夢見まくら
第五話 小さな異変
「そろそろ食堂に昼飯食べに行かねぇ?」
そう言い出したのは例のごとく服部である。
俺はというと、英語のテキスト相手に死闘を繰り広げた後、心地よい疲労感を感じていたところだ。
「そうだな、ちょうど腹も減ってきたところだし、行きますか」
「俺も行くわ」
そう言った佐原は、だいぶ前からスマホしか触っていない。こいつ本当に大丈夫なのか……。
「あ、わたしは友達と約束があるから帰るね」
そう言って涼子さんは荷物をまとめる。そういえば、確かにそんなことを言っていたような気がするな。
「わかった。じゃあ三人で行くか」
◇
「ふぁー、疲れた」
あの後再びテキストとの戦いを終え、俺は家に帰ってきていた。
昨日も課題やってたし、最近の俺って真面目過ぎじゃないか?
いや、普段あまりにもやっていなかっただけだな……。
  そんなことを考えていると、見慣れない姿が視界に飛び込んできた。
「関さん、こんにちは」
「ああ、兼家君か。こんにちは」
名前を覚えられていた。ちょっと嬉しい。
ちなみに関さんの特徴を端的に言うと、落ち着いた雰囲気のおばさん、である。
「新しい入居希望者の方がいらっしゃるんですか?」
関さんは、このマンションの責任者であるが、このマンションに常駐しているわけではない。
俺のときもそうだったが、関さんは一度自分で入居希望者と会って、入居するかどうかを決めてもらうらしい。
「いや、むしろ逆ですね」
「逆? というと、出て行く人がいるんですか?」
「……聞いていないんですか? 君の隣の部屋の原田さん、捜索願が出されているんですよ」
……え?
「本当なんですか?」
「ええ、一昨日から。皆さんにお話を伺っているのですが、一週間ほど前から誰も見かけていないそうです」
一週間前か……。そういえば最近は隣の部屋から物音とか一切していなかった気がする。特に普段から物音が気になるわけじゃなかったから全く気付かなかった。
「そうだったんですか……。僕も最近は見てないですね」
「そうですか。また何か気付いたことなどがあればよろしくお願いします」
「わかりました」
関さんの後ろ姿を見送りながら、俺は少し驚いていた。
「人って、いなくなっても案外誰も気付かないもんなんだな……」
俺と原田さんの間に交流はほとんどなかったし、もしかしたら原田さんは親しい人が近くにいなかったのかもしれない。
けど、約一週間も誰にも気づかれずに姿をくらましているなんて笑えない。
なんとなく嫌な気分になりつつも、俺は家に入っていった。
◇
夕食後、家でまったりしていると、メールが届いた。
服部からだ。
二条と佐原にも同時送信されている。
明後日の午前七時に俺の家の前に来てくれ
テントとかの大きめの必需品は俺が自分のを車に積んでいくからお前らは持ってこなくていい
あとお前らが持っていくべき物をリストにしたから確認してくれ
その下には、歯ブラシなどの小物類の名前が何個か書かれている。
「……そうか、もう二十七日か」
二十七日から二泊三日で、服部たちと四人でキャンプに行こう、みたいな話になっていたことを思い出す。
明後日か。早いな。
明日は特に予定もないし、ゆっくりと必要なものを準備することにしよう。
◆
海斗が完全に寝静まった後、わたしは海斗の携帯電話を開いた。
さっき海斗に送られてきたメールを確認するためだ。
もちろん無断である。
……プライバシーを侵害しているのは百も承知だが、まあそこは仕方ないことと割り切っていた。
さっきのメールは、文脈から判断するに、明後日から海斗とその他三人の合計四人でキャンプに行くから準備しておくように、という内容だろう。
ということは、このメールより前に、目的地や滞在期間などが書かれたメールがあるはずだ。
そう思い、わたしはすぐにメールの履歴を確認する。
そして、それはすぐに見つかった。
滞在期間は七月二十七日から七月二十九日までの三日間。
服部翔太という友人の車で行くらしい。……この歳で運転免許持ってるのか服部くん。やるじゃん。
目的地は知らない場所だった。
コピーして検索してみると、なかなか遠い場所のようである。
車で行っても三時間ぐらいかかるのではなかろうか。
……さて、困ったぞ。
車に乗るのは、海斗、服部くん、二条くん、佐原くんの四人。これは間違いない。
ワゴン車でもない限り、テントなどを入れてスペースがすごく余っている、なんてことはないだろう。
ということは、海斗が荷物を持っていくにしても、相当絞るはず。
あれ? わたしが入るスペースなくね?
