闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三九節/「僕の英雄」 下】

 飛び散る瓦礫や土煙に構わず、イスラは一気に魔神の足元へと接近する。狙うは脚部。どちらか片方だけでも潰して転倒させれば、いくら図体が大きくとも関係無い。

 だが、二度目の奇襲が許されるほど甘くはなかった。

 魔神の膝が変形し、竜の頭部を形作る。それが玩具のように飛び出し、イスラ目掛けて突進してきた。

「チッ」

 舌打ちしつつ回避し、逆に明星を叩きつけてみる。竜頭の中ほどまでは斬れたものの、痛覚が無いのか、本体の様子に何ら変化は無い。

 逆方向の膝からも竜頭が打ちだされた。イスラはそれも難無く回避し、明星の刀身を真横に倒して、二枚に下ろす。だが、動きが止まった。

 勢いを殺されたイスラに槍の乱撃が降り注ぐ。まるで、空に浮かぶ神殿が崩れて、その柱が落ちてきているかのようだ。

 一撃ごとに地面が穿たれ、瓦礫が飛び散りイスラの身体を叩く。だが、彼もまた、痛みなど無いかのように駆け抜ける。


 その先には、業火を湛えた大口が待っていた。


「空を舞う者達、風の眷属よ。契約に従い、解きほぐれよ!」


 トビアの術が大気組成を変化させ、火焔の威力を大きく減退させる。だが、範囲は非常に広く、トビアの術だけでは妨害し切れない。

 イスラの姿が、炎の波に呑み込まれる。

「っ、イスラさん!」

 トビアの背中に冷や汗が浮いた。が、直後、梟の爪ヤンシュフに引っ張られたイスラが姿を現わす。

 右手の明星《ルシフェル》には、巻き取った火焔が絡み付いていた。

「返すぞ……!」

 梟の爪ヤンシュフによって一気に魔神の鼻先まで飛び上がったイスラは、明星に蓄えた火焔を開放し、その顔面に叩き付ける。爆発と同時に巨大な悲鳴が上がり、怪物は大きく姿勢を崩した。

 イスラは止まらない。

 上昇の途中に魔神の肩を蹴りつけて距離をとり、木の幹よりも太い腕に着地する。明星を突き立てて天火を流し込み、爆砕。灰の塊に変わる前に腕を駆けのぼり、怒声を上げる魔神の顔面に刀身を突き立てる。

 だが、再度天火を送り込む直前、魔神が大きく上体を捻った。さすがのイスラも姿勢を保てず、宙に投げ出される。梟の爪ヤンシュフの鉄線によってつながったままのイスラは、さながら振り子のように振り回された。

 今まで縦方向に落下したことはあっても、横方向に振り回される経験はイスラにも無かった。反射的に梟の爪ヤンシュフを引き戻そうとしたが、そうすれば勢いを殺さないまま投げ飛ばされることになる。地面に落ちればいくらイスラとて命は無いだろう。

(なら……!)

 腹をくくった。

 高速で回転する視界の中、イスラは遺跡の残骸である柱に目をつけると、衝突の瞬間に合わせて身体を捻った。足が柱に触れるのと同時に蹴りつけ、無理やり回転の勢いを殺しつつ梟の爪ヤンシュフを回収する。

 それでも殺しきれなかった力の分だけ地面を転がり、全身をくまなく打ち付けた。ボールのように何度か跳ねながらも、即座に起き上がって明星を構える。

 魔神は、顔に張り付いた炎を引き剥がそうと躍起になっていた。生き残っているいくつかの瞳が、イスラを睨みつける。

「眼《ガン》垂れやがって、上等だ……!」

 イスラは両膝に力を込めて立ち上がる……が、右足首が灼熱するのを感じた。顔には出さないが、心臓の底がひやりと凍り付く。


 今まで、何度か味わったことのある痛みだ。


「折れて……は、ない、な。ヒビくらいか……」


 我ながら迂闊だったな、と思った。梟の爪ヤンシュフの性能に頼り過ぎてしまったのだ。

 敵の体躯を利用し、自由に機動するという発想は良かった。だが、その力を逆に利用されてしまうことまでは考えていなかった。恐らく、この武器の元の持ち主ならば、同じ方法を繰り返し使ったりはしなかっただろう。

