夢見まくら
第二十話 演奏会
あの日以降、ヨーゼフは、ほとんどわたしのところに来なくなった。
……最初の頃は、よかった。
ヨーゼフに反抗する意思が強かったし、自分の弱っているところを見られたくなかったから、あいつが来ないのは好都合だと、そう思っていた。
――それは、小さな腹部の違和感から始まった。
「……ん」
空腹感。
この身体は人間よりもはるかに低燃費らしく、数日間飲まず食わずでも、まったく問題ないようだった。
「…………ん」
だが。
「………………」
胃の中に、なにも物がない状態が、一週間、二週間、三週間、一ヶ月と続けば、どうなるか。
「……………………っ」
……ヨーゼフが来なくなって、およそ一ヶ月。
「…………っ……あ……ぁ……」
わたしは異常なまでの飢餓感に苦しんでいた。
そもそも、一ヶ月飲まず食わずで生きていること自体が異常なのだ。
頭の回転も鈍い。
尤も、そのおかげで空腹の苦しみが多少和らいでいる気がするが。
「――そろそろかねェ」
……いつの間に、部屋に入ってきていたのだろうか。
ヨーゼフが、わたしの隣に立っていた。
「演奏会をしてあげよう。サツキ」
「……演奏会?」
確かに、だいぶ前に楽器を演奏するとか何とか、そんな約束をした覚えはあるが……。
「……遠慮……しとき、ます」
正直、どうでもよかった。
「本当にやらなくていいのかね? キミのお腹も膨れると思うのだがねェ」
「……おなか?」
「そうとも。久しぶりに、お腹いっぱい食べたくはないかね?」
演奏会で、お腹が膨れる意味はよくわからない。
……でも、さすがにもう空腹の限界が近かった。
「じゃあ……して、ください」
ほとんど思考停止した状態で、わたしはそう言った。
「――それでいい。いい子だねェ、サツキ」
大きな手がわたしの頭を撫でたが、わたしは完全にそれを無視した。
「少し待っていなさい」
ヨーゼフが退室する。
そして、すぐに戻ってきた。
「クソ……ッ! 何だよ! 何なんだよこれ!?」
「わけわかんない……わけわかんない……」
見覚えのない、男と女を引き摺りながら。
「誰、ですか?」
二人とも、大学生くらいだろうか。
目立った外傷などはなく、両手両足を何か紐のようなもので拘束されていた。
「ん? ああ。これは楽器だよ」
……もう、嫌な予感しか、しなかった。
「しゃ、喋った……?」
男のほうが、わたしを見て「信じられない」とでも言うかのような声を出した。
……そりゃそうか。
今のわたしの姿は、まさに化物そのものなんだから。
「…………」
女のほうは目を閉じて押し黙ったまま、微動だにしない。
現実を受け入れられずに、できるだけ何も見ないようにしているようだった。
「さて。それじゃあ、始めようかねェ」
そう言って、ヨーゼフは懐から何かを取り出した。
「……おい…………」
それを見た男の口から声が漏れる。
ヨーゼフの右手に握られていたのは、かなり大きなナイフだった。
見たところ、刃渡りは恐らく二十センチは下らない。
刃の部分は若干黒ずんでおり、鈍く銀色に輝いている。
ヨーゼフは、そのナイフをまるで宝物であるかのように大事そうに撫でる。
その手つきは、かつてわたしを撫でていたときのそれと、よく似ているような気がした。
「おい……何を……」
男はヨーゼフが握るナイフを見て、明らかに動揺している。
「何って、こうするのだよ」
