亡国の剣姫

きー子

陸、奇剣・毒操手(下)

「魔剣、というものがある」
 その突拍子もない一言から、ある日の訓練は始まった。
 王都郊外の屋敷の中央に位置する中庭。年かさの男が木剣を手に、ひとりの少女を見下ろしている。
「聞いたことが、あるか」
 老いをあらわにする白ひげといかめしい顔付き。頭は半ば白く染まっていたが、肉体のほうは年齢にそぐわず逞しい。
 すでに齢五〇を数えよう彼こそはこの国の王。かつては武断王と湛えられ、今となってはいかんともしがたく凋落した栄光の末路。
 ルクス・ファーライト。
 少女と血を分けた父親でもある。
「……はい。陛下」
 少女──シオン・ファーライトはちいさく頭を垂れ、頷く。
 目の前の男を父と呼ぶ気にはなれなかった。昔は違っていたように思うが、物心ついた時にはすでにそうなっていた。
 いつからといえば、彼から剣術指南を受けるようになった頃からだろう。
 すでに三年近くも前のことか。おかげで今となっては、剣もそこそこ使えるようになった。様々な技を叩きこまれた。一端の剣士として世を渡ることができるというお墨付きも得た。
 全くもって嬉しくはなかった。
 シオンは剣を望みもしていない。虐待まがいに剣の指南を押し付けられているだけのこと。時には徹底して痛めつけられることもあった。打ち据えられ、叱咤され、立ち上がるように促され、自ら向かってくるよう強制された。それが少女にとっての剣術指南というものであった。
 少女がそれを望んだはずもない。女の武芸者などほとんど物狂いも同然である。どこぞの無法者ならばまだしも、"混ざりもの"とはいえ王族の姫であればなおさらだ。かといって日々の鍛錬に手を抜けば痛い目にあうため、シオンはひそかに鍛錬を積むほかなかった。
 かくしてシオンの幼い顔貌には、まるで人形のような無表情が張り付いている。痛みと恐怖に慣らされた娘が表情豊かでいられるほうがどうかしている。
 シオンは透明感のある声で、言葉を続けた。
「……旧き神々の遺産。古代文明の遺物。あるいは妖精の手になる鍛造物。いずれかは定かでありませんが、いずれも超常の力を秘めた、奇妙奇怪な魔法の剣である、と」
「間違いではない」
 いいながらもルクスは首を横に振った。
 事実として"魔剣"という武器は、ある。
 だが私が言うのはそれではないと、ルクスはそう語ってはばからない。
「一介の剣士の極限、とでもいうべきものだ。もはや人ではない、人ならざる鬼となってようやく至らしめる境地の剣。それをゆえに、魔剣という────技だ」
 そう聞いてもシオンには全くぴんと来なかった。
 そもそもシオンは剣士ではない。剣はそこそこ使えるようになったが、それを剣士といえるかは別問題だろう。
「わかるか」
「……はい、陛下。私には、いささか、わかりかねます」
 シオンは素直にいう。
 それはどういうものか、という以前に、なぜそんなことを言い出したかもわかっていないのだ。
 透徹とした無表情の中に、それでも怪訝そうな様子がうかがえたのだろう。ルクスはいつものように木剣をかかげ、シオンの前に立った。
 シオンもまた木の短剣を構え、対峙した。いつものように動きやすい革の服を着ているので差支えはない。見咎めるものは誰もいない。
「口でいってわかるものではない。特に私の口では。先んじては目にも見よ──私ではついに完成しえなかったが」
 そういってルクスは胸の前に木剣を構える。
 つまり、魔剣の出来損ないを披露するということらしい。あんまりな言い草だが、きっとそれでもシオンには十分すぎるほどの脅威だ。なにせシオンの剣はルクスに届いたことがない。おそらく絶妙な加減をしているのだろうか、ルクスはいつでもシオンの一歩上を行った。
 かつては武断王と世に知られたルクス・ファーライト。その将軍としての功績は枚挙にいとまがない。華陵帝国辺境領地の奪還、王国内地の人狼諸族の討伐、北方連合に対する抑止としても機能した"王の盾"。その剣腕は大陸全土に名が知られるほど凄まじく、師弟ともども王国にその人ありと語れるほどの剣客でもあったという。
 月に二度ほどの来訪とはいえ、シオンはルクスに徹底して鍛えあげられた。日々の鍛錬にしても彼の息がかかったものである。
 まるで王の武勇を継がせるように手塩にかけられたシオンは、しかしルクスに匹敵するとは言いがたい。
 当然だった。シオンは女であり、身体もできていない子どもなのだ。いかに技巧と業を練り上げれども、その剣術には限度がある。
 そんなシオンに、ルクスをして完成させられなかった"魔剣"とやらを、覚えろとでもいうのだろうか。
 実際、技や型を身に付ける際にはいつもこうだった。ルクスの技を見て取り、身体で味わい、自らの身体で再現し、そして自らのものとした。
 だが、シオンに"剣士の極限"など程遠い。なにせ鍛錬を積んではいるが、実戦といえば獣相手のものばかり。人を斬ったこともないものが、どうして剣士を名乗れよう?
