亡国の剣姫
参拾、破断剣・ヴァールハイト(上)
十歩の間合い。
それがシオンに与えられた、ほんのわずかな猶予であった。
体格も剣風も何もかも違う剣客がふたり、一直線に彼我の距離を縮めていく。
────疾い。
シオンはそう思わざるを得なかった。
ルクスの体格は端的にいって恵まれたもの。少なくともシオンとは比べるべくもない。
その大柄な肉体を勘案してみれば、彼の俊敏さは、まさに破格といえるだろう。
シオンの速度に決して勝るとも劣らない。
7フィートにも及ぶ大質量の"魔剣"を手にした上でそれなのだ。
その体躯と大剣からなる間合いは無論、シオンの間合いよりはるかに広い。
必然。
先の先から斬りかかったのはルクス・ファーライトのほうだった。
「オォ……ッ!!」
刧。
大気を揺るがし、風を巻き上げ、"魔剣"の一閃が振り放たれる。
"破断剣・ヴァールハイト"──その異様たるや、ほとんど壁が迫り来るようなもの。
まともに受ければ即座に死ぬ。
目にしただけでそう確信させるものが、ルクスの剣影にはあった。
「……く」
シオンは足を擦るように後退り、ルクスと半歩の距離を取る。
刹那、"妖剣・月白"の半ばでルクスの一閃を斜めに受ける。
────受け止めきれない。
「……ッ!!」
ぎしり。
と、にわかに全身の骨が悲鳴を上げた。
刃が悲鳴のように火花を散らす。
それでも、柄を握る手を離しはしない。
シオンは大剣の刃に沿って刀身を滑らせ、骨をやられるより疾く身を逃す。
受け流した、というよりは──
苦し紛れというべきだろう。
一合。
たった一合を交わしただけで、命からがら生き延びたような有り様。
しかしそれほどまでに────ルクスの剣は、あまりに、重かった。
「……オ、ォ」
感慨をにじませるようにルクスはちいさく慨嘆する────
否、とシオンは首を振る。
錯覚。
あるいはただの感傷だ。
感傷に浸る余裕など無い。
なにせルクスの剣閃に、手抜かりは微塵も見当たらなかったのだから。
質量。重量。疾さ。
そしてルクス自身の恵まれた体躯からなる圧倒的な膂力。
その全てからなる全力の剣撃の重みは、シオンを三度殺して余りある。
例え少女の腰の力──あるいは全身の力を傾注しようと、真っ向から拮抗させるには無理があるのだ。
そもそもの話。
シオンとルクスの剣術は、全く異なる剣理を内包している。
シオンのそれが、柔よく剛を制する剣であれば──
ルクスのそれは、剛よく柔を断つ剣にほかならない。
ゆえに、シオンの剣よりルクスの剣が重いのは、至極当然のことだった。
────が。
「……っ、は」
これは、あまりに、
────重すぎる。
いまだに痺れが残る左腕を投げ出し、シオンは右腕だけで剣を取る。
速度、質量、重量──そして膂力。
元よりシオンはそれらを全て見極めたうえで、受け流そうとしたはずだった。
にも関わらず、ルクスの剣の威力は、シオンの見立てを遥かに上回っている。
見誤ったとは思わない。
ルクスより遥かに巨大な"結束剣・グランガオン"相手にも、そんな失敗は犯さなかった。
無理なものは無理だと、確かに判じられたはずなのだ。
「……ッ……」
続けざまの斬り上げをシオンは後ろに飛び退って避ける。
すぐさま"妖剣・月白"を掲げ、剣身が胸の前を横切る構えを取った。
"閂"の型。
「オオッッ!!」
瞬間、頭の上から凄まじい勢いで振り落とされる大剣──"破断剣・ヴァールハイト"。
おそらく、とシオンは考える。
シオンの読みを外させたのは、その"魔剣"の力に因むものだろう。
でなければ、剣撃の不可解な"重さ"に説明がつかない。
まずは、それを確かめる必要がある。
一閃の出鼻を打つことで大剣を捌き、シオンは一歩後ろに退く。
"魔剣"の正体を見極めるまで、よもや迂闊に踏みこむわけにはいかない。
「下では随分と暴れ回ってくれたようですが、防戦一方ではありませんか。もはや我々が心配する必要もありませんな」
「バルザックよ。死兵の生産に支障はないのだな?」
「無論でございますぞ。この"魔剣"が我らの手に限り、計画に問題は起こりえませぬ。建物に少々の被害が出たようですが、修復作業に死兵を動員すれば追っつきましょう。何も憂慮することはありませぬ。後は、あの娘を殺しさえすれば全ては片付くこと」
「ならば、私は彼奴の死をここで見届けることとしよう。あの男の係累が、ついに死に絶えるのだ────あの男の手によってな。これほど愉快なことはない」
幾ばくか余裕を取り戻したトラスは後方の玉座で笑みを浮かべる。
それに気を払えるほど今のシオンは暇ではない。
びゅんと眼前を払う大剣を避け、シオンはまた一歩飛び退る。ルクスと三歩の距離を取る。
それはほとんど無きにも等しい距離だった。
間合いが一瞬にして侵略される────"縮地"の型。
シオンのそれより老練の"型"が、淀みなくすべらかに解き放たれる。
ルクスは大剣の重量をものともしない。
膂力のみとは思えぬほどに、悠々と巨大な"魔剣"を取り回す。
純粋な速度ではやはり、シオンには劣る。だが威圧感と迫力ではシオンを遥かに上回っている。
ルクスほどの恵まれた体躯──そして剣腕の持ち主が、疾風のように襲いかかってくるのである。
それはもはや、重騎兵や戦車をも凌駕する破滅的な脅威と言えるだろう。
「オオオオォォォォ────ッ!!!!」
刧。
振り落とされる最上段からの一閃を、シオンは紙一重で横に避けた。
剣先が床に叩きつけられ、白亜の瓦礫が撒き散らされる。
瞬間、シオンはふと違和感を覚える。
────……重い。
吹き荒ぶ剣風に黒髪を巻き上げられる最中、シオンはそれを確かに感覚した。
ルクスの一撃が、重かったのではない。