ヨーゼフは、女を乱暴に床に押し倒した。
「ひゃあっ!?」
押し倒した女に跨り、左手で胸倉を掴み、右手に持っているナイフを女の胸に突き立てる。
「や、やめろっ! 彼女に触るな!」
ヨーゼフは男の言葉を聞き流し、いつものように微笑を浮かべながら、ナイフを振るった。
「きゃあああああっ!!」
胸からお腹にかけて、女の服が縦に切り裂かれ、白い肌が露わになる。
それを見て、男の顔が赤くなった。
「さて。まずは前奏だ」
ヨーゼフのナイフの先端が、女の胸に軽く当てられる。
そこから僅かに滲み出した血が、ナイフの先端を濡らしていた。
「や、やめてよ……。お願いだからやめて……」
「ん? 何か言ったかね?」
当たり前だが、ヨーゼフが刃を止める気配は一切ない。
「ちょ……っ、嘘でしょ!? ……やめてよっ! 本当にやめてっ!!」
ヨーゼフの微塵も躊躇いを感じさせない様子を見て、さすがにマズイと思ったのか、女の声が大きくなった。
「ふむ」
ヨーゼフは、その女の声に不思議そうな表情を浮かべ、首を捻ると、
「いやぁぁぁぁぁあああ!!」
女の胸に、ナイフをゆっくりとめり込ませた。
「痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!!」
傷口から決して少なくない量の血が溢れ、女の泣き叫ぶ声が部屋に響く。
「――ああ。弾力のある柔肌を引き裂く感触ほど素晴らしいものは他にないねェ」
「やめて、やめてっ! 血が! 血が出てるから! 死んじゃう!」
女が大騒ぎしているものの、傷自体は、そこまで深くないように見える。
……しかし。
「もうやめてください!」
わたしは制止の声を上げた。
見ていられなかった。
やっぱり、ヨーゼフの頭はおかしい。イカれている。
「……サツキ」
ヨーゼフが、わたしを見る。
「ワタシの演奏を、途中で妨げようというのかね?」
ヨーゼフの声は、ほんの少しだけ、いつもわたしに話しかけるときよりも硬かった。
「……演奏?」
これのどこが、演奏だというのだろうか。
「そう。演奏だ」
ヨーゼフは女から両手を離し、わたしのほうを向きながら話を続ける。
「ワタシは“人間”という楽器を奏でる奏者なのだよ」
「…………」
「どんなに高級な楽器を持つ奏者でも、どんなに優れた歌い手でも、それらが奏でる音は人間の苦痛が込められていない、唾棄すべき偽りの音色に過ぎない。本物の人間の魂の嘆きの音色には、絶対に敵わないのだよ」
ヨーゼフが何を言っているのか、よくわからなかった。
「……とにかく、やめてください」
音楽を何だと思っているのだろうか、こいつは。
ヨーゼフがやっていることは、ただの傷害であり、決して演奏などという高尚なことではない。
理解できなかった。
……いや。
狂人の思考を理解しようとすること自体が、間違っているのだろう。
だから――
「ならどうして、キミはそんなにイイ笑顔を浮かべているのかね?」
――そのヨーゼフの質問は、わたしの心を大きく揺さぶった。
「……え?」
ヨーゼフは左手で乱暴にわたしの頭を鷲掴みにして、鏡の前に突き出した。
「痛……っ」
「ほら。笑っているじゃないかね」
わたしは、鏡に映っている醜悪な顔面を見る。
……その顔の口元は、わずかに歪んでいた。
「そんな、うそだよ……だってわたしは……」
わたし……笑ってる?
