闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三八節/風読みの秘奥義 下】

 誰にでも、忘れられない記憶や経験がある。

 トビアにとってのそれは、父親に誘われて、初めてシムルグの背に乗った時のことだ。

 人間ふたりを乗せても軽々と飛び上がってしまう巨大な翼と、それを動かすシムルグの筋肉のうねりが少年を圧倒した。高度があがるたびに振り落とされないよう強くシムルグの体毛を握り締めた。吹きすさぶ風は目を開けられないほどに激しく、轟々と鳴り響く嵐の声が聴覚を支配する。

「怖がるな。トビア、目を開けろ」

 父親が背中を叩く。荒れ狂う風のなかにあっても、耳元で叫ぶ父の声だけは妙に明確に聞こえた記憶がある。

 トビアは恐る恐る目を開いた。直後、シムルグは巨大な雲に向かって真っすぐに急上昇していく。少年は再び目をぎゅっと閉じるが、水滴が顔に張り付き、髪の毛を濡らした。

「もう少しだ、頑張れ」

 雲の天井を突き抜ける時の音を、トビアは上手く表現出来ない。風の音以外に置き換えられる言葉が無いからだ。大地と天の境界には、この世界ツァラハトの全土を遍《あまね》く巡る大きなうねりが轟いている。

 そして、その境界を越えた先には、星々の瞬く世界の入り口が待っている。

 先程までの騒々しさが嘘のように無くなり、シムルグの翼がはためく音と風切り音だけが残った。目を開くと、大地で見上げるよりも遥かに澄み切った星空が視界の全てを覆い尽くした。月が神々しく輝き、その金色の光を雲海へと投げかけている。

「綺麗……」

 まるで、神の座す世界を垣間見たかのようだった。目がくらみ、息が苦しくなる。これ以上は来てはならない、と誰かに言われているかのように。

 トビアの顔色を察した父は、すぐに高度を下げた。だが、その時の体験は深くトビアの脳裏に刻まれていた。


 その原体験が揺り起こされたのは、つい最近。パルミラでフィロラオスと過ごす中で教えられたことに由来する。


「この世界は、極めて小さな粒から出来ているという説がある。その粒は組み合わせによって性質や形態を変化させ、集合することで、我々の周囲にある物体と同じものになるのじゃ」

 ちょうど、ウドゥグの剣の正体をフィロラオスが言い当てた頃のことだ。空気中に可燃性の物質をまき散らす武器、と言われても、トビアには今ひとつ理解が出来なかった。フィロラオスは、そんなトビアのために小さな講義を開いてくれた。

「じゃあ、僕や先生も、小さな粒の塊ってことですか?」

「ほっほっ、その説が真実だとするなら、当然そうじゃろうな。もちろんその粒は目に見えないほど小さい。この世にあるどんな眼鏡を使っても、到底見ることはかなわんじゃろう。
 さて、それくらい小さな粒であるから、当然空気の中にも混ざっておる。一つ証拠を見せようかの」

