亡国の剣姫

きー子

捌、めぐりあわせ

 森を抜けた、とシオンは思った。
"毒操手"グラーク・メルクリウスを撃退してから数日後のこと。手負いの身体を気遣いながらの遅々とした歩みが、ようやく実を結んだ瞬間であった。
 陽の光も差さないような暗い森は遠ざかり、開けた地平線の向こう側にシオンの求めた土地が見える。
 六水ろくすい湖。
 その名の通り、広大無辺な溜池の水が六つの流れに枝分かれしている湖である。俗に"竜の水源地"とも呼ばれるのは、六本の支流をそれぞれ四本の足と一対の翼になぞらえてのものだ。
 その巨大さたるや、端から端までを見渡すこともできないほど。道を横切る支流には何本もの橋がかけられており、橋渡しの船頭による行き交いも盛んである。湖の周りにもやはり人が多く、露店を開く流れの商人も珍しくない。
 それはこのような御時世であっても変わらないようだ。
 このような御時世だからこそ、というべきか。
 シオンはそんな人の流れにまぎれるように、六水湖へと辿り着く。その歩みはもはや以前のものと変わりない。
 傷は完全にとまではいかないが、癒えていた。森でいい薬草を見つけることができたのは幸いであった。食べるものにも困らず、傷は定期的に洗い清め、休息も欠かさず取った。グラークを撃退した影響からか、監視の目は以前より減っているようだった。
 おそらくはほんの一時のことだろう。シオンは思う。
 本格的な討伐隊がじきに差し向けられるはずだ。今はその間隙とでもいうべき期間に過ぎない。
 すでにシオンは新生ファーライト王国の明確な"敵"だった。グラークを殺害したことは、それを決定的にしてしまった。
 シオンは一向に構わなかった。
 あれは元より彼女の敵だ。シオンの認識はなにも変わっていない。ただ、相手が本気になるだけのこと。
「……は」
 ならば、今のうちに準備くらいはさせてもらうとしよう。
 シオンは湖のふちに沿ってのんびりと歩いていく。目指すはちょうど湖の反対側。つまりは西へと抜ける道だ。そこに着くまで、半日以上は歩かなければならない見込みである。
 船に乗ってまっすぐ突っ切ることも考えたが、やめた。いくら急いでも物資がなければどこかで息切れする。それでは本末転倒だ。
 身を隠すようにすっぽりと黒外套を羽織り、出ている露店を順次見て回るシオン。
 端的にいって不審だが、この場に限っては珍しいことではない。
 食い詰めた犯罪者、落ちのびた敗残兵、村を焼かれた農民、土地を失った難民。行き場のない彼らを水の恵みはわけへだてなく受け入れる。この近辺にいれば少なくとも渇きに悩まされることはなく、竿と糸を垂らせば餓えることもない。特にこの季節はそうだ。足が早いうえによく穫れるので、売り出されている魚はやけに安かった。
「どうした嬢ちゃん、ママとはぐれたのかい」
「こいつを持っていきな、どうせろくに売れやしねえからな」
「行き場がないというならご一緒なさいますか。顔のほうは良いものを持っていますよ」
 歩いているうちにろくでもない連中からちょくちょく声をかけられる。つまらない野次や冷やかしが大半だ。
 最後のものは丁重に断った。飢えた農民から子どもを買う手合だろう。一瞬食い下がる気配を見せた身なりの良い男は、シオンの右手が常に短剣の柄尻に絡んでいるのを見た瞬間、そそくさと下がった。
 気づかないのも無理はなかった。シオンの左手は、呑気にも串焼きの鮎を口元に運んでいたのだから。
 噛みちぎるように齧りつく。野趣に富んだ味だが悪くはなかった。塩はさっぱりきいていないが香ばしく、脂が乗っている。骨も柔らかい。
 脂で汚れた口元を舐めながらシオンは考える。
 まず、優先すべきは食糧以上に医薬品だ。実際に傷を負って骨身にしみた。薬とまではいわないが、包帯くらいは絶対に用意したい。もう粗末な布を包帯の代わりにするような真似はごめんである。
 着実に国境線に近づいているという場所柄もあってか、買い求めるのは難しくなさそうだった。
 旧王国時代の大規模な軍事行動を見越してか、医療品を仕入れていた商人が結構いるのだ。その在庫を捌いている光景もしばしば見る。安くはない買い物だが、相場よりは安い。シオンの持ち金をはたく価値は大いにあるだろう。
