亡国の剣姫

きー子

壱、脱出

 簡単な仕事になるはずだった。
 国王直参の親衛隊は、王都郊外のとある屋敷に乗りこんだ。周囲にはあらかじめ包囲網が敷かれており、使用人のひとりも見逃すことはない。全ては目標を拘束するためである。
 屋敷には一〇人あまりの使用人と、ひとりの女主人がいた。女主人は四〇近い年頃で、平民の生まれであることを示す黒い髪を長く伸ばしている。豪奢な屋敷にはあまりに似つかわしくない姿である。
 女は、前王の妾であった。
 彼女と、そしてその一人娘の確保。それが親衛隊に与えられた任務だった。かつて前王の庇護を受けていた母娘は、今や新王の命によって弾圧される身の上にある。
 前王はすでに拘束済み。今日明日にも処刑が行われる手はずである。
 前王は武勇で名を馳せ、剣の道にその人ありと知られる武人だった。かつては武断王と讃えられてもいた。だが、国の舵取りはお世辞にも褒められたものではなかった。
 長きに渡り悪政を敷き、国内の威信は著しく低下、挙句の果てに隣国との争いを招き寄せた罪は万死に値する────そのような罪状によって、文句なく死刑に処されることだろう。それらが新国王によって誇張された罪であることはいうまでもない。
 また、連座されるのは親類縁者すらも例外ではない。ゆえにこそ、妾の女主人は窮地に追い詰められていた。
 親衛隊の面々は使用人の静止を強引に振り払い屋敷内へ突入。抵抗するものは容赦なく力づくで制圧し、ついには女主人の室に押し入ったという次第である。
「煮るなり、焼くなり、どうぞお好きに。どこへなりとも行きましょう。この期に及んで抵抗はしません。どのようにでもすればよい」
 そこにいたのは、決然とした態度の女がひとりばかり。その顔には老いの色がうかがえたが、怯えはかけらほどもない。
 すでに死を覚悟している目だ。体格のよい親衛隊の隊長は、結構、と大儀そうに頷いてみせる。五人組からなる部下たちに身柄を拘束させたあと、親衛隊長は気づいた。
 彼女の娘の姿が見当たらないのだ。室内を見渡すが、それらしい姿はどこにもない。娘はもう一二を数える年頃と聞いていた──どこか狭いところに隠れている、というわけでもなさそうだった。
「奥方。娘さんの姿が見当たらないようですが、どちらに?」
 そう問うと、女主人はびくりと肩を震わせた。
 それだけだった。彼女は答えなかった。
 親衛隊長は迷わなかった。前王の親類縁者は一人残らず刈り取らなければならない。それが新国王の仰せである。
 親衛隊の士気は高かった。非道な行いもいとわないほどに。政権奪取以前から新王の直参だった彼らは、こうして強権を振るうことができる。まさに官軍といったところだろう。
 彼らは、数人がかりで女主人への尋問を開始する。それと並行して屋敷内の捜索も行う。女を囲うためのものにしてはずいぶん広い屋敷だ──前王の寵愛のあらわれといったところか。隠れ場所には事欠かないはずである。部下たちはそれこそ屋敷をひっくり返すような勢いで、年端もいかない少女の捜索を開始した。目印となるものは、黒髪である。本来、貴族や王族にはあり得ざる、母親譲りの黒い髪。
 全く不届き極まりない、と一端の騎士階級者として親衛隊長は嘆いてみせる。王の血と、下賎な民の血の"混ざりもの"を生み出すなど言語道断。これこそ前王の乱脈振りを示すなによりもの証拠であろう。新国王の振る舞いも褒められたものではないが、前王よりはいくらかマシに違いない。
 親衛隊はしっかりと女主人の退路を塞ぎ、容赦のない尋問を行った。服を剥ぎ、打擲も厭わず、使えるものはなんでも使った。針、水、火、あるいは使用人だけは助けてやろうという甘言。女主人はときに耳をつんざくような絶叫をあげ、豚のように悶え苦しんだ。配下の隊員のひとりが嗜虐的な笑い声をあげた。愉しんでいるようだった。
 しょせんはろくに訓練も積んでいない一般人。吐くまでにさしたる時間はかからないだろう──親衛隊長はそう考えていた。その目論見は、完膚なきまでに外れた。
