闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三六節/騒擾と群像 上】

「ほォら見ろ! やっぱりダメじゃないかっ!!」

 第一報を聞いたグィドが意気揚々と立ち上がった。

「おだまり! お座り!」

 ペトラの返しは、ほとんど犬に躾を擦る時と同じ口調だった。だが、出番が回ってきたと興奮している彼の耳には届かない。例の自分本位な調子で近従達に出陣命令を下している。それを止めようと、ヒルデやギスカールら難民団側の人間も入り口の前に立ちふさがった。

 狭い天幕のなかで人と情報が入り乱れ、カナンにも収集がつかなくなった。天火の閃光で怯ませようかとも思ったが、そんなことをすれば天幕を焼いてしまう。

 逡巡する彼女に代わって場を制したのは、オーディスの発した一喝だった。


「静まれ、それでもラヴェンナの騎士か!」


 普段は清廉な声が、今は鉄の棍棒に匹敵する硬さを帯びていた。その喝破は温和な彼の姿に慣れていたヒルデやギスカールを驚かせ、忠誠の対象が異なるはずのグィドの部下たちをも制した。天幕の中が水を打ったように静まり返り、混乱と興奮の熱が一気に平温へと引き下げられた。

「命令系統は違えど、地位に違いは無い。諸君のとるべき態度がいかなるものか、頭を冷やして考えるべきだ」

 それは敵だけでなく味方にも向けられていた。ギスカールは恥じ入ったように俯き、グィドの部下たちも互いに顔を見合わせながら押し黙った。

「黙れ、敗軍の将の分際で、偉そうなことを言うんじゃない!」

 唯一、グィドだけが声を荒げた。机に拳を叩き付ける。空になっていたグラスがいくつか倒れ、場違いな澄んだ音が響いた。

 オーディスは挑発には乗らなかった。何も言われなかったかのように涼やかな表情のまま、カナンに「行ってください」と促した。グィドが喚くが、少しも取り合わない。

「この場は私が預かります。カナン様は、脱走した闇渡り達を追ってください」

 彼の口から出たにしては、妙に優しい言葉だった。合理主義的な彼なら、こういう場合迷わず処刑を進言したはずだ。思わずカナンは「良いのですか?」と聞き返していた。

「私が赴けるなら、剣を抜くことを躊躇いません。
 しかし、行くのは貴女だ。貴女はその理想に従って、成そうと思うことを成されればよろしい」

「ちょっと待て! 脱走した闇渡りなんて、今すぐ……!」

「さあ」

「……ありがとう!」

 カナンは天幕を飛び出した。ペトラもその後に続く。グィドが追いかけようとするが、その前にオーディスが立ち塞がる。
 グィドは憎々し気な表情で彼を睨みつけた。

「……使命に燃える女の子をそそのかしたって、エマは帰って来ないぞ」

「存じております。死者は……決して生き返ったりはしませんから」



◇◇◇



 天幕から飛び出したカナンは、居留地が予想以上の混乱に陥っている光景を目の当たりにした。あちこちでグィドの引き連れてきた騎士団とカナン派の騎士が小競り合いを繰り返している。オーディスが統制を取り戻さなければ、本当に血を見る事態が起きてしまうかもしれない。

「あっちの方はあたしが抑えるよ」

「お願いします。くれぐれも」

「手荒な真似はするな、だろ? 分かってるよ。こういう時にどうするかも考えてあるからね」

 ペトラはニヤリと笑うと、懐から数枚の鉄片を取り出してひらひらと振って見せ、重武装の騎士達の間へと駆け込んでいった。

「頼みますよ、ペトラ」

 視線を闇渡り達の方へと巡らせる。やはりそちらも浮足立っているが、最初にイスラやサイモン達に頼んでいたおかけで、出奔したというアブネル達以外は脱走まで踏み切っていない。また、その意思の無い者が大半だろう。逃げ出した連中というのは、実力と体力の両方を備えた者ばかりだからだ。

(ここは大丈夫……でも、どうやって追いついたら……)