 そして次に、武器。三本ある短剣のうち、二本はかなり毀れてしまっていた。
 グラークの"奇剣・毒操手"とまともに打ち合った時の傷だろう。"魔剣"とぶつかって折れていないのだから、これはむしろ僥倖といえる。
 確かに僥倖なのだが、困る。いつ折れてもおかしくない剣に命を預けられるわけがない。跳ね飛ばされた刃が自分に刺さったりしたら笑うに笑えないだろう。
 だがシオンの御眼鏡に適う剣は見つからなかった。というより、そもそもほとんどの剣は成人男性の手に馴染むように打たれているのである。見つかるほうがおかしいのだ。
 シオンの剣は刃こそ数打ちだが、柄や握りは専用に作られていたのだろう。手をかけた鍛冶師は王都にいるというから、これはもう諦めるしかなかった。
 残る健在な剣は一振りのみ。心もとないことこの上ないが、贅沢はいえない。
 せいぜい刃を打ち合わせないように気をつける。いざという時のため、この際使い勝手は無視して使い捨ての剣を用意しておく。できる対策といえばその程度のものだ。
「一本下さい」
「気に入ったのかよ」
「……そこそこ」
 改めてお金を出して二尾目の串焼きを買う。頭を丸かじりすると口の中にあふれる苦味がなんともいえない。
 思考とは裏腹に、身体は栄養を求めていた。あれから獲物にありつくことはなく、シオンは慢性的な空腹に苛まれていたのだった。
 なんとなれば手負いの、それも未熟な狩人に獲られるほど獣は甘くない。獣は特に血の臭いには敏感だ。
 森を抜ける直前ともなれば虫を食べるか食べないか、という有り様だった。さすがのシオンも、虫に齧りつくのには大変な勇気を要した。
 二度とやりたくないと思った。
 食べ歩きながらいくつもの橋を渡り、その間に包帯などを買い集める。少しずつ路銀の底も見えてきた。
 だが、旅の終わりはまだまだ見えそうにない。
 歩くうちに、いつしか日は傾いていた。朱い夕陽がゆっくりと水面の影に沈んでいく。
 残照のような光に照らされる白いかんばせ。シオンはふと惹きつけられたように、水平線の彼方を見やった。
 目を奪われる光景。湖の向こう岸は見えもしない。ぱちぱちと瞳を瞬かせ、シオンは眩しそうに目を瞑る。
 湖の周りでは、こぞって夜営の準備が始まっていた。灯りは少ないが、賑やかしさはなおも絶えることがない。
 思い切り沐浴をしたかったのだがこれでは難しそうだ。ぱっと見では平民の娘に過ぎないのだから大した問題はなかろうが、シオン自身の気が引けた。
 ────どうしたものやら、と考えていた、その時だった。
 蹄鉄の音がした。馬の蹄が、やわらかな葦原を噛んでいる音だった。
 その音が、シオンの目前でぴたりと止まる。
 どうして気づかなかったのか。馬体はシオンに影を落とすほど大きかった。
 見逃しようがないほど立派な馬である。体格からして軍馬だろう。全身がこわい黒毛に覆われていたが、瞳はやけにつぶらな碧眼だった。
 油断していた、ということはありえない。シオンは確かに人の間にまぎれていたが、それは刺客のたぐいがまぎれこんでいる可能性も高いということ。神経は常に張っていた。
 柄の悪い男なども多く、財布をすられでもしたら洒落にならない。
 警戒は怠っていなかった、はずなのだ。
「────ぁ」
 シオンは呆気にとられたような声を漏らし、その馬を見上げた。
 馬上にはひとりの男がいた。
 夕陽の逆光で顔がよく見えない。頭髪は薄く、顎下にたくわえられた髭は雪のように真っ白。
 すっかり痩せ細った身体を、かっちりと軍服に包んでいる身なりのよい老人。腰には一振りの剣を帯びている。
 軍服のうえから、黒地に鈴蘭の花弁が散らされた陣羽織を羽織っている。
 洒落たお爺さんだ、とシオンは間抜け極まりないことを考える。
 同時に少女は直感した。
 死が私の前に形をなしてやってきた────と。
「お初に、お目にかかりますなあ」
 逆光がかった老人の細面から、糸のような視線が投げかけられる。
 鋭く細められている。だが、敵意はなかった。だからこそシオンの警戒網をあっさりと抜けられたのだろう。
 そのことにかえってシオンは困惑した。
「シオン・ファーライト。ぬしに間違いはなかろうな、御嬢さん」