ほんの一瞬、自分自身の身体を重く感じたのである。
「……これ、は」
尋常であれば気づきもしない。
それほどに些細な違和感だが、シオンはそれを見逃さなかった。
掴んだ手応えを確かめるように、連続するルクスの剣光に身を晒す。
わずかな一歩を飛び退り、シオンは分厚い刃をすんでで避けた。
刃は先ほどよりもなお近い。
寸止めにも等しいぎりぎりでの回避。
刃を掠めた前髪が散り、はらはらと花弁のように地に落ちる。
やはり、とシオンは思考する。
幅広の刃がシオンと交錯する刹那──ごく僅かに、身体の重みが増すような感覚があったのだ。
おそらく、それは意図したものではない。
自在に行使できるのならば、今すぐにでもシオンの重さを数倍にするはずだ。
そうすればシオンは脚を引きずるようにしか動けなくなる──為す術もなく死ぬしかない。
だが、ルクスはそうはしなかった。
「いや」
眼前を吹き抜けていく刃を前にして身を躱す。
あまりに疾く、あまりにも重い。
一瞬、身体が重くなるような感覚は依然としてある。
反撃の糸口はいまだに見えもしない。
────だが、手がかりはあった。
「……できないんだ」
いわばそれは、"破断剣・ヴァールハイト"の副産物。
"魔剣"の余波とでも言うべきもの。
シオンの体重を自在に操作するような離れ業はできないし、外界への干渉もわずかに留まる。
────ならば、どこまでは正常に作用しているのか。
「オオオオオッッ!!!!」
ルクスの咆哮はどこか歓喜に似る。
死してなお、剣を振るえることに喜びを覚えているかのような。
"武断王"。
実に、呆れた男だった。
実父ながら────実に。
「弑ィッ!!」
斜めに落とされる刃に向かい、シオンは叩きつけるように一閃する。
瞬く剣光。
翻る剣影。
相互、剛毅と強靭────対照的なふたりの刃が激突する。
そして衝撃を感じた瞬間、シオンは反動とともに後ろに飛び退った。
前もってそうすると決めていたのである。
まともに拮抗するのが不可能であれば、相手の力を利用するのが道理。
ルクスほどの使い手であればそれすら難しいが──可能であるならばやるしかない。
「……オォ」
同時、ルクスは静かに刃を引く。
その動作はひどく人間的だった。
シオンの機微をしかと見極め、一拍の間を置くにも似る。
かつて過ぎ去ったありし日に──
倒れたシオンが立ち上がるのを、黙して待っていた師のように。
「……は」
呼息。
それしきのことではもう、シオンの心は乱れなかった。
今の交錯で、更なる手がかりを得ていたからだ。
「────だいたい、わかった」
互いの刃が重なりあう瞬間。
シオンが感じたのは、常のごとく腕にかかる"魔剣"の重み。
"妖剣・月白"の重量がわずかに増したような感覚であった。
それゆえにこそ、シオンは"破断剣・ヴァールハイト"とまともに撃ち合えたのだろう。
然るに、とシオンは結論付ける。
────"重力如意"。
重力。すなわち物体の重さ。ひいてはその物体が地面に引っ張られる力のこと。
おそらく、という前置きこそあれど。
"破断剣・ヴァールハイト"は────その重力を、ある程度まで自在に操ることができるのだ。
魔剣自身にかかる重力、あるいはごく狭い周辺のみ、という縛りはあるのだろうが。
そう考えれば、ルクスの不可解な"疾さ"と"重さ"には納得がいく。
いくらルクスが尋常ではない膂力の持ち主とはいえど。
7フィートにも及ぶ大剣を、軽々と振り回せるはずがないのである。
「オオ─────」
ルクスは頷きもせず。
さりとて否定もせず、大剣を飄々と肩の上に担ぎあげた。
構える──"屋根"の型。
「……ここから、だ」
"破断剣・ヴァールハイト"の秘密は暴かれた。
だが、それだけではなんの意味もない。
低重力下による最速機動と、高重力下による最大火力。
それを知っただけでは、シオンはただ潰されるのを待つしかない。
そうならないためには──なんとしてでも、有効な打開策を編み出さなければならない。
「……っ、ふ」
ちいさく息を吸い、常のごとく構えを取る。
"妖剣・月白"の剣身が胸を横切る──"閂"の型。
そして再び、シオンとルクスは真っ向から相対する。
先に仕掛けたのは、やはりルクスのほうだった。
「────オォォォォッッ!!!!」
刧。
爪先が床を砕かんばかりに蹴り抜き、男の老躯が疾駆する──"縮地"の型。
開いた間合いを零にして、ルクスは鮮やかな円弧を描く。
斬り下ろしからの薙ぎ払い。
深い踏みこみからの一閃はシオンが逃れるのを許さない。
巨大な刃も相まって、まともに受けるのを良しともしない。
許す限りの最高重力下による最大火力。
圧倒的な威をまとう剣光が過ぎり、シオンの影を斬り裂いていく。
その間、コンマ一秒にも満たない刹那、シオンは懸命に考える。
魔剣の力は見破った──それに自分が打てる手はないか。
そして、考えるのをやめた。
シオンはすべるように飛び退り、赤い絨毯に地を付ける。
しなやかな足首が躍動し、着地の反動を転じて足裏を跳ねさせる──"飛鳥"の型。
「……は」
──結局、私にはこれしかない。
目の前の男にさんざん叩きこまれた、剣の他には何もない。
足裏が半ば浮き上がり、爪先が床を蹴り飛ばす──"縮地"の型。
そして"放たれた矢"のごとく、"破断剣・ヴァールハイト"の軌跡を追って疾駆する。
ルクスはすでに刃を振り切った後。
肉迫するシオンを迎え撃つべくはない。
腰溜めに構えられた剣先が翻り、鮮やかに照り返す光の尾を引いた。
渺。
剣風を引き連れ、"妖剣・月白"が一片の迷いもない軌跡を描く。
避けて、踏みこみ、斬る。
単純極まる剣理の極致。
────秘剣・再臨剣。