 捻挫くらいなら今まで飽きるほど繰り返してきた。だが、今は戦闘中だ。痛みで泣き言を漏らすつもりはないが、長時間戦い続ければその分不利になる。

 トビアが魔神に風砲を当て怯ませる。その隙にイスラはトビアを見やった。

「そっちは、あと何発撃てる?」

「あと一回……何か風術を使ったら終わりです」

「そうか。その娘ってのは、あいつのどの辺にいるんだ?」

「胸のあたりです。取り込まれた時、確かに見えました」

「ん……」

 明星の刀身を顔の前まで持ち上げる。先ほど吸収した炎に、剣の中に元から宿っている天火を混ぜ、刀身を覆う。

「次の攻撃でケリをつけるぞ。俺が先に突っ込むから、お前はその子を助けることだけ考えろ」

「でも、イスラさんだって足を……」

 バレたか、と思った。だが、イスラは頭を掻きながら「ボケ」と吐き捨てた。


「今、俺のことなんか気にしてどうする。ここはお前の大一番だろうが。俺なんか踏み台にすりゃ良い」


 イスラはトビアを睨みつけた。これ以上四の五の言わせるつもりは無かった。

 だが、トビアはそこまで物分かりの悪い奴でもないだろうな、とも思っていた。


「……分かりました」


「それで良い。俺が合図を出すまで、お前は待機だ」


 これ以上のやり取りは要らなかった。

 イスラは痛みに悲鳴を上げる右足を気力で捻じ伏せると、魔神めがけて一直線に突撃した。

 槍、竜頭、そして無数の蛇が襲い掛かってくる。まるで、戦列を整えた軍勢に真正面から斬り込むかのようだ。

 だが、ひどく遅く感じた。

 槍と竜頭は回避する他無い。しかし、蛇による乱撃は狙いが甘く、姿勢を逸らすことで受け流すことが出来た。そして、いずれかの攻撃が集中している間は、他の攻撃はやや引き気味になる。その間隔こそが付け込む隙だった。

 蛇の頭を何度となく斬り飛ばし、血を流しながら受け流し、槍と竜頭は回避する。そのまま、前へ、前へ、ただひたすらに突っ走る。

 並みの戦士ならばとうに引き裂かれるか、あるいは恐怖に竦んで動けなくなっていただろう。だが、イスラは闇渡りだ。危機や恐怖がひっきりなしに襲い掛かってくることなど日常茶飯事だった。

 そして、たった一人でそれを乗り越えてきた。彼がカナンと出会うまでに蓄えた膨大な経験は、その使い方を学ぶことで急速に練り上げられていったのだ。そして、旅に出てからの様々な経験が、彼にまた新たな力を与えていた。

 一体、どれほどの強敵と渡り合ってきただろう? 自分よりも図体の大きな敵とも幾度となく戦った。手も足も出ず敗れた相手もいれば、瀕死にも関わらず最後まで互角だった相手もいる。そのどれか一つとっても、いつも命がけだった。

「鬱陶しい!」

 火焔の波を斬り割き、逆に巻き取って、群がる蛇共を焼き払う。

 命のやり取りなど慣れたものだ。

 だがもし、何の目的も意思も持たずに力を振るっていたなら、ただの糞野郎に堕ちていただろうな、と思う。

 さりとて何か高尚な理念のもとに剣を振るっているのかと問われれば、やはり違うと言わざるを得ない。自分はカナンのようにはなれないし、なりたいとも思わないのだから。

(何でだろうな?)

