闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百四六節/山上の説教 下】

 カナンが姿を現すと同時に、丘を包み込んでいた喧騒は徐々に静まり返っていった。

 見物に来ていた観客たちも、観客を相手に商売をしていた者たちも、等しく丘の頂上の岩に腰かけた少女に視線を向けていた。

 その視線が集中する場所には、大海の底に匹敵するほどの圧力が掛かっていることだろう。期待と猜疑心、興味と反骨心、あるいはもっと単純で猥雑な動機……それぞれ胸中の思惑は微妙に異なっているはずだ。だが、人の意思が一点に集中しているということだけは確かだった。

 肝の据わっていない者なら、この場に立ち入ることさえ出来ないだろう。ましてや、落ち着き払って優雅に座ることなど不可能に違いない。

 だが、カナンは緊張を微塵も感じさせない面持ちで、静かに瞑想しているようだった。

 ともすれば、眠っているようにさえ見える。

 しかし、空気を震わせていた最後の音が消え、丘全体が完全に静まり返った瞬間、カナンはその目をゆっくりと開いた。そして、歌い始めのように、軽く息を吸い込んだ。


「神が、この世界を離れてから、我々は幾星霜の歴史を経てきました」


 カナンの声は、決して大きくは無かった。だが、力を込めず伸びやかに放たれた言葉は、張り上げるような大声よりも遠くまで届いた。

 元々優れた声質を持ったカナンだが、こうした語り方は、継火手の女性なら誰でも出来ることだ。様々な場所で説法をしたり、儀式を執り行うためにも、厳かな語り方は必要不可欠なのである。

 だが、普段からそうした声に接しない人々は、カナンの声が殊更神聖なものに思えた。老人の中には、最初の単語を聴いただけで両手を合わせた者さえいた。


「その歴史は、決して平易なものではありませんでした。
 かつては、善人も悪人も、等しく太陽の下で生きていました。今、我々は燈台の下で生きる者と、月の下で生きる者に分かたれています。
 前者は限られた枠組みの中でしか生きられず、後者は常に死の影に晒されている……どちらも、人間本来の在り方とは、遠く離れた生き方と言えるでしょう」


 平易な言葉ながら、カナンは意図的に詩的な表現を加えていた。簡単に話そうと思えば、もっと簡単に表現することは出来る。だが、それでは言葉が持つ美しさが活きてこないからだ。


「何故、神はこのような生き方を我々に課したのでしょうか。
 我々人間は、神によって創造された時から、同じく被造物である太陽の恩恵を受けてきました。
 それを取り去られて生きる我々は、例えるなら小さな升に入れて育てられる赤子のようなものです。その子供の身体は石のように固まり、手足は歪んでしまうことでしょう」


 言葉に気をつける反面、内容は至極当たり前のことばかりだった。この程度の中身ならば、煌都の継火手なら誰でも語れてしまう。耳の肥えた者の中には、早くも嘲弄の笑みを浮かべている者さえいた。

 丘の上にいるカナンは、当然そうした気配にも気付いていた。気付きながらも、無視して言葉を続けた。


「母親が取り上げてくれなければ、子供はいつまでも升の中に収まったままです。神に見棄てられた我々の世界は、二親ふたおやが出て行ってしまった家と同じなのです……」


 カナンはそこで、一旦言葉を区切った。じっと動きを止め、聴衆の反応に視線を配る。

 丘の上に、いくつもの囁きがさざなみのように沸き起こった。これは、お定まりの説法と同じだ、と。

 大方、次の下りは決まっている。

『神は家を出て行ったが、蝋燭、すなわち燈台を残して行った。我々はその最後の慈悲と恩寵に感謝し、いつまでも燈台と天火を慕い続けよう……』

 継火手が使う決まり文句だ。そして人々もまた、彼女達の語る神学に頭まで浸かって生きてきた。だから異論こそないものの、退屈さを感じずにはいられない。常識の上塗りに過ぎないからだ。

「特別な説法をする祭司だと聞いていたが、他の継火手と変わらないじゃないか。わざわざ町を出てくる必要も無かったな」

 そんなことを、無遠慮な誰かが言った。

 誰かがそう言うことを、カナンは待っていた。

 彼女はその蒼い目を見開き、秘めていた真の言葉を放った。



「だが、それは間違っている!!」



 それまでの穏やかで、どこか虚無的な語りとは一転した苛烈な声だった。水晶のように澄んだ声音はそのままに、刃のような鋭さを宿している。それが群衆の間を駆け抜け、弛緩しかけていた空気を一瞬のうちに引き戻した。

 最初は声に、次いで彼女の放った強烈な反語の意味に惹かれて、聴衆は一斉に身を乗り出した。全員の意識が一点に集中するのはほんの一瞬限りのことだが、カナンはその一瞬を絶妙に把握し、次の言葉へとつないだ。



「かつて我々の祖先は、魔導に魅入られ、驕り高ぶり、それ故に神の怒りを買いました。それは覆しようのない過去です。
 しかし、神は我々の手から魔導を取り去り、代わりに天火を与えました。これは何を意味するでしょうか?
 限られた人々が箱庭の中で生きる世界を望んでのことでしょうか? あるいは、大勢の人々を夜へと追放し、難民のままにしておくことでしょうか?
 決してそうではありません」