そんな。
そんなこと。
そんなこと、ない。
「キミは他人の不幸を愉しみ、悦びを味わったのだよ」
……そうなのだろうか。
わたしは、わたし自身が知らない間に、そこまで堕ちてしまっていたのだろうか。
「わたし、わたしは……」
「それでいいんだよ。サツキ」
ヨーゼフは、わたしの頭を撫でながら言った。
「キミは正しい。最高の快楽は、他人を虐げることでしか得ることができないのだからねェ」
優しげにわたしに語りかけるヨーゼフは、まるで聖職者のようで。
「自分を偽る必要などない、サツキ。――ここにはワタシしかいない。ワタシ以外の誰も、キミの醜い側面を見ることはないのだよ」
ヨーゼフは笑顔で、拘束されている女の腕を掴み、
「ほら。朝食だよ、サツキ」
その指の先端を、わたしの唇に押し当てた。
「は……? 何言ってんの……? 意味わかんない……いみ、わかんないよぉ……」
女が何やらブツブツ呟いているが聞き取れない。
聞き取ろうとも思わなかった。
「さあ、早く食べなさい」
……仕方、ない。
ここでヨーゼフに逆らうより、ヨーゼフに従って体力を少しでも回復したほうがいい。
自分の中でそう結論づけたわたしは、女の人差し指を口に含んだ。
「――は?」
女の惚けたような声が聞こえる。
そしてわたしは、女の指を奥歯ですり潰した。
「――――ぎゃああぁぁああああ!!」
女の叫び声を無視して、それを咀嚼する。
口の中にたしかに感じる固形物の感触に、僅かな塩味に、口にからむ水分に、わたしは歓喜した。
女の皮が、女の肉が、女の爪が、女の骨が、女の管が、女の血が――わたしの渇きを満たしていく。
わたしが、満たされていく。
「いだいいだいいだいいだいいだいいいい!!」
女の泣き叫ぶ声が、室内に響いている。
「――――素晴らしい――ッ!」
それを聞いて、ヨーゼフが感嘆の声を漏らした。
「そう! 心身の苦痛によって人間から漏れ出す極上の音色! 悲鳴! 慟哭! それこそがワタシの心を! 魂を震わせるッ! さぁあ! もっともっともっともっともっともっと良質な音色を奏でなさいッ!!」
ヨーゼフは恍惚とした表情を浮かべ、興奮した様子で、乱暴に女の髪を掴む。
再び女を床に押し倒すと、今度は下腹部の布に手をかけた。
「ひっ……やだ! やだぁあっ!!」
「ああ、やはり音楽はこうでなければならない」
そう小さく囁くヨーゼフの手に握られたナイフによって、女の下半身を覆っている布が剥ぎ取られていく。
「――! やめろ! それだけはやめてくれ!」
何かを察したのか、男が今までにない大声を出してヨーゼフに懇願した。
「……何か、勘違いをしていないかね?」
男にそう尋ねるヨーゼフの声は、わたしに同じ言葉を語りかけたときと比べて、明らかに低い。
「ワタシが猿に欲情するとでも思っているのかね? 身の程をわきまえたまえよ」
ヨーゼフは再び懐から何かを取り出した。
「まあ、これを使った方が彼女により良質な痛みを与えることができるというだけの話だねェ」
そう口にするヨーゼフの手の中で、棒状の赤紫色の肉塊がぬるぬると動いている。
形だけを見るならば、女性が性的な快楽を満たすために使用されるアレに見えなくもないが、ヨーゼフが持っているそれは、いささか攻撃的過ぎる形状だった。
先端部分から手に持つ部分の際まで、小さな銀色の刃の突起が余すところなく生え出ている。
それを目にした瞬間、女の表情が凍りついた。
「……や、だぁ……いやぁ……やめてよぉ……」
女は、震えて泣いていた。
「なんでこんなことすんのよぉ……っ……意味わかんない……いみわかんない……っ……」
「ああああああああああああああッ!!! 殺すっ! 殺してやる!!」
ヨーゼフは、そう叫ぶ男に向かって、にっこりと微笑み、
「いいねェ、その声。――でも、足りない。もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっといい声で鳴けるはずだよキミは」
「…………」
わたしはこのとき、理解した。
わたしは、わたし達は、ヨーゼフに同じ人間として見られてはいないのだということを。
男の精一杯の威嚇も、ヨーゼフにとっては自らの奏でる音色の一部に過ぎないのだということを。
……この演奏会を、この悲劇を止められる者は、この場にはいないのだということを。
「……やめろ」
男の口から漏れたそれを耳にしたらしいヨーゼフは、笑った。
