闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三七節/恩義と恥辱 上】

 月明りも満足に届かない暗闇の中を、アブネルに率いられた五十人の闇渡り達は無心で駆けていた。否、率いているというのはおかしいかもしれない。何しろ、アブネル本人の胸中にはそのような意識など微塵も無かったからだ。

 もとよりこの脱走も、状況に流されて突発的に起こったものだ。

 何故そんな行き当たりばったりをするつもりになったのか、恐らく誰も答えられないだろう。「なあアブネル、これからどこに行く?」そう尋ねられたところで、アブネルは何も答えられなかった。

 自分達は何者なのか、これからどこに行くのか。

 全てを失い、剣さえも取り上げられた今になって、アブネルはその根源的な問いに直面せざるを得なかった。彼はいくらか冷静だったため、そのように自問することも出来たが、他の闇渡りの中には全く何も考えられない者も多かった。

 これが今まで考えられなかったのは、己らが人として低級であるからだ。


(つまるところ、俺たちはそういうもの・・に過ぎない)


 悲観でもなければ自嘲でもない、確たる事実だとアブネルは思った。

 そして同時に、そんな自分達だからこそ、サウルの野望に付き従ったのは必然であった。彼の描いて見せた世界は、自分達のように何も考えられないような野蛮人にこそふさわしい。己の力のみを頼る生き方こそ、闇渡りの本懐だ。

 サウルは誰よりも強かった。この世に力以外の正義など無いのだと、自分達に思わせるほどに強かった。彼らにとっての旗印は、サウルに象徴される野蛮な力そのものだった。

 そして、あの男が力を振るい、天火や王冠に手を掛けようとする様に、自分達は感化され刺激され、熱狂した。

 それが、今は無い。

(頭、どうしてくれる。あんたが居なくなったせいで、俺たちは旗印を失くしちまった。そして……)

 樹々が分かれ、月明かりに照らされた小さな広場が現れる。偶然出来たのではなく、かつて意図的に築かれた場所だ。その証拠に、石を組み合わせて作った祭壇と、首の欠けた石像がある。いかなる神であったのかは分からないが、姿形から女神だと知れた。

 首の無い女神は、慈悲を示すかのように両手を広げている。何ということはない、夜の世界を旅していたら、度々見かける光景だ。だが、アブネルは不思議な巡り合わせのようなものを感じた。

 空から、風を巻き起こしながら巨大な影が降りてくる。アブネルは足を止め、仲間を片手で制した。

 鉤爪のついた竜《ユラン》の脚が地面に着く前に、背中から一人の少女が飛び降りた。結構な高さだったにも関わらず、本職の闇渡りのように鮮やかな所作だった。

「継火手カナン、か……」

 アブネルは絞り出すように彼女の名を呟いた。



◇◇◇



 正直なところ、カナンは何も考えていなかった。いや、考えたところで、どうやって説得するかなど思いつかなかったのだ。彼らと対話しなければ真意を知ることは出来ないし、それを知ってはじめて、彼女も対応や対策を打ち出すことが出来る。

 ただし、それは彼らに対話をする意思があればの話だ。

 議論もせず、いきなり脱走という暴挙に踏み切った彼らが対話に応じる可能性は低いと、カナンも内心では思っていた。

(……それでも)

 アブネルと相対したカナンは、継火手の象徴である権杖を地面に突き立て、手を離した。

 その行為が意味するところは明白だ。闇渡り達は驚愕し、騎上のクリシャも焦ったように「カナン様!」と声を荒げる。

 だが、ただ一人、アブネルだけは表情を変えずカナンを見据えていた。そこには怒りも恐怖も無く、カナンでさえ彼が何を考えているのか読み取れない。

 他の闇渡り達が動かないところを見るに、彼の号令を待っているのだろう……カナンはそう結論づけた。アブネルを説得出来れば、他の闇渡り達も従うはずだ。

 カナンは切り出した。

「闇渡りのアブネル、この脱走はあなたが呼びかけたのですか?」

「そうだ」

 人相通りの無骨で険しい声だった。だが敵意は感じられない。顔の左半分が焼けただれていることも、感情の表出を妨げている。手探りのような心細さを感じながらも、カナンは進める。