その一閃が、確かにルクスの影を払う。
どれだけ疾かろうと。
どれだけ重かろうと。
つまるところ、斬れば全ては同じこと。
益体もない。
しかしそれこそが剣というもの。武芸というもの。
で、あらばこそ。
少女が瞳を眇めた先に、当然予期されたものを見る。
シオンが一閃を抜き払った刹那。
ルクスもまた一歩、刃の影を踏むように飛び退った。
「……アァ」
男は懐かしむように足裏を跳ねさせる──"飛鳥"の型。
爪先が床を蹴り、流れるように疾駆する──"縮地"の型。
長大な刃渡りの魔剣が振りかぶられ、かくてルクスは踏みこんだ。
振り放たれる一閃。
刧。
死兵の刃が唸りを上げて、シオンの矮躯に迫り来る。
紛うかたなきその銘が────
「……"秘剣・再臨剣"」
しかと、亡き男の声に詠じられる。
刹那、シオンは"妖剣・月白"を縦にかざして刃を受けた。
「……っ、ぅ……」
受けながら半ば跳ね飛ばされ、シオンは地滑りしながら接地する。
そして少なからず驚いた。
かつてシオンは、ルクスから"秘剣・再臨剣"を身をもって伝授された。
当時のシオンは為す術もなく、わけもわからぬうちにルクスの剣を叩きこまれるしかなかった。
その時、彼の動きはほとんど見えもしなかった。
だが今は違う。
確実に、今のシオンにはルクスの動きが見えている。
今のルクスは鍛錬の時のように手を抜いているわけではない。シオンを本気で殺しにかかっているに違いない。
にも関わらず、シオンには──ルクスの"秘剣"が見えていた。
真っ向からぶつかりあうには分が悪く、身軽さもシオンが有利とまではいえない。
だが、決して勝算がないわけではない。
「────唖々唖ッ!!」
そのために必要なのは、ただ一斬。
退き、踏みこみ、斬る。
自らは斬られず、敵を斬る。
極言すれば、それだけのこと。
一度で駄目ならば二度までも。
二度で駄目ならば何度でも──
シオンは"秘剣"を振り放つ。
渺。
剣光が瞬き、刀身がルクスのあとを駆け抜ける。
刃は空を切るばかり。あいにくルクスを捉えるには至らない。
「────オオオォッ!!!!」
考えることは死した剣客とてまた同じ。
あるいは、思惑などありはしないように。
飛び退って難なく"妖剣・月白"の刃から逃れ、すぐさま巨大な剣身が切り返される。
確かに飛び退ったルクスが、いつのまにか少女の目の前にいる。
そうとしか言いようのない動きが、今のシオンには確かに連続して見えた。
シオンは再び"妖剣・月白"をかざす。相食む刃が互いに噛み合い、刃鳴りを響かせ拮抗する。
次の瞬間には凄まじい重みに圧倒され──それでもシオンは生き永らえる。
ほとんど根比べのようだった。
シオンは身を引きずるように立ち、疾駆する。
退いてばかりというわけにはいかない。
扉側に追いつめられた時──その時には、避けようのない死がシオンを待っているのだから。
斬りつける"妖剣・月白"の剣先が空を切り、ルクスは後ろに飛び退る。
刹那に迫るはずのルクスを予期し、シオンは返す刀で斬り上げる。
ルクスはそれをも読み切っていた。
踏みこみからなる"秘剣・再臨剣"の一段目を空かし、中空で留め、そこから軌道を捻じ曲げる。
激突──凛と甲高い金属音を鳴り響かせて、刃が火花を散らし合う。
へし折れないのが不思議なほどに"妖剣・月白"を軋ませながら、シオンは一歩飛び退った。
「……まだ」
他に打つ手などありはしないのだから。
シオンはほとんど縋るように、妖しく輝く刃を返す。
地を蹴り、踏みこみ、斬る。
完璧な円弧を描く銀の剣光。
それでも、ルクスの護りが崩れることはない。
──刹那膠着して見えた剣戟は、そう長い間は続かなかった。
お互いに退き、踏みこみ、斬りつける。
交錯するのはほんの一瞬。
さながら剣嵐の舞踏。寄せては返す波にも似て、ふたりは必殺の"秘剣"を応酬する。
秘すべき剣などもはや無い。
ルクスはシオンの剣を知っているが、彼が死んだ後のことを知りはしない。
シオンはルクスの剣を知っているが、本気になった彼の剣を知りはしない。
改めてお互いのことを知り合うように。
幾度ともなく白刃が重なり、刃鳴が散る。
数知れぬほどに剣を合わせ、また離れる。
「……は……ッ」
その末に、シオンは狂おしく息を吐く。
言わずもがな、不利なのはシオンのほうだった。
そもそも、ルクスには疲れというものがない。死兵なのだから当然だ。
否。例え彼が生きた人間であろうと、その屈強な肉体を鑑みれば、疲労の色は薄いだろう。
かたやシオンは防戦一方。攻めかかろうとも容易くいなされ、受ければじりじりと消耗を強いられる。
疲労の気はすでに軽くなく、肌には汗が滲んでいる。
「全く、しぶとい小娘ですな。もう少し早く仕留めてもらいたいものですぞ」
後ろでバルザックがさえずるのも耳に入らない。
それを命令と判断したのかは定かではない──表面上、ルクスはなにも応えなかった。
ただ"破断剣・ヴァールハイト"を振り掲げ、シオンに向かって突き進む。
横薙ぎに抜き払う大振りの一閃。
シオンはそれを潜るように避け、身を低く返礼代わりに斬り上げた。
小手斬りの一閃。
それをルクスは軽く躱して返す刀で斬り落とす。
まともに剣身を打ち据えられる衝撃が、着実にシオンの体力を奪っていく。
息を整調しながら、シオンは静かに刃を下げた。
無形の位。
そして、深く蒼い眼差しがルクスをじっと見る。
──事ここに至って、シオンは認めざるを得なかった。
ルクス・ファーライトに"秘剣・再臨剣"は通じない。
少なくとも、今のシオンではどう足掻いても届きはしない。
「……は」
それでも、シオンは諦めなかった。
次々に振るわれるルクスの連撃を、シオンはぎりぎりのところで躱していく。