 それがことに及んで"魔剣"の技など、悪い冗談の気がしてならなかった。
「構えよ。来たまえ。我がほうへ」
 ともあれ王がそういうならば、シオンがなにを考えようとも関係はない。
 ただ実践あるのみ。それが全てだ。
 王が手招きするのと、シオンが腰を沈めたのは全くの同時。
 シオンの腰の力が余さず下肢へ伝達し、その細い脚からは想像できないほどの脚力を少女にもたらす。
 いうまでもなくシオンの腰は細い。だが、男の腕よりはずっと太い。その力を余すところなく四肢に伝達できれば、非常に強固な力となる。それこそ男の膂力にも比肩するほどに。
 シオンはそれを付け焼き刃ながらも実践していた。日々の鍛錬の賜物だ。そもそも、それがなければルクスとまともに打ち合うことすらかなうまい。
 ルクスももちろん加減していたが、加減にも限度というものがある。
 シオンはまるで跳躍するようにルクスへ向かった。その身のこなしは目をみはるほどのものだが、少女はそれをなんとも思っていない。強さというものの基準が目の前の男しかいないから、自分の力がどの程度のものかもわからないのだ。
「……ふッ」
 短く呼息し、鋭く刃先を振り下ろした。
 ルクスを仕留めていても全くおかしくはない剣速。端的にいって疾い。
 だがシオンの木剣はあえなく空を切った。ルクスは一歩、背後に大きく飛び退っていた。
 確かにそう見えた。
「────え」
 一歩確かに飛び退ったはずのルクスが、いつの間にか目の前にいる。
 地を蹴る動作すら全く見えなかった。目に見えたのは、シオンの木剣を避けるために飛び退いた一瞬まで。
 飛び退った男が剣を避けてまた目の前にいる──そうとしか言いようがなかった。"よく相手を見る"ということも鍛錬の一環として叩きこまれていたにも関わらず。
 続けざまにルクスの剣が弧を描く。シオンの脇腹に向かい来る。これまで向けられてきたいかなる剣よりもはるかに疾い。少女は無意識に目を見開いた。
「……む」
 瞬間、ルクスはなにかに気づいたように声を上げた。
 渾身。おそらくはそういって差し支えない一閃が、吸い込まれるようにシオンの身体を打ち据える。その小柄な身体が呆気なく吹き飛び、芝生の上をごろごろと転がっていく。その勢いたるや中庭の外に飛び出さんほど。
「……げほ……ぅ、ぐ」
 それでもすぐ、シオンは苦しげに呻きながらよろよろと立ち上がる。
 地面にしたたかに叩きつけられた背中がきしむように痛む。しかし大事はないようだ。艶やかな黒髪に芝生の草がくっついている。
 ルクスは少女を一瞥して問うた。
「見えたか」
「……いいえ、陛下」
 全く見えなかった。避けるのも間に合わなかった。
 それでも傷が浅く済んだのは、咄嗟に飛び退いたおかげだろう。おかげで派手にふっ飛ばされたが、あれは半ば自分から飛んだようなもの。
 類稀なる反応と反射。直感と危機察知。ほんの一〇とそこらの子どもに過ぎないシオンは、それらを武器にするほかなかった。
「そうか」
 ルクスは再び剣を構え直した。その表情は心なしか残念そうに見える。
 もう一度、ということだろう。シオンは心胆を振り絞りながら構えを取る。
 相対しながら、ルクスはふと口を開いた。
「今のは、いい反応だった」
 シオンは一瞬目を丸くする。
 この男から賞賛を耳にしようとは。気を抜ける状況ではないというのに、シオンは冗談抜きで驚いた。
 それと同時に、理解に苦しむ。今しがた見せたルクスの"魔剣"。そのどこが未完成だというのだろう。
 なにせシオンには見えもしなかった。"剣士の極限"という語り口は全く伊達ではない。一対一の立合いでは文字通り必殺の剣となるだろう。
 しかし、シオンが反応できたということもある。どこかに欠陥というべき弱点があるのだろうか。
 そんな考えをめぐらせながら、シオンはさらに三度それを受けた。
 二度目に進歩はなかった。それどころか、痛みのせいで反応が遅れたほどである。見事なやられようだった。
