夢見まくら
最終話
◇
「――――ん」
微弱な振動に揺られ、俺は目を覚ました。
「…………」
……夢を、見ていたような気がする。
ひどく懐かしく、胸を締め付けられるような感覚の残滓があった。
「ふぁああああ……」
それを振り払うように欠伸をして、伸びをする。
霊園に向かうバスの中には、乗客がほとんどいなかった。
「…………」
窓の外で、ゆるやかに景色が流れていく。
バスの速度が遅いので、もうすぐ到着するのだろう。
車両の窓ガラスを、雨粒が叩いていた。
雨足が強い。
『お忘れ物、落し物などございませんよう……』
しばらくぼんやりと外の景色を眺めていると、バスが終点に到着した。
車内放送を適当に聞き流しながら、バスから降りる。
「……さて」
霊園は静かだった。
先ほどのバスに乗っていた人の少なさから予想できていたことではあるが、人はほとんどいない。
……バレンタインデーに、しかも雨が降っているのに墓参りしようなんて奇特な人間は、そうそういないか。
そう自分を納得させ、俺は歩き出した。
傘をさして、ゆるやかな傾斜の坂を上っていく。
供え物と花束を入れてある紙袋が若干濡れてしまっていたが、仕方ない。
「………………」
あの夏に皐月と再会するまで、俺は一度も皐月の墓参りに行ったことなどなかった。
それは、俺が、皐月の死とちゃんと向き合っていなかったからに他ならない。
「…………」
俺は、短い時間ではあったがもう一度皐月と過ごすことで、皐月の死と、自身の気持ちと向き合うことができた。
……俺は、皐月のことが好きだ。
この気持ちは本物だ。
この気持ちだけは、本当だ。
そのうえで、皐月の死と向き合うということ。
俺自身が、前に進むということ。
そして――
『あはははは』
「――――ッ!?」
後ろを振り向く。
……誰もいない。
『あははははは』
あいつの笑い声が聴こえる。
「……チッ」
いつ聴いても気分が悪い。
「…………」
坂を上り、道を右へ曲がる。
そこでバケツに水を汲み、しばらく歩くと、とある墓の前で立ち止まった。
「よう、皐月」
前橋家之墓。
目の前の墓石には、そう刻まれている。
「さて」
墓石の周りにある、目についた落ち葉や枝などのごみを、持ってきたビニール袋に入れる。
花立を軽く水洗いして、鞄から布巾を取り出した。
それをバケツの水に浸し、黙々と汚れがこびりついた墓石を拭いていく。
布巾にはすぐに黒っぽい汚れが付着した。
あらかた拭き終えた墓石を見て、俺は軽く頷く。
そして、色とりどりの花束を花立に差した。
「っと、そうだ」
紙袋から、供え物を取り出す。
「お前は、こっちの方が好きだろ? ほら、スーパーで一番高いやつ買ってきてやったぜ?」
そう言いながら、ビニール袋から紙パックの牛乳を取り出した。
口を開き、直飲みする。
牛乳の濃厚な味わいが口一杯に広がった。
「――ふぅ」
喉を潤したところで、
『あはははははは』
「――!」
後ろを振り向く。
「………………」
誰もいない。
相変わらず、辺りには雨の打ち付ける音だけが響いていた。
「――消えないんだ」
ポツリと。
俺は呟く。
『あははははは』
「あいつの――ヨーゼフの、笑い声が、消えないんだ」
俺は軽く頭を押さえる。
……あの日以来、俺には、ヨーゼフの笑い声が聴こえるようになった。
高峰葉月曰く、幻聴は、ヨーゼフの魔術の後遺症だそうだ。
たしかヨーゼフは、『魂を侵す唄』、とか言っていたが……。
今のところ、幻聴以外の後遺症は見つかっていない。
「なんなんだろうな、これは」
嫌がらせ以外の要素が見当たらない辺り、非常にたちが悪い。
……いや、そうでもないか。
「――俺は、ヨーゼフを殺すよ。皐月」
ヨーゼフの嘲笑を聴くたびに、あの日のことを思い出す。
思い出させてくれる。
どうにもならない状況で感じた、無力感を。
皐月の心を傷つけた、ヨーゼフへの憤怒を。
皐月が死んだときに味わった、言葉にできないほどの喪失感を。
皐月は化物なんかじゃなかった。
たしかに、皐月は俺の指を噛み千切った。
俺の右手の小指は、今も欠けたままだ。
……でも、俺は皐月が化物だとは思わない。
あいつ自身が、自分が人間であることを否定したとしても、俺は、皐月が人間であることを肯定する。
皐月は最期に言ったのだ。
『よかった』、と。
ボロボロだったけど、生きている俺を見て、皐月はあのとき確かに安堵したのだ。
痛かっただろうに。
苦しかっただろうに。
それでも、俺の無事を喜んでくれたのだ。
そんな皐月が、化物であるはずがない。
あのヨーゼフが人間で、皐月が化物。
そんな馬鹿なことがあってたまるか。
「………………」
全て、終わらせなければならない。
俺が、終わらせるのだ。
……長く、険しい道のりになることだろう。
だが、諦めるわけにはいかない。
「俺は、絶対にもう二度と、自分の無力を嘆いたりしない」
高峰葉月に従事し、多少は戦えるようになった。
高峰や、ほかの人間とのコネクションも作った。
……けれど、まだ足りない。
全く足りない。
「高峰でも何でも使って、必ずヨーゼフを殺してみせる」
そんなものでは足りないのだ。
ヨーゼフを殺すには、まだ。
「全力で足掻いて……ヨーゼフを殺したら、俺もお前のところへ行くから」
それがいつになるのか、わからないけれど。
「だから、待っていてくれ。皐月」
そのときは必ず来るという、予感があった。
「……また来るよ」
墓に背を向け、俺は歩き出す。
「…………」
一度だけ墓のほうを振り向いた。
……あんなところに皐月はいない。
そんなことはわかっている。
これは俺の自己満足でしかないのだ。
でも、それでも。
「俺も、ずっとお前のことを愛してる」
この気持ちだけは、本物だと胸を張って言える。
「……約束、果たせなくて、ごめんな」
この後悔の念は、きっといつまでも俺の心に残るのだろう。
それでいい。
それがあるから、俺はかろうじて生きていける。
「…………またな、皐月」
そう言い残し、今度こそ俺は歩き出した。
雨は、いつの間にか止んでいた。
夢見まくら 了
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