「あなた達が不満を覚えていたことは知っています。けれど……こんなことをしても、状況は何も良くなりません。あなた達の立場を一層不利にするだけです」

「つまり、守ってやっているのだから大人しくしろ。自分の言うことに服従していれば全て上手くいく。そう言いたいわけだな」

「不埒《ふらち》なことを言うなッ!!」

 カナンに代わり、クリシャが怒声を上げた。彼女の怒りを代弁するかのように、竜《ユラン》も喉の奥で戦闘的なうめき声を鳴らす。

「元はと言えば貴様らの反乱が招いたことだろう! 命を長らえているだけでも有難いと……」

「クリシャさん、そこまでです」

 カナンは、それ以上クリシャが言うことを許さなかった。片手で彼女を制し、首を振る。

「そんなことは、言い出したらキリがありません。あの戦いは終わりましたし、指導者だった闇渡りのサウルは責任とともに冥府へ下りました。人間が理性に依って立つ生き物であるなら、戦いの納め方も理性的でなければならないと、私は思います」

 彼女の言葉は、アブネルの笑いを誘った。ここ十数年、まともに笑った記憶は無かったが、その記録を塗り替えるほどの滑稽さだ。

 あろうことか、獣に等しい闇渡りを前にして「人間の理性」を口にするとは。

「私の言うことは、可笑しいですか?」

 愚弄されたとは思わない。彼女自身、自分が過分なほどの理想主義者であるという自覚はある。だから、過酷な現実の中を生き抜いてきた人間から見れば、愚かしく見えるのも仕方のないことなのかもしれない。

「ああ、可笑しいな。久しぶりに……そう、ずいぶん久しぶりに笑わせてもらったよ」

 そういった時には既に、アブネルの顔に笑みは無い。彼は真っ直ぐにカナンの蒼い瞳を見据えた。

「継火手カナン、貴様は……いや、貴女は」

 カナンは一瞬、聞き間違いかと思った。だが、アブネルが並べていく言葉から、それが空耳でなかったことを確信した。

「俺達に……敗残兵である我々に十分以上の慈悲を垂らしてくれた。俺自身のことも含めて、勿体ない程の恩恵だったと思っている。それについては、ここに居る者を代表して礼を言いたい。
 今しがた言ったことも本意ではない。まあ……賢いか否かは別として、貴女が高潔な人間であることは皆知っている。俺もそう思っている」

 カナンもクリシャも、面食らってしまった。てっきり現状に対する不満をぶちまけられると思ったら、逆に賞讃と慰労の言葉を掛けられたからだ。

 しかし、これは全て逆説の前触れだ。でなければ、カナンへの不満を抱いていない彼らが出奔に踏み切る説明がつかない。混乱しながらも、カナンはアブネルの言葉を的確に記憶し続けていた。


「だが」


 来た、とカナンは思った。


「我々は、貴女が救うに値しない存在だ。もっと言えば……生きている価値も無い、世の塵だ」


 アブネルは「俺」とは言わず、あえて複数形の主語を使った。一緒くたにされた闇渡り達は怒るのではないかとカナンは思ったが、意外にも、誰も抗議の声を上げようとしない。それどころか追従するように頷いている者さえいる。不満顔の者も居るには居るが、積極的に否定しようとはしなかった。

 アブネルの言ったことは、彼らにとって程度の差こそあれ、共通認識に違いなかったのだ。

 もしこの場にイスラが居たなら、アブネル達の心情を理解出来ただろう。そして、それを一言で表現出来たに違いない。


「貴女はあの日、俺達を救うべきでなかった。我々……呪われた闇渡りの血は、土に吸わせるのが正しかったのだ」

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