 だが三度目ともなれば話は違った。どれほど優れた技であろうとも、何が来るか分かれば受けるのは難しくない。シオンはそれをなんとか木剣で受けた。力で押し切られてしまったが。
 四度目に至っては、刃先を掠めながらもなんとか避けることに成功。実戦ではそれが来るとは限らないのだからまず避けられないだろうが、読み切れば避けられない技ではないということらしい。
 同時にシオンは、"魔剣"の大枠というべきものをおおよそ掴んでいた。
「次は、私から行く」
 だいぶズタボロになったシオンに、ルクスは容赦なく宣言する。
 見せるべき分は見せられた。つまり、自分でやってみせろということだ。
 こうなっては否応もない。震える脚に力をこめて立ち上がるシオンに、ルクスが真っ向から向かい来る。
 とても老躯とは思われないほど躍動感溢れる俊敏な疾駆。大気が唸るような勢いと共、烈風を引き連れて老剣士が向かい来る。
 ────シオンが見切った"魔剣"の構成要素は三つ。後退する一歩と再び間合いを詰める一歩、そして最速で敵に達する斬撃。
 避けて、その隙に踏み込んで、斬る。
 言葉にすればそれだけ。呆れるほど単純極まりない剣のことわり。ひとつひとつの動作は、すでにシオンも身につけている型に過ぎなかった。
 だがそれを、ルクスがやってみせたほどの域に達させようとするならば。
 その研鑽は筆舌に尽くしがたいものがあった。ただの三工程に、シオンは、血が滲むような修練の痕跡を垣間見る。
 それをして、ルクスは"未完成"と断じたのである。
 果たして、彼の心境やいかばかりか。
 シオンは一歩飛び退る。ルクスの木剣が空を切る。
 そして地に足が触れた瞬間、シオンはこの"魔剣"の欠陥を思い知らされた。
 接地の瞬間、足首から先は着地の衝撃を和らげるために駆動する。一度退いた足は言わずもがな、前進に適したかたちをしてはいない。
 必然、一瞬の隙が生じざるを得ない。前に踏み出すためには、地を後ろに蹴る必要があるのだから。
「────ッッ!」
 それでも、それを承知のうえでやるしかない。
 少女特有のやわらかな足首が躍動する。着地の衝撃をそのまま受けて、反動で足裏を跳ね上げさせる──"飛鳥"の型。
 足が半ば浮いた瞬間、爪先がしなやかに地面を蹴り抜く──"早打"の型。
 疾駆する。ルクスが剣を振り落としたまさにその刹那、シオンは彼の眼前に肉迫した。
 矢のように飛ぶ────"放たれた矢アローヘッド"の型。止まらず短剣をまっすぐ突き出し、
「破ぁッ!!」
 返す刀の切り上げに、シオンは呆気なく撃ち落とされた。


「悪くない」
 ルクスの一撃にあえなく昏倒させられたシオン。
 彼女が芝生のうえで目を覚まして開口一番、ルクスは屈みながら厳かにそういった。
「……ありがとうございます」
 ルクスが世辞を言うことはめったにない。どうやらシオンが掴んだ"魔剣"の要諦は間違っていなかったらしい。
 だが、その完成度はルクスに及ぶべくもない。初めてなのだから当然といえば当然だが、それにしても見事にしてやられたもの。
 仰ぎ見た空はまだ明るい。そう長い時間気絶していたわけではないようだ。
「私が師に教えを受けた時よりは、いくらか上出来といえるだろう」
 そういってルクスは立ち上がる。木剣はすでに下ろしていた。
 今日はここまでということだろう。日が落ちるまでルクスがついていることはめったにない。
 時に末姫と戯れようと、彼はこの国の王なのである。その貴重な余暇を妻と過ごすこともなく、不肖の娘の剣術指南に使うのだから全くわけがわからない。
 このような戯れに耽るよりいっそ、母親を寵愛し差し上げては下さりませぬか。打擲される覚悟を決めてそう箴言したこともある。
 結果は黙殺された。背を向け、殺意にも似た凶悪な剣気を浴びせられながら。
 それ以来、同じことは二度と口にしていない。打擲される覚悟はあっても斬り殺される覚悟はなかった。