一度避けては切り返し、また避けては間髪入れず斬りつける。
その全てを、ルクスは余さず受け止めた。
────まだ。
「オォォォォォッ!!!!」
ルクスが受けた瞬間に押し返され、ほとんど力づくで押しこまれる。
シオンは刃を滑らせながら身を逃し、横から弾いて大剣を捌く。
避けることに、シオンはひたすら専念する。
「くだらん真似をする」
苛立ったようにトラスの脚が床を打つのも意に介さない。
「所詮は無駄な足掻きでございますぞ。いずれ疲れが隠し切れなくなりましょうからな。その時があの娘の最期となるのです」
バルザックが訳知り顔でいう。
確かに間違ってはいない。
だが、真実といえるほど正しいわけでもない。
その最中にもルクスの剣閃は止まらなかった。
広い間合いを薙ぎ払う斬撃が、シオンの目の前を通り抜ける。
やはりシオンは寸前で避け、ほとんど滑るように切り返した。
────まだ、足りない。
「……オォォッッ!!」
ルクスは一歩飛び退り、踏みこみ、斬る。
"秘剣・再臨剣"──幾度ともなく垣間見た連なりが、シオンに真っ向迫り来る。
刹那、シオンは前方に駆け抜けた。
一瞬トラスを視界に捉えるが、ルクスはそれに合わせてすぐに後退する。
新王、ひいては宰相の守護が優先されるということだろう。
面倒だが、予想されていたことでもある。まさか本気で人質が通じるとも思わない。
「……は」
続けざまに"破断剣・ヴァールハイト"が突き出される。
迫り来る壁のような剣身を、シオンはほとんど直角に避けた。
刃が華奢な首の真横を通り過ぎていく。同時に踏みこみ、斬りかかる。
ルクスは大剣を横滑りさせ、"妖剣・月白"を捌いてみせる。
────まだ。まだ、足りない。
「……何を考えているのかは定かではありませんがな」
さすがに、バルザックも不審に思ったのだろう。
守り一辺倒で戦いに勝てるはずもないのだから。
彼はにわかに目を細めるが、シオンの心境まではうかがえない。
よもやうかがえるはずもない。
────シオン・ファーライトは考える。
"秘剣・再臨剣"は三つの工程で構成される"魔剣"である。
退き、踏みこみ、斬る。
斬られないために退き、斬るために踏みこみ、斬る。
相手が攻撃を行ったあと、無防備なところを迅速に斬りつける。
それは単純極まりないが、それゆえに呆れるほど有効な剣理である。
だが、"秘剣・再臨剣"には大きな欠陥がある。
その欠陥を、シオンはルクスから伝え聞かされ、そのうえ身をもって味わった。
その要諦は、つまるところ退くときの動作にある。
人体の脚はその構造上、退いたあとすぐに前進するようにはできていないのだ。
その欠陥を、シオンとルクスはいうなれば技術で無理やりに克服していた。
着地の反動を活かし、爪先で地を蹴り、強引に身体を前に押し出す。
"飛鳥"の型と"縮地"の型の組み合わせ。
いかなる状況であろうともいかなる敵であろうとも斬り捨てる、"魔剣"の業としては未完成ながら──
とにもかくにも、それは"秘剣・再臨剣"として完成した。
だから、とシオンは考えるのだ。
────退く、ひいては躱す動作を極限まで縮小できたなら。
"秘剣・再臨剣"は、少なからず"魔剣"に近づくだろう。
「オ────オォォッッ!!!!」
ルクスは大上段に大剣を振りかぶり、そして一直線に振り落とした。
鮮やかな弧を描いて刃が落ちる。
刧。
後から剣風が吹き荒び、シオンの黒髪を風になびかせる。
色濃い血臭をくゆらせながら、シオンは脚を滑らせた。
一歩ではない。脚を擦り、最低限度の動きで一閃を躱したのだ。
そしてすぐさま"妖剣・月白"を斬り下ろす。
踏みこみは浅く勢いも欠いているが、切り返しの疾さは目を瞠るに値するだろう。
「……グ」
瞬間。
ルクスははじめて、ほんのかすかな呻きを漏らした。
刃は届きこそしない。"破断剣・ヴァールハイト"の切っ先が跳ね上がり、刀身をかち上げて打ち払う。
────まだ、まだ足りないならば、まだ。
まだ、無駄がある。まだ、疾くできる。
まだ、"魔剣"には程遠い。
「なにを狼狽えることがある、バルザック。心配することなどないではないか。ククッ、見ろ。私の臣下が、実によくやっているではないか────」
悪足掻きをしているようにしか見えない少女を見て、トラスはひとりせせら笑う。
まだ、見ているふたりは気づかない。
直に剣を交わすふたりだけが、そのことに薄々気づいている。
────"魔剣"胎動。
「オオオォォォッッ!!!!」
ルクスは恐れを振り払うように、一歩退いた。
その次の瞬間、鋭く抉るように間合いを詰め、彼我の距離を埋めつくす。
刧。
瞬く剣光が横に薙ぎ、続く反撃を予期して返す刀で逆向きに払い抜く。
対するシオンに小細工はない。
脚を後ろに滑らせて横薙ぎを避け、二段目も愚直に寸前を見切って躱す。
ほとんど黒地の羽織が断たれるほどに、"退く"動作が縮小される。無駄な挙動が切り詰められる。
応じて、すぐさま"妖剣・月白"を足元近くから跳ね上げる。
ルクスは横向きにかざした"破断剣・ヴァールハイト"で受け、華奢な刀身を打ち払った。
「……は」
シオンは圧されながら十歩の距離を開いて足を止め、残心。
「……アァ」
ふたりは同時に剣身を掲げ、胸の前を横切る構えをとった。
"閂"の型。
そして即座に迫る一閃──肩から腰にかけてを抜ける斬り下ろし。
ルクスも疾さを増したかのよう。おそらくは、重力操作を軽量化に傾けたのだろう。
そうすれば当然威力は下がるが、代わりに速度は向上するはずだ。
本当に当たるか当たらないかのところで大剣を避けながら、シオンは思う。
────まだ。
────まだ、足りない。