「お困りですか、カナン様?」

 その声はカナンの頭上から聞こえてきた。足元の草や髪が風圧で揺らされる。月の光を巨大な翼の影が遮った。

「ちょうど良かった、クリシャさん! 乗せてください!」

 真っ黒な体躯のユランが地面に降り立つ。背中の鞍にまたがったクリシャが、後席を軽く叩いた。

「早速お役に立てて、おれ達としても嬉しいですよ。なぁ、ヴォイチェフ?」

 彼女が相棒の名前を呼ぶと、烏の啼き声を思わせる妙に可愛らしい声が上がった。それを聞いて、カナンはこんな時にも関わらずクスリと笑ってしまった。

「さあ、それじゃあ参りますよ! 振り落とされないでくださいねっ!」

「はーいっ!!」

 羽音に負けないよう大声で叫ぶ。次の瞬間、内臓の浮き上がるような感覚と共にグンと風景が揺れ動いた。
 小さな嵐のような風を巻き起こしながら、クリシャの竜は永遠の夜空へと飛翔した。



◇◇◇



「あー……なんか大変なことになってるなぁ」

 様々な立場の人間が慌ただしく動き回る中、闇渡りのプフェルは樽の上に座って脚を組み、頬杖を突きつつ呑気に見物をしていた。

 例の反逆事件の後、彼は意外な事務処理能力の高さをカナンに買われて、半分罰則のような形で働いていた。だが、このような状況下では普段通りの仕事が出来ないため、それにかこつけてさぼっているのだ。
 ちなみに、名無しヶ丘の戦いの際も、坑道からあふれ出た夜魔に向かって石を投げるくらいのことしかしていない。

 何事も起きない平穏な日常が続けばそれが一番なのだが、彼は別段、それを取り戻そうと努力しない。だから状況に流されても文句は無いし、言ったところで仕方が無いと諦観している。そういう無気力なところが、かえって自分の良いところなのではないか、と思うくらいだ。
 実際、幼馴染のサロムと上手くやれてきたのは、両者の正反対の性質を上手くかみ合わせてきたからだった。

 だがここにきて、肝心の相棒に変化が見られた。

「ちょっとどうなってんだい! 槍の穂先を向けられたんじゃ、落ち着いて食事も出来やしない!」
「ねーえ、ラヴェンナのお兄さんたち相手にオシゴトしちゃいけないの?」
「腰が痛むんじゃが、若いの、ちょいと揉んでくれんかの?」

「だあっ! 分かった! 分かったから、ともかく皆落ち着いてくれ! 今はカナン様が何とかしてくれるのを待つんだよ。俺らがバタバタしてたんじゃ邪魔になる。もちろんオシゴトしちゃダメだし、代わりにそこの爺さんの腰でも揉んでやってくれ!」

 プフェルの視線の先では、十人の老若男女に囲まれたサロムがあたふたと指示を飛ばしていた。

 指示というよりもただ「待て」と先延ばしにしているだけなのだが、四方八方から苦情が相次いでいる現状ではそれ以外に解決のしようがない。

(カナン様、とか言ってらぁ。あのサロムが)

 いつも無駄に自信満々で、無謀と無鉄砲に高飛車を加えて煮詰めたような男が、今は一人の女性の命令を受けて粛々と泥臭い仕事を引き受けている。こと仕事となると、面倒くさがりながらも遂行するプフェルに対し、そもそも投げ出して蒸発してしまうような性格だったというのに。

 サロムの急激な変化は、プフェルにとってもあまりに意外だった。その変貌ぶりに多少驚きや、あるいは不安のようなものがあることも、否定出来ない。これまで知っていたのとは全く別の人間になってしまったかのようだ。

(なんて、ね)

 サロムは難民達の中に沈み込み、相変わらず質問攻めの波状攻撃を喰らっていた。

「おいプフェル! お前も見ていないで手伝え!」

「手伝えっていったってさあ。なんか面倒くさいし、サロムがやればいいじゃん」

「俺一人じゃ無理だ! 俺が三人分の話を聴くから、お前が七人分受け持ってくれ」

「何だよ、それ」

 プフェルは思わず苦笑していた。それと同時に、少しだけホッとした。樽から腰を動かし、首をポキポキと鳴らしながらサロムの隣に立つ。

「六対四でいこう。僕が六、君が四ね」

「闇渡りのイスラと蒼炎の御子」を読んでいる人はこの作品も読んでいます

「ファンタジー」の人気作品

コメント

コメントを書く