 そう言って、フィロラオスはランプに火を点けると、筒状に丸めた紙片を近付けた。当然、すぐに火は燃え移り、あっという間に紙片を黒く焦がしていく。

 すると、老博士はそれを口の中にパクリと加え込んだ。

「先生!?」

 トビアは呆気にとられたが、数秒後、フィロラオスは何事も無かったかのように口から紙片を抜き取った。火は完全に消えており、黒い焦げ跡だけが残っている。

「見ての通りじゃ。儂の口の中にある、物を燃やす粒が全て無くなったから、火が消えたのじゃよ」

「いや、あの……」

「水の中に火を入れると消えてしまうのは、水中に火を燃やす粒が無いからじゃ。同じ道理で、人間が呼吸出来なくなってしまうのも」

「髭が燃えてますよ!!」

「ほ?」

 老博士が、不揃いになった髭を整えるために悪戦苦闘したのは、また別の話である。



◇◇◇



 風術とは大気を操る魔法である。

 風読みの先祖はその有り余る魔力で気象さえも操ったと言われているが、その大規模な術の対極に、ごく小規模な領域に干渉する分野が存在した。

 それこそが、空気中の極めて小さな粒・・・・・・・を操作する術である。

 時と場所は変わり、ティヴォリ遺跡の戦場で、トビアはその秘奥義を紐解いて見せた。

 人間の呼吸には、空気中の成分の比率が大きく関係している。人間を生かす空気が多すぎても、少なすぎても、何らかの影響が身体に現れる。

 空の上や高山の頂きで息苦しさを覚えるのは、空気の密度が薄くなっているためだ。高高度で空気が薄くなる理由まではトビアには分からない。しかし、彼は経験則からそれを知っていた。そして、その状況下では人間の活動力が著しく低下することも。

 サラが持つ夜魔憑きの力は、継火手以外の人間にとっては大きな脅威となる。絶対的と言っても過言ではないだろう。しかし空気の濃淡を操作することなど出来ないし、ましてやサラ自身の肉体的素質は普通の少女と変わらないどころか劣ってさえいる。

 効果は絶大だった。

 サラは地面に蹲ったまま、身動き一つ取れなくなった。身体が言うことを聞かず思考もまとまらない。夜魔を操作しようとしても具体的な像が脳裏に浮かばなかった。

 辛うじて、トビアの魔法陣の輝きと、この息苦しさを結びつけることは出来た。彼が捻じ伏せられる直前に発動した術こそ、勝敗を逆転させた原因なのだと。

「わたしの……負け……」

 この有様だ。今や自分の生殺与奪の一切はトビアの手に握られている。

 あちこちに散らばっている瓦礫の一つでも持ってきて、自分の頭に叩き付ければ、薄っぺらい頭蓋骨など皿のように割れてしまうだろう。

「っ、はは……それもイイかも、ね……」

 死にたくないと思ったから、ベイベルについていくことを選んだ。だが同時に、自分のような人間はすぐにでもこの世から消えるべきだと思って生きてきた。

 だから、もしそういう機会が来たなら潔く頭を垂れよう。剣なり斧なりが、力尽きた自分の上に振り下ろされるのを甘受しよう。そう心に決めていた。


 だが、心のどこかでは分かっていた……あるいは、期待していたのかもしれない。トビアは絶対にそんなことをしないと。


 現に、彼女を取り巻いていた息苦しさは、徐々に緩められていった。


「……何のつもり?」

 憎悪を込めたつもりの声は、みすぼらしいほどに擦れていた。せめて睨みつけようと顔を上げる。そこには、泥まみれになったトビアの顔があった。

 その目から顎にかけての縦線だけは、泥が洗い流されていた。

「もうやめよう」

 だらりと垂れ下がっていた右腕から、翡翠色の輝きが失われていく。それはそのまま、トビアの戦意が鎮火していくことを意味していた。

「これ以上、君の首を絞めたくない」

 夜魔憑きの圧倒的な力を封じるには、本丸であるサラを無力化する他に方法は無い。これはトビアにとって唯一の選択肢だった。

 それでも、これ以上続けたくなかった。相手の呼吸を封じながら対話を求めるなど強姦魔のすることだ。

 青臭い考えだということは分かっている。軽蔑されるであろうことも、復活した夜魔の餌食になるであろうことも。だが、自分は理屈の果ての答えを求めてここまで来たのではない。むしろ、理屈とは正反対のもの……ひたすらに、己の感情に従って歩き続けてきたのだ。


 その選択がどのような結果を導き出したとしても、後悔はしない。


 トビアは呆然とするサラに左手を差し出した。

「わたしを……殺さないの?」

「そんなこと、するはずないだろ」

「わからないわ。トビアは、わたしが怖くないの?」

 困惑した少女の青紫色の瞳が揺れていた。「……」返答の代わりに、トビアは膝をついて目線を合わせていた。言葉よりも先に、自分と彼女が同じ地平にいることを示さなければならないと、そう思ったからだ。

