闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百四三説/ぬれねずみの自由 下】

 少女の耳朶を叩いた風音は、即座に大きく広がり、直後に天幕を杭ごともぎ取ってしまうほどの暴風となって訪れた。

 緑色の魔力を帯びた風が彼女の周囲を取り囲み、竜巻のように渦巻く。見張りについていた兵士達はあっけなく薙ぎ払われ、地面の上を転がった。巻き上がる砂埃が視界を覆い、サラの姿を隠した。


「サラっ!!」


 見上げると、黒い翼を広げたユランが、渦の中心に向かって降下しつつあった。その鞍上から、声の主が顔を出した。

「トビア」

 サラは目を見開く。今、身の回りに起こっていることを、彼女は即座に理解した。

「どうして……!」

 自分は難民団にとって明確な敵だ。それを助けるということは難民団に対する裏切りに他ならず、ひいてはトビアが自分の居場所を失うことを意味する。サラにとっては、不可解極まりないことだった。

 だから、竜から飛び降りてきたトビアの頬を、サラは自分でもよく分からないまま叩いていた。暴風の中、妙に軽い音が響く。手の平にひりつきを感じたサラは、叩いた本人であるにも関わらず、動揺して視線を泳がせた。

 トビアは、微塵も動じなかった。赤みがさした頬を緩め、サラが元気なことに安堵した。

「良かった、元気みたいで」

「っ……! ば、ばか、ばかっ!」

 頭の中が混線したサラは、同じ単語しか言えなくなっていた。だが、目の前に立っている人の好さそうな少年は、最早馬鹿という名前で良いような気がした。彼女の価値観からすれば、全く信じれられないようなことをやらかしている。それにも関わらず、他人の心配をして、自分の不利な状況や困難などどこ吹く風だ。

「動かないで。鎖を斬るから」

 トビアは膝を地面につけると、イスラから預かった明星ルシフェルを抜いて、熱を帯びた刀身を鎖に押し付けた。力を込めた瞬間、蒼い閃光が瞬き、サラの脚を捕らえていた鎖はあっさりと断ち斬られた。


 サラは、自由になった。


「さあ、乗って」

 トビアは固まったままのサラの手を取った。だが、それは即座に振り払われた。

「どうして……?」

 顔をあげた彼女がそう問うた時、トビアは初めて、その手に握られた刃に気付いた。しかし、それが意味することよりも、彼女の青紫色の瞳が潤んでいることの方が彼にとっては重要だった。

「なんで、わたしなんかのために、ここまでするの……? トビアは、もとの場所にはいられなくなるんだよ?」

 暴風のなかでは、彼女のか細い声を聞き取るのは難しい。だが、トビアはその表情や唇の動きから、彼女の言わんとしていることを察していた。

「居場所より大事なものなんて無いんだよ……? 君みたいな人は、みんなといっしょに居ないとダメ……わたしなんかのために、捨てちゃダメだよ!」

 トビアは、甘い。優しすぎると言っても良い。だからこそ、そういった長所は集団の中でしか活かされないだろう。

 同時に、そんな彼だからこそ、大勢の人間から求められるに違いない……サラは、そんな二重の意味を込めて言った。

 だが、トビアは穏やかな表情のまま、しかし断固とした口調で「良いんだよ」と言い切った。サラの困惑はますます深まるばかりだった。

「そんなふうに言えるのは、トビアが居場所のたいせつさを知らないからだよ!
 わたしには分かるもの……弱いひとたちが生きていくには、いっしょに固まってないといけないって。そうしたら、おたがいに助けあうこともできるから……。
 でも、それを捨てたら、どこにも帰る場所なんて無いんだよ。夜の闇のなかで、つめたさに震える毎日が、トビアには想像できるの!?」

 サラは、自分の口から次々と言葉が溢れ出てくることに驚いていた。だが、それは当然と言えるかもしれない。

 檻の中という限られた場所に押し込められていたからこそ、サラはかえって、外の世界、社会、人と人のつながりを強く意識することが出来た。そして、自分がそこに入っていくことは容易ならざることであるということも。

 ずっと明るい世界に憧れ続けてきた。それは劣等感の裏返しでもある。むしろ、その劣等感を露骨にあらわすことで、憧れに蓋をかけ続けてきた。少しでも希望を抱いてしまったら、必ず痛い目を見ると悟っていた。

 そんな彼女にしてみれば、自分などのために全てをふい・・にしようとするトビアのことが、理解出来なかった。

「それは僕だって分かってる」

「だったら……!」

「でも、君を放ってはおけない。言っただろ? 怪物なんてどこにもいない……いるのは君だけだ、って。
 僕だって、君の力は怖いよ。でも、それだけが全部じゃないってことも、分かってるんだ。皆が認められないとしても……僕は、君が人間だって思ってる」

 だからこそ、こんなところで一人きりのまま死なせるわけにはいかない。

 誰からも受け入れられなかった人間が、誰からも恐れられたまま死んでいくなど、あまりに悲しすぎるとトビアは思った。一度でも彼女の涙を見てしまったら、もう心を持たない怪物だと思うことなど出来ないのだ。そして、そんな彼女を処刑するなんてことを、難民団の誰にもさせたくなかった。


