闇渡りのイスラと蒼炎の御子

井上数樹

【第百三十節/火種 上】

 蒼い炎をともした篝火が夜空を焦がしている。光は、森の中に開いた広場をくまなく照らし、歩き疲れた人々の影を引き延ばしている。

 その光のすぐそばで、イスラは踊るように木剣を振るっていた。

 真正面から斬りかかってきたギスカールをいなし、柄でその背中を軽く突き飛ばす。態勢を崩した彼には目もくれず、後ろで二の足を踏んでいたラヴェンナ兵達を次々と薙ぎ倒していく。密集地ではかえって数の利が活かせなくなるのは、アラルト山脈の戦いで経験済みだ。

 攻め過ぎず、適度に混乱させたところで距離をとる。「貰ったァ!!」と、動作の隙をついて闇渡りのサロムが攻めかかってくるが、いかんせん声が大きすぎたために奇襲の意味をなしていない。

「よっ、と」

 イスラはさっと身を翻す。振り下ろされた木剣は外套を掠めただけだった。
 まだ突進の勢いを殺しきれていないサロムは、イスラがそっと伸ばした片足に引っかかって頭から地面に倒れ込んだ。

「そこ!」

 再びギスカールが攻め立てる。今度はいなされないよう小出しな攻撃に切り替え、イスラの目を引き付ける。その間に他の兵士やサロムが包囲網を作り、袋叩きにしようとする。

 手堅いが、さすがに見え透いた手だった。
 イスラは頭のなかで自分の置かれている状況を整理する。敵の位置と周囲の環境、こちらの手札と相手の手札。木剣だけでも脱出は出来るが、それまでに二、三回は殴られるだろう。

 だから楽をすることにした。

 左の袖の下に仕込んだ梟の爪ヤンシュフを射出する。狙いは敵でも武器でもなく、すぐそばで燃え盛っている篝火だ。影法師が踊り狂っているために小さな鉄の爪と鋼線を視認するのは至難の技。イスラの動作の速さも相まって、反応出来た者は皆無だった。

 手ごたえを待たずに腕を振り、燃えている薪の山を崩落させる。盛大に火花が飛び散り、流れた煙が目と鼻に突き刺さる。まともに動けるのは、結果を予測していたイスラだけだ。

 ギスカール達が態勢を立て直した時にはすでに、全員の身体を木剣が打った後だった。

「俺の勝ちだな」

 飛んで来た火の粉を振り払いつつイスラは言った。

 観客の間にどよめきが広がる。イスラの立ち回りに驚きながらも、素直な賞賛の言葉が無いことが、今の彼の立場を如実に表していた。

 いつものように当人は気にしていなかったが、離れた場所で見ていたカナンやオーディスは顔を見合わせた。

「思ったほどの効果は、得られそうにありませんな」

「そうですね……」

 カナンは悩まし気に溜息をついた。



◇◇◇



 ティヴォリ遺跡へと向かうため、ウルバヌスを出発して一週間が過ぎようとしていた。ここまでの行程はほぼ予定通りで、大きな問題は生じていない。

 カナンは当初、移動しながら事務仕事もこなし、さらに思想までまとめる困難な旅程になると思っていた。しかしいざ蓋を開けてみると、ウルバヌスで合流した人々によって思ったほどの負担にはならなかった。

 特にオーディスの従妹のヒルデは、彼が太鼓判を押すだけあって優秀な官僚だった。とにかく仕事を捌くのが速く、特に資料作りを任せれば一瞬で情報を集めて取り纏め、分かりやすく提示する能力を備えていた。
 一見すると地味な仕事だが、煌都における法律の制定には、様々な数字を列挙して裏付けをとることが求められる。資料の作成が上手いということは、すなわち法案を作る能力があるということなのだ。

 そして集団の基盤となる法律を作れるということは、集団そのものの制御……政治を司る政治的官僚としての素質を持つということだ。

 もっとも、まだ短い付き合いではあるが、ヒルデがそこまで強く意見を押し出してくることはなかった。
 本人があまり押しの強い性格ではないため、積極的に提案や意見を出してくることが無い。なので、質問や相談という形でこちらから問いかけた方が良いタイプだ、とカナンは見ている。

 そんなヒルデの優秀さが際立つ一方で、カナンは密かに、ペトラの重要性を再認識させられていた。

 事務処理能力ではヒルデに及ばないものの、人を叱咤激励して動かす能力では比べ物にならない。本人の強引かつ頑固な性格のおかげか、立場や地位に囚われない、歯に衣着せぬ物言いが出来るのも大きかった。闇渡り達と交渉や相談を行う際も、その裏表の無さから比較的信頼を得ているようだ。

 ウルクの地下組織の首領として不利な状況で戦ってきた彼女は、叩き上げの現場指揮官と言えるだろう。サイモンやオルファのように、長く彼女の下についていた者も影響を受けて一定の指揮能力を備えるに至っている。様々な層との交渉役として、あるいは相談役として、ペトラという名前通りの活躍が出来る貴重な存在だ。

 ただ、ウルクからの脱出計画の準備と実行は出来たものの、その後の長期的な見通しを立てることは出来なかった。

 無理からぬことだ。そうした戦略的な観点を持てるのは、オーディスやカナン、エマヌエル、あるいはエルシャにいるユディトのような、高度に専門的な教育を受けた者だけだ。ましてや、生まれてからずっと大坑窟の中で暮らしてきたペトラに、外の世界を旅する展望など抱けるはずがない。