 押し寄せる攻勢を捌きながら、イスラは頭の片隅で考える。

 何故、自分にとって得にも何にもならないようなことのために、命を張っているのだろう、と。

 全身がくまなく悲鳴をあげている。打ち身の数など数えたらきりが無いだろうし、右足首に至っては焼けた鉄棒を突っ込まれているかのようだ。

 それでも戦意が衰えたりはしない。むしろ、痛みを乗り越えようとするかのように、精神が肉体を引っ張っている。感覚は極限まで研ぎ澄まされ、明星は手の一部になったかのように自在に動いた。

 業を煮やした魔神が、槍を地面と水平に薙ぎ払う。だが、それこそイスラの待っていた行動だった。

 腕を振りかぶる瞬間、そこに温存していた梟の爪ヤンシュフを巻きつけ飛び乗る。直後に魔神が槍を薙ぐが、すでにイスラはその腕の上へと着地していた。

「こっちだ、ウスノロ!」

 肉の中へと差し込んだ明星を引き摺りながら、イスラは一気に本体へと接近する。斬り割かれた痕は天火によって炙られ、古いレンガのように崩れていく。巨槍が地面に落ち、灰の塊となって霧散した。

 迎撃のために背中側の蛇が影を伸ばすが、すでにイスラは魔神の顔面にまで接近していた。


「伸びろッ!!」


 刀身に込めた天火を全て開放、明星の刃渡りは大剣さえ凌ぐほどとなった。

 それを真一文字に振り切り、魔神の顎から上を斬り飛ばす。これで頭と両腕は無力化した。

 だが、敵は倒れない。即座に切断面が蠢き損傷を直そうと膨れ上がる。背中側から伸びた蛇がイスラを追い散らそうと降り注いでくる。

 その動きに先んじて、イスラは足場を蹴って宙へと飛び出し、今度は胸めがけて明星を振るった。

 城門のように分厚い魔神の胸板に刀傷が走り、その向こうに繭のようなものが見えた。


「今だ、トビア!!」


 落下しながらも、イスラは大声で叫んだ。トビアはそれに即座に応えた。


「はいっ!!」


 両腕に風の翼を纏い、蛇の攻撃を掻い潜って一気に魔神の懐まで飛び込む。右腕を伸ばしたまま傷口に突っ込み、上半身まで埋まりながらも必死に彼女の名前を叫ぶ。

 黒い繊維のようなものに絡めとられた少女の顔は蒼白だった。意識は無く、死体のようだ。トビアの脳裏に最悪の想像がよぎるが、それを振り払い、糸と糸の間に腕を差し込む。周囲の壁は生暖かく、不気味な脈動を繰り返していた。収縮し、徐々に回復しようとしている。それはすなわち、トビアも魔神の中に取り込まれてしまうことを意味する。

 まるで万力の中に上半身を突っ込んでいるかのようだ。異物を察知した肉体が、それを押しつぶそうとするかのように圧力をかけてくる。伸ばした腕や首、肩、胴が締め上げられ、骨や関節が悲鳴を上げる。

 それでも、トビアは諦めなかった。氷のように冷たくなった少女の手を握ると、残った力の全てを振り絞って引き出そうとする。魔神の身体に足を掛けようとするが、足場をとらえられず爪先が滑った。そうして焦っている間も、刻々と傷の修復は進んでいく。

「このままじゃ……っ」

「諦めるなッ!!」

 痛みのあまり手を放しかけたその瞬間、足首を強く握られたのを感じた。



「ここまで来たのは、諦めるためじゃないだろ!」



 足の痛覚を無視しながら蛇を引き付けていたイスラは、トビアの苦戦を見て再び魔神の懐にまで駆けあがった。左腕に装着した梟の爪ヤンシュフの鋼線を最大限に伸ばして魔神に絡みつかせ、自由なままの手はトビアの足を握り締める。左足は魔神の傷口に引っ掛けているが、右足は宙に浮いたままだ。

 不安定な姿勢のイスラめがけて、今まで翻弄していた蛇頭が一斉に群がってくる。

「チッ」

 右手に握った明星に天火を纏わせ、押し寄せる攻撃を一心不乱に切り払う。しかし、この状態では出来ることなどたかが知れている。斬撃を縫って襲い掛かった牙が、いくつもイスラの身体に突き立てられた。その一つ一つが、肉を抉り取ってしまいそうなほど強い力を持っている。

 それでもイスラは、致命傷と、トビアへの攻撃だけは完全に防ぎ切った。蛇が左腕に絡みつき、彼の行動を妨げようとするが、そんな邪魔など存在しないかのように、全身の力を左腕へと集中させる。