 誰かに寄り添おうと思うのならば、見上げるのでもなく、見下すのでもなく。目を背けず、真っ直ぐに相手を見ることから始めなければならない。それは当たり前のことなのだが、トビアは、それを当たり前と思わせてくれる環境を与えてくれた全てに感謝した。

「わたしは怪物なんだよ……ほんとなら、生まれた時に死んでなきゃいけなかったのに……」

「でも、今はこうして生きているじゃないか。生きてきたってことは……君がそれだけ、色んなものを積み上げてきたってことだろ?」

「わたしの命なんて、つまらないものだよ。トビアは知らないだけ。知ったら、きっとそんな甘いことは言えなくなるわ」

 トビアはサラの年齢さえしらない。もしかするとサラ自身も知らないかもしれないが、お互いに見た目から同年代ということは分かっている。

 その小さな肩にどれほどの重荷を背負ってきたことだろう。短い人生のなかで、どれほどの闇を垣間見てきたのだろう……トビアにはその断片を想像することしか出来ない。

「……そうだね。僕は君のことを、ほとんど何も知らないんだ。だから無責任なことは言えない。きっと、辛いこととか、悲しいこととか、色んなことがあったと思う」

「だったら……!」

「でも、苦しみや悲しみだって、君の命の一部なんだよ。
 僕は今まで、色んな人から色んなものを受け取って生きてきた。風術だけじゃない。心の持ち方とか、本の読み方とか、あと……蛇の食べ方とか」

「なにそれ」

 冷たい声で返されると、逆に何故だか笑いが込み上げてきた。それがさらにサラの表情を険しくさせるのだが、トビアは目じりを拭きながら「ごめんごめん」と謝った。

「でも、それはサラだって同じなんだ。
 今まで積み上げてきたものは、本当に意味の無いものばかりだったと思う?」

「積み上げてきた、もの……」

 そんなものあるはずない、と言いたかった。だが、口が開かなかった。

 もしそれを「無い」と言い切ってしまったら、彼女・・と共に過ごした時間さえも否定することになってしまう。

 たとえどれほどの人間に憎まれ、蔑まれていようと。彼女・・がエゴのままに力を振るい、横暴の限りを尽くしていたとしても。

 それでも、同じ孤独を分かち合う存在と過ごした日々は、サラにとって掛け替えの無い時間だった。そして自分が、怪物と罵られる苦しみや悲しみを知らなかったなら、そんな時間は存在し得なかっただろう。

 そして彼女は一人ぼっちのまま、自分と同じ存在がいることも知らずに、孤独な演技を続けていたに違いない。



 ―――でも、わたしがいたから。あの人がいたから、わたしは……。



「っ、トビアには……っ、誰にだって、わかるもんか……」

 空虚でありたい。心を持たない化け物でいたい。そう願い続けてきた。その願いを共有してきたというのに。

「頭のなか、ぐちゃぐちゃで……何なの、これ……!」

 悲しいというのでもなく、悔しさでもない。ただただ、胸を捻じ切るような切なさだけがあった。それがサラに涙を流させ、その流れる感触が、余計に彼女を困惑させる。初めて人殺しをさせられた時さえ泣かなかった自分が、今は良く分からない感情の波に翻弄されている。

 トビアは手を伸ばし、彼女の頬に触れた。涙で潤んだ青紫の瞳を見つめる。いつもなら慌てたり、赤面して動けなくなるが、今は不思議なほど冷静だった。ただ言いたい言葉だけがあって、それを伝えるということ以外は、何の意味も無いように思えた。