 老齢らしからぬ洒脱な語り口。それが男に不思議と似合っていた。
 確認でもなければ、問いただすわけでもない。すでに老人は、少女がシオン・ファーライトその人であることを確信している。
 シオンは一瞬考える。
 このまま脇目もふらず背を向けて逃げ出す。できなくはない気がする。
 そして想像した途端「だめだ」と思った。駆け出した瞬間に背中から斬り捨てられるヴィジョンしか目に浮かばない。
 馬の巨体に比べればちいさくすら見える老躯。シオンよりは上背があるが、その程度だろう。肌に刻まれた皺はひどく深い──おそらく七〇は下るまい。
 だというのに、シオンには、逃げ切れる筋道が全く見えなかった。
「────はい」
 シオンはちいさく頷く。
 出来そうにもないのだ。もはや逃げも隠れもすまい。短刀に添えた掌が柄に指先を絡ませる。
 老人はすでに間近にいた。お互いの声はお互いにしか聞こえない。
「そうか」
 ひどく何気ない気軽さで、老人はいう。
「ゆえあっておれはおまえさんを斬りにきた。だが、おれの剣も刀も、骸も衆目に晒すのは本意でない」
 ぱち、とシオンは瞳を瞬かせる。堂々たる老爺の武芸者振りに、曇りや迷いはかけらもない。
「岸をうつさんかね。おれがいい場所を知っている。死ぬにはいい場所だ。損はさせぬよ」
 シオンとまるっきりすれ違うように、黒馬がゆっくりと歩みを進める。
 軽やかな蹄鉄の足音。馬は完全に男に従っていた。それが当然であるように。
 老人はするりと滑るように下馬し、地面にくびきを打った。馬を停めておくためのものだろう。
 歩くつもりらしい。老爺はシオンを手招きし、ゆるゆると肩で風を切っていく。
 風流。そんな言葉をそのままあらわしたような立ち姿。
 その背についていく義理はない。彼が誘うのは死に場所だ。それもシオンのような子どもを、若い娘を引っ掛けるような気軽さで。
 しかしついていかなければ、彼の刃はシオンの臓腑に達するだろう。
 恨みはなく、敵意もなく、さしてやりたくもないが、必要があるならばやる。
 そんな泰然とした剣気を、彼の老躯は発していた。
 果たしてどこに連れていかれることやら。そんな懸念は、四半刻も経たないうちに晴れた。
 老人は船頭の姿を見つけるなり足を止めた。小舟が停泊する桟橋は六水湖のあちこちにあった──そんな桟橋のひとつで、老人は船頭と掛け合い始める。
 なにせほとんど日が沈みかけている刻限である。船頭は渋ったが、老人が示した額面に眼の色を変えた。
 時間の沙汰も金次第ということ。商談はつつがなくまとまった。
 シオンは船頭の案内に従い、小舟の船首側に大人しく座る。老人は反対の船尾側に座った。お互いに背を向け合うよう格好好である。
 ふたりの間には船頭が入り、穏やかな水面をゆっくりと漕ぎだしていく。
 シオンと老人の間に漂うただならぬ雰囲気を気取ったのだろう。同舟するものたちの揉め事はご法度であるため、船頭はこのように客を乗せることがしばしばある。客を船から下ろすときも、まずは船首側に乗っている客を下ろし、しばらく待たせてから船尾側の客を下ろすのだ。
「ときに、ご老公」
「くそじじいで結構」
 背中あわせのまま、ふたりは言葉を交わす。
 岸辺が遠ざかっていく。互いの声のほかには音もない。虫の鳴く声さえ遠くなる。
 船頭はおおいに肝を冷やしていたが、特に気にしないことにした。
「では、お爺さん。この舟は、どちらに向かっているのです」
「おれにはおまえさんくらいの孫がおる。そいつぁやめてもらいたい────島だ。六水湖の真ん中あたりには、ちょっとした浮島がある。なんにもないがね。水面が透き通るくらい綺麗で、月がよく見えて、季節に睡蓮の花が咲く」
「結構なことではないですか」
「道理というものを知っているなあ。そう、まことに結構。酒と女があればなおいい」
「あいにく、どちらも私に望むべくはありません」
「おぬしに女を求めるほど狂ってはおらぬ」
 老爺は呵呵と笑った。枯れた声に反して闊達な笑い声だった。
「しかれども、剣は望むことができるであろう。シオンとやら」
 シオンは答えなかった。船頭が緊張のあまり泡を吹きそうになっていたから。
 転覆でもしれたらさすがに困る。すでに岸辺は遠いため、泳いで戻るのはそれなりの労だ。そして水中戦の鍛錬はさすがにほとんど受けていない。