 その点シオンはやはり剣士ではなく、剣が使えるだけの小娘に過ぎなかった。
「……陛下が編み出したものでは、ないのですか」
「我が師より伝わるものだ」
 師のことはかねてより聞き及んでいた。
 老齢ゆえに一線を退いてはいるが、かつては"剣魔"と呼ばれた稀代の剣士。
 現在は、華陵帝国から簒奪した"魔剣"の一振りを守護する任についているという。つまり事実上の"魔剣遣い"である。
「もっとも、師の技とは別物に成り果てているだろう。おまえもいずれそうなる。それでいい。おまえと私は、あまりにも違うのだから」
 そのままルクスは背を向ける。広くも老いた王の背中が、少しずつ遠ざかっていく。
 その後姿に、シオンは言わずにはいられなかった。
 言うべきではないことと知りながら、少女は片腕を突いて立ち上がる。
「私には、無用な長物では御座いませぬか」
 このような技──あるいは剣術そのものが無為なのではないか、と。
 武芸者として腕を上げるほどにシオンの違和感はいや増した。
 仕込まれた武芸が用を果たしたことなど一度もない。少女の身分がそれを許しはしない。
 ただ己の技を継がせたいにしても、シオンを選んだ理由がわからない。
 長子は才能が無かったというからまだしも、第二子はまだ幼いという。つまり、時を待てば健康な男子に剣術を仕込むこともできる。
 にも関わらずルクスはそうはしなかった。彼はあえて、不肖の娘であるシオンを選んだ。
「なぜ、私なのですか。なんのために、私に教えを与えたのですか。ここに至ったからには、わけを教えてはくださいませぬか」
 平坦な、色のない声がにわかに上ずる。
 塞いでいたものが一気に吹き出るかのようだった。
 ──絶技とも言い換えるべき"魔剣"。きっとこれが最後の教えなのだと、シオンはなかば直感する。
 なればこそ、シオンは問わずにはいられなかった。
 なにゆえに、と。
「いつか」
 王は振り返らなかった。
「いつか必ず、役に立つ時が来る」
「仰っては、くださらぬのですね」
「そうだ。秘さねばならない」
 ルクスは断固として言いきった。
 シオンの手から力が抜けていく。手から短剣が零れ落ちる。
 考えてもわかるはずもない。
「先の"魔剣"もまた、秘さねばならない。種が割れれば対処は容易いからだ。……だからあれは、未完成なのだ。誰に知られようと、読み切られようと、問答無用で斬り捨てる。そうでなければ極限には、剣理の真髄には程遠い」
 この期に及んでも剣術か、と。
 それでもシオンは王の言葉を刻み込んだ。それこそが、実父との唯一の繋がりともいうべきものだったから。
 いつか必ず、役に立つ時が来る。
 その言葉を信じて、その時を待つほかはない。
 ならばせいぜい、練り上げてみせよう。秘すべき"魔剣"を己の技としてみせよう。
「ゆえに、あえて名付けるならば」
 ────その時の訪れは決して遠くはなかった。
 戦乱の予兆。第一王子のクーデター。王位の転覆。
 父王ルクス・ファーライトの斬首刑。
 天地がひっくり返るような転機によって、シオン・ファーライトは追われるものに成り果てた。
 かくしてルクスに叩きこまれた剣術は、彼女を生かすというかたちで実を結ぶ。
 果たしてそれはルクス・ファーライトの思惑通りであったのか、否か。真意は冥府の底にある。
 ──そんな未来をまだ知らぬまま。
 ルクスは、娘を生かすその剣の名を口にする。
「秘剣────」


「────再臨剣リバースエッジ
 白刃の剣影が駆け抜けた。
 至近から斬り上げた短剣が、グラークの胸を斜めに通り抜けていく。
 ひゅんと刃が空を切り、残心。
 シオンはグラークとの間合いを適切に保ち、刃を手元に引き戻した。
 少女の流血はなおも止まらない。周囲を取り巻く毒煙が息をすることも許さない。
「────ふ」
 ぴ、とグラークの軍服が浅く刻まれる。