それがシオンに与えられた、ほんのわずかな猶予であった。
体格も剣風も何もかも違う剣客がふたり、一直線に彼我の距離を縮めていく。
────疾い。
シオンはそう思わざるを得なかった。
ルクスの体格は端的にいって恵まれたもの。少なくともシオンとは比べるべくもない。
その大柄な肉体を勘案してみれば、彼の俊敏さは、まさに破格といえるだろう。
シオンの速度に決して勝るとも劣らない。
7フィートにも及ぶ大質量の"魔剣"を手にした上でそれなのだ。
その体躯と大剣からなる間合いは無論、シオンの間合いよりはるかに広い。
必然。
先の先から斬りかかったのはルクス・ファーライトのほうだった。
「オォ……ッ!!」
刧。
大気を揺るがし、風を巻き上げ、"魔剣"の一閃が振り放たれる。
"破断剣・ヴァールハイト"──その異様たるや、ほとんど壁が迫り来るようなもの。
まともに受ければ即座に死ぬ。
目にしただけでそう確信させるものが、ルクスの剣影にはあった。
「……く」
シオンは足を擦るように後退り、ルクスと半歩の距離を取る。
刹那、"妖剣・月白"の半ばでルクスの一閃を斜めに受ける。
────受け止めきれない。
「……ッ!!」
ぎしり。
と、にわかに全身の骨が悲鳴を上げた。
刃が悲鳴のように火花を散らす。
それでも、柄を握る手を離しはしない。
シオンは大剣の刃に沿って刀身を滑らせ、骨をやられるより疾く身を逃す。
受け流した、というよりは──
苦し紛れというべきだろう。
一合。
たった一合を交わしただけで、命からがら生き延びたような有り様。
しかしそれほどまでに────ルクスの剣は、あまりに、重かった。
「……オ、ォ」
感慨をにじませるようにルクスはちいさく慨嘆する────
否、とシオンは首を振る。
錯覚。
あるいはただの感傷だ。
感傷に浸る余裕など無い。
なにせルクスの剣閃に、手抜かりは微塵も見当たらなかったのだから。
質量。重量。疾さ。
そしてルクス自身の恵まれた体躯からなる圧倒的な膂力。
その全てからなる全力の剣撃の重みは、シオンを三度殺して余りある。
例え少女の腰の力──あるいは全身の力を傾注しようと、真っ向から拮抗させるには無理があるのだ。
そもそもの話。
シオンとルクスの剣術は、全く異なる剣理を内包している。
シオンのそれが、柔よく剛を制する剣であれば──
ルクスのそれは、剛よく柔を断つ剣にほかならない。
ゆえに、シオンの剣よりルクスの剣が重いのは、至極当然のことだった。
────が。
「……っ、は」
これは、あまりに、
────重すぎる。
いまだに痺れが残る左腕を投げ出し、シオンは右腕だけで剣を取る。
速度、質量、重量──そして膂力。
元よりシオンはそれらを全て見極めたうえで、受け流そうとしたはずだった。
にも関わらず、ルクスの剣の威力は、シオンの見立てを遥かに上回っている。
見誤ったとは思わない。
ルクスより遥かに巨大な"結束剣・グランガオン"相手にも、そんな失敗は犯さなかった。
無理なものは無理だと、確かに判じられたはずなのだ。
「……ッ……」
続けざまの斬り上げをシオンは後ろに飛び退って避ける。
すぐさま"妖剣・月白"を掲げ、剣身が胸の前を横切る構えを取った。
"閂"の型。
「オオッッ!!」
瞬間、頭の上から凄まじい勢いで振り落とされる大剣──"破断剣・ヴァールハイト"。
おそらく、とシオンは考える。
シオンの読みを外させたのは、その"魔剣"の力に因むものだろう。
でなければ、剣撃の不可解な"重さ"に説明がつかない。
まずは、それを確かめる必要がある。
一閃の出鼻を打つことで大剣を捌き、シオンは一歩後ろに退く。
"魔剣"の正体を見極めるまで、よもや迂闊に踏みこむわけにはいかない。
「下では随分と暴れ回ってくれたようですが、防戦一方ではありませんか。もはや我々が心配する必要もありませんな」
「バルザックよ。死兵の生産に支障はないのだな?」
「無論でございますぞ。この"魔剣"が我らの手に限り、計画に問題は起こりえませぬ。建物に少々の被害が出たようですが、修復作業に死兵を動員すれば追っつきましょう。何も憂慮することはありませぬ。後は、あの娘を殺しさえすれば全ては片付くこと」
「ならば、私は彼奴の死をここで見届けることとしよう。あの男の係累が、ついに死に絶えるのだ────あの男の手によってな。これほど愉快なことはない」
幾ばくか余裕を取り戻したトラスは後方の玉座で笑みを浮かべる。
それに気を払えるほど今のシオンは暇ではない。
びゅんと眼前を払う大剣を避け、シオンはまた一歩飛び退る。ルクスと三歩の距離を取る。
それはほとんど無きにも等しい距離だった。
間合いが一瞬にして侵略される────"縮地"の型。
シオンのそれより老練の"型"が、淀みなくすべらかに解き放たれる。
ルクスは大剣の重量をものともしない。
膂力のみとは思えぬほどに、悠々と巨大な"魔剣"を取り回す。
純粋な速度ではやはり、シオンには劣る。だが威圧感と迫力ではシオンを遥かに上回っている。
ルクスほどの恵まれた体躯──そして剣腕の持ち主が、疾風のように襲いかかってくるのである。
それはもはや、重騎兵や戦車をも凌駕する破滅的な脅威と言えるだろう。
「オオオオォォォォ────ッ!!!!」
刧。
振り落とされる最上段からの一閃を、シオンは紙一重で横に避けた。
剣先が床に叩きつけられ、白亜の瓦礫が撒き散らされる。
瞬間、シオンはふと違和感を覚える。
────……重い。
吹き荒ぶ剣風に黒髪を巻き上げられる最中、シオンはそれを確かに感覚した。
ルクスの一撃が、重かったのではない。
ほんの一瞬、自分自身の身体を重く感じたのである。
「……これ、は」
尋常であれば気づきもしない。