 そして何より、サラに、生きることを諦めないで欲しかった。


 トビアは、少女の動揺に震える手を取った。


「居場所は、確かに大切だよ。でも、どこかに居るってことだけが全てじゃないんだ。
 君がどこにも居られないのなら、その孤独を、僕に分けて欲しい」


 これが、今の彼に言える全てだった。

 サラの全てを知っているわけではない。むしろ、知らないことの方が遥かに多い。彼女がどんな辛い道のりを歩んできたか分からないし、あるいはやむを得ず犯してしまった罪もあっただろう。

 そうした苦い記憶に向き合えと言う資格は、トビアには無い。そして、彼女がこれからどんな道を歩み、どんな選択を採るかということについて、介入する権利も無い。

 だが、人は一人では生きていけない。イスラやカナンと出会うずっと前から、トビアは身の回りの生活を通して、その真理を無意識のうちに学び続けてきた。人に囲まれてきたからこそ、他者がいないことの心細さや、考えが凝り固まってしまうことの怖さを知ることが出来た。

 そして、あの二人や、難民達との旅の中で、あらためてそのことを深く実感してきたのだ。多くの人と出会い、感情に触れ、知識を得て、今ここにいる。


 それこそが自分の強さなのだと言い切れる。


 それを持って、サラの隣に立ち続けていたいと思う。


 だが、それは自分一人の心構えに過ぎない。サラの決断次第では無為になってしまうだろう。それはそれで、彼女の決断に他ならないのだから、何一つ強いることは出来ない。

 サラは、半ば呆然としたようにトビアの顔を見つめていた。宝石のような青紫色の瞳が凍り付いている。トビアはその視線から目を背けなかったが、内心では怖かった。自分の言葉がちゃんとした強さを持っていなかったのではないかと疑いかけた時、サラは瞼《まぶた》を閉じ、唇の端を微かに吊り上げた。



「ばかだなぁ……二人だったら……孤独だなんて言わないよ……」



 もう一度彼を見上げた目の端には、少しだけ水滴が浮かんでいた。笑顔というより、呆れ半分の苦笑のような表情だった。仕方なく折れた、という風に見えなくもない。

 それでも、サラは折れた刃を影の中に取り込み、空いたもう片方の手をトビアの手に重ねた。少年の心臓が跳ね、それまで抑えに抑えていた緊張が一気に噴き出してきた。

 だが、いつまでも夢見心地のままではいられない。これでも時間を使い過ぎたくらいだ。すでに竜を奪ったことは知れ渡っているだろうし、あのオーディスがこれ以上手をこまねいているとも思えない。すぐにでもクリシャかヒルデのいずれかを差し向けてくるだろう。

 現実を思い出すと、トビアはすぐに竜の背中へと飛び乗った。片手でサラを鞍の上に引っ張り上げると、紐を渡して自分の腰に巻き付けるように指示する。

 暴風の結界の向こうには、すでに相当の人数が集まっているようだった。トビアは竜の手綱を引き、胴を蹴りつけた。黒い翼が力強く羽ばたき、砂埃を巻き上げる。

「飛ぶよ、サラ!」

「……うん!」

 両腕に施された紋章が光を放ち、竜の周囲に渦巻いていた風の結界が勢いを強める。地上から空に向かって、煌都の燈台のように高い竜巻が現れ、その風の勢いに、トビアは竜の黒い翼を乗せた。

 螺旋を描きながら、竜巻の中を駆けあがり、一気に上空へと躍り出る。サラはトビアの身体にしがみついたまま、固く目を閉じた。トビアは吹き付ける風を顔に受けながら、その体温を頼もしく感じていた。

 渦の中を駆けあがっていく竜を、他の操蛇族の乗り手達は指をくわえて見ているしかなかった。下手に近寄れば竜巻に巻き込まれて失速する。かといって、トビアほどの急上昇をかけることも出来ない。奪われた竜は、見る間に雲へと飛び込み、追いつけない高さにまで上昇していった。

 魔力を帯びた竜巻が消えた時には、二人を乗せた竜の姿はあとかたもなく飛び去った後だった。



◇◇◇



 雲の水面を乱して竜が飛び出す。サラは頭をぷるぷると振った。水滴が服や髪に染み込んでいた。雨は雲から降ってくるのだから、そこを突っ切れば濡れるのも当然なのだが、初めてのサラにとってはやはり驚きだった。

 ひどく寒いし、頭もくらくらする。少し息苦しかった。空の上なんてろくなものじゃないな、と思って目を開いた時、そこには、彼女が今まで見たことも無いような世界が広がっていた。

 一面に広がった雲の表面を、降り注いだ月光が照らし、ほのかに輝かせていた。不可思議な形に歪んでいる雲は、どれも異界の建物のようで、前にベイベルが見せてくれた本の挿絵を思い出した。

 そして、空を埋め尽くす星々の緞帳どんちょうは……この世界ツァラハトに生きる人間なら、別段珍しくもないはずなのに、どうしてか今まで見たどの星空よりも美しく思えた。どの方向を向いても、途方もないくらいに世界は広がっていて、その大きさにサラは圧倒された。檻のなかとは何もかも違う、圧倒的で……そして寒く、ぬれねずみになってしまうような自由がある、世界。

 だから、誰かにつかまっていないといけないのだな、とサラは思った。ここを知っているからこそ、トビアは孤独がどういうことなのか理解していたのかもしれない。

 もう少し、トビアのことを知りたいな、と思った。

「サラ、寒い?」

「寒いにきまってるでしょ……ばか」

 サラは、濡れた頭をトビアの背中にぐりぐりとこすりつけた。

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