闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百四七節/オーディスの仕込み】

「な……んな、な……!?」

 説法を終えたカナンが颯爽と背を翻した後も、コレットはその衝撃から抜け出せずにいた。

 それどころか、時間が経てば経つほど、カナンの放った言葉がガンガンと頭の中で反響した。

 祭司の家に生まれ、一般的な継火手としての教育を受けてきたコレットにとっては、カナンの説法は劇薬にも似た威力を持っていた。

「おーい、大丈夫か?」

 そう言ったのと同じ口に、イスラは新しい巻物パイルガラーを放り込んだ。木苺が混ぜられていて、少し幸せな気分になった。

「す、すみませんっ、取り乱してしまって……!」

 コレットはそう答えたものの、側から見ればまだまだ落ち着きを取り戻していないように見える。

「そんなにビックリするようなことなのか? 俺には何が何やらさっぱりなんだが」

 正規の教育はもとより、煌都の常識自体に疎いイスラにとっては、カナンの説法の「ヤバさ」が今ひとつ伝わらなかった。コレットがここまで狼狽するのが、かえって不思議に思えたほどだ。

 だが、彼女の反応はいささか過剰とはいえ、継火手としてみれば極々自然なものと言えるだろう。


 彼女がそこまで動揺するのは、カナンの言葉が広まったを思えばこそだ。


 普通の継火手なら神の真意の解釈をしようなどと考えない。大燈台と継火手による権威が確立されて以来、これらを絶対視する思想は社会の基盤を成してきたからだ。政治、経済、娯楽、家庭、または軍事……それら全てが、燈台と継火手に配慮して設計されている。

 そして煌都の住人にとっては、天火のあたる場所以外に世界など存在しない。正しき世界とは既に、今ここにあるのだ。

 だが、カナンの言葉はそれを真っ向から転覆せしめんとするものだ。思想への攻撃は、すなわち階級と権力への攻撃に他ならない。見方を変えれば、これは剣ではなく言葉を武器とした戦争なのだ。

 当然、煌都の祭司や継火手達は猛反対するだろう。カナンの侵略・・に対して、それを迎え撃つための論陣を張るに違いない。しかし、もしカナンに同調する者が現れたなら、ことは簡単には済まなくなる。

(最悪、煌都を二分する大論争が起こる……!)

 古来、思想を二分された政治体制が混乱をきたさなかったことは無い。今回のカナンの説法は、確実に煌都に影響をもたらすだろう。 

 しかも、彼女は語り掛ける相手を継火手ではなく普通の人々に定めた。大衆の噂話は、枯草に着けられた火よりも早く燃え広がる。現に今も、彼女の放った火は人々に熱を与えつつある。これがラヴェンナ全体、ひいてはツァラハト全土に広まるまで、大した時間は掛からないだろう。

「こんな内容の説法をしたら……煌都は大混乱に陥ります。継火手が率先してそんなことするなんて……」

 一般的な継火手であるコレットには、カナンの過激な行動が不可解に思えてならなかった。

 だが、そんな彼女の呟きを隣で聞いていたイスラは「ふーん」と言いつつパイを飲み込んだ。

「そっか。あいつ、そんなに大それたことをやろうとしてるのか……」

 ティヴォリ遺跡での騒動の後から、カナンは難民達に向けて自分の思想を語り始めていた。彼女の言葉に対する人々の反応は様々だったが、反抗的な意見や態度は確実に減り始めていた。誰もがカナンの気概に感化され、そこに嘘が無いと認めたのだ。