それほどに些細な違和感だが、シオンはそれを見逃さなかった。
掴んだ手応えを確かめるように、連続するルクスの剣光に身を晒す。
わずかな一歩を飛び退り、シオンは分厚い刃をすんでで避けた。
刃は先ほどよりもなお近い。
寸止めにも等しいぎりぎりでの回避。
刃を掠めた前髪が散り、はらはらと花弁のように地に落ちる。
やはり、とシオンは思考する。
幅広の刃がシオンと交錯する刹那──ごく僅かに、身体の重みが増すような感覚があったのだ。
おそらく、それは意図したものではない。
自在に行使できるのならば、今すぐにでもシオンの重さを数倍にするはずだ。
そうすればシオンは脚を引きずるようにしか動けなくなる──為す術もなく死ぬしかない。
だが、ルクスはそうはしなかった。
「いや」
眼前を吹き抜けていく刃を前にして身を躱す。
あまりに疾く、あまりにも重い。
一瞬、身体が重くなるような感覚は依然としてある。
反撃の糸口はいまだに見えもしない。
────だが、手がかりはあった。
「……できないんだ」
いわばそれは、"破断剣・ヴァールハイト"の副産物。
"魔剣"の余波とでも言うべきもの。
シオンの体重を自在に操作するような離れ業はできないし、外界への干渉もわずかに留まる。
────ならば、どこまでは正常に作用しているのか。
「オオオオオッッ!!!!」
ルクスの咆哮はどこか歓喜に似る。
死してなお、剣を振るえることに喜びを覚えているかのような。
"武断王"。
実に、呆れた男だった。
実父ながら────実に。
「弑ィッ!!」
斜めに落とされる刃に向かい、シオンは叩きつけるように一閃する。
瞬く剣光。
翻る剣影。
相互、剛毅と強靭────対照的なふたりの刃が激突する。
そして衝撃を感じた瞬間、シオンは反動とともに後ろに飛び退った。
前もってそうすると決めていたのである。
まともに拮抗するのが不可能であれば、相手の力を利用するのが道理。
ルクスほどの使い手であればそれすら難しいが──可能であるならばやるしかない。
「……オォ」
同時、ルクスは静かに刃を引く。
その動作はひどく人間的だった。
シオンの機微をしかと見極め、一拍の間を置くにも似る。
かつて過ぎ去ったありし日に──
倒れたシオンが立ち上がるのを、黙して待っていた師のように。
「……は」
呼息。
それしきのことではもう、シオンの心は乱れなかった。
今の交錯で、更なる手がかりを得ていたからだ。
「────だいたい、わかった」
互いの刃が重なりあう瞬間。
シオンが感じたのは、常のごとく腕にかかる"魔剣"の重み。
"妖剣・月白"の重量がわずかに増したような感覚であった。
それゆえにこそ、シオンは"破断剣・ヴァールハイト"とまともに撃ち合えたのだろう。
然るに、とシオンは結論付ける。
────"重力如意"。
重力。すなわち物体の重さ。ひいてはその物体が地面に引っ張られる力のこと。
おそらく、という前置きこそあれど。
"破断剣・ヴァールハイト"は────その重力を、ある程度まで自在に操ることができるのだ。
魔剣自身にかかる重力、あるいはごく狭い周辺のみ、という縛りはあるのだろうが。
そう考えれば、ルクスの不可解な"疾さ"と"重さ"には納得がいく。
いくらルクスが尋常ではない膂力の持ち主とはいえど。
7フィートにも及ぶ大剣を、軽々と振り回せるはずがないのである。
「オオ─────」
ルクスは頷きもせず。
さりとて否定もせず、大剣を飄々と肩の上に担ぎあげた。
構える──"屋根"の型。
「……ここから、だ」
"破断剣・ヴァールハイト"の秘密は暴かれた。
だが、それだけではなんの意味もない。
低重力下による最速機動と、高重力下による最大火力。
それを知っただけでは、シオンはただ潰されるのを待つしかない。
そうならないためには──なんとしてでも、有効な打開策を編み出さなければならない。
「……っ、ふ」
ちいさく息を吸い、常のごとく構えを取る。
"妖剣・月白"の剣身が胸を横切る──"閂"の型。
そして再び、シオンとルクスは真っ向から相対する。
先に仕掛けたのは、やはりルクスのほうだった。
「────オォォォォッッ!!!!」
刧。
爪先が床を砕かんばかりに蹴り抜き、男の老躯が疾駆する──"縮地"の型。
開いた間合いを零にして、ルクスは鮮やかな円弧を描く。
斬り下ろしからの薙ぎ払い。
深い踏みこみからの一閃はシオンが逃れるのを許さない。
巨大な刃も相まって、まともに受けるのを良しともしない。
許す限りの最高重力下による最大火力。
圧倒的な威をまとう剣光が過ぎり、シオンの影を斬り裂いていく。
その間、コンマ一秒にも満たない刹那、シオンは懸命に考える。
魔剣の力は見破った──それに自分が打てる手はないか。
そして、考えるのをやめた。
シオンはすべるように飛び退り、赤い絨毯に地を付ける。
しなやかな足首が躍動し、着地の反動を転じて足裏を跳ねさせる──"飛鳥"の型。
「……は」
──結局、私にはこれしかない。
目の前の男にさんざん叩きこまれた、剣の他には何もない。
足裏が半ば浮き上がり、爪先が床を蹴り飛ばす──"縮地"の型。
そして"放たれた矢"のごとく、"破断剣・ヴァールハイト"の軌跡を追って疾駆する。
ルクスはすでに刃を振り切った後。
肉迫するシオンを迎え撃つべくはない。
腰溜めに構えられた剣先が翻り、鮮やかに照り返す光の尾を引いた。
渺。
剣風を引き連れ、"妖剣・月白"が一片の迷いもない軌跡を描く。
避けて、踏みこみ、斬る。
単純極まる剣理の極致。
────秘剣・再臨剣。
その一閃が、確かにルクスの影を払う。
どれだけ疾かろうと。
どれだけ重かろうと。
つまるところ、斬れば全ては同じこと。