 代わりにシオンは問いかけた。
「では、呼び名を私にください。私はあなたの名を知りません────あなたは、何」
 誰、とは聞かなかった。
 何者か。それがわかるだけでも十二分。
 聞くまでもなくすでに、只者でないことは容易に知れている。
 けれどもシオンが得た答えは、想像の域を絶していた。
「ジムカ・ベルスクス」
 老爺──ジムカはそっと髭を撫で付けながら、いった。
 シオンの矮躯を電撃のような戦慄が打つ。
「"剣魔"なんぞ呼ばれてもいたがよう、まぁ、しがない人斬りだ。今はせいぜい錆刀さびがたなってとこかのう────"魔剣"遣ってようやくの一丁前よ」
 呵呵と笑ってジムカは柄尻を打つ。
 ジムカ・ベルスクス。"剣魔"ジムカ。シオンはその名を口の中でひそかに繰り返した。
 シオンがとうとう敵うことのなかった剣の師、ルクス・ファーライト。そのまた師にあたる男。
 いわば、孫弟子と大師とでもいったところか。面識こそ全くなかったし、きっと会うこともないだろうと思っていた。
 仮に出会ったとして、このようなかたちで会うことになろうとは思いもしなかった。
「ぬしに剣を仕込んだのもやつだろう。その剣を見せてくれ、このおれに────のぅ、"魔剣殺し"」
「……世の中、ままならないですね」
 いよいよ命運も尽きたといったところか。
 師にすら敵わなかったというのに、そのまた師にどうして敵うというのだろう。
 ジムカの言葉はどこまで本意かまるでわからない。全てが本気のようにも、全てが虚のようにも見える。全く読み切れない。それがなにより恐ろしい。
「……は」
 天を仰ぎ、憂いを含んだため息を漏らす。
 仰ぎ見た空には憎らしいほどに真円の月が浮かんでいる。
 その鮮やかな光を身に受けながら、同門の少女と老爺は互い相食む時を待つ。
 月の下、船頭が泡を吹きながら必死に舟を漕いでいた。


 ふたりを乗せて、水面に揺れる小舟の影ひとつ。
 まるでそれを見送るように、奇妙な五人組の一団が視線を送っていた。
 彼らは白いローブで全身を覆い、おもてを仮面の裏側に隠している。五人が五人とも全く同じ服装である。
 仮面は、公教会が伝える悪魔の面を模したものだ。悪魔に堕してでも異端は逃さない、という断固たる意志の象徴。それが公教会に所属する異端審問官の印だと、知らぬものはこの国には存在するまい。
 触らぬ神に祟りなし。六水湖の周辺にたむろするものは彼らを見た途端、すぐさま見なかったことにして目を逸らす。つまらない理由で異端認定でもされたら堪ったものではない。
 あまりに目立っているにも関わらず、まるで誰にも見つかっていないように大手を振って往来を行く五人組。なぜこんなところに異端審問官が、と人々は大いに肝を冷やしていた。
「……霧が、濃い」
 五人の代表格らしい、上背のある男がぼそりと言う。
 日が落ちて、一気に気温が下がったせいだろうか。
 六水湖の水面からやにわ白い霧が吹き上がり、彼ら五人の視界に覆いをしている。
 見えていたはずの小舟の影が、やがて分厚い霧の向こう側に消えていく。
 これでは舟の行き先を確かめるべくもない。追いかけるなどもってのほかだ。五人で手分けしても追跡することは不可能だ。
 この成り行きさえ織り込み済みだとすれば、あの男は全く大したものだった。老いてなお"剣魔"の異名に違えなし。
 彼はシオンをともなって、見事に五人の監視を撒いてしまった。
 それはまさに離れ業と言うほか無い。
 五人は皆、人間を逸脱した感覚器官と身体能力を有する"人狼族"。人ならざる異種だけで編成された遊撃部隊である。
 つまり彼らは異端審問官などではない。人狼族であることを隠すための単なる偽装だ。
 人狼族の視力をもってすれば、遥か水平線の彼方の向こう側を見通すことさえ難しくない。
 だがそれも霧が晴れればの話である。今は自慢の金眼も全くの無力。異端審問官もとい人狼たちは意気消沈し、さすがに肩を落としていた。
「いかがなさいますか。ある程度の方角・距離は掴めなくもありません。いざとなれば狙撃も」
 若い声だ。意気軒昂な部下の言葉を、しかし人狼の遊撃隊長ディエトリィ・ヴォルフ──ヴォルフ族のディエトリィ──は一蹴する。
