闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三一節/聖女と娼婦 下】

 穢婆《えば》に引き連れられて入った天幕には、様々な薬草の臭いが充満していた。数人の穢婆が床の上に座り込み、背中を丸めて薬を調合していた。

 彼女達の傍らには、持ち運び出来るように取っ手の付けられた薬棚が置かれている。中には様々な動植物の乾物が納められており、彼女らはよどみない手つきで必要な物を選んで、すり鉢の上で潰していく。石と石の擦れる音が厳かに響いていた。

 作業は淡々と続けられていたが、カナンが入り口の布をまくり上げた時、一瞬だけそれが途切れた。ローブの下の容貌にはいくらか差があるが、目が光を失っていることに変わりはない。現世で喜びを得ることを諦めた目だった。

「椅子も用意出来なくて悪いね。せめて、そこの麻の敷物を使っとくれ。それが一番、汚れてないだろうからねえ」

「ありがとうございます」

 カナンは一礼すると、勧められた敷物の上に腰を下ろそうとした。だが、どんな風に座ろうかと迷った。イスラといるときは好きな姿勢をとるが、年上の相手を前にして膝を立てるわけにはいかない。「律儀な子だね、好きにおしよ」と言われて、結局は横座りに落ち着いた。

 そうこうする内にも、穢婆は薬棚の中から数種類の薬草を鑷子《せっし》で摘み、火鉢の上に置かれたポットに落とした。ほどなくして薬草の成分が抽出され、カナンに薬湯が供された。

「おあがり。見ての通りあたしは茶葉に触れちゃいないし、毒だって仕込んでないよ……もっとも、継火手のお前さんには、そんな心配は不要だろうけどね」

「ええ」

「あたしの手を取ったのだって、あんたが継火手だからだろう? 身体の中に宿った天火が、病気や毒から身を守ってくれるんだから、羨ましいったらないね」

 穢婆は擦れた声で笑う。うずくまった他の穢婆達も、薬草を擦る音の後ろで忍び笑いを漏らしていた。

「まあ、それにしたって大したものさ。こんな梅毒持ちの手を取りたいと思う娘なんて……しかも、煌都のお嬢さまときてる。少なくとも、肝っ玉だけは確かだね」

「……私が同行したのは、貴女となら建設的な対話が出来ると考えたからです。度胸試しのつもりも、偉ぶって見せるつもりもありませんよ」

「さあ、どうなんだろうね。お前さん、可愛い見た目の割に、結構打算も働くんじゃないのかい? 自分のことを良く分かっているから、他人に自分をどう見せるかってことも心得てる。まるで場数を踏んだ娼婦のようにね」

 挑発めいた言葉にもカナンは反応しなかった。穏やかな表情を浮かべたまま薬湯に口をつけた。舌が締め付けられるような苦さだった。

 彼女達……穢婆の存在は、イスラから聞かされて知っていた。

 闇渡りの社会にあって女性の地位など無きに等しい。継火手を中心とする煌都とは全く対照的な構図だが、戦闘、狩猟といった肉体労働が生活の主柱を占める以上、女性に求められる役割が限定的なものになるのは必然である。

 そして旧時代以前の歴史書が伝えるように、娼婦という職業は人間社会の裏に常に寄り添ってきたものだ。たとえ世界から光が失われ、人々が永遠の夜の中に追放されようと、その役割を負わされる者は必ず立てられる。

 この数百年間、闇渡りの女性たちは背中を丸めて生きてきた。様々な家事を取り仕切り、子を育て、戦士達の横暴に耐え続ける。

 だが不特定多数と性交渉を持つ以上、性病に罹患するのは時間の問題だ。もちろん病を得る前に命を落とす者や、稀ながら売春と縁を持たずに済む者もいるため一概には言えないものの、集団のなかで必ず数人は感染する。

 そうなった場合、彼女らは最早人として扱われず、名前を捨てた穢婆として薬の調合を任されるようになる。

 死を待つ人々、という言葉が脳裏に浮かんだ。

「……私は、自分が正しいと信じる倫理のもとに行動しているだけです。それよりも、本題に入りましょう」

「良いだろう。とは言っても、これはとても難しい問題だよ。あたしら闇渡りの間で長いこと続いてきた因習だからね。見目の良い女が娼婦をやることは、闇渡りの女にとって当り前のことなのさ」

「それは知っています。貴女達の間にそれが常識として染み付いてしまったことも……でも、それはやはり間違っています。
 娼婦は身体を売る仕事、すなわち自分の人としての尊厳をお金に換えることです。自分を一つの商品に貶めること……肉屋の肉、酒屋の酒と同列になることです」