益体もない。
しかしそれこそが剣というもの。武芸というもの。
で、あらばこそ。
少女が瞳を眇めた先に、当然予期されたものを見る。
シオンが一閃を抜き払った刹那。
ルクスもまた一歩、刃の影を踏むように飛び退った。
「……アァ」
男は懐かしむように足裏を跳ねさせる──"飛鳥"の型。
爪先が床を蹴り、流れるように疾駆する──"縮地"の型。
長大な刃渡りの魔剣が振りかぶられ、かくてルクスは踏みこんだ。
振り放たれる一閃。
刧。
死兵の刃が唸りを上げて、シオンの矮躯に迫り来る。
紛うかたなきその銘が────
「……"秘剣・再臨剣"」
しかと、亡き男の声に詠じられる。
刹那、シオンは"妖剣・月白"を縦にかざして刃を受けた。
「……っ、ぅ……」
受けながら半ば跳ね飛ばされ、シオンは地滑りしながら接地する。
そして少なからず驚いた。
かつてシオンは、ルクスから"秘剣・再臨剣"を身をもって伝授された。
当時のシオンは為す術もなく、わけもわからぬうちにルクスの剣を叩きこまれるしかなかった。
その時、彼の動きはほとんど見えもしなかった。
だが今は違う。
確実に、今のシオンにはルクスの動きが見えている。
今のルクスは鍛錬の時のように手を抜いているわけではない。シオンを本気で殺しにかかっているに違いない。
にも関わらず、シオンには──ルクスの"秘剣"が見えていた。
真っ向からぶつかりあうには分が悪く、身軽さもシオンが有利とまではいえない。
だが、決して勝算がないわけではない。
「────唖々唖ッ!!」
そのために必要なのは、ただ一斬。
退き、踏みこみ、斬る。
自らは斬られず、敵を斬る。
極言すれば、それだけのこと。
一度で駄目ならば二度までも。
二度で駄目ならば何度でも──
シオンは"秘剣"を振り放つ。
渺。
剣光が瞬き、刀身がルクスのあとを駆け抜ける。
刃は空を切るばかり。あいにくルクスを捉えるには至らない。
「────オオオォッ!!!!」
考えることは死した剣客とてまた同じ。
あるいは、思惑などありはしないように。
飛び退って難なく"妖剣・月白"の刃から逃れ、すぐさま巨大な剣身が切り返される。
確かに飛び退ったルクスが、いつのまにか少女の目の前にいる。
そうとしか言いようのない動きが、今のシオンには確かに連続して見えた。
シオンは再び"妖剣・月白"をかざす。相食む刃が互いに噛み合い、刃鳴りを響かせ拮抗する。
次の瞬間には凄まじい重みに圧倒され──それでもシオンは生き永らえる。
ほとんど根比べのようだった。
シオンは身を引きずるように立ち、疾駆する。
退いてばかりというわけにはいかない。
扉側に追いつめられた時──その時には、避けようのない死がシオンを待っているのだから。
斬りつける"妖剣・月白"の剣先が空を切り、ルクスは後ろに飛び退る。
刹那に迫るはずのルクスを予期し、シオンは返す刀で斬り上げる。
ルクスはそれをも読み切っていた。
踏みこみからなる"秘剣・再臨剣"の一段目を空かし、中空で留め、そこから軌道を捻じ曲げる。
激突──凛と甲高い金属音を鳴り響かせて、刃が火花を散らし合う。
へし折れないのが不思議なほどに"妖剣・月白"を軋ませながら、シオンは一歩飛び退った。
「……まだ」
他に打つ手などありはしないのだから。
シオンはほとんど縋るように、妖しく輝く刃を返す。
地を蹴り、踏みこみ、斬る。
完璧な円弧を描く銀の剣光。
それでも、ルクスの護りが崩れることはない。
──刹那膠着して見えた剣戟は、そう長い間は続かなかった。
お互いに退き、踏みこみ、斬りつける。
交錯するのはほんの一瞬。
さながら剣嵐の舞踏。寄せては返す波にも似て、ふたりは必殺の"秘剣"を応酬する。
秘すべき剣などもはや無い。
ルクスはシオンの剣を知っているが、彼が死んだ後のことを知りはしない。
シオンはルクスの剣を知っているが、本気になった彼の剣を知りはしない。
改めてお互いのことを知り合うように。
幾度ともなく白刃が重なり、刃鳴が散る。
数知れぬほどに剣を合わせ、また離れる。
「……は……ッ」
その末に、シオンは狂おしく息を吐く。
言わずもがな、不利なのはシオンのほうだった。
そもそも、ルクスには疲れというものがない。死兵なのだから当然だ。
否。例え彼が生きた人間であろうと、その屈強な肉体を鑑みれば、疲労の色は薄いだろう。
かたやシオンは防戦一方。攻めかかろうとも容易くいなされ、受ければじりじりと消耗を強いられる。
疲労の気はすでに軽くなく、肌には汗が滲んでいる。
「全く、しぶとい小娘ですな。もう少し早く仕留めてもらいたいものですぞ」
後ろでバルザックがさえずるのも耳に入らない。
それを命令と判断したのかは定かではない──表面上、ルクスはなにも応えなかった。
ただ"破断剣・ヴァールハイト"を振り掲げ、シオンに向かって突き進む。
横薙ぎに抜き払う大振りの一閃。
シオンはそれを潜るように避け、身を低く返礼代わりに斬り上げた。
小手斬りの一閃。
それをルクスは軽く躱して返す刀で斬り落とす。
まともに剣身を打ち据えられる衝撃が、着実にシオンの体力を奪っていく。
息を整調しながら、シオンは静かに刃を下げた。
無形の位。
そして、深く蒼い眼差しがルクスをじっと見る。
──事ここに至って、シオンは認めざるを得なかった。
ルクス・ファーライトに"秘剣・再臨剣"は通じない。
少なくとも、今のシオンではどう足掻いても届きはしない。
「……は」
それでも、シオンは諦めなかった。
次々に振るわれるルクスの連撃を、シオンはぎりぎりのところで躱していく。
一度避けては切り返し、また避けては間髪入れず斬りつける。
その全てを、ルクスは余さず受け止めた。