それは、わたしがかつて見た、獲物を前にした肉食獣のような笑みで。
「――ひっ」
ヨーゼフが肉の棒を彼女の秘部に近づける。
ゆっくりと、ゆっくりと。
だが、確実に。
「……やめろ…………やめろぉぉぉおおおお!!」
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。なんでも、何でもしますからぁ……お願いだから許して、許してください……お願いします、お願い、やめてぇ……っ」
男は怒り狂いながら叫び声を上げ、女は泣きながら懇願する。
やがて、肉の棒の先端が彼女に触れ、
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ――」
「さぁ、奏でなさい」
次の瞬間、女の断末魔の叫びが部屋の中に響いた。
◇
……そこから先のことは、思い出したくもない。
ヨーゼフの、演奏会という名の凌辱劇は延々と続いた。
彼らだったものは今、部屋の片隅に転がっている。
『ワタシは慈悲深いからねェ。キミたちがずっと一緒にいられるように加工してあげよう』
ヨーゼフのその発言のあと、文字通り彼らは加工された。
ひとつに。
ヨーゼフ曰く、あのひとつの赤紫色の肉塊の中に、凌辱されていた男と女の魂が入っているらしい。
あんな姿にしておいて、永遠に結ばれた、と笑顔で豪語するヨーゼフは、やはり、わたしには理解できない存在なのだろう。
――その様子を、人間だった頃に比べれば考えられないほどに達観していた自分自身には、気付かないふりをした。
◇
ヨーゼフの演奏会は、その後、何度も何度も行われた。
絶食させられ、狂った凌辱劇を延々と見せられ、その犠牲者の肉の一部を与えられる。
わたしに人間以外の食べ物が与えられることは、ただの一度もなかった。
精神が摩耗し、心が麻痺する。
人間としての価値観が、倫理観が、ゆるやかに死んでいくのを感じていた。
そして。
……わたしがヨーゼフと出会ってから、およそ二年後。
罪と狂気に塗れたわたしとヨーゼフの日々は、突然、終わりを告げることになる。
……最初の頃は、よかった。
ヨーゼフに反抗する意思が強かったし、自分の弱っているところを見られたくなかったから、あいつが来ないのは好都合だと、そう思っていた。
――それは、小さな腹部の違和感から始まった。
「……ん」
空腹感。
この身体は人間よりもはるかに低燃費らしく、数日間飲まず食わずでも、まったく問題ないようだった。
「…………ん」
だが。
「………………」
胃の中に、なにも物がない状態が、一週間、二週間、三週間、一ヶ月と続けば、どうなるか。
「……………………っ」
……ヨーゼフが来なくなって、およそ一ヶ月。
「…………っ……あ……ぁ……」
わたしは異常なまでの飢餓感に苦しんでいた。
そもそも、一ヶ月飲まず食わずで生きていること自体が異常なのだ。
頭の回転も鈍い。
尤も、そのおかげで空腹の苦しみが多少和らいでいる気がするが。
「――そろそろかねェ」
……いつの間に、部屋に入ってきていたのだろうか。
ヨーゼフが、わたしの隣に立っていた。
「演奏会をしてあげよう。サツキ」
「……演奏会?」
確かに、だいぶ前に楽器を演奏するとか何とか、そんな約束をした覚えはあるが……。
「……遠慮……しとき、ます」
正直、どうでもよかった。
「本当にやらなくていいのかね? キミのお腹も膨れると思うのだがねェ」
「……おなか?」
「そうとも。久しぶりに、お腹いっぱい食べたくはないかね?」
演奏会で、お腹が膨れる意味はよくわからない。
……でも、さすがにもう空腹の限界が近かった。
「じゃあ……して、ください」
ほとんど思考停止した状態で、わたしはそう言った。
「――それでいい。いい子だねェ、サツキ」
大きな手がわたしの頭を撫でたが、わたしは完全にそれを無視した。
「少し待っていなさい」
ヨーゼフが退室する。
そして、すぐに戻ってきた。
「クソ……ッ! 何だよ! 何なんだよこれ!?」
「わけわかんない……わけわかんない……」
見覚えのない、男と女を引き摺りながら。
「誰、ですか?」
二人とも、大学生くらいだろうか。
目立った外傷などはなく、両手両足を何か紐のようなもので拘束されていた。
「ん? ああ。これは楽器だよ」
……もう、嫌な予感しか、しなかった。
「しゃ、喋った……?」
