闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百五十節/挑戦者 上】

 難民団での日々は、コレットにとって未知の体験の連続だった。彼女は常にカナンの一歩後ろから物事を見ていたが、その多忙ぶりにはただただ圧倒された。

 毎日、コレットが天幕の中で目を覚ますと、カナンの寝床は綺麗にたたまれている。慌てて炊事場に向かうと、白湯を飲みながらその日の仕事の段取りを考えている姿を見つける。

「ゆっくりしてくださいね」

 彼女は決まってそう言うが、見学の名目で厄介になっている以上、コレットも早食いを余儀なくされた。

 コレットが食べ終える頃には、カナンは膝の上に置いた書類の何枚かに目を通し終えていた。ちょうど、他の者達もぽつぽつと食事のために集まり始める頃合いだった。カナンはあえてそこで仕事を止め、起きてきた連中としばらく談笑する。面子は日によって変わった。ほとんど取り止めの無い話題ばかりだが、時々陳情や質問もあり、カナンは丁寧にそれに答える。

 三十分ほど経つと、今度は普段仕事場として使っている大天幕に移動して、半日を机仕事に費やす。難民団のあちこちから寄せられる決算書や起案、報告書に目を通しつつ、記名していく。

 特に、様々な数字が並べられた報告書は、カナンにとって何よりも重要な資料だった。

 現在、難民団は文書上、煌都パルミラがカナンに管理を委託した集団ということになっている。運転資金の大半はパルミラの税収から賄われていた。こうした形態の集団を表現する言葉は、現在の世界ツァラハトでは使われていない。

 そのため、わざわざパルミラ大図書館の書庫から、公社という古い言葉が発掘され、公文書に記載されたほどだ。カナン自身はあまり言葉に縛られるつもりは無かったが、形式が大切であることも良く理解している。

 難民を管理する立場にある以上、カナンには彼らの動向を逐一パルミラ、及びラヴェンナに報告する義務がある。そのための最も重要な資料が日報だ。そこには、難民団の内部で起きたことの他に、外部との交渉記録や資金の流れ、今後の方針等も書かなければならない。

 だが、午前中のこの時点では、まだ日報を書くところまではいけない。何しろ半日が経っただけなのだから。

 彼女が机仕事に没頭している間、コレットは読んでも大丈夫な報告書を見せてもらったり、過去の日報の綴りを見て時間を潰す。そして時折視線をあげて天幕を見渡すが、皆事務的な報告以外のことは全く口にしない、恐ろしく緊張した空間が展開されている。

 特にカナン、オーディス、ヒルデの三人の集中力は凄まじく、鬼気迫るものさえある。

 情報の流路としては、まず難民団の中で動いた様々な数字の情報がヒルデの元に届けられる。文書主義に慣れていない闇渡り達からは、汚く雑多な書類しか上がってこない。だが、ヒルデはそれらの乱れ切った数字を集めて取り纏めることに関して芸術的なまでの手腕を持っていた。

 そもそも、読み書きや算術の出来る者が限られている中で、ごく少数の人材を見つけ出し鍛え上げたのは彼女だ。差別意識を捨てて人を鍛えようとする姿勢があればこそ、カナンはヒルデに対して全幅の信頼を寄せていた。

 そんな彼女を経て出来上がった書類は、次にオーディスの手に渡される。

 完成度の高いものばかりなので、一々オーディスが駄目出しをすることはなかった。だが、記名してカナンに渡す段階で、何らかの助言を加えて提出している。

 例えば、子供を育てている親には優先的に食料を配給するという案や、娼婦たちの仕事の報酬に上限を設けさせる……等々。細かいことにまでよく気がまわり、的確な意見を言い添えてくる。

 もちろんカナンであっても、そうした追加点を思いつくことはままある。彼はほとんどありきたいな意見しか出さない。だが、そうした一般論があらかじめ用意されているだけでも、カナンの考える手間を大幅に省いてくれる。

 それでいて、ヒルデの手が回らない時は、仕事の一部を受け持つ等、どこまでもそつの無い仕事をする男だった。

 他にも、大坑窟以来カナンを助けてきたペトラは、ある程度彼女の段取りに合わせて動いていた。だが、それ以外の者となると、なかなか悲惨な有様だった。継火手でありながら机仕事が苦手なクリシャは、長身を丸めて必死の形相で書類に向かっている。他にもヒルデに取り立てられた闇渡りが数名詰めているが、いずれもクリシャに負けず劣らずだった。

 ただ一人、清書係として取り立てられた闇渡りのザッカスだけは違っていた。赤ら顔の小男は、顔からは想像出来ないほど美しく気品のある文字で、カナンの日報の写しを書き上げていく。コレットは初めてこの事実を知らされた時、信じられず何度か視線を往復させてしまった。

