闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三一節/聖女と娼婦 上】

 ティヴォリまで残り三日という距離に差し掛かった時、カナンにとって最も頭の痛い問題が降りかかってきた。

 事の発端は、闇渡りの娼婦たちが客引きを行っているところを、ウルバヌスから付いてきた騎士の一人が咎めたことだった。よりにもよって、街道を歩いていた旅人を引っ張ってきていた彼女達は、その差し出口に激怒した。

 煌都の人間から見れば、賎民の女に一般人が誑かされているように見えたのだろう。旅人本人はそれなりに乗り気であったようだが、堅物の騎士が相手では通用しない。彼の怒声に引き寄せられる形で、騒ぎはどんどん拡大していった。

 対して娼婦達も、一方的な上から目線で生業《なりわい》を否定されたことに怒りを隠さなかった。個々人の胸中には、それぞれ複雑な思いがあったかもしれない……だからこそ、一緒くたに否定されたことが感情を逆撫でしたのだろう。

「か、カナン様、大変でさァ!」

 それまでヒルデやペトラと一緒に書類の決裁に没頭していたカナンは、天幕に飛び込んできたザッカスの知らせを聞いて、ようやく事態の全容を把握した。

「……ついに恐れていた事態が起きてしまいましたね」

 こうなることはあらかじめ予測していた。だが、カナン一人でそれを解決することは出来ないし、事前に打てる手も限られている。彼女に出来たのは、闇渡り同士の交渉をある程度黙認するよう、騎士達に周知するくらいだった。

 この救征軍は行き場を失った闇渡り達に目的を与えるために結成されたものだ。その本分はウルバヌスで語った通りだが、数百年にわたる煌都と闇渡りの確執が簡単に埋められるわけがない。救征軍という運動には共感しても、闇渡りに対する差別意識を捨てきれない者は当然いるだろう。

 もちろんカナンは、娼婦たちの軽率な行いを無条件で赦すつもりは無かった。モラルの観点で言えば騎士達はむしろ正しいことをした側だ。

 ただ、「正しい」という言葉は、字面ほど単純なものではない。

「仲裁に行ってきます。ザッカスさん、仕上がった手紙の清書をお願いします」

 各方面に出すための手紙の下書きをザッカスに押し付けると、カナンは速足で天幕から出た。
 騒動の噂はすでに広まっており、物珍し気に這い出てきたやじ馬たちが囲いを作っている。両者の張り上げる怒声が響き渡っており、それに便乗しようとする者の姿も散見された。だが、白い服を着たカナンが姿を現すと、彼らは自然と道を開けた。

 顔を突き合わせているとは言っても、ラヴェンナ騎士たちは明らかに多勢に無勢だった。詰め寄る娼婦たちに対して唾を飛ばしつつ反論しているが、ほとんど包囲されているような有様だ。カナンが来なければ、危機感を覚えて剣の柄に手を掛けていたかもしれない。

「双方とも、それまで!」

 杖に天火を灯して両者の間に割り込む。騎士達が安堵の表情を浮かべる一方、娼婦たちはカナンにまで食って掛かる勢いだ。

「退きな! あたしらはそのボンクラどもと喧嘩してるんだよ!」

 先頭に立っていた若い娘が怒鳴る。継火手への非礼に反応した騎士達が身体をこわばらせるが、カナンは彼らの前に杖をかざして制した。

「仲間内での争いは認めません。申し立てがあるなら、私に言ってください」

 双方に言い聞かせるつもりでカナンは言い放った。騎士達が引き下がり、娼婦達も幾人かは怯んだようだった。

 いくつもの窮地を乗り切ってきただけあって、カナンも単に人の良いだけの小娘ではなくなっている。言葉や眼差しだけで相手を制せられるだけの貫禄が身についていた。

 ただ、特別に気が強い人間となると、さすがにそう上手くはいかない。

「何さ、お高く留まっちゃって。あんたみたいなお嬢さまに、どんな話をしろって言うんだい?」

「ラハ、やめなよ」

「怖気づくんじゃないよ! どうせ、こいつだって内心あたしらを見下してるんだ。ちゃんとぶつけないと分かりっこないんだよ!」

 ラハと呼ばれた娘はカナンに向けて指を突き立てた。

「ま、分かってほしいなんて思っちゃいないけどね」

「……」

 カナンは口を閉ざした。こうも感情的になられては話し合いにならない。この状況で、どんな態度、どんな言葉を投げかけたとしても好転する可能性は低いだろう。最初から敵意を持たれている相手と対話するのは、さすがのカナンも骨が折れた。