男のほうが、わたしを見て「信じられない」とでも言うかのような声を出した。
……そりゃそうか。
今のわたしの姿は、まさに化物そのものなんだから。
「…………」
女のほうは目を閉じて押し黙ったまま、微動だにしない。
現実を受け入れられずに、できるだけ何も見ないようにしているようだった。
「さて。それじゃあ、始めようかねェ」
そう言って、ヨーゼフは懐から何かを取り出した。
「……おい…………」
それを見た男の口から声が漏れる。
ヨーゼフの右手に握られていたのは、かなり大きなナイフだった。
見たところ、刃渡りは恐らく二十センチは下らない。
刃の部分は若干黒ずんでおり、鈍く銀色に輝いている。
ヨーゼフは、そのナイフをまるで宝物であるかのように大事そうに撫でる。
その手つきは、かつてわたしを撫でていたときのそれと、よく似ているような気がした。
「おい……何を……」
男はヨーゼフが握るナイフを見て、明らかに動揺している。
「何って、こうするのだよ」
ヨーゼフは、女を乱暴に床に押し倒した。
「ひゃあっ!?」
押し倒した女に跨り、左手で胸倉を掴み、右手に持っているナイフを女の胸に突き立てる。
「や、やめろっ! 彼女に触るな!」
ヨーゼフは男の言葉を聞き流し、いつものように微笑を浮かべながら、ナイフを振るった。
「きゃあああああっ!!」
胸からお腹にかけて、女の服が縦に切り裂かれ、白い肌が露わになる。
それを見て、男の顔が赤くなった。
「さて。まずは前奏だ」
ヨーゼフのナイフの先端が、女の胸に軽く当てられる。
そこから僅かに滲み出した血が、ナイフの先端を濡らしていた。
「や、やめてよ……。お願いだからやめて……」
「ん? 何か言ったかね?」
当たり前だが、ヨーゼフが刃を止める気配は一切ない。
「ちょ……っ、嘘でしょ!? ……やめてよっ! 本当にやめてっ!!」
ヨーゼフの微塵も躊躇いを感じさせない様子を見て、さすがにマズイと思ったのか、女の声が大きくなった。
「ふむ」
ヨーゼフは、その女の声に不思議そうな表情を浮かべ、首を捻ると、
「いやぁぁぁぁぁあああ!!」
女の胸に、ナイフをゆっくりとめり込ませた。
「痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛いっ!!」
傷口から決して少なくない量の血が溢れ、女の泣き叫ぶ声が部屋に響く。
「――ああ。弾力のある柔肌を引き裂く感触ほど素晴らしいものは他にないねェ」
「やめて、やめてっ! 血が! 血が出てるから! 死んじゃう!」
女が大騒ぎしているものの、傷自体は、そこまで深くないように見える。
……しかし。
「もうやめてください!」
わたしは制止の声を上げた。
見ていられなかった。
やっぱり、ヨーゼフの頭はおかしい。イカれている。
「……サツキ」
ヨーゼフが、わたしを見る。
「ワタシの演奏を、途中で妨げようというのかね?」
ヨーゼフの声は、ほんの少しだけ、いつもわたしに話しかけるときよりも硬かった。
「……演奏?」
これのどこが、演奏だというのだろうか。
「そう。演奏だ」
ヨーゼフは女から両手を離し、わたしのほうを向きながら話を続ける。
「ワタシは“人間”という楽器を奏でる奏者なのだよ」
「…………」
「どんなに高級な楽器を持つ奏者でも、どんなに優れた歌い手でも、それらが奏でる音は人間の苦痛が込められていない、唾棄すべき偽りの音色に過ぎない。本物の人間の魂の嘆きの音色には、絶対に敵わないのだよ」
ヨーゼフが何を言っているのか、よくわからなかった。
「……とにかく、やめてください」
音楽を何だと思っているのだろうか、こいつは。
ヨーゼフがやっていることは、ただの傷害であり、決して演奏などという高尚なことではない。
理解できなかった。
……いや。
狂人の思考を理解しようとすること自体が、間違っているのだろう。
だから――
「ならどうして、キミはそんなにイイ笑顔を浮かべているのかね?」
――そのヨーゼフの質問は、わたしの心を大きく揺さぶった。
「……え?」
ヨーゼフは左手で乱暴にわたしの頭を鷲掴みにして、鏡の前に突き出した。
「痛……っ」
「ほら。笑っているじゃないかね」
わたしは、鏡に映っている醜悪な顔面を見る。
……その顔の口元は、わずかに歪んでいた。
「そんな、うそだよ……だってわたしは……」
わたし……笑ってる?