 尋問は次第に激しさを増し、拷問とも陵辱ともつかない領域にまで達した。問いただし、責め立てるのみならず、暴発した隊員が女主人で愉しんだ。室内に聞くに堪えない水音と、絶望しきった悲鳴が響き渡った。
 それでも女主人は話さなかった。一向に口を割ろうとはしなかった。青白い唇を引き結んだまま、首を横に振るばかりである。それに憤った部下たちが躍起になって責め立てたが、女主人のかたくなさはかえって伸長する一方。
 尋問は数時間にも及んだが、成果は得られなかった。誤って死んでしまったら処刑できなくなるため、やりすぎるわけにはいかない。
 聞くところによれば、前王はこの屋敷に足繁く通っていたという。真っ当な貴族の妾や正室の女は大いに憤慨したことだろう。国を乱した象徴といっても過言ではあるまい──女主人の処刑は、絶対に必要不可欠なことであった。
 かくなる上はやむを得ない。親衛隊長は部下の一部に女主人を連行させた。
 吐かないのならば自ら探すまで。例えすでに逃げ去っていたとしても、子どもの脚である。追いつくことはわけないはずだ。
 並行して進めさせていた捜索の結果はかんばしくない。隠れ場所らしい場所は探し尽くしたが、娘は影も形も見当たらなかった。
 娘の室内は完全にもぬけの殻。忽然と部屋の主が消え去ってしまったかのようだった。机の上には神学の書が置きっぱなしにされている。
 女だてらに生意気な。ふん、と親衛隊長はちいさく鼻を鳴らした。信仰に篤いのは結構なことだが、学のある女など面倒なばかりである。そんなことを思いながら、娘がどこに行ったかを考える。
 まだ見ぬどこかに隠れている、という可能性は当然ある。あるが、すでに目は薄いと考えるべきだろう。功名欲しさに鼠一匹見逃すまいと目を光らせている親衛隊員。素人の娘ひとりを見落としてしまうとは考えにくい。
「おそらくは……」
 おそらくは、そう。隠された脱出口があるのだろう。前王の女たちの身の安全を守るために築き上げられた、秘密の抜け道とでもいうべきもの。そういうものがあると考えれば、包囲に全く引っかからないのにも納得がいく。
 親衛隊長は、隠し通路などに焦点を絞って捜索することを部下たちに命じる。一種の賭けだった。子どもの脚とはいえ、あまり無駄足を踏めば手遅れになる可能性は十分ある。そのうえで、おおかた間違いはないだろうと、親衛隊長は直感していた。
 直感は当たった。半刻も経たないうちに、井戸に巧妙に偽装された抜け道が見つかった。それと意識しなければ誰も出口とは思うまい。深い穴の側壁に横穴が開いて、そこから道が続いているようだった。
「全く、手間取らせてくれたものですね」
 親衛隊のひとりが忌々しげにいった。簡単な仕事のはずが、思いの外手間取らされてしまった格好である。
 しかし表情はどこか晴れやかだ。ようやく終わると思えば、その気持もわからないではない。
 親衛隊長はごく少数を屋敷に留め置き、すぐに追跡を開始した。ロープ伝いにひとりずつ横穴に滑り込み、隠し通路へと浸透する。
 入り口こそ目立たないちいさなものだが、道幅は存外に広かった。大所帯で逃げることを考えての構造だろう。土の道はわずかに湿っていたが、綺麗に均されているため足場に不安は全くない。
「この足跡は……」
「小さい。子供のものだな──間違いはなさそうだ」
 隠し通路を進むうちに見つけたのは、まだ新しい足跡だった。ちいさいが、形がはっきりとわかる。
 一二、三才の娘。それにしてもちいさく見えたが、誤差の範囲内といっていいだろう。なにせ親衛隊長はかの娘について、"そこらの町娘と見紛わぬよう気をつけるべし"と言い添えられたほどである。いくら末席──末姫とはいえ、王族の風上にも置けない女であることは疑いようがなかった。