────まだ。
「オォォォォォッ!!!!」
ルクスが受けた瞬間に押し返され、ほとんど力づくで押しこまれる。
シオンは刃を滑らせながら身を逃し、横から弾いて大剣を捌く。
避けることに、シオンはひたすら専念する。
「くだらん真似をする」
苛立ったようにトラスの脚が床を打つのも意に介さない。
「所詮は無駄な足掻きでございますぞ。いずれ疲れが隠し切れなくなりましょうからな。その時があの娘の最期となるのです」
バルザックが訳知り顔でいう。
確かに間違ってはいない。
だが、真実といえるほど正しいわけでもない。
その最中にもルクスの剣閃は止まらなかった。
広い間合いを薙ぎ払う斬撃が、シオンの目の前を通り抜ける。
やはりシオンは寸前で避け、ほとんど滑るように切り返した。
────まだ、足りない。
「……オォォッッ!!」
ルクスは一歩飛び退り、踏みこみ、斬る。
"秘剣・再臨剣"──幾度ともなく垣間見た連なりが、シオンに真っ向迫り来る。
刹那、シオンは前方に駆け抜けた。
一瞬トラスを視界に捉えるが、ルクスはそれに合わせてすぐに後退する。
新王、ひいては宰相の守護が優先されるということだろう。
面倒だが、予想されていたことでもある。まさか本気で人質が通じるとも思わない。
「……は」
続けざまに"破断剣・ヴァールハイト"が突き出される。
迫り来る壁のような剣身を、シオンはほとんど直角に避けた。
刃が華奢な首の真横を通り過ぎていく。同時に踏みこみ、斬りかかる。
ルクスは大剣を横滑りさせ、"妖剣・月白"を捌いてみせる。
────まだ。まだ、足りない。
「……何を考えているのかは定かではありませんがな」
さすがに、バルザックも不審に思ったのだろう。
守り一辺倒で戦いに勝てるはずもないのだから。
彼はにわかに目を細めるが、シオンの心境まではうかがえない。
よもやうかがえるはずもない。
────シオン・ファーライトは考える。
"秘剣・再臨剣"は三つの工程で構成される"魔剣"である。
退き、踏みこみ、斬る。
斬られないために退き、斬るために踏みこみ、斬る。
相手が攻撃を行ったあと、無防備なところを迅速に斬りつける。
それは単純極まりないが、それゆえに呆れるほど有効な剣理である。
だが、"秘剣・再臨剣"には大きな欠陥がある。
その欠陥を、シオンはルクスから伝え聞かされ、そのうえ身をもって味わった。
その要諦は、つまるところ退くときの動作にある。
人体の脚はその構造上、退いたあとすぐに前進するようにはできていないのだ。
その欠陥を、シオンとルクスはいうなれば技術で無理やりに克服していた。
着地の反動を活かし、爪先で地を蹴り、強引に身体を前に押し出す。
"飛鳥"の型と"縮地"の型の組み合わせ。
いかなる状況であろうともいかなる敵であろうとも斬り捨てる、"魔剣"の業としては未完成ながら──
とにもかくにも、それは"秘剣・再臨剣"として完成した。
だから、とシオンは考えるのだ。
────退く、ひいては躱す動作を極限まで縮小できたなら。
"秘剣・再臨剣"は、少なからず"魔剣"に近づくだろう。
「オ────オォォッッ!!!!」
ルクスは大上段に大剣を振りかぶり、そして一直線に振り落とした。
鮮やかな弧を描いて刃が落ちる。
刧。
後から剣風が吹き荒び、シオンの黒髪を風になびかせる。
色濃い血臭をくゆらせながら、シオンは脚を滑らせた。
一歩ではない。脚を擦り、最低限度の動きで一閃を躱したのだ。
そしてすぐさま"妖剣・月白"を斬り下ろす。
踏みこみは浅く勢いも欠いているが、切り返しの疾さは目を瞠るに値するだろう。
「……グ」
瞬間。
ルクスははじめて、ほんのかすかな呻きを漏らした。
刃は届きこそしない。"破断剣・ヴァールハイト"の切っ先が跳ね上がり、刀身をかち上げて打ち払う。
────まだ、まだ足りないならば、まだ。
まだ、無駄がある。まだ、疾くできる。
まだ、"魔剣"には程遠い。
「なにを狼狽えることがある、バルザック。心配することなどないではないか。ククッ、見ろ。私の臣下が、実によくやっているではないか────」
悪足掻きをしているようにしか見えない少女を見て、トラスはひとりせせら笑う。
まだ、見ているふたりは気づかない。
直に剣を交わすふたりだけが、そのことに薄々気づいている。
────"魔剣"胎動。
「オオオォォォッッ!!!!」
ルクスは恐れを振り払うように、一歩退いた。
その次の瞬間、鋭く抉るように間合いを詰め、彼我の距離を埋めつくす。
刧。
瞬く剣光が横に薙ぎ、続く反撃を予期して返す刀で逆向きに払い抜く。
対するシオンに小細工はない。
脚を後ろに滑らせて横薙ぎを避け、二段目も愚直に寸前を見切って躱す。
ほとんど黒地の羽織が断たれるほどに、"退く"動作が縮小される。無駄な挙動が切り詰められる。
応じて、すぐさま"妖剣・月白"を足元近くから跳ね上げる。
ルクスは横向きにかざした"破断剣・ヴァールハイト"で受け、華奢な刀身を打ち払った。
「……は」
シオンは圧されながら十歩の距離を開いて足を止め、残心。
「……アァ」
ふたりは同時に剣身を掲げ、胸の前を横切る構えをとった。
"閂"の型。
そして即座に迫る一閃──肩から腰にかけてを抜ける斬り下ろし。
ルクスも疾さを増したかのよう。おそらくは、重力操作を軽量化に傾けたのだろう。
そうすれば当然威力は下がるが、代わりに速度は向上するはずだ。
本当に当たるか当たらないかのところで大剣を避けながら、シオンは思う。
────まだ。
────まだ、足りない。
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