 奥歯が砕けそうになるほど固く噛み締め、イスラは片手では剣を振るい、片手では人間二人を引っ張り出そうとしていた。全身の筋肉が極限まで張りつめ、天火とはまた違った熱が血管を満たす。絡みつかれ、噛み付かれ、痛みを感じながらなおも二人を救い出そうとしていた。


 だが、再生を終えた魔神の頭が彼を見下ろした時は、さしもの彼も意識を削がざるを得なかった。目や表皮の一部は熔解したままだが、獅子の大口には刃のような歯が並んでいる。


 そして、イスラを胴ごと真っ二つにしようと開かれたその瞬間、顎と舌を縫い留めるかのように一振りの長剣が投げ込まれた。


 白色金の刀身を持つその剣が、微かに白い炎を発したのを、イスラは確かに目撃した。しかし、それが何であるのか、誰が投げ入れてくれたのかなど、考えている余裕は無い。

 魔神の動作が止まり、苦悶に身をよじる。辛うじて引っ掛かっているような状態のイスラは、危うく振り落とされそうになった。

 だが、蛇共の攻撃にも硬直が生じている。たった一瞬の隙には違いないかもしれない。しかし、勝負をかけるなら今しかない。イスラは口に明星《ルシフェル》の刀身を食わえると、トビアの足を両腕で抱き込み、両足で魔神の身体を踏み台にする。まるで、育ち過ぎた野菜を引っこ抜く農夫のような有様だ。だが、イスラは体裁など気にしなかったし、気にする余裕も無かった。


 獣のような唸り声を絞り出しながら、イスラは全身全霊を賭して二人の身体を引きずり出した。


 巨木の蔦を千切れるように、纏わりついていた繊維が、ブチ、ブチ、と音を立てて千切れていく。

 あるいは、心臓につながる血管に喩えられようか。魔神の身体からサラが引き出されると同時、その巨体が端から形を失ってどろどろと溶け崩れていく。

 イスラは二人を抱えたまま、地面へと落ちていく。受け身が取れないため痛みを覚悟したが、思ったほどの衝撃は来なかった。落下の直前、下で待っていた誰かの手が、彼らを受け止めてくれたのだ。

「全く、感心するほどの無謀さだ」

「オーディス……!」

「気を抜くな、まだ終わってはいないぞ!」

「っ、ああ!」

 核であるサラを失った魔神は、それまでの傲岸さなど嘘のように、惨めな存在へと転落しつつあった。悪魔の四肢は軟化し、せいぜい手足のついた汚泥の塊といったところだ。それが主を求めてよろよろと歩いてくる。

 イスラは、すぐそばに落ちていた明星《ルシフェル》と、オーディスの月桂樹《アウレア・ラウルス》を拾い上げた。互いの刀身を重ね、明星の天火をもう片方の剣へと流し込む。

 サラを抱きしめたまま、トビアは朦朧とした視界のなかで、イスラの後姿を見ていた。二振りの輝く刃を備えた彼が、伸ばされた腕を踏み台にして一気に駆け上がる姿を。足に纏わりつく汚泥など歯牙にもかけず、魔神の頭のあった場所でさらに跳躍し、誰よりも高い場所で双剣を掲げる。



「終いだ……!」



 二振りの剣から、蒼い炎の刃が伸びた。それは月よりも眩い閃光を放ち、夜闇を斬り割く。


 イスラはその二刀を同時に振り下ろした。蒼炎の刃はどちらも魔神の肩に当たり、そのまま縦一直線に斬り降ろされる。両腕が捥《も》げ、ついで自重を支えられなくなった腰が崩落し、魔神の肉体はぶつ切りのまま地面を転がった。



 そして、トビアの記憶に焼き付いたあの日・・・と同じ、灰の霧が着地したイスラを覆った。



「痛って、折れた!!」



 ただ、あの日の余裕に満ちた声音よりも、いくらか情けなくはあったのだが。

 それでもトビアの記憶が覆ることはないし、イスラに抱いた憧れも、感謝も、消えることは無い。

 何故なら彼は、出逢ったあの日からずっと、彼にとっての英雄であり続けたのだから。

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