 進むにつれて光が遠ざかる。あなぐらに暗闇が満ちていく。隊員のひとりがやむを得ず"灯火トーチ"をかかげた。ランタンの中に、火が煌々と燃え盛っている。例え水に濡れようともしばらく消える心配はない。湿気のきつい穴の中ではうってつけだ。
 親衛隊の歩みをさまたげるものはなにもない。道のりは存外に長かったが、緊急時を考えれば当然のことだろう。広い範囲に検閲線や包囲を敷かれることを考えれば、遠くに逃げ延びるに越したことはない。
 やがて彼らは道の先、暗闇の中にぽつんと浮かぶ光を見た。ちいさな影が、その手に灯火をひとつぶらさげている。
 暗闇の中で遠目には判断しかねたが、低い背丈は子どもに見える。髪色は闇にまぎれるような黒。まるで身を隠すように夜色の外套をはおっている。
「隊長」
「うむ」
 親衛隊は声を潜めて頷きあった。おそらく間違いはない。思ったより早かったが、やはり子どもには厳しい道のりだったのだろう。
 屋敷にこもりっきりの娘であればなおさらだ。身体の育ちもかんばしくない。おおよそ逃げるには向いていないと、親衛隊長は断じざるを得なかった。
 ともあれ、親衛隊は揃って距離を詰めることにした。
 いうまでもなく、方策など不要。当然である。鍛えてもいない女子どもに、なにを恐れることがあろう。少し声を張り上げてやれば恐れをなして震え上がるに違いあるまい。
 親衛隊長を背に、部下たちが足並みを揃えて駆ける。距離はみるみるうちに縮まった。元より歩幅が違いすぎる身体である。
 聞こえた足音に、少女もまたちらりと振り向いた。目深にかぶった黒頭巾のせいで表情はうかがえない。
 その顔くらいは拝んでやろうではないか。親衛隊長はそのまま少女の行く手に回り込み、彼女の道をさえぎった。後ろからは五人の親衛隊員が詰めかけ、少女を前後から包囲する。
 その瞬間、ちいさな影はぴたりと立ち止まった。親衛隊らと一定の距離を保つように、ゆらりと視線を前後に揺らす。
 なんたるせわしなさだと親衛隊長はあざ笑った。そしていともあっけない。所詮は下民の同胞はらから、ということだろう。とても王族の末とは思われぬ姿である。
 親衛隊長は、聞き分けのない子どもに丁寧に教えてやるように、いった。
「シオン・ファーライト様とお見受けする。生憎ながら、これ以上先には行かせますまい。母子揃って、王都で沙汰を待つが良い」
 その言葉を聞いた少女────前王の末姫、シオン・ファーライトは、なにも答えなかった。
 ただ無造作に黒頭巾を跳ね上げ、その幼いかんばせをあらわにする。
 晒された黒髪はまさに"混ざりもの"の証。しかし艶めいた髪は存外に蠱惑的で、見るものの目を不思議と引きつける。貴族の女は髪を長く伸ばすのが一般的な習わしだが、少女は肩のあたりでざっくりと短く切り落としてしまっている。
 顔立ちは端的にいって愛らしい。器量よし、といって差し支えないだろう。まだまだ幼い子どもだが、いずれは絶世の佳人となるに相違あるまい。どこか憂いのある表情は女主人──母親の面影をうかがわせる。しかし少女は、母親にはないもの──若さではない、いつ消えるとも知れないような、奇妙な儚さを漂わせていた。
「……ほう」
 親衛隊員が一瞬息を呑む。親衛隊長もおおむねは同感だった──だが、気に入らないという思いがそれ以上につのった。
 見てくれはきれいなものだが、腹の中ではなにを考えているかわからない。海のように深い蒼色の瞳は、どこを見ているのかさえ不明瞭。あの女主人のように、いずれ国を傾けさせるとも知れないだろう。これはそういう女だ。今はただの子どもだが、その本性はおおよそ魔性と呼ばれるものに違いない。
「聞こえているのか、いないのか。なんとかいったらどうですかな、"黒髪姫"。母君はすでに都で待っております。あなたがこちらにいることも、洗いざらい喋ってくださいましたからな」
 親衛隊長の声に隠し切れない侮蔑の色がにじむ。騎士階級、つまりは貴族の端くれといったところ。王族といえども"混ざりもの"に敬意を払うのはごめんだということだった。
