉強用の机と箪笥に私の体の二倍はあるだろうベッドと、最低限であるが以前に私が使っていたものよりも大きな家具だけが置かれた。ちなみにこの部屋自体、東京の私の部屋の二倍以上はあるだろう大きさである。居間と比べると、古めかしさが足りない気がした。

「もう10年近くも前の話だけどね。何が楽しいのか、前にこんな田舎に居候したがるような物好きな作家がいてね、その子が少しの間だけ使っていたんだよ」

 面倒な作家の執筆作業は、宿を取ってやるみたいだが、それと同じような感じだろうか。こんな田舎に来てまで何を書きたかったのだろう。
 この部屋の元住人について訊きたいことは山ほどあったが、元来の人見知りが発生しているせいか、私は口を開きかけたものの、ついに声を出すことはできなかった。

「年に一度くらいは軽く掃除しているけど、見ての通りの有様さ――だから、今から少しばかり掃除して、それから使ってな」

 そう言ったトメは、部屋から出ていった。私と母の関係がうまくいっていないことを悟って、気を使ってくれたのだろうか。
 祖母がいなくなったことにより一人になった私は、緊張の糸が解けて、安堵の息を漏らしてから、トランク扉の傍に置いておき、部屋の中をもう一度見渡すと、部屋の隅に掃除用具が一式おいてあることに気づく。

 これから住む場所だ、綺麗にしないわけにはいかないだろうと、覚悟を決め、部屋を出て廊下にある水道でバケツの中に水を満たして、雑巾を浸し、気の床を拭いていく。雑巾がけなど小学校のとき、こっちの学校に行っていたとき以来だった。

 床を磨くとかなり埃がたまっていたらしく、真っ白だった雑巾はすぐに黒ずんでくる。
 部屋の中に埃が舞っており、このままでは体に悪いと思った私は、部屋についてある大きな窓を開ける。

 少し開けただけで入ってくる風を心地よいと思いながら、ふと、外を見た私は、驚いた。

 うちの敷地の外に生えている、大きな木の太い枝の上、そこに、他の緑とは明らかに違う、一人の少女の姿があったのだ。
 美しい銀髪に白いワンピースが印象的だった彼女の姿は、先ほど車から見えたのと同一人物だ。

 私と目を合わせた少女は、ふっ、と笑ったかと思うと、ゆらゆらとまるで風に体を預けているように揺られ――そのまま、飛び降りた。

「あっ、危ない!」

 反射的に叫んだ私の角度からは、障害物があって少女がどうなったのか、わからない。
 自分でもなぜかはわからないけれど、今すぐ助けに行かないと、と直感的に思った私は、手に持っていた雑巾を投げ出し、すぐに部屋から出ていく。話していた母と祖母が不思議そうな顔で見ていたが構うことはなかった。

 家の門をくぐって、大回りして、先ほど自分の見ていた場所へと、正確な位置はわからないので、勘だけを頼りに探す。
 そして、大木の下で、倒れている、一人の少女の姿を、私はすぐに見つけた。
 血の気が引いていくのを感じながら、私は、動かない少女の元へと恐る恐る近づいていく。

(こんな山奥で自殺……?)

 自殺の名所とかならまだわかるが、そんな話は少なくともこの辺では聞いたことがない。
 それよりも私は、近づけば近づくほどに明瞭になる少女の、まるでこの世の者とは思えない容姿の方が気になった。

 雪のように真っ白な髪の毛、それに負けないほどに透き通った白い肌、頭には麦わら帽子をかぶっているため、顔はわからないが、まるで森の妖精を見たかのような気分だ。
 まず、息があるのかどうかを見なければならない。当然こんな経験など今までの短い人生の中では一度たりともないので、ごくり、とつばを飲み込んだ私は脈を図るため、震える手を少女の手にゆっくりと近づけていく。

 私の手が少女の手に振れる瞬間だった。

 突然動き出した少女の手が、傍にあった私の手を掴んで引き寄せてきたのだ。不意のことであったので、何の抵抗もできなかった私は、少女の方へと倒れる。しかし、私の体は地面に接触することはない。起き上がった少女が私の体を受け止め、抱きしめたからである。

「やっと、捕まえた」

 少女は私とさほど変わらない身長であったが、しっかりと私の体を抱いていた。今まで嗅いだことのないような、でも、何処か懐かしいような花と土の入り混じったような匂いが漂ってくる。
 少女の体の密着具合に、私は顔が熱くなるのを感じ、同時にドキドキと自分の心臓の音が聞こえてきて、少女に知られませんようにと願った。

