JKは俺の嫁

ノベルバユーザー91028

〈番外〉 puppy

とある休日。
犬を拾った。


久しぶりに何の予定もない休みの日。
せっかくだからと理央を散歩に誘い、よく晴れていたのでそれならピクニックにでも行こう、とお弁当を持って近所の公園まで出かけた、その帰り道。


マンションのエントランス前。
汚れたボロっちいダンボール箱に、分かりやすく「拾ってください」とある。
ふわふわと柔らかな体毛は綺麗なキャラメル色、きっと撫でたらさぞかし気持ち良いだろう。雑種だろうか、動物に詳しくないので犬種は分からない。
けれど栄養が足りていないのか、微かに聞こえる呼吸音は弱々しい。
……まだ仔犬だ。生まれてどれくらい経つのだろう、目もはっきりと開いていない。きっととても愛らしい瞳をしているだろうに。
「ヒロくん、私この子飼いたい!……だってほっとけないもん。ねぇ、お願い」
涙目で言い募る理央の気持ちは痛いほど分かる。でもウチはペット禁止だ。果たして大家さんが許してくれるかどうか。


ぐったりと元気のない仔犬を抱き抱えたまま、二人で大家さんの住む部屋に向かう。ピンポーン、と玄関チャイムを鳴らすと、エプロン姿の気の良さそうなおばちゃんが出てきた。
彼女が大家の「度会 滋美わたらいしげみ」さんである。
「……え?仔犬?あらあらあらぁ〜かわいらしいわねぇ!まぁまぁ、まだこんなに小さい子を捨てるなんて、酷い飼い主もいたものねぇ。……んー、そうねぇ。許可を出してあげたいのは山々なのだけど、やっぱり他の皆さんとの兼ね合いもあるし。だから、この子の里親が見つかるまでなら大丈夫よ。もし見つからないなら私が引き取るわ」


そして。たまたま拾ったこの仔犬–––––「パピー」はウチの子になった。


パピーはとても良い子だった。無駄吠えもしないし、何よりかわいい。
俺が仕事から帰ってくると、パタパタ駆け寄りクゥンと鳴いてお出迎えしてくれる。その時に見つめてくる視線といったら!つぶらな瞳がウルウルと見上げ、抱っこしてとおねだりしてくる度についつい構ってしまう。
ああそうだとも、親バカ主人で悪いか。
だって、こいつは生まれて間もなく飼い主に捨てられたんだ。そりゃあ構いたくもなるだろうが。
飼いたいと言い出したのは理央だが、結局夢中になったのは俺の方である。そこ、チョロいとか言うな。自分でもさすがに自覚している。
いや、俺にとって一番可愛いのはもちろん奥さんだけども。
そういうのとは別種のかわいさだ。なんていうか、愛くるしい。子どもができたらこんなかな、とか思ってみたり。もちろん、仔犬と人間の子どもはずいぶん違うのだけれど。
拾ったその日に獣医さんに診てもらい、二人で色んな説明を受けた。例えば餌のやり方とか。お互い、実家で動物を飼った経験がなく、何もかも手探りのところから世話をする羽目になった。
それでも赤ちゃんに比べたらラクな方だと理央は言う。彼女には年の離れた弟がおり、彼が幼かった頃は理央が面倒を見ていたのだという。俺も会ったことがあるが、あの生意気なクソガキにもあどけない時代があったのか……。
「もう!ひとの弟に『クソガキ』はないでしょー?礼央れおはとっても良い子なんだから!」
きりりと柳眉を吊り上げる理央は、紛うとなきブラコンである。ちなみに、彼女の実家に行くと俺は全く構ってもらえない。奥さんはずっと礼央あんちくしょうの傍に張り付いて離れないからだ。……ちぇっ。理央は俺のものなのに。


さて。
パピーはすくすく育っていった。そりゃあもう目を瞠るスピードで。仔犬はどれも成長が早いものなのだろうか。なにせ経験がないから分からない。
ただ、初めて会ったときは手の平に乗るくらい小さかった子が、ずんずん大きく育つのは純粋に嬉しい。拾えて良かったと心底思う。
もしもあのとき見つけていなかったら。あの子はあのまま死んでしまっていたのだろうか。それとも、他の人に拾ってもらえていたかもしれないけれど。
どうにも朝は弱くて、昔から早起きが大の苦手だった。今は朝ごはんを作る理央よりも早く目が覚める。
朝、パピーを散歩に連れていくのは俺の担当だ。リードを付け、抱っこしたまま階下に降り、通りかかるご近所さんに挨拶してからいつもの散歩ルートを回る。滋美さんが丁寧に説明してくれたお陰で、同じマンションの住人達はある程度の事情を把握してくれている。だからいちいち咎めてくる人もいない。ありがたいことである。



こうしてパピーを飼うようになってから、もうすぐ数ヶ月が経つ。
そんなある日。
事件は起きた。


「いないの……!パピーが、あの子がどこにも!ねぇ、どうしたらいいの?」
始まりは、恐慌を起こした理央の言葉。血の気の失せた真っ青な顔、痙攣したかの如く全身を震わせ、彼女は俺の胸ぐらを掴む。虚ろに彷徨う眼は力がなく、一体どこを見ているのかさえ分からない。
「落ち着け!理央、落ち着けって。最後にあの子を見たのは何処だった?焦るな、まだ大丈夫だから」
まるで子どもにするみたいに背中を優しくさする。そっと頭を撫でて抱きしめると、理央はさっきよりも落ち着いた様子であらましを語り始めた。
「あのね、お昼にお散歩へ連れていったときのことなの……」