 中でも"黒髪姫"とはもっぱら貴族間で流布している、少女を嘲る言葉であった。貴族にはあり得ざる黒髪の姫君。それはシオン・ファーライトという娘の代名詞ともなっていた。巷間によく知れた話である。
「大人しく縄についてくださるのならば、実に結構。もっとも、言うことを聞かぬのならば無理矢理にでも拘束させていただきますが。こちらに従っていただけますかな?」
 そういい、これ見よがしに腰のサーベルに手をかけてみせる。抜き放つような真似はしない。殺してしまっては元も子もない。単なる脅しである。
 だが、生殺与奪を握っているのに変わりはない。親衛隊長は自分よりはるかにちいさな姫君を見下ろし、笑った。彼とシオンの身長差は、およそ1フィートほどもあった。
 シオンはゆっくりと、周囲を見渡したあと、なにも言わずに外套を脱ぎ落とした。だぶだぶのコートの下から覗くのは、いかにも動きやすそうな革の服。きわめて地味な茶色で、華奢な身体の線にぴったりと合っている。とても貴族の娘がするような格好ではない。
 その端正な顔立ちを別にすれば、確かに町娘と見間違えてもおかしくはないだろう。
 コートを片腕にかけたまま、シオンは衣嚢ポケットからなにかを取り出す。
 それは小刀だった。少女の手に収まるほどの大きさである。
 鞘を手慣れた所作で地に落とすと、シオンは刃を突きつけた──自らの首筋に。
「な……」
 一瞬、にわかに緊張が走る。あまりになめらかな動作で、反応ができなかったのである。
 しかし恐れるほどのことではない。こちらが生け捕りにしたがっているのを敏感に察し、自分を人質にしたというところだろう。だが、と親衛隊長は鼻で笑った。
 自害などそう簡単にできることではない。戦場に身を置いたこともない幼い娘の勇気などたかが知れている。まず間違いなく、刃が彼女自身を傷つけるより先に制圧できることだろう。
「滅多なことを考えますな。トラス第一王子──否、トラス・ファーライト新王は慈悲深い御方。なにより、貴女とは血を分けた兄妹であります。寛大な沙汰もあり得ましょう。よく考えなさいませ、シオン様」
 大嘘である。実際には許されることなど絶対にない。
 しかし親衛隊長は顔色一つ変えず、目で隊員たちに合図を送る。念のため、少女が早まったことをしでかす前に身柄を拘束する必要があった。
 シオンは濁ったような蒼眼を親衛隊長に向けている。まさに今が好機と見て、親衛隊のひとりが駆け出した。
 完璧なタイミング。開いていた距離が一瞬にして縮まり、少女に手が届くところへと至らしめ────
「────え?」
 ふと、その男は間の抜けた声を上げた。
 目の前に暗黒が広がっている。
 通路内の暗闇ではない。灯火はいまも健在である。だからそれだけはありえない。
 布地の感触でようやく気づく。少女の跳ね上げた外套が、男の上半身に絡みつくように覆い被さったのだ。
 瞬間、短刀を握るシオンの右手がひるがえる。
 暗闇の中を銀色の閃光が奔った。
 鋭い刃先が男の首筋に突き立てられる。外套の上からにも関わらず正確無比な一刺し。
「うぎゃああああああっ!!」
 全く予期していなかった苦痛に、親衛隊員の男が叫びをあげる。外套をかぶせられたがゆえのくぐもった声。
 それが男の最後の言葉となった。
 首筋から吹き出した血が止めどなく黒衣の外套を濡らしていく。赤い水を吸い切れなかった布地からどす黒い血潮が滴り落ちた。
 出血量からして間違いなく致命傷。男はその場で力なく崩折れ、倒れ伏した。
 あまりに無残な死に様。立ち上がることは二度とない。
「……なんだ」
 ぬらりと刃を引き抜きながら、シオンは憂いを帯びた声をもらした。
 いかにも子どもらしい、幼い娘の澄んだ声。その音は少しだけかすれている。
「……案外、あっけない」
 ぽつりと言い、男の血にまみれた黒衣を拾い上げる。
 シオンはまるで動じた様子もない。人ひとりを殺めたという感慨すらもうかがえない。
 ただ茫洋と視線をかかげ、残る親衛隊員の男たちを見る。