「おかえり、ミライ……」

 耳元でそう囁かれた瞬間、私の頭にまるで雷が落ちたかのような、衝撃が走る。
 脳の中に流れた電気は、私の頭の中から、忘却していた一つの記憶を呼び覚ました。

「ココ、ロ……?」
「なあに?ミライ?」

 体を離したココロがのぞき込みながら発した、愛しく、同時にとても懐かしい声が耳元に届いてきて、嬉しいような泣きたいような気持になった。

 どうして今の今まで私は彼女を忘れていたのだろう。

 彼女の名前は、白桜はざくらココロ。私がこの『藤咲村』にいたときに、一緒に遊んでいた、たった一人の友達だった。
 しかし、時間と言うのは残酷だ。これが数日間ぶりならばよかったのだが、彼女とは別れてから7年の時が経っていた。7年という月日は人間の、それも子供だった私たちにとってはあまりにも長すぎる期間。ココロも、私自身も、当時とは比較するまでもないほどに多くを経験し、大きくなっていた。それは私が彼女を『他人』と感じてしまうには十分な理由となる。

 そう、目の前にいる彼女は友達『だった』女の子。

 人など簡単に信じてはならないのだ、この子の向けてくる綺麗な瞳の裏では何を考えているのかわかったものではない。だいいち、彼女は死んだふりまでして騙し、私をここに呼び寄せたのではないか。
 そう思った瞬間、たまらなく怖くなった私は、一歩下がり、ココロから離れると、そのまま、彼女に背を向けて走り出した。

「ごっ、ごめんなさい……」
「ミライ!」

 後ろから声が聞こえてきたが、耳をふさいで、まっすぐ自分の部屋まで私は走った。幸いにもココロが後ろから追いかけてくることはなかった。



「ご飯だよ、降りておいで!」

 聞こえてきたその声に、私は目を覚ます。気づけば部屋の中は真っ暗で、窓から月の光が差し込んでいた。
 遠くで遠吠えが聞こえる。狼は絶滅しているはずなので、近所の犬か、はたまた野良犬だろう。どちらにしても気味が悪かった。

 真っ暗な天井を見ながら、私は腕をさすり、私は真っ直ぐ笑いかけてくれたココロのことを考えていた。

 人は必ず裏切る生き物だ、信じれば必ず後悔する。

 それが体にしみてわかっているだけに、私は人を信じることが怖かった。見返りの無い好意ほど、怖いと感じるようになっていた。
 トメさんがご飯だと呼んでいるから、行かなければならないだろう。私はベッドから起き上がったのだが、そのとき、机とタンスの間に、小さいなにかが挟まっているのに気づく。

 掃除は途中だったし、たとえ、掃除をしていても気づいたかどうかはわからない。真上からの照明を点けたところで見えない、横から差し込んでいた月の光のおかげで偶然、その瞬間だけ見えていたのだ。
 小さな、手帳か何かだろうか。考えれるとすれば、前の住人の、物好きな作家さんのもの。

「ご飯食べないのかい?」

 今度はすぐそば、部屋の前で聞こえた声に私は今すぐに確めたい気持ちを抑えて、部屋を出ていく。
 この古めかしい家の感じからてっきり鍋物、それも兎か狸が入っているようなやつが出てくるものとばかり思っていたが、今についた私は、漂ってくるカレーの匂いに少々驚いていた。

 大きなお皿にカレーをよそってもらった私は、小声で「ありがとうございます……」と言って、囲炉裏の前で、食べ始める。
 まだ暑いくらいの時期だというのに、囲炉裏には火が灯っていたが、暑いとは全く感じない、私は心が休まる気がした。

「学校は転校の手続きとかまだだから、来週からね。制服ももう少しかかるよ」
「そう、ですか……」

 学校の話は憂鬱でしかなかった。というのも、人と関わらなければならない学校に行くことは私にとって苦痛でしかなかった。都会の方はただの暗い奴ということで誰も話しかけることはなくなるのに、ここに住んでいたときの小学校時の記憶だと余計なお世話を焼くやつがいくらか出てくるのだ。

 今よりかは遥かに人間関係に積極的だった当時の私でさえ、都会出身だということだけで優越感に浸り他人に対しては友達になってやろう、みたいな態度を取っていたので、あっという間に友達は消えていったというのに。今の、他人が嫌いで、信じられず、関わりたくないとか考えている私にはここの学校への転校はハードルが高すぎる。ましては、かつていた土地、生意気だった私のことを覚えている人がいるかもしれないと想像するだけで食が進まなくなった。