 昼食時を少し過ぎた頃、ようやく机仕事が終わる。クリシャを筆頭に這う這うの体で皆が逃げ出していく中、カナン、オーディス、ヒルデの三人は残って食事を摂る。

 さすがにカナンの表情もいくばくか柔らかくなるが、イスラといる時に見せる無防備な顔つきとは違うな、とコレットは思う。

 時々、コレットに話が振られることもあった。ハルドゥスから何を教わっているのか、将来はどんな継火手になりたいか、ここでの生活はどうか……。

 はっきり答えられる問もあれば、答えに詰まってしまう問もあった。特に、将来どうなりたいか尋ねられると、ただただ困るしかない。

 カナンはずっと以前から自分の在り様を考えていたそうだが、コレットは違う。ハルドゥスに師事しているのも、たまたま親が彼と知り合いだったからだ。歴史の勉強は好きだが、今のまま続けたとて、道楽にしかならないだろう。

 かといって、カナンのような生き方は、自分には逆立ちしても無理だろうな、と思う。彼女が特別な人間であることは、この数日でまざまざと見せつけられた。


 特に、昼食後の見回りで向かうある場所で、その想いはより強くなる。


 他の難民達の居留地から少し離れた場所に、隔離されるように天幕が立ち並んでいる場所がある。心なしか空気はどんよりと沈んでおり、夜闇の暗さも相まって墓所のような薄気味悪さがあった。

 闇渡り達さえ近づこうとしないその場所に、カナンはひとりずんずんと乗り込んでいく。普段は何も強制しないカナンが、ここだけは「ついてきてください」と言った。

 彼女に促されて初めて天幕に入った時、コレットはついてきたことを後悔した。

「またお前さんかい、仕事熱心なことだねえ」

「ありがとうございます、おば様」

 カナンがにこやかに挨拶した相手は、全身を包帯と外套でくるんだ穢婆だった。

 噂には聞いたことがあった。娼婦として働かされてきた闇渡りの中には、病を得て穢婆へと墜とされる者達がいると。衛生観念の低さや、不特定多数と関係を持つために、闇渡りの社会には必ず一定数の穢婆が現れる。

 彼女達は、穢婆と認められたその瞬間から名前を失い、人以下の存在へと堕ちる。

 だが一方で、各種薬の調合法や効能を秘伝として叩き込まれる。これらの知識は闇渡りの集団にとってなくてはならないものであり、彼女達は病が脳に至るその瞬間まで、薬剤の知識のみを頼りに世界と渡り合う宿命を背負わされるのだ。

 同じ女性として、コレットも同情心を抱かないわけではない。だがそれ以上に、穢婆達の見た目が恐ろしかった。自分が病を得にくい継火手だと自覚していても、包帯に染み出た膿汁やできものは正視に堪えない。万が一ということがあるかもしれないと思ってしまう。

 カナンは何一つ恐れなかった。穢婆達と膝を突き詰めて対等に接し、言葉を交わし、あろうことか一人ひとりの手を取って天火を注いでいく。進み過ぎた病を根治することは出来なくとも、多少なりとも痛苦を和らげることは可能だ。コレットは、絶対にやりたくなどなかったが。

 彼女が狭量なのではない。むしろ、カナンが常識から外れ過ぎているのだ。

(カナンさんは善人かもしれない、けど……)

 ここまで他者と異なった思考、行動をとり続けるのは、果たして正しいことなのだろうか? 無条件で褒め称えられても良いことなのだろうか? コレットには、その点がどうしても引っかかった。

 穢婆の天幕を離れた後も、カナンは難民団の中を巡り歩いては、様々な人々に声を掛ける。老人もいれば子供もいるし、人相の悪い者もいれば大人しくて声の小さい者もいる。そうして不満や不足をくみ取り、天幕に戻って記録していく。最後はその日の日報を書いて、一日の仕事が終わる。

 仕事場から離れて自分の天幕に帰ると、そこでは決まってイスラが夕食の準備をしていた。三人分用意するのが当たり前になっても、彼の手際の良さは遺憾なく発揮される。

 カナンにとっては、この時だけが唯一心からくつろげる時間だった。その日あったことを、葡萄酒を傾けながらイスラと語り合うのが日課だった。コレットは、いつからかカナンよりも先に寝るようになっていた。天幕の中で横になるとすぐに睡魔が襲ってきて、外で話している二人の声はあっという間に遠ざかってしまう。

 そして気が付けば次の朝になっている……それが、コレットのここ数日の過ごし方だ。

 だが、ハルドゥスに置いて行かれて一週間。煌都ラヴェンナまで残すところ数日というところで、カナンに挑戦者が現れた。

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