 穢婆は喉を鳴らした。歪んだ唇から、空気のような擦れた嗤い声が漏れた。

「だから、あたしらは悪だと、そう言いたいわけかい」

「違います。私が批判したいのは、それが常識となっている現状そのものです。確かに貴女達はそうやって糊口をしのいできたに違いありません。その苦労を否定するつもりは少しもありません……でも、いつまでも続けるわけにはいかない」

「だが、どうやって否定する? 今の在り方は悪い、何とかして変えろ。そう言って通じると思うのかい?」

「もちろん無理でしょう。でも、人間は己の尊厳を守るために制度を……法を生み出してきました。闇渡りの間で格言が継承されてきたのも、そこに法としての役割を求めていたからではないかと思います」

 カナンはふと、イスラと出会ったばかりの頃を思い出した。

 最近はあまり目立たなくなってきたが、かつてのイスラは頻繁に闇渡りの格言を引用して話していた。それは、一人きりで生きてきた彼が社会性を保つために必要な儀式だったからだろう。もし闇渡りの格言を忘れて生きていたなら、今のように集団の中で暮らしていくことは出来なかったに違いない。

「あたしら闇渡りは、まさにその法によって裁かれた存在だ。あんたはきっと、煌都の法のことを思って言っているのだろうけど、それはあたしらを夜の世界に追いやったものなんだよ。全ての闇渡りにとって、真実敵と言えるものがあるとしたら、あんたらが固く守っている法そのものさね」

「法が敵、ですか……」

「そうとしか言えないさ。あたしらは法によって追い立てられ、法の無い場所で生きる術を見つけるしかなかった。文字通りの無法者ってわけさ」

 よどみなく話し続けてきたカナンも、言葉を詰まらせるしかなかった。同時に、自分もまた煌都の枠内の常識に立っていたことを否応なしに突き付けられた思いだった。

 そうならないよう意識して中立に思考してきたつもりであっても、結局は立場に縛られてしまっている。

 だが、カナンは落ち込まなかった。

「……ありがとうございます」

「そいつは、何に対する礼なんだい?」

「自分では分からなかったことを気付かせてもらいました。それと、何から始めていかないかということも」

 目の前の穢婆と対話することで、今何をするべきなのか分かった気がした。自分はもっと根本的なところから取り組んでいかなければならなかったのだ。

「ラハさん、と言いましたか。あの人に伝えておいてください。今はまだ売春を許すわけにはいきません。けれど、三日後……ティヴォリに着いたら必ず答えを伝えます。それまでは待っていて欲しい、と」

「一応言付けられておこうかい。あの子が納得するか、そもそも聞くとも思えないけどね」

「そこは信じることにします」

「……お人好しだねえ。それも伝えておくよ」

「感謝します」

 カナンは一礼すると立ち上がり、穢婆の天幕を出た。

 垂れ幕を持ち上げて外に出ると、イスラが腕を組んで立っていた。

「出迎えですか?」

「そんなところだ。あっちの騒ぎもようやく収まったよ。お前の奇行の御かげでな」

「……奇行呼ばわりは酷いですね」

「あれが奇行でなかったら何なんだよ。本当に毎度毎度、お前は不器用だよなあ」

 先程の場面を思い返して、イスラは苦笑した。「打たれたいのか」と言われて「どうぞご随意に」と返すなど、全然賢くないように思えた。少なくとも第三者から見れば、自棄を起こしたようにさえ映った。

 確かにそれで場の空気が変わったことも事実だ。彼女の突飛な行動は、人によって受け止め方は違えど、誰にでも出来る真似ではなかった。それをすぐに思いつき、迷わず実践できてしまうのがカナンという娘なのだろう。

「あれは……ああでもしないと、感情的になった人って止められませんから」

「だからって、わざわざは叩かれようとする奴はいないだろ。本当にお前は変わってるよ」

「ええ。知りませんでした?」

「とっくに知ってるよ。それでも時々面食らうことがある」

「ふふ、ごめんなさい」

 口では謝りながらも、カナンはにっこりと笑って見せた。誰から見ても混じりけのない、純粋な笑顔だった。つられるようにイスラも相好を崩す。

 そんな穏やかなイスラの顔を、カナンはまじまじと見つめた。

「……イスラ、少しだけ時間を貰えますか?」

「何だよ」

「一緒に話したいんです。色々と考え事があるんですけど、自分一人で抱えてたら煮詰まっちゃうから」

「はけ口が欲しいってわけか。良いよ、いくらでも付き合う……それくらいしか今は出来ないからな」

「ありがとう、イスラ」

 二人は並んで歩きだした。ぶらぶらと、何気なく散歩でもするかのように寄り添いながら。

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