 目の前にいる祖母でさえ、あまり信用していない自分がいる。それは彼女が私の母を育てたからというシンプルな理由ではなく、私にとって彼女は他人という認識が強く、道端ですれ違う人と変わらない程度には信じられていない。いや、トメだけではない、この7年間で、私にとってこの世界で心の底から信じられるような人物は誰もいなくなってしまった。それほどに、私は変わってしまったのだ。
 だからなのかは定かではないが、居間の中は何とも言えない空気が流れてしまう。一方的に話す祖母の言葉に対して私が気のない返事をするだけ。私のコミュ障具合で会話が続かないことを察したのか、祖母は次に様々なことを質問してきたが、私はそれすらも最小限の返答だけを繰り返すだけだった。

「ミライちゃんは、東京でお父さんと二人暮らしは楽しかったのかい?」

 動揺した私はスプーンを落としそうになる。この人は何も聞かされていないのだろうか。見ると、先ほどとは変わらない柔和な顔があって、別に悪意があって聞いたわけではないようだった。だからこそ、たちが悪いとも思う。答えなければならないのだから。

「別に、……普通でした」

 父との生活を一瞬思い出してしまった私は、体がズキズキと痛む錯覚を覚えながらも、表情には出さず、スプーンでジャガイモを潰しながら言う。少し声が震えてしまったが、祖母は「そうかい」と言っただけで、幸いさらに深く聞いてくることはなかった。
 ごちそうさまでした、と言う。「もういいのかい?」と少し驚いた様子の祖母であったが、「美味しかったです」とだけ言った私は皿を洗い場までもっていき、そのまま居間を通って自身の部屋までさっさと戻ろうとしたのだが、再度トメが声をかけてくる。

「この辺りは野良犬だとか熊が多いからね、夜に外出ちゃだめだよ」
「はい、わかりました」

 そう返事した私は、居間を離れていく。
 言われなくとも、外に出てもないもない土地で夜遊びなどしないし、たとえ外に出る気が起きたとしても暗すぎて、前も後ろも分からずすぐに帰ってきてしまうだろう。

 掃除中のままで放置された部屋に戻り電気をつけると、囲炉裏のせいだろうか、居間にいたときよりも寒い気がしたが、戻ってストーブなどを借りてくる時期でもなかったし、そんなことよりも興味が向く対象があった私は、箒をはく方とは反対側で持って、机と箪笥の間に入れる。

 ガサガサとひっかいていると、何かが当たる感触がして、慎重に引き寄せていく。
 隙間から取り出すと、大量の埃が宙を舞って、私はケホケホと軽くせき込みながら、何が挟まっていたのかを見る。
 埃の塊と化していたものを、手に取って真っ白な埃を手で払うとどうやら、手帳のようだった。私はすぐに中を開いてみる。

 この手帳の持ち主は西園寺さいおんじ冴子さえこというらしい。たぶん、元のこの部屋の持ち主のことだろう。人のもので多少罪悪感があったものの、好奇心には勝てなかった私は、中身を少し開いてみる。

「――『藤咲村の三伝説』……?」

 この村に伝説があるなど聞いたことがない。どうやら、西園寺冴子はこの三伝説とやらを題材に小説を書こうとしていたようだ。手帳のメモ欄には大量の殴り書きがしてある。

『白銀妖狐』
『森奥の魔女』

 三伝説と言いながら、手帳の中にはその二つしか書かれていなかった。手帳のメモ欄が終わっていたので、別の場所に書いたのかもしれないが。
 まず、『白銀妖狐』というのは、名前の通り白銀の毛並みを持つ化け狐で、よく可憐な少女に化けて人を騙して森へ誘い込み、人を食べているのだとか。昔話にあるような話であった。

 一方で、『森奥の魔女』の方は少々メルヘンチックだ。これも名前の通り森の奥に住んでいる魔女なのだが、普通の日とは会えない。その人物の長い人生の中で最も大きな問題を抱えているときだけ、森の未知が開かれ、魔女の元へと行けるのだという。

 どちらの伝説も都会暮らしが長かった私にとっては信じられるものではなかったが、自然と引き付けるものがあったことは事実だ。まあ、もしかしたら、この二つの話は西園寺冴子が考えたものなのかもしれないのだが。
 少なくとも私は男じゃないので妖艶な魅力を持つ狐には絶対に騙されないだろうし、大きな問題を抱えているわけでもないので魔女に会うこともないだろう。
 本来なら安堵するようなことかもしれないが、私は少し残念に思った。

 伝説の事、祖母なら何か知っているだろうか。明日訊いてみることにしよう。
 フクロウや鈴虫の鳴く声を聴きながら私は手帳をそっと机の引き出しの中にしまってから、ベッドにダイブし、私はそのままいつの間にか眠ってしまったのだった。



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