「無駄なことはやめろ。警戒を強めさせるだけだ。あれは千里先の音まで聞きかねん」
 そして一度警戒されれば、命中は絶対にない。ディエトリィは五人各々がたずさえる杖を一瞥して首をふる。
 正確には、杖に偽装した銃剣。彼らはその扱いに極めて熟練しており、時に猟兵とも称される。
 特にディエトリィのものは"特別製"である。人狼族に伝わる秘宝とでもいうべき一振り。幸いにも王国に接収されることをまぬがれ、今は人狼族一の勇士ともいわれるディエトリィの手の中にある。
「ですが」
「くどい。それより先んじて周辺の桟橋を押さえる」
 この霧では、舟も少しは難航するだろう。無理に追跡するよりは、拠点を制圧して待ち構えたほうがよほどいい。
 部下たちは腕は良いが、功に逸りがちなのは欠点だ。
 それというのも彼らが"人狼族"であるため。ひいては、根強く残っている王国への敵愾心のためである。王国の統治は穏健なものだったが、それでかつての戦の恨みが消えることはなかった。
 信頼を勝ち取り、力を蓄え、周辺勢力との関係を築き、再び独立を目指す。それこそが人狼族の悲願である。そして世が乱れている昨今はまさに絶好の機会といえる。
 変心が疑われる"剣魔"の監視、あるいは始末。そして逆賊の討伐。これらを一気に果たすことができれば、人狼族は目的に大きく近づくことができるだろう。宰相バルザックの信頼を勝ち取れるのだ──戦功を急ぐのも無理はない。
 しかし、このような時だからこそ堅実にいくのがディエトリィの方針だ。そもそも"剣魔"を侮るべきではない、と彼は考えていた。
 ディエトリィの断固とした命に応じ、部下たちは各自動き出す。事が起きた際には"遠吠え"──人狼独自の連絡手段によって相互伝達する手筈である。
「隊長」
「どうした。ファリアス」
 そんな時、不満気にディエトリィを見やる人狼がひとり。若い女の声だった。
 ファリアス・ガルム──ガルム族のファリアス。ディエトリィよりは小柄だが腕利きで、忍耐力に長ける。目先の獲物にとらわれない。しかるべき時まで待つことができる、理想的な狙撃手。今は仮面をかぶっているが、女でありながら精悍な狼頭はいかにも戦士らしい顔つきだ。
「あたしは気に食わないよ。バルザックの野郎なんぞに良いように使われるなんてさ」
「こちらに益することもある。利用するつもりならこちらからも利用してやる。それだけのことだ」
 だが、新生ファーライト王国の樹立以降、彼女は理想的な兵士とはいえなくなった。
「一族を打ち負かしたルクスの野郎、そいつの後を継いだ王ってんならまだ命令を聞くのも我慢できる。だが、あいつらはそうじゃない」
 それがファリアスの弁である。誇り高き人狼族としての矜持のあらわれ。一理あるが、それは兵の考えることではない。つまり、彼女はこだわりが強すぎるのだ。
「それだけか。なんなら他にも聞いてやる。なんでもいってみろ。だが作戦放棄ばかりは認められん。それだけは確実にやってもらう」
「……了解しました。隊長」
 そんなファリアスだが、作戦を投げ出しはしない。口と態度は不満気でも働きぶりは素晴らしい。だからこそ彼女は、兵役に取られた人狼族の中でも随一とされる遊撃部隊に属している。
「感情的には同感だ。奴らの顎で使われるなぞクソッタレだ。そんな負債を我が子の代に残しはしない」
 その力強い言葉にファリアスはこくりと頷き返し、彼女もまた駆け出した。
 ディエトリィは自らも動き出しながら考える。
 ────それにしても、と。
 ジムカ・ベルスクスはいったい何のために監視を撒いたのか。これでは叛意ありと喧伝するようなものではないか。それがいくら考えてもわからない。
 衆目でのやり合いを嫌ったにしても、わざわざ霧にまぎれる必要はない。少し森の中に入れば人目は消える。
 それとも霧は、単なる偶然に過ぎなかったのか。
 いっそ問いただすべきかもしれない。ディエトリィはそう考えながら、押さえるべき桟橋のひとつへと向かった。
 ジムカがやられる可能性など、かけらも考えはしなかった。

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