「……君が恐ろしい力を持っていることは分かってる。でも、それは君の、ほんの一部に過ぎないんだよ。
 怪物なんてどこにもいない。
 いるのは君だけだ」

 言い切った後も、トビアはしばらく動けなかった。今になって緊張が押し寄せ、体中の筋肉を石のように固めている。自分の周囲を取り囲む音が、どれもひどく遠く感じた。

 サラは微動だにしない。人形のように整った顔は少しも動かず、じっとトビアを見つめている。トビアは、段々と緊張の種類が変わり始めてくるのに気付いた。思わず唾を飲み込む。その音もまた、やけに大きく聞こえた。

 サラは、少しだけ微笑んだ。



「ありがとう、トビア」



 トビアは息を吐いた



「でも、やっぱりダメみたい」



 影法師の腕が現れ、トビアを突き飛ばす。直後、彼が膝をついていた場所を鋼鉄製の矢が通り過ぎていた。サラの呼び出した夜魔はそれを受け止めるが、勢いを殺しきる前に霧散する。鏃が、少女の肩をわずかに抉った。

「っ!」

「なっ……!」

 トビアは絶句し、振り返る。ずいぶん離れた石垣の傍に、石弓を構えたラヴェンナ兵が突っ立っていた。暗くて表情までは見れないが、虚脱しきった姿勢から、彼が命令ではなく恐怖心で撃ったのだと分かる。

 あたりを見渡すと、後退したラヴェンナ兵や難民団の戦士達が遠巻きに彼らを取り囲んでいた。いずれも、武器の穂先をサラへと向けている。難民団の中には見知った顔さえあった。

 誰も積極的に手を出そうとしない。しかし、いつまたあの兵士のように、恐怖心に負けて引き金を引く者が現れるか分からない。決壊寸前の堤防のように、ぎりぎりのところで夜魔の脅威が彼らの攻撃を押しとどめている。

 だが、使役者であるサラは、既に攻撃を凌ぐだけの余力が残っていないことを悟っていた。酸欠の影響からまだ完全に立ち直っておらず、召喚する夜魔の像を脳裏で結べない。制御を離れてもある程度は自動的に防御してくれるが、これだけの人数の一斉攻撃を喰らえば、さすがにひとたまりもないだろう。

 おまけに、最後のひと押しが飛び込んできた。


「何やってるんだよ! そいつ早く殺せェ!!」


 後ろ手に縄を掛けられたグィド・ゴートが、血走った目で飛び込んできた。肩を抑えながら立ち上がるサラの姿と、足元で蠢く影を見るなり「ひぃっ」と声を出しながらたたらを踏む。

「ほ、本物の夜魔憑き……!」

 声は裏返り、全身から冷や汗を流している。サラとの距離は五十ミトラ以上も離れているが、正真正銘の怪物を前に理性を働かせる余裕などなくなっていた。

「お、おい兵士共! 何をぼさっとしている! あんな化け物がマリオンの領土にいるなんてとんでもないことだ! は、早く討伐しろ!!」

「これ以上騒ぐな……!」

 彼が命令を下すのとほぼ同時、護衛の兵士を昏倒させたオーディスが駆け寄り、部下同様に主人の後頭部を殴りつけた。白目をむいて倒れるグィドを片手で抱える。しかし、最早グィドの身柄など大した意味は持たなかった。

「一歩遅れた、か……」

 すでにラヴェンナ兵達は雪崩のようにサラへと向かっていた。足音や金属の擦れる音が幾重にも重なる。振動で足元が揺れていた。

 武器の津波を前に、サラは息を吸った。そして、トビアに向かって振り返る。

「ごめんね、一生懸命がんばってくれたのに……でも、やっぱりこれでいいんだよ」

「そんな……サラ!!」

 彼女は踵を返す。ふと左手に滴る鮮血を見ると、先程のトビアと同じように奇妙な笑いが込み上げてきた。

「夜魔憑きだからって、血は赤いよね……」

 サラは何気なく左手を垂れさせた。何の意味も意図も無い。完全に無意識の仕草だった。

 左手の指を血が伝い、赤い雫の最初の一滴が、彼女の影へと落ちたその瞬間。


 サラの足元に、悪魔の紋章《シジル》が描かれた。

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