散歩の時間とルートは、いつもだいたい同じだ。基本的にはマンションから公園までのコースを歩いている。人間にとっては大した距離ではなく、おそらく五百メートル程度だ。
時間にして七、八分くらいの道のりをゆっくりと進む。この日もそれは変えていなかったのだという。
ただ、一つだけ例外があった。
辿り着いた公園で遊んでいた子ども達に誘われ、ご近所同士ということもあり一緒に遊んであげたのだそうだ。
そして、事件は起きた。
時間にして三十分ほど。その間パピーは公園のベンチに繋いでおき、鬼ごっこやかくれんぼにのってあげたあと、そろそろ帰ろうとパピーのもとに近づき–––––、理央は気付いた。


パピーが、いない。
リードだけがぽつんと残され、持ち主であるはずのパピーだけが忽然と消えてしまった。
一瞬で状況を悟った彼女は、すぐさま周囲を探したが見つけられなかった。そして、理央はその時に気付いてしまったことがあるという。
「あのとき、子ども達はいなかった。私がパピーの不在を知ったときには。だから、考えたくないけれど多分、あの子達はパピーの連れ去りに少なからず関わっていると思うの」
「連れ去り」だと彼女は断言した。つまり、パピーが勝手にいなくなったのではないと。誰かが。人為的に。
–––––あの子パピーを拐かしたのだ、と。
「許さない……!もしもあの子を傷つけたとしたら。私があの子と同じ痛みを味あわせてやるッ!」
「落ち着け。頼むから落ち着いてくれ。お前が本気を出して殴ったら死んでしまう。パピーを攫うようなクズのために、理央が苦しむ必要なんてないだろ」
うわあああああ、と理央は泣き出した。まるで、お腹の中身を丸ごと吐き出してしまうかのような慟哭だった。
子どもを作るわけにはいかないと思い込んでいる彼女にとって、パピーはもう自分の子どもも同然の存在だったのだろう。俺にとってもパピーはとても大切で、共に過ごした時間は短いけれど、もうひとりの家族になりつつあって。
いつの間にか、欠かせない存在になっていたんだ。


だから。
真相が発覚したそのときには、思わず張り手を食らわしそうになってしまったけれど。……相手はまだ子どもだっていうのにな。



「ごめんなさいっっ!!ほんとに、ごめんなさい……。私、こんな大事になると思わなくて……」
事態が動いたのは意外に早く、その日の夕方だった。
俺達が悲嘆に暮れていたとき、ピンポーンとチャイム音が鳴り響いた。
泣き腫らした顔の理央を表に出すわけにはいかず、俺が玄関のドアを開けるとそこには、一人の女の子が立っていた。
小学校中学年だろうか。それよりもっと下に見えるくらい幼げな顔立ちで、小柄な背丈にほっそりした身体つきだ。ワンピースを着たその少女は、なんとパピーを抱えている。
–––––一瞬、全身の血液が沸騰しそうになった。
けれどこんな小さな子どもに怒鳴ったところで仕方ないと、無理矢理に感情を押さえ込み、努めて優しい声を出す。
「……どうしたのかな?こんな時間に。あと、その仔犬は……」
女の子は瞳にいっぱいの涙を溜めながら何度も何度も頭を下げた。
「あのっ、この仔犬は私が飼っている犬が産んだ子なんです。でも、多頭飼いをお母さんに許してもらえなくて。粘ったけれど、捨てるしかなくて……。でも、やっぱり諦めきれなくて、もう一度お願いしようと思って探していたんです。そうしたらココのお姉さんが飼ってるって聞いて、散歩のときに取り戻そうって決めて……。友達にも協力してもらって、お姉さんが見てない隙に連れ帰ったんですけど、あとから友達がお姉さんがすごい探してたって教えてくれて、ヤバイって思って、謝りに来ました。あのっ、ほんとにごめんなさい……」
悪気があってしたことではないのは分かっている。でも、心が狭い俺にはどうにも許してあげられそうになかった。
「……それなら。あのお姉さんに直接謝ってあげて。一番傷付いたのは、あいつだから」
背後で様子を窺っていた彼女の手をそっと優しく引く。前に連れ出された理央はパチパチと目を瞬かせていけれど、仔犬を抱く少女を見るや一切の表情を消し去った。元より白い面立ちが、紙のように白く染まる。
「……おねがい。その子、大事にしてあげてね。私達では、いつまでも飼ってあげられないから……」
悲愴な声。力はなく、今にも搔き消えそうにか細く弱い。
「はい……。お姉さん、ほんとにほんとにごめんなさい。私、お姉さんの気持ちをちゃんと考えてませんでした。お姉さんはすごくこの子を大切にして、名前を付けていたのに……。もう、ぜったい捨てません。ずっと大切に育てます」


とぼとぼと立ち去っていく小さな後ろ姿をいつまでも眺め、理央はポツリとこぼす。その声音があまりにも儚く、寂しそうだったから。俺は、彼女に返す言葉が持てなかった。
「ねぇ、ヒロくん。いつまでこうしていればいいんだろうね。ねぇ、ほんとに私達は『夫婦』なのかな……」


いつか。この恋が赦されるときが来るのだろうか。
彼女の哀しみを止めてあげたいと願うけれど、俺はあまりにも無力だった。



もしも、神さまがいるのなら。
どうか、彼女の心をすくってほしい。

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