いくら今のわたしが小さめで、軟体動物並みのやわらかさでも、海斗のバッグに入ればさすがに気付かれるんじゃないだろうか。重いし。
そう、重いのだ。
サイズこそそれなりにコンパクトであるものの、10kgは確実に超えている。
……昨日の暴食のせいであることは、疑いようがなかった。
間違いなく気付かれる。
さて、どうしたものだろうか。
まず思いついたのが、海斗を動けない状態にすることだ。
つまり、海斗がキャンプに参加できなければ、わたしがこの家から出る必要もなくなり、海斗に危険が迫ってもわたしが対処できる可能性が高い、ということである。
今から海斗を夢に縛りつけておけば、三日ぐらいは目覚められないはずだ。
だが、この案はすぐに却下された。
海斗の体調が優れず、キャンプに行けなかったとしても、キャンプ自体を後日にずらされる可能性がある。この四人の中の海斗のポジションもいまいちわからないし、キャンプ場のシステムがどうなっているのかも知らないので何とも言えないのだが。
先延ばしするだけではまったく意味がない。それだけは避けなければならない。
わたしには時間がない。
何としても、近日中に、海斗を殺そうとしている人間を探し出して、始末しなければならないのだ。
次に思いついたのが、企画者である服部くんをキャンプに行けない状態にすることだが、こちらはあまり現実的ではない。
服部くんの家がどこにあるかわからないのは些細な問題だが、家の鍵が閉まっているだけで、こちらからは全く手出しできない。
わたしが移動できるのが、基本的に夜だけ、というのもつらい。
それ以前の問題として、わたし自身が、海斗の知人をどうこうすることに抵抗がある、というのもある。
もはや人ですらないわたしには、人間だった頃の良心やモラルといったものが少なからず欠けている。
だが、できれば海斗にはこれ以上辛い思いをしてほしくないとは思っている。
それを踏まえて考えると、海斗の知人を傷つけたり殺したりするのは、わたしにとっても不都合なのだ。
結局、海斗がキャンプに行くことを前提にして話を進めなければならない。
それはつまり、わたしもキャンプ場に行かなければならないということ。
整理しよう。
まず、重さ約10kgのものを、家主に気付かれずに持っていく方法を考えなければならない。
海斗のバッグに入るのは厳しい。重いから。
……こんなことになるとわかっていれば、昨日はそんなに食べなかったのに。
というか、朝いきなり海斗がまくらを干そうと持ち上げる可能性もあるわけで。
……今、冷静に考えたら、割と危ない橋を渡っていたことに気付いた。
決めた。今日から絶食する。
今日から何も食べなければ、明後日の朝には7kgぐらいにはなっているだろう。
計算は適当だ。
まぁ一応、最終手段がないわけではないが、あまり使いたくない。
……いや。
もう既に一線は越えてしまっているのだ。
今更何を思っているのか。自分が嫌になる。
被ろう。
どんなことをしてでも、海斗を守る。そう決めたんだから。
そうと決まれば話は早い。
重要な案件を片付けたわたしは、愛する男が待っている夢の世界へ旅立つことにした。
そう言い出したのは例のごとく服部である。
俺はというと、英語のテキスト相手に死闘を繰り広げた後、心地よい疲労感を感じていたところだ。
「そうだな、ちょうど腹も減ってきたところだし、行きますか」
「俺も行くわ」
そう言った佐原は、だいぶ前からスマホしか触っていない。こいつ本当に大丈夫なのか……。
「あ、わたしは友達と約束があるから帰るね」
そう言って涼子さんは荷物をまとめる。そういえば、確かにそんなことを言っていたような気がするな。
「わかった。じゃあ三人で行くか」
◇
「ふぁー、疲れた」
あの後再びテキストとの戦いを終え、俺は家に帰ってきていた。
昨日も課題やってたし、最近の俺って真面目過ぎじゃないか?
いや、普段あまりにもやっていなかっただけだな……。
  そんなことを考えていると、見慣れない姿が視界に飛び込んできた。
「関さん、こんにちは」
「ああ、兼家君か。こんにちは」
名前を覚えられていた。ちょっと嬉しい。
ちなみに関さんの特徴を端的に言うと、落ち着いた雰囲気のおばさん、である。
「新しい入居希望者の方がいらっしゃるんですか?」
関さんは、このマンションの責任者であるが、このマンションに常駐しているわけではない。
俺のときもそうだったが、関さんは一度自分で入居希望者と会って、入居するかどうかを決めてもらうらしい。
「いや、むしろ逆ですね」
「逆? というと、出て行く人がいるんですか?」
「……聞いていないんですか? 君の隣の部屋の原田さん、捜索願が出されているんですよ」
……え?
