闇渡りのイスラと蒼炎の御子
【第百四二節/「弟」】
足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなってから、カナンは近くにあった蝋燭に蒼い炎を点け、それから両膝をついてイスラの顔を覗き込んだ。
「行ってしまいましたね」
「……ああ」
彼の声音から不機嫌そうな様子を読み取ったカナンは、すぐにその真意に思い至った。
「イスラ」
「ん? ……お、おい」
カナンは彼の頭に両手をそえて持ち上げると、その下に自分の太ももを差し込んだ。
「何のつもりだよ」
真下から、イスラがジト目で睨みつけてくる。カナンはそれを軽く流しながら、汗を吸った黒い髪に指を滑り込ませた。
「何、って。慰めてるんですよ?」
「はあ? 何言ってやがる」
「またぁ」
余裕を見せつけられると余計に腹が立ったが、動こうにも満足にもがくことさえ出来ないのが今のイスラだ。
それに、彼女の脚の柔らかさと、身じろぎするたびに小さく揺れる胸元が、イスラに二重の金縛りをかけていた。
(わざとやってやがるな)
そう確信していても逆らえないのが、男の悲しいところだった。
カナンは柔らかな手つきで、彼の髪を梳いている。そうして穏やかに語り掛けた。
「何でイライラしてるか、自分でも良く分かってないんだ」
「上から目線だな、おい」
「文字通りですね」
蝋燭の火の揺らぎに合わせて、天幕の壁に影が踊った。すぐ真上で、彼女の操る天火と同じ色の瞳が、面白がるように細められていた。普段は動き回って捕まえられないイスラが、今は自分の膝の上で身動き出来なくなっている。その状況が、何だか愉快だった。
それでも、蝋燭の火がふと弱まるように、カナンの心を影が覆った。
「……イスラ」
「何だ」
「寂しくなりますね」
「あいつが自分で選んだことだ。水を注す方が無粋だよ」
顔に影を落としたまま、カナンは少し眦《まなじり》を下げた。口元は苦笑するようにゆがんでいる。寂しさと、可笑しさが入り混じったような表情だった。
イスラは、彼女がどうしてそんな表情を浮かべたのか分からず、怪訝な顔になってしまった。それを見て、カナンは一層可笑しさを募らせるのだった。
「他人事じゃないですよ。イスラだって……寂しいんじゃないですか」
イスラが目を丸くした。蝋燭の火に照らされた顔が、カナンにははっきりと見えていた。
「知らなかった? それとも、思い出した?」
身をかがめ、彼の耳に唇を寄せて囁く。彼女の吐息が触れて、イスラは我に返った。
そんな言葉、ずいぶんと長い間忘れていた気がする。カナンにそう言われるまで、かつて自分の中にそんな感情が宿ったことがあったなど、思いもしなかった。
最後にそれを覚えたのは、部族が全滅した時だっただろうか。それとも、放浪生活の中で出会った人と別れた時だろうか。掘り起こそうにも、イスラの中にはろくに記録されていなかった。
(……ああ、だから笑われたのか)
自分の抱えている感情が寂しさとも知らず、つっけんどんな態度をとってしまう。その妙な子供っぽさをカナンは笑っていたのだ。
(やっぱり、良く見てるよな)
そう思ってカナンの顔を見ると、彼女の目じりにも涙の粒が浮かんでいた。蝋燭の火が揺れる。光が反射して、六等星のように小さく瞬いた。
「お前も……泣いてるじゃねえか」
「ええ。だって……弟、みたいな人だったから……」
カナンは泣き崩れたりしなかったし、声も震えてはいなかった。表情も歪ませず、聖像のように整ったままだ。
それでも、湧き出た水滴が落ちて、イスラの頬を叩いた。
「弟、か……あいつが」
そういえば少し前にも、カナンと良い雰囲気になったところを邪魔されたことがあったな、と思い出した。
(ああいうことは、この先もう起きないのか……)
イスラは手を伸ばし、カナンの頬に触れると、指先で目じりを拭った。
「まあ、上手くやってくよ。俺とお前で散々鍛えてやったんだ。下らないくたばり方はしないさ」
「そうかな……?」
「信じてやろう。俺達はあいつを突き放したんだ。だから後は、それくらいしか出来ないだろ?」
「……ん」
カナンが笑う。
ふと、イスラは思った。
もし彼女がいなくなった時、自分は寂しさを覚えるのだろうか? それとも、寂しさなどでは済まないような何かを感じるのだろうか?