 ラハもそれが分かっている。カナンは強く出ることが出来ない。少しでも強権的なところを見せれば敵を増やすだけだからだ。ただでさえこの集団は不安定なのに、自らそれを揺さぶるようなことなど出来ない。そんな目先の計算に長けているために、彼女はたびたび他人を出し抜いてきた。

 もっとも、目先以上に遠くが見えていたなら、こんな騒ぎを起こすことは無かっただろう。

「なんだい、張り切って出てきたクセに黙っちゃってさ! ぶたれないと声も出ないのかい?」

 凄むような声の割にラハの表情は嬉々としていた。継火手を言い負かしていることが彼女の劣等感を満たし、自意識を肥大化させていた。他の女たちもカナンが劣勢なことに自信を取り戻したのか、手は出さないものの反抗的な視線を向けてくる。

 最早事態はカナン一人で解決出来ないところまで来ていた。それでもカナンは背後の騎士達の動きだけは制していたし、人混みをかき分けて駆け寄ろうとするイスラやオーディスに対しても、首を横に振った。

「……それも一つかもしれませんね」

「はあ?」

 カナンは顔を上げ真正面からラハを見返した。そこには怒りも敵意も無く、静けさだけが浮かんでいる。カナンの見せた冷静さはラハ達の態度とは全く対称的で、嫌が応にも娼婦たちは自分の表情を自覚させられた。

「貴女達の不満を解消出来ないのは、私が指導者として至らないからです。私に怒りをぶつけて納得出来るのなら、それが一番ですね」

 カナンは杖をその場に突き立て、全くの丸腰になった。法術の詠唱も出来ないよう真一文字に唇を結び、両手を開いて相手にさらした。

「ば、馬鹿にしているのかい……!?」

 それが意味するところが分からないほどラハは愚かではなかった。カナンの行動は飛躍していたが、それだけに騒動のそもそもの論点をずらすだけの威力を持っていた。別に彼女が打たれたところで騒動の原因が解消されるわけではないのだが、ラハが作り上げた優位は確実に失われる。

 まるで親が子供の駄々に付き合っているようなものだ。カナンの冷静さと余裕は周囲にも十分に伝わっていたし、逆にラハの浅薄さは一層強調されている。もし彼女が手を上げたなら、かえってカナンの存在感を強めることになるだろう。

 だが、どこまでも涼し気なカナンの表情を見て、元々短い忍耐はあっさりと破られた。

 ラハが手を上げる。事態を見守っていた誰もが息を呑み、カナンは勝利を確信した。そして、振り下ろされるはずの手が誰かに掴まれ止まった時、カナンでさえも呆気にとられた。

「そこまでだよ、ラハ」

 かすれた声が響いた時、ラハの顔色がさっと蒼くなった。反射的に彼女は手を振り払いその場から飛び退る。何が起きたのか分からなかったカナンだが、乱入者の容姿を見た瞬間、ラハの見せた反応の意味を即座に理解した。

 闇渡りらしい真っ黒な外套で全身を包み、袖から出た腕も包帯を巻きつけている。振り払われたのと反対の手には杖をついており、頼りなさげに震えていた。
 カナンは、包帯に浮かんだ膿汁のうじゅうとわずかに覗く肌の様子から、彼女・・がどんな病気に侵されているか理解した。もしかすかな声音の違いが聞き取れなければ、女性だと判別出来なかっただろう。

穢婆えば風情が、よくもあたしに……!」

 ラハは蒼白な顔のまま、スカートの裾で必死に腕を拭っていた。歩く汚物に触れられたかのような反応にも関わらず、穢婆は呵々と笑った。フードの下で崩れた唇が蠢き、歯根のみとなった歯茎がむき出しになる。

「頭の悪い跳ねっ返りには、ちょうど良い薬になったろう。奢《おご》れる狐、獅子の寛容を知らずということわざを知らないかね?」

「うるさい、死にぞこないが! しゃしゃり出てくるんじゃないよ!」

「ほ、そうかい、そいじゃあ、あたしを今すぐ退かしてごらん。あんたらにその度胸があるんならね?」

 穢婆は杖をひょいひょいと振って見せた。それに近づこうとする者は誰もいない。逆に潮が引くように後ずさる。闇渡り達のみならず、ラヴェンナの騎士達も同様の態度をとった。

 彼女を中心として小さな円が出来た。その範囲内にはカナンしか残っていない。

「……うちの若い衆が済まなかったね。あたしは娼婦連中の相談役も請け負ってる。あんたと話し合うには適任だろうね」

 もちろんあんたが嫌じゃなければね、と彼女は言い添えた。

 カナンはふと相好を崩した。ようやくまともに話せる相手が出てきてくれた。

「つつしんでお受けしましょう」

 カナンはためらいなく手を伸ばし、膿の滲み出した腕を取ってその体重を預かった。

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