 今の社会の中で、全世界的な視野を持つことが出来るのは、一握りの上流階級だけなのだ。

 そして、そんな上流階級の者の中でも、オーディスの能力は一歩抜きん出ている。軍人としても政治家としても、さらには一戦士としても、ここまで多くのものを揃えた人物をカナンは知らない。
 剣の腕ならギデオン、知識ならフィロラオス、政治家としては父のエルアザル……それぞれに特化した人間なら幾人か思いつくが、全てを満遍なく揃えた人物となると限られてくる。

 彼の万能ぶりはエマヌエルと通じるものがある。生前の彼女は万能人として各地に名を馳せていた。そんな才媛と釣り合おうとするなら、相当に研鑽を積まねばならなかったのだろう。

 加えて、今の世界では稀な実戦経験を持った指揮官という点も大きい。小隊程度の指揮なら闇渡りとの小競り合いで発揮されることもあるが、一軍を率いる経験を持つものはごく少数なのだ。パルミラの宿将であるラエド将軍ですら、一万人規模の動員に慣れていなかったため、戦闘終結までにいくつも問題を引き起こしてしまった。

 彼の妙に用意周到なところも、前回の遠征で得た経験によるのではないか……カナンはそんな風に考えていた。

 こうして俯瞰すると、上層部の陣容は非常に整っている。現場指揮、裏方、参謀の全てが揃っている。少数ながらウルバヌスで合流してくれた貴族や役人たちも、積極的に運営に力を貸してくれていた。


 だが最も重大な課題は、カナンをはじめとした指導者層と、闇渡り達の温度差にある。


 ティグリス河畔の演説でカナンに賛意を示してくれた者、名無しヶ丘の戦いの際に彼女に感化された者……そういった連中は、一応は味方として数えることが出来る。現に、カナンは直属の部下として読み書きの出来る闇渡りを幾人か召し抱えていた。

 闇渡り達の半数近くは、今だに日和見を決め込んでいる。一応ついてきてはいるものの、脱走する機会があれば即座に逃げ散ってしまうだろう。実際、ラヴェンナ管区に入るまでの旅程で何人か脱走者しようとした者がいたし、一度はカナン本人を狙った反乱計画まであったほどだ。 

 幸い、オーディスの献策によって反乱は鎮圧され、全体の風紀の引き締めにも一役買ってくれた。

 だが、あの時反乱を起こしたのはいずれも若い闇渡りばかり。王であるサウルに心服し、かつ狡猾さと忍耐強さを備えた「本物の」闇渡り達は、今でも虎視眈々と叛逆の機会を狙っている。

 だからこそ、彼らと上層部とをつなぐ橋渡しが必要というのがオーディスの意見だった。その具体策として、イスラ対混合編成の訓練を見せつけ、融和ムードを作りたかったのだが、さすがにそう上手くはいかなかった。

 ただ、もう一つの目標に関しては多少効果が認められた。
 すなわち、難民団の内部におけるイスラの地位向上についてである。

 文官として闇渡りを取り込むことは出来たが、武官として正式に任命した闇渡りは一人もいない。イスラの立場は、ただカナンの守火手であるというだけで、未だに一兵卒のままなのだ。

 今の難民団にとって、イスラは唯一武官に取り立てられる可能性のある闇渡りだ。彼以外の若手が今ひとつ冴えないことは明らかになったし、かといって叛意を持ったベテランに軍権の一部を預けることなど到底出来ない。

 しかしだからといって、露骨に職をあてがったところで誰もイスラを重んじたりはしないだろう。

 闇渡りの社会は徹底した実力主義によって貫かれている。その点において、イスラは今でも実力者として認められていなかった。サウルを討ち取ったことも、「一対四の不利な戦いの後だったから、本領を発揮出来なかった」として受け入れられていないのだ。

 今回のような形で、少しずつイスラの実力を見せていけば、いずれは反対派の中にも納得する者が現れてくるのではないか……それがカナンとオーディスの狙いだった。

(ただ、このやり方であの人が納得してくれるかどうか……)

 ペトラやサイモンと話し込むイスラを眺めながらカナンは思った。そして目線を少し逸らすと、群衆の後ろで苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている一団が映った。

 中心には大柄な禿頭の闇渡りが居座っている。頭には皮を剥がされた傷跡が、顔には法術による火傷の痕が生々しく刻まれていた。

 サウルの軍勢において副将を務めたアブネルは、名無しヶ丘の燔祭ホロコーストを生き延びていた。

「闇渡りのアブネル、あの男は危険です。必要とあらば私が……」

 オーディスが囁く。カナンは首を横に振った。

「それだけは絶対にいけません。これ以上、集団内で仲間割れを起こすわけにはいきません」

「奴が我々を仲間と思っているとは、到底考えられませんが」

 アブネルの濁った瞳がカナンを射竦める。当たり前だが、友好的な色など微塵も浮かんでいなかった。
 それでもカナンは重ねて否定した。

「だとしてもです。暗殺や粛清は絶対に認めません」

「……貴女がそうおっしゃるのなら、お任せしましょう」

 カナンの視線の先で、アブネルが黒い外套を翻して踵を返した。彼女にはその姿が、まるで狩りを終えて巣穴に戻る熊のように見えた。

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