 まるで獲物に狙いをつけるかのように。
「……な」
 あまりの事態に思考が追いつかず、彼らは無防備に立ちすくむ。
 一体なにが起こった。"混ざりもの"とはいえ王族の姫たるものに、剣の心得などあろうはずもない。あってはならない。
 ならば、なぜ。少女はまるで当たり前のように短剣を構え、その刃先を男たちのほうへ向けている。
「お────」
 落ち着け、と。親衛隊長がそう叫ぼうとしたとき、すでに少女は飛び出していた。
 残るは親衛隊長と親衛隊員四人のあわせて五人。シオンは迷わず四人のほうに疾駆する。
「ひ、ひぃッ」
「く、来るんじゃねえッ!」
 泡を食った隊員たちは咄嗟に後ずさる。
 少女相手にあまりにも情けない有り様だったが、無理もない。元より危険などないと高をくくっていた任務なのである。死ぬ覚悟などは全くない。
 しかも無力な少女に過ぎないはずの末姫が、熟練の剣士さながらに刃を向けてくる始末。彼らにはもはや、少女が少女に見えていない。
 かわいらしい子どもの顔貌かおかたちをした、得体の知れない化物。男たちはかろうじて剣を抜くが、内心では彼女を恐れているのがありありと見える。
「……ふッ」
 シオンは短く息を吐き、男のひとりに詰めかかった。体格差をものともせず上段に払われる刃。銀の軌跡が弧を描く。
 短剣は狙い違わず頸動脈を掻き切っていた。恐怖に顔を歪めた男は声もあげられず即死する。まともに返り血を引っ被りそうなところを黒衣で受け止め、咄嗟に背後を振り返る。
 そこには男のひとりがいた。もはや恥も外聞もないと、残された三人はシオンの三方から詰め寄っていた。
「そうだ、囲んでやれ! 大方、そいつは影武者か何かだろう! 案ずるな、殺してしまっても構わん!!」
 態勢を立て直そうと懸命に怒声を張り上げる親衛隊長。彼もまた抜剣し、シオンのほうに詰めかかろうとする。
 影武者がこんなところにいるはずがない。そんな内なる声を必死に抑えこみ、理解不能な事態になんとか説明をつけようとする。その甲斐あって、残された三人の親衛隊員はなんとか気を取り直したようだった。
「賊が、こしゃくな真似を! 本物の姫はどこにやった!?」
「……私」
「ほざけ!」
 そんなことはありえない。あってはならない。ゴミのように男を斬り捨てた目の前の少女が、"混ざりもの"の下賎な姫であるなどとと。
 少女の言葉を否定するように、親衛隊員の男は正面から斬りかかった。瞬間、少女の背後にいる男も同時に剣を振るう。挾撃の態勢である。
 両脇は親衛隊長と残るひとりの親衛隊員が固めているため、逃げることもかなわない。
 どれほど剣をたしなんでいようと、数の前では無力なものだ。ふたりは不覚を取ったが、それはいわば不意を突かれただけのこと。万全の態勢さえ整えれば、よもや小娘ごときに負けるはずがない。
 そんな思いをくつがえすように、少女は振り下ろされた刃を紙一重で避けた。
「……はッ……」
 躱すと同時に振り返る。背後からの刃が、シオンの身に振り下ろされようとしている。
 その出先を払うようにシオンは短剣を跳ね上げた。小柄な身体からは想像もつかない膂力で剣身をかち上げられ、男は色をなしてうろたえる。
「な、な────」
 なんのことはない。男は腕で剣を振っているが、少女は全身で振るっている。
 シオンの華奢な腰も、男の腕よりはよっぽど太いのだ。その力を過不足なく腕に伝達すれば、男の剣をはねつける程度はわけないこと。
 むろん、刃を受けた男には知る由もない。瞬時に前後の剣撃をさばいたシオンは、再び振り返る勢いのままに遠心をのせて短剣を払い抜く。
「ひ、ひッ──」
 悲鳴をあげる暇もない。剣先が前方の男の腹を深々と抉る──血潮がとてつもない勢いで吹き出した。
 死体と化した男を蹴飛ばして刃を引き抜きながら背後の男と対峙。この間コンマ一秒とかからない。剣身を跳ね上げられた男は体勢が整っておらず、無防備というほかない姿を晒している。