 イスラも当然、そうした流れを見続けてきていた。普段、すぐ近くで彼女と接する時も、カナンの雰囲気がどこか変化したことにも気付いていた。

 今やカナンは、本気で世界を変えるつもりでいる。煌都の閉鎖的な仕組みを破壊し、エデン探求に前向きになるように。エデンに、今までとは違う形の煌都を打ち建てるために。

「凄ぇな、やっぱ」

 イスラの胸中には様々な感情が渦巻いていたが、それを上手く表現することは、イスラには出来なかった。



◇◇◇



 本部となる天幕で全体の指揮を執っていたオーディスは、来客を告げる声に、一旦仕事の手を止めた。ちょうどカナンの説法が終わり、丘全体の状況も落ち着きつつあった。

 天幕に入ってきたのは、モノクルを掛けた痩身の男性だった。長いローブといい、清潔な身なりといい、いかにも煌都の学者といった風体だ。

 彼の姿を認めるなり、オーディスは微笑を浮かべつつ握手を求めた。

「お待ちしておりました、ハルドゥス博士」

 彼の差し出した手に対して、ハルドゥスも同じく握手で返した。

「こうして顔を合わせるのは、二年と八か月ぶりですね」

 そう言いつつ、ハルドゥスは素早くオーディスの身なりを一瞥した。

 彼が言う二年と八か月前……すなわち、第一次救征軍が失敗し、オーディスの率いる敗残兵がラヴェンナに帰還した直後のことだ。元より成功する見込みの低い遠征と言われていたが、彼らの惨状は煌都の住人に辺獄の恐ろしさを知らしめた。手足を失った者、意識の消える寸前の者、あるいは精神を完全に壊してしまった者……まさしく死者の行列といった様相だった。

 オーディス・シャティオンは、そんな彼らをバシリカ城まで先導し、到着と同時に意識を失ったという。

 ハルドゥスが、旧知の仲であるオーディスを見舞ったのは、彼らが帰還して数日が経ったころだった。

 その時の彼の姿は、今でもしっかと脳裏に焼き付いていた。

 バシリカ城の救護室の一角を与えられたオーディスは、寝台の上に身を起こしたまま身じろぎもしなかった。衣服こそ清潔な白衣に代わっていたが、髭や髪は乱れたままになっており、平素の優雅な姿とは似ても似つかない。

 だが何よりも変化が激しかったのは、光を全く失ってしまった瞳だった。空色の光彩は、手の平に置かれた白金色の髪の束を虚ろに見下ろしていた。素肌の見えている部分はどこもかしこも傷だらけだが、そういった外傷などより、彼が心に負った傷の方が遥かに大きいのだと知れた。

 そして何より驚いたのが、彼がそんな状態であるにも関わらず、非常に理性的な会話を自分と出来たことであった。

 救征軍で起きた一連の出来事を、彼は細部に至るまで話すことが出来た。撤退時の損害についてもよどみなく答え、さらにはこれからバシリカ城で受けるであろう諮問についてまでも言及してみせた。

 それは、非常に不気味で不自然な光景だった。虚脱しきった人間が、ここまで理性的な話を出来るものかと思ったものだ。気力で話していると思うことも、出来なくはない。しかし、オーディスの空っぽの目からは、そうした活力のようなものが一切感じられなかった。

 ……ハルドゥスが最後に見たのは、そんな彼の姿だった。

 今の彼は、あの時と比べれば見違えるほど生き生きとしていた。

「ずいぶんと……ご壮健なようで、何よりです」

「ありがとうございます。私がウルバヌスを離れている間も、ヒルデに色々と助言をしていただいたと伺っています。本当に、感謝の申しようもありません」

 こちらへ、とオーディスは椅子を勧めたが、ハルドゥスは断った。コレットが行方不明になっているので、ここでの話も早々に切り上げなければならない。普通に考えればもっと焦るべきかもしれないが、闇渡り達の統制された動きと、所々で目を光らせているウルバヌス兵……オーディスの手駒達の姿を見るに、思っていた以上に治安は良い。すぐにどうこうなるということは無いだろう。

 それに、オーディスは長話をしない男だ。何か目的がある時は、完結明瞭に話をしてくれるという長所がある。

 加えてハルドゥスは、この丘に来るようオーディスより手紙を受け取って以来、薄々彼の思惑に気付いていた。

「本題に入りましょう、ハルドゥス殿。貴方は、カナン様の説法を聞いて、どうお思いになりましたか?」

「非常に興味深いものでした。いや……歴史家を自認する私としては、正直興奮を覚えています。これまで、この世界の知識階級が踏み込んでこなかった領域に、彼女は足を踏み入れている。波紋を呼ぶのは確実でしょう」