「本当なんですか?」
「ええ、一昨日から。皆さんにお話を伺っているのですが、一週間ほど前から誰も見かけていないそうです」
一週間前か……。そういえば最近は隣の部屋から物音とか一切していなかった気がする。特に普段から物音が気になるわけじゃなかったから全く気付かなかった。
「そうだったんですか……。僕も最近は見てないですね」
「そうですか。また何か気付いたことなどがあればよろしくお願いします」
「わかりました」
関さんの後ろ姿を見送りながら、俺は少し驚いていた。
「人って、いなくなっても案外誰も気付かないもんなんだな……」
俺と原田さんの間に交流はほとんどなかったし、もしかしたら原田さんは親しい人が近くにいなかったのかもしれない。
けど、約一週間も誰にも気づかれずに姿をくらましているなんて笑えない。
なんとなく嫌な気分になりつつも、俺は家に入っていった。
◇
夕食後、家でまったりしていると、メールが届いた。
服部からだ。
二条と佐原にも同時送信されている。
明後日の午前七時に俺の家の前に来てくれ
テントとかの大きめの必需品は俺が自分のを車に積んでいくからお前らは持ってこなくていい
あとお前らが持っていくべき物をリストにしたから確認してくれ
その下には、歯ブラシなどの小物類の名前が何個か書かれている。
「……そうか、もう二十七日か」
二十七日から二泊三日で、服部たちと四人でキャンプに行こう、みたいな話になっていたことを思い出す。
明後日か。早いな。
明日は特に予定もないし、ゆっくりと必要なものを準備することにしよう。
◆
海斗が完全に寝静まった後、わたしは海斗の携帯電話を開いた。
さっき海斗に送られてきたメールを確認するためだ。
もちろん無断である。
……プライバシーを侵害しているのは百も承知だが、まあそこは仕方ないことと割り切っていた。
さっきのメールは、文脈から判断するに、明後日から海斗とその他三人の合計四人でキャンプに行くから準備しておくように、という内容だろう。
ということは、このメールより前に、目的地や滞在期間などが書かれたメールがあるはずだ。
そう思い、わたしはすぐにメールの履歴を確認する。
そして、それはすぐに見つかった。
滞在期間は七月二十七日から七月二十九日までの三日間。
服部翔太という友人の車で行くらしい。……この歳で運転免許持ってるのか服部くん。やるじゃん。
目的地は知らない場所だった。
コピーして検索してみると、なかなか遠い場所のようである。
車で行っても三時間ぐらいかかるのではなかろうか。
……さて、困ったぞ。
車に乗るのは、海斗、服部くん、二条くん、佐原くんの四人。これは間違いない。
ワゴン車でもない限り、テントなどを入れてスペースがすごく余っている、なんてことはないだろう。
ということは、海斗が荷物を持っていくにしても、相当絞るはず。
あれ? わたしが入るスペースなくね?
いくら今のわたしが小さめで、軟体動物並みのやわらかさでも、海斗のバッグに入ればさすがに気付かれるんじゃないだろうか。重いし。
そう、重いのだ。
サイズこそそれなりにコンパクトであるものの、10kgは確実に超えている。
……昨日の暴食のせいであることは、疑いようがなかった。
間違いなく気付かれる。
さて、どうしたものだろうか。
まず思いついたのが、海斗を動けない状態にすることだ。
つまり、海斗がキャンプに参加できなければ、わたしがこの家から出る必要もなくなり、海斗に危険が迫ってもわたしが対処できる可能性が高い、ということである。
今から海斗を夢に縛りつけておけば、三日ぐらいは目覚められないはずだ。
だが、この案はすぐに却下された。
海斗の体調が優れず、キャンプに行けなかったとしても、キャンプ自体を後日にずらされる可能性がある。この四人の中の海斗のポジションもいまいちわからないし、キャンプ場のシステムがどうなっているのかも知らないので何とも言えないのだが。
先延ばしするだけではまったく意味がない。それだけは避けなければならない。
わたしには時間がない。
何としても、近日中に、海斗を殺そうとしている人間を探し出して、始末しなければならないのだ。
次に思いついたのが、企画者である服部くんをキャンプに行けない状態にすることだが、こちらはあまり現実的ではない。
服部くんの家がどこにあるかわからないのは些細な問題だが、家の鍵が閉まっているだけで、こちらからは全く手出しできない。
わたしが移動できるのが、基本的に夜だけ、というのもつらい。
それ以前の問題として、わたし自身が、海斗の知人をどうこうすることに抵抗がある、というのもある。
もはや人ですらないわたしには、人間だった頃の良心やモラルといったものが少なからず欠けている。
だが、できれば海斗にはこれ以上辛い思いをしてほしくないとは思っている。
それを踏まえて考えると、海斗の知人を傷つけたり殺したりするのは、わたしにとっても不都合なのだ。
結局、海斗がキャンプに行くことを前提にして話を進めなければならない。
それはつまり、わたしもキャンプ場に行かなければならないということ。
整理しよう。
まず、重さ約10kgのものを、家主に気付かれずに持っていく方法を考えなければならない。
海斗のバッグに入るのは厳しい。重いから。
……こんなことになるとわかっていれば、昨日はそんなに食べなかったのに。
というか、朝いきなり海斗がまくらを干そうと持ち上げる可能性もあるわけで。
……今、冷静に考えたら、割と危ない橋を渡っていたことに気付いた。
決めた。今日から絶食する。
今日から何も食べなければ、明後日の朝には7kgぐらいにはなっているだろう。
計算は適当だ。
まぁ一応、最終手段がないわけではないが、あまり使いたくない。
……いや。
もう既に一線は越えてしまっているのだ。
今更何を思っているのか。自分が嫌になる。
被ろう。
どんなことをしてでも、海斗を守る。そう決めたんだから。
そうと決まれば話は早い。
重要な案件を片付けたわたしは、愛する男が待っている夢の世界へ旅立つことにした。
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