そんな。
そんなこと。
そんなこと、ない。
「キミは他人の不幸を愉しみ、悦びを味わったのだよ」
……そうなのだろうか。
わたしは、わたし自身が知らない間に、そこまで堕ちてしまっていたのだろうか。
「わたし、わたしは……」
「それでいいんだよ。サツキ」
ヨーゼフは、わたしの頭を撫でながら言った。
「キミは正しい。最高の快楽は、他人を虐げることでしか得ることができないのだからねェ」
優しげにわたしに語りかけるヨーゼフは、まるで聖職者のようで。
「自分を偽る必要などない、サツキ。――ここにはワタシしかいない。ワタシ以外の誰も、キミの醜い側面を見ることはないのだよ」
ヨーゼフは笑顔で、拘束されている女の腕を掴み、
「ほら。朝食だよ、サツキ」
その指の先端を、わたしの唇に押し当てた。
「は……? 何言ってんの……? 意味わかんない……いみ、わかんないよぉ……」
女が何やらブツブツ呟いているが聞き取れない。
聞き取ろうとも思わなかった。
「さあ、早く食べなさい」
……仕方、ない。
ここでヨーゼフに逆らうより、ヨーゼフに従って体力を少しでも回復したほうがいい。
自分の中でそう結論づけたわたしは、女の人差し指を口に含んだ。
「――は?」
女の惚けたような声が聞こえる。
そしてわたしは、女の指を奥歯ですり潰した。
「――――ぎゃああぁぁああああ!!」
女の叫び声を無視して、それを咀嚼する。
口の中にたしかに感じる固形物の感触に、僅かな塩味に、口にからむ水分に、わたしは歓喜した。
女の皮が、女の肉が、女の爪が、女の骨が、女の管が、女の血が――わたしの渇きを満たしていく。
わたしが、満たされていく。
「いだいいだいいだいいだいいだいいいい!!」
女の泣き叫ぶ声が、室内に響いている。
「――――素晴らしい――ッ!」
それを聞いて、ヨーゼフが感嘆の声を漏らした。
「そう! 心身の苦痛によって人間から漏れ出す極上の音色! 悲鳴! 慟哭! それこそがワタシの心を! 魂を震わせるッ! さぁあ! もっともっともっともっともっともっと良質な音色を奏でなさいッ!!」
ヨーゼフは恍惚とした表情を浮かべ、興奮した様子で、乱暴に女の髪を掴む。
再び女を床に押し倒すと、今度は下腹部の布に手をかけた。
「ひっ……やだ! やだぁあっ!!」
「ああ、やはり音楽はこうでなければならない」
そう小さく囁くヨーゼフの手に握られたナイフによって、女の下半身を覆っている布が剥ぎ取られていく。
「――! やめろ! それだけはやめてくれ!」
何かを察したのか、男が今までにない大声を出してヨーゼフに懇願した。
「……何か、勘違いをしていないかね?」
男にそう尋ねるヨーゼフの声は、わたしに同じ言葉を語りかけたときと比べて、明らかに低い。
「ワタシが猿に欲情するとでも思っているのかね? 身の程をわきまえたまえよ」
ヨーゼフは再び懐から何かを取り出した。
「まあ、これを使った方が彼女により良質な痛みを与えることができるというだけの話だねェ」
そう口にするヨーゼフの手の中で、棒状の赤紫色の肉塊がぬるぬると動いている。
形だけを見るならば、女性が性的な快楽を満たすために使用されるアレに見えなくもないが、ヨーゼフが持っているそれは、いささか攻撃的過ぎる形状だった。