 カナンの言葉に呼応するかのように、権杖に宿った蒼い炎が揺らめく。それが彼女の顔を照らし出し、浮かび上がった気迫をそのまま聴衆に伝えた。



この世界ツァラハトは、決して見棄てられてなどいません。むしろ神は、この世界を夜の帳で覆うことによって、私達に贖罪の機会を与えられたのです。
 私達の罪は二つ。傲慢の果てに誤った世界を作り上げてしまったこと、そして、神のもたらした罰に対する償いをしてこなかったことです」



 カナンがそう断じた時、固まっていた聴衆の中の一人がこんなことを聞き返した。

「継火手様、どうしてそう言い切れるのです? 神様は、この世界をお見棄てになったまま、どこかに行ってしまったのではないのですか?」

 彼の言葉に対して、「そうだ」と相槌を送る者もいれば、説法に割り込んだことに対する非難を口にする者もいた。

 確かに、男の言ったことは至極常識的なものだった。彼らは普段からそう教えられており、それを事実として固く信じ込んでいる。

 だが、当のカナンは、まさにこの流れを待っていたのだ。

「失礼ですが、貴方にお子さんはいますか?」

「は、はあ。息子が一人おりますが……」

「では、仮にその子が何か悪さをしても、当然挽回の機会を与えるのではありませんか?」

「もちろんです。よほどのことでない限りは、自分の子供ですから」

 そう答えた男も、周りで話を聴いていた者も、カナンが質疑を通して何を言わんとしているのか察した。



「それは、神と我々の関係においても同じではないでしょうか。
 この世界は元々、神の創造の御業みわざによって創り上げられたものです。神はこれを見て良しとされ、その管理者として人間を生み出しました。
 もし滅ぼすつもりであったのなら、そうすることも出来たはずです。しかし神は我々に天火と燈台を授け、この夜に包まれた世界で生きられるようにしてくださいました。
 それは、これらのものを使って、人が正道へと立ち返ることを期待されているからです」



 カナンの言葉が伝播するにつれ、次第に人々のざわめきは大きくなっていった。その中には多分に困惑が混ざっている。

 煌都の住人達にとって、今まで聞いたことのない解釈だった。都市の継火手達が語る時、大抵「神」という存在はちらりと触れられるのみである。ましてや、「神の真意」などと大それたことを言いはしない。下手をすれば「異端」として弾劾されかねない。

 だが、踏み込み過ぎととられかねない彼女の説法が、人々の興味を引いたことも確かだった。カナンもまた、意図的に引き・・を作りつつ言葉を紡いでいる。人々が「その先」を聴きたいと思うように。

「では、立ち返るべき正道とは、どのような道なのですか?」

 誰かが、そんな素朴な質問を投げかけた。カナンは即座に斬り返し、断じた。



「正しき世界を造ることです」



 カナンは、あえて多くを語らなかった。言葉が人々の間に染みわたり、各人がその意味を考える時間を作った。

 彼女の回答の仕方は、実に意地の悪いものだ。「正しさ」という形容詞は、いくらでも意味を内包しているし、とらえどころがない。それを「世界」という大きな名詞に繋げて言うと、いよいよ想像することも難しくなる。

 だが、それこそが狙いだった。自分達が生きる世界について何も考えず、ただ日々の生活をこなすだけの人々に呼びかけるために、カナンはあえてこのような論法を使ったのだ。

 あちこちで小規模な議論が生まれ始めた。一対一の話し合いもあれば、一人が複数名に語っているところも見受けられる。カナンは介入せず、彼らの好きにさせた。どこにでも、語りたがる人間はいるものだ。

(それは、私も同じかな)

 内心でそう呟いて、軽く自嘲した。

 もちろん、言い出した彼女を人々が放っておいてくれるはずもない。自分で考えても答えの出ない者は、彼女にその意図を尋ねた。正しさとは何か、造るべき世界とはどんなものか、と。


「それについては、この場では答えずにおきましょう」


 だが、 そんな人々の期待を裏切って、カナンは一方的に打ち切りを告げた。先程までとは打って変わって、まなじりを下げた柔らかな笑顔は、見る者が見れば「いつものカナン」と言うだろう。

 そして、もったいぶって登場した時とは一転、そそくさと立ち上がると、控えていたペトラ達の後ろへと下がってしまった。

 後には、カナンが置いていった言葉と、困惑した大衆が残された。

 もし彼女の言葉に威力・・が無ければ、無責任なだけだとして捨て置かれただろう。だが、旧来の神学の否定から始め、神の真意にまで踏み込み、興味を引くだけ引いて「正しき世界」という置き土産を残されたのでは、否応なしにそれについて考えざるを得ない。

 答えようと思えば、カナンはいくらでも答えることが出来た。だが、それでは意味が無い。ここで答えを語ってしまえば、人々を一時いっときだけ納得させることは出来るだろう。しかし、それで終わりだ。決して根付かず、「良い話を聴いた」という素朴な感想で終わってしまう。

 だからこそ、世界について、民衆が自発的に考え始めるような仕組みが必要だったのだ。人々はカナンの真意には気付かず、ある者は大勢を前に語り、ある者は内側で幾度も彼女の言葉を反芻した。

 だが、カナンの真意に気付いた者……旧来の知識階級に居る者にとっては、彼女の言葉は一層過激なものとして届いた。

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