 シオンはその脇を駆け抜けざまに延髄を斬り即死させる。さらにそのままの勢いで脇を固めていた残るひとりの親衛隊員へと殺到。よもや連携を破られると思っていなかった男は、ろくに反応できないまま剣を持つ利き手を斬り飛ばされた。
「うぎゃあぁぁぁぁぁぁッッ!!」
 地面にもんどり打ち、先を失った手首を抑えながら悶絶する親衛隊員の男。
「うるさい」
 シオンは男の脇腹を蹴っ飛ばして黙らせたあと、脳天を短剣の柄でかち割った。
 男は静かになった。
 周囲には五人の死体が散らばっている。惨憺たる有り様である。
 その惨状をつくりあげた少女は、特に感じるところもなく刃にこびりついた血と肉と脂を拭き取っている。
 その眼は絶えず、残された親衛隊長をじっと見据えている。
「……馬鹿な」
 手出しをするような隙もなかった。親衛隊長は呆然と立ち尽くし、ありえないものを見る目でシオンを見る。
 年端もいかない、子どもにしか見えないような幼い少女。黒い髪をほのかな返り血に湿らせている。その表情は完膚なきまでに無表情。一瞬にして親衛隊長の率いる手勢を全滅させたにも関わらず、全く感情の色すらうかがえない。
 今すぐ逃げるべきだと親衛隊長の脳裏が警鐘を鳴らす。このことを誰かに伝えなければならない。"黒髪姫"シオン・ファーライトがこれほどの武勇の持ち主だと、知っているものがどこにいよう。一笑に付されても仕方がないような話である。なればこそ、自分がこのことを新王にお伝えしなければ────
「逃がさない」
 ひゅん、とちいさな音がした。
 瞬間、親衛隊長の身体がぐらりと倒れこんだ。喉元から熱いものが止めどなく溢れ、男の首を濡らしていく。
「ぁ、が、ぐ────」
 なにかを言おうとした。しかしごぽごぽと血が泡立つばかりで、もはや声にならない。
 親衛隊長は自らの首を探った。手に何かが触れる。
 喉仏に、少女の握っていた短剣が突き刺さっていた。
 飛刀術。まるで見えなかった。狙いも正確極まりない。恐ろしい、と親衛隊長は心底震え上がった。
 簡単な仕事のはずだった。それがどうしてこんな目に。親衛隊長は哀れみを誘う目でシオンを見上げる。
「追手は皆殺し。でないと、私が困るもの」
 シオンは淡々といい、親衛隊長のそばに歩み寄る。
 その溢れんばかりの殺意に気圧される。どうして先に気づけなかったのか。悔やんでも悔やみきれない。
 ひどく身体が寒かった。血が抜けているせいだけではあるまい。少女が近くにいるだけで、堪えがたいほどの寒気を感じてしまう。
 シオンの存在そのものが、男を心胆から震え上がらせているのだった。
「これは、返してもらうから」
 首筋に突き立った刃を引き抜かれる。傷口の後から血があふれていく。死ぬことはもはや間違いない。
 せめて安らかに死なせてほしい。だがかなうことはないだろう。親衛隊長の男はすでに、彼女に目をつけられてしまっている。
「ぁ、あ、あ────」
 助けて。許して。もはや言葉にならない。絶望の表情を浮かべて痙攣する親衛隊長をシオンは見る。
 その表情に変化と呼べるものは見当たらなかった。
 残す言葉はただ一言。
「さよなら」
 そういってシオンは剣を振り上げた。
 男が最期に見たものは少女のかお。表情のない端正な顔立ちは、かすかに笑っていたようにも見えた。
 見るべきではなかった。後悔と恐怖と絶望に包まれながら男は死んだ。

 いつまで経っても戻らないことに痺れを切らした親衛隊員が捜索に向かうと、そこで六人の死体が発見された。
 中でも親衛隊長の死に顔はすさまじいものがあった。一体彼らは、なにに出会ってしまったのか。
 妾を手荒に扱ったことに怒り狂った前王の亡霊が彼らを斬り捨てたのだ、と人々は噂した。
 ────これが、"黒髪姫"シオン・ファーライトの逃亡劇の幕開けだった。

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