先端部分から手に持つ部分の際まで、小さな銀色の刃の突起が余すところなく生え出ている。
それを目にした瞬間、女の表情が凍りついた。
「……や、だぁ……いやぁ……やめてよぉ……」
女は、震えて泣いていた。
「なんでこんなことすんのよぉ……っ……意味わかんない……いみわかんない……っ……」
「ああああああああああああああッ!!! 殺すっ! 殺してやる!!」
ヨーゼフは、そう叫ぶ男に向かって、にっこりと微笑み、
「いいねェ、その声。――でも、足りない。もっと、もっともっともっともっともっともっともっともっともっといい声で鳴けるはずだよキミは」
「…………」
わたしはこのとき、理解した。
わたしは、わたし達は、ヨーゼフに同じ人間として見られてはいないのだということを。
男の精一杯の威嚇も、ヨーゼフにとっては自らの奏でる音色の一部に過ぎないのだということを。
……この演奏会を、この悲劇を止められる者は、この場にはいないのだということを。
「……やめろ」
男の口から漏れたそれを耳にしたらしいヨーゼフは、笑った。
それは、わたしがかつて見た、獲物を前にした肉食獣のような笑みで。
「――ひっ」
ヨーゼフが肉の棒を彼女の秘部に近づける。
ゆっくりと、ゆっくりと。
だが、確実に。
「……やめろ…………やめろぉぉぉおおおお!!」
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。なんでも、何でもしますからぁ……お願いだから許して、許してください……お願いします、お願い、やめてぇ……っ」
男は怒り狂いながら叫び声を上げ、女は泣きながら懇願する。
やがて、肉の棒の先端が彼女に触れ、
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ――」
「さぁ、奏でなさい」
次の瞬間、女の断末魔の叫びが部屋の中に響いた。
◇
……そこから先のことは、思い出したくもない。
ヨーゼフの、演奏会という名の凌辱劇は延々と続いた。
彼らだったものは今、部屋の片隅に転がっている。
『ワタシは慈悲深いからねェ。キミたちがずっと一緒にいられるように加工してあげよう』
ヨーゼフのその発言のあと、文字通り彼らは加工された。
ひとつに。
ヨーゼフ曰く、あのひとつの赤紫色の肉塊の中に、凌辱されていた男と女の魂が入っているらしい。
あんな姿にしておいて、永遠に結ばれた、と笑顔で豪語するヨーゼフは、やはり、わたしには理解できない存在なのだろう。
――その様子を、人間だった頃に比べれば考えられないほどに達観していた自分自身には、気付かないふりをした。
◇
ヨーゼフの演奏会は、その後、何度も何度も行われた。
絶食させられ、狂った凌辱劇を延々と見せられ、その犠牲者の肉の一部を与えられる。
わたしに人間以外の食べ物が与えられることは、ただの一度もなかった。
精神が摩耗し、心が麻痺する。
人間としての価値観が、倫理観が、ゆるやかに死んでいくのを感じていた。
そして。
……わたしがヨーゼフと出会ってから、およそ二年後。
罪と狂気に塗れたわたしとヨーゼフの日々は、突然、終わりを告げることになる。
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