(たぶん……)
後者だろうな、と思った。
トビアが自分にとって大切な人間であったことは疑いようも無い。しかし、彼がいなくなっても、絶対的な喪失感など覚えたりはしない。
だが、それがもしカナンであったら?
燭台のように心を照らしてくれるこの女性がいなくなった時……今も抱いている愛おしさが全て無くなってしまったら、自分はどうなるのだろう?
(何でそんなことを考えた?)
馬鹿々々しい、と自分を怒鳴りつけてやりたかった。だが、そんなことをすればカナンから変な目で見られてしまう。それは心苦しい。
今考えたところで仕方のないことだ。現に自分は、カナンの体温を感じているのだから。
「行ってしまいましたね」
「……ああ」
彼の声音から不機嫌そうな様子を読み取ったカナンは、すぐにその真意に思い至った。
「イスラ」
「ん? ……お、おい」
カナンは彼の頭に両手をそえて持ち上げると、その下に自分の太ももを差し込んだ。
「何のつもりだよ」
真下から、イスラがジト目で睨みつけてくる。カナンはそれを軽く流しながら、汗を吸った黒い髪に指を滑り込ませた。
「何、って。慰めてるんですよ?」
「はあ? 何言ってやがる」
「またぁ」
余裕を見せつけられると余計に腹が立ったが、動こうにも満足にもがくことさえ出来ないのが今のイスラだ。
それに、彼女の脚の柔らかさと、身じろぎするたびに小さく揺れる胸元が、イスラに二重の金縛りをかけていた。
(わざとやってやがるな)
そう確信していても逆らえないのが、男の悲しいところだった。
カナンは柔らかな手つきで、彼の髪を梳いている。そうして穏やかに語り掛けた。
「何でイライラしてるか、自分でも良く分かってないんだ」
「上から目線だな、おい」
「文字通りですね」
蝋燭の火の揺らぎに合わせて、天幕の壁に影が踊った。すぐ真上で、彼女の操る天火と同じ色の瞳が、面白がるように細められていた。普段は動き回って捕まえられないイスラが、今は自分の膝の上で身動き出来なくなっている。その状況が、何だか愉快だった。
それでも、蝋燭の火がふと弱まるように、カナンの心を影が覆った。
「……イスラ」
「何だ」
「寂しくなりますね」
「あいつが自分で選んだことだ。水を注す方が無粋だよ」
顔に影を落としたまま、カナンは少し眦《まなじり》を下げた。口元は苦笑するようにゆがんでいる。寂しさと、可笑しさが入り混じったような表情だった。
イスラは、彼女がどうしてそんな表情を浮かべたのか分からず、怪訝な顔になってしまった。それを見て、カナンは一層可笑しさを募らせるのだった。
「他人事じゃないですよ。イスラだって……寂しいんじゃないですか」
イスラが目を丸くした。蝋燭の火に照らされた顔が、カナンにははっきりと見えていた。
「知らなかった? それとも、思い出した?」
身をかがめ、彼の耳に唇を寄せて囁く。彼女の吐息が触れて、イスラは我に返った。
そんな言葉、ずいぶんと長い間忘れていた気がする。カナンにそう言われるまで、かつて自分の中にそんな感情が宿ったことがあったなど、思いもしなかった。
最後にそれを覚えたのは、部族が全滅した時だっただろうか。それとも、放浪生活の中で出会った人と別れた時だろうか。掘り起こそうにも、イスラの中にはろくに記録されていなかった。
(……ああ、だから笑われたのか)
自分の抱えている感情が寂しさとも知らず、つっけんどんな態度をとってしまう。その妙な子供っぽさをカナンは笑っていたのだ。
(やっぱり、良く見てるよな)
そう思ってカナンの顔を見ると、彼女の目じりにも涙の粒が浮かんでいた。蝋燭の火が揺れる。光が反射して、六等星のように小さく瞬いた。
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「ええ。だって……弟、みたいな人だったから……」
カナンは泣き崩れたりしなかったし、声も震えてはいなかった。表情も歪ませず、聖像のように整ったままだ。
それでも、湧き出た水滴が落ちて、イスラの頬を叩いた。
「弟、か……あいつが」
そういえば少し前にも、カナンと良い雰囲気になったところを邪魔されたことがあったな、と思い出した。
(ああいうことは、この先もう起きないのか……)
イスラは手を伸ばし、カナンの頬に触れると、指先で目じりを拭った。
「まあ、上手くやってくよ。俺とお前で散々鍛えてやったんだ。下らないくたばり方はしないさ」
「そうかな……?」
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ふと、イスラは思った。
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