 瞬間、当惑に満ちていた表情がたちまち陰湿な笑みに歪んだ。
 笑いながら、グラークは手首を返す。
 シオンの脇をすり抜けていった"奇剣・毒操手"の刃先が、再び少女に狙いを定める。
「く、くくッ! とんだ虚仮威しでしたねェッッ! これで万策尽きたでしょう、せいぜい甚振って差し上げますからねえッ、くくッ、ひひッ、ひッ────ぎゃァアアアアアアアアアアアアッッ!!!!」
 刹那。
 高らかに哄笑していたグラークの口から凄絶な悲鳴がほとばしった。
 刻まれた軍服の軌跡にそって、致命的な刃傷が駆け抜ける。
 あまりの疾さ、鋭さに、男の感覚が追いつかなかったかのよう。苦痛にのたうち、壊れたようにグラークは痙攣する。
 胸を斜に斬られた傷口からおびただしい血流が噴き上がる──周囲に濃厚な血煙が撒き散らされる。
 乱れ咲く朱き大輪の花。
 魔剣を制御できなくなったのだろう。立ちこめた血煙に追いやられるように、毒煙が少しずつ霧散していく。
 その隙をむざむざ逃すシオンではない。深手を負って絶叫するグラークに、少女は容赦なく短剣を向けた。
「────弑ィッ!!」
 魔剣を握る手首を斬り上げる。ひゅん、とあえかな風音を引き連れて刃が走る。
 グラークの手首から先を刎ね飛ばす。
「あ゛ッ、ぐ、ひぎィィィィィィッ!! わ、わたしの、私の手がァァァッッ!!」
 ────じゃららららッ。
 癇に障る音を立てて地に落ちる蛇腹剣──"奇剣・毒操手"。
 遣い手を失った魔剣が沈黙する。これで毒煙に悩まされることはなくなった。
「うるさい」
「あ、ぁ、がァァァァアッ!?」
 シオンはさらに残った手を適当に切り飛ばす。
 両手首の断面から血が止めどなく溢れる。まるで奇妙なオブジェのようだった。
 これで男の勝ち目は万にひとつも無くなった。
 わざわざとどめを刺す必要もない。放っておけば出血多量で死ぬだろう。
「き、貴様、この私に、私は、私は先の戦争の功労者なのだぞッ!! 私は────」
 もはや立っていることもできず派手に転倒するグラーク。半ば錯乱しながら聞くに堪えない言葉を吐き出している。
 男が少女を睨めつけた瞬間、必死に喚き散らしていた口がぱったりと閉ざされた。
 シオンの冷め切った鋭い視線。死にゆく家畜を見るような冴え冴えとした目付きがそこにあった。
「そう」
 と、シオンはいかにも興味なさげにつぶやき、グラークの背中を踏みつけにした。
 しっかりと脊椎に狙いをつける。そこに思い切り力を加えれば、少女の力でも破壊することはたやすい。
 それでもじたばたとあがくことをやめないグラークに鋭く言いつける。
「暴れないで。静かにしないと殺す。今から質問をする。答えなければ殺す。黙っていても殺す。嘘をついたと私が判断したら殺す」
 一方的に言いきって、ぴたりと刃先を首筋に添える。やろうと思えばすぐにでも頸動脈を掻き切ることができる。
 それでようやくグラークは大人しくなった。
 部下を使い捨てに、愉しみのために殺しても、自分が死ぬのは怖いらしい。死の恐怖に痙攣する男を、シオンはひどく醒めた目で見下ろす。
「私を追っているのはあなただけ?」
「くッ……そうですねえ、今は、私だけだと思われますが……じきに、私が敗れたことも知れるでしょう。そうなれば、あなたもお終いでしょうねえ。別の"魔剣遣い"が差し向けられるに違いありません。どうです、私の命と引き換えに取り引きをなさっては、なにせ私は数限られた"魔剣遣い"のひとり、ことによってはあなたのご助命も」
「あまり余計なことをいうようなら殺す」
 時間稼ぎに付き合うつもりはない。シオンの脇腹からは今も血が流れ続けている。傷口を締め付けてはいるが、完全に申し訳程度の処置である。
 もしかしてとは思うが、新手や伏兵が潜んでいないとも限らない。
「あなたの部下は、他には」
「……私の直属ならば、ひとりも。ですが、斥候・偵察として別働隊が潜んでいる可能性は低くはないでしょう」