「あくまで歴史家としての意見、ですか」

「ええ。だからこそ、善悪を論じなくて済むのです。私も一応は祭司の家の出ですが、そちらの視点から見るとあまりに過激で、手を引きたくなります」

 誰でも火の中に身を投じたいとは思いませんから、とハルドゥスは付け加えた。自分は保守派ではないが、かといって最前線で論争をしたいとも思わない。

 だが、歴史家の立場からすると話は別だ。この世界に久しぶりに起きた波紋を記述し、後世に残したいという欲がある。成程上手く弱みを突いてきたものだ、と思った。

「シャティオン卿。貴方の狙いは、私にカナン様の論説の運び手をさせることですね」

「話が早くて助かります。実を言うと、すでに知り合いの吟遊詩人を幾人か呼んでいるのですが……全く中立な、偏向の無い伝達となると、ハルドゥス殿しか思い浮かびませんでした」

「持ち込む先は、当然バシリカ城の中、ですか」

「更に言えば、そこに集まっている各煌都の代表たちです。ラヴェンナに到着したばかりで、彼らも情報を欲していることでしょう。そこに、カナン様の言葉をぶつけてみたいのです」

「私としては願ったり叶ったりですが、良いのですか? 先に論説の中身を知られると、反論を作られるかもしれませんよ」

「それこそカナン様の御心にかないます。あの方の目的は競い合うことではなく、自らの論説を多くの人に知ってもらうことですから」

 カナンの思惑そのものは単純明快だ。オーディスに言われるまでもなく、ハルドゥスも理解している。それが混乱をもたらすと承知の上で、広げるだけの価値があるとも思う。

 だが、ハルドゥスには一つ引っかかっていることがあった。あのオーディス・シャティオンが、これほどまでにエマヌエル以外の人間の意見を持ち上げることを不思議に思った。

 かつてエマヌエルが救征軍の構想を打ち出した時、彼は熱烈にその意見を称揚した。それは、ほとんど信仰とさえ言えるものだった。自分がなるべく中立的な立場で物事を見ようとしているせいかもしれないが、彼がここにきて鞍替えのようなことをするというのは、正直以外だった。

 だが、カナンの主張とエマヌエルの主張が、多くの部分で重なり合っていることも事実だ。むしろ、カナンはエマヌエルの思想を下敷きにしている。それこそが、彼がエマヌエルを聖女の後継者と認めた理由なのかもしれない。

 ハルドゥスがそう自分を納得させた時、天幕が開き、聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「せ、先生ぇ!」

 彼の姿を見るなり、涙目のコレットが飛び込んできた。その後ろからはイスラがぽりぽりと頭を掻きながら入ってくる。

「ひ、酷いですっ! こんなところで立ち話なんて!」

「いやあ、元気そうで何よりだよ。君が思っていたほど、怖い場所ではなかっただろう?」

 確かに危険な目には遭わなかったが、怖い目には遭ったコレットである。

 その時のことも含めて、一度まくしたて始めると、もう止まらなかった。とても話を続けられる状況ではない。

「……申し訳ない、このを連れてくるのも、大変だったでしょう」

 ハルドゥスは、彼女と一緒に天幕に入ってきた闇渡りをねぎらった。

「別に、どうってことねえさ」

 一方のイスラはと言うと、巻物パイルガラーの無くなった袋を名残惜しそうにたたんでいる。

「街から出たことの無い継火手を引っ張りまわすのは慣れてるよ」

「……ハルドゥス殿、一応紹介しておきましょう。彼が、カナン様の守火手を務めている男です。名前はイスラ」

 どうも、とイスラは片手をあげる。ハルドゥスは驚いたが、それ以上に驚いたのはコレットだった。


「え、ええええええっ!?」


 叫んだ勢いで眼鏡をずれた。その傾いたレンズの向こう側で、イスラは片耳を抑えて「うるせえ」と呟いた。

「闇渡りのイスラと蒼炎の御子」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く