 こちらの剣については知られたと考えるべき、ということだろう。
 グラークの蛇のように陰湿な声が滑りこんでくる。別部隊の介入を示唆するような言葉。
 あなたも手負い、そうなれば困るのはあなたでしょう──まるでそう言わんばかり。
 だが、聞くに値しない。
 この男の頭の中にあるのは、今なんとしてでも生き延びることだけ。それがよくわかったから。
 シオンは何気なく視線を落とす。
 今も踏みつけにされているグラークは、必死に腕を伸ばしていた。手首から先を失った腕はなにも掴むことはない。
 向けられたほうには、シオンが切り飛ばした手が転がっている。切断面はきれいな切り口だった。腕の良い医者にかかれば元通りになる見込みもあるかもしれない
「最後。あなたに命令を下したのは」
「──トラス・ファーライト王陛下。ひいては宰相バルザック殿ですねえ、一体なにを拘っているかはご存知ありませんが」
 そういったっきりグラークは口をつぐむ。こだわりの対象、すなわちシオン・ファーライト。彼女をただの小娘などとはもはや死んでも口にすまい。
「……そう」
 シオンはその名をしかと耳に聞く。
 覚えていなければならないと思った。父王が破滅し、母を死に追いやったその元凶。そして現在、シオン自身を付け狙う冥府の獄卒ども。
 決して忘れはすまい。シオンはちいさな胸に深く刻みこむ。
 その瞬間だった。
「────くくッ」
 足元で聞こえる陰湿な笑い声。
 同時、土のうえに転がっていた魔剣──"奇剣・毒操手"が空気の抜けるような音を発した。
 無数にある噴出口から、輝くなにかが撒き散らされる。
 針だ。ひとつひとつは微細ながら、確実に毒煙が馴染まされているであろう厄介な凶器。
 ──主の手から離れようとも、魔剣とはそのこころを汲みとるものらしい。
 舌打ちしながらも、シオンはそのひとつひとつを見て取る。輝くそれらが針であることを認識する。
 ひどく血を流しているにも関わらず、シオンは冴え渡った機動で毒針を全て回避した。
 しかし当然、グラークを踏みつけにしていた足は外れてしまう。
「甘い、甘いですねぇッ! 私ほどの遣い手を生かしておいてはこうなるが必定、あなたは千載一遇の好機を────」
 グラークは傷を負った身体を引きずって必死に立ち上がる。そして目当てのものに向かって、一目散に駆け出した。
 シオンはそこを狙い、目視もせずに短刀を放る。
 グラークの狙いなど、もはや意識するまでもなくわかっていた。
「あ」
 蛇のような眼が驚愕に丸く見開かれている。
 男の目と鼻の先。落ちた男の掌に、ストンと刃が突き刺さる。
 筋肉が貫かれる。筋繊維がズタズタに破壊される。止めどなく血が流れていく。
 もはやその手が元通りになることは二度とない。
「あ────ぁぁぁぁ」
 絶望のあまりに顔が引きつる。表情が歪む。
 男の身体から力が抜け、膝から土に崩折れた。
 ──ざ、ざ、ざ。
 その背後から聞こえる、ちいさな足音。
 少女の姿をした鬼は、男の背中を蹴りつけ、再び踏みつけにした。
 グラークにもはや暴れる気力はない。
「た、助けて……お命だけは、どうか……約束が、違うでしょう……言うとおり、知る限りの情報は吐いたではありませんか」
 顔をくしゃくしゃにしながら、必死に命乞いを口にする。
 往生際の悪いこと、と少女のため息。
「生かすといった覚えは、ない」
 シオンは素っ気なく言い捨て、掌を貫いた短剣を拾い上げる。
 男の手だったものだけを捨て、刃先を首に突きつけた。
「そ、そんな、バカなッ、ァアアアアアアアアア────ッ!!!!」
 薄皮三寸、刃を潜らせただけでも人は死ぬ。
 命を奪う感触が手に伝わる。
 響き渡った断末魔は、先日狩った鹿のものと